スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

阿波おどり杯争覇戦&感情の意識

2024-07-07 19:09:14 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは新田‐佐藤の福島,犬伏‐小倉の徳島,嘉永‐山田‐山口の九州で深谷と清水は単騎。
 深谷がスタートを取って前受け。2番手に新田,4番手に犬伏,6番手に嘉永,最後尾に清水で周回。残り3周のバックから嘉永が上昇。コーナーでは犬伏に蓋をしましたが,ホームに戻って再上昇。深谷を叩きました。山口の後ろで深谷と清水が併走。車間が開いて新田。また車間が開いて犬伏という隊列になって打鐘。ここから深谷は内を進出。山口の位置を奪いにいきました。バックに入って新田が発進。この勢いがよかったのですが,最終コーナーで山田が大きく牽制。外に浮いた新田は失速。後方からの捲り追い込みになった犬伏は新田のさらに外を回らなければならなくなりましたが,直線で大外から豪快に差し切って優勝。新田は浮いてしまいましたが山田の内から差し込んだ佐藤が1車身半差で2着。犬伏マークの小倉が山田の外から追い込んで8分の1車輪差で3着。山田は4分の1車輪差の4着。
 優勝した徳島の犬伏湧也選手は1月に久留米のFⅠを完全優勝して以来の優勝。記念競輪は昨年3月の大垣記念以来の優勝で2勝目。このレースは脚力上位の深谷と清水が単騎になりましたので,展開が重要でした。深谷はわざわざ山口に競っていく必要はなかったと思いますが,いかないと清水と競りになる可能性があったために,そうなったのでしょう。清水はその後ろになったので悪くありませんでしたが,新田が仕掛けてきたことでスパートのタイミングを逸しました。新田にとって最もよい展開だったのですが,山田に審議となるほどの牽制されては失速も致し方ありません。そのさらに外を回らされることにはなったものの,勢いは削がれずに済んだ後方の犬伏に順番が回ってきたという印象のレースです。

 この部分の國分の指摘は有益であることは間違いないのですが,僕自身はそれに全面的に賛同しているわけではありません。この関係から僕自身の考察が錯綜してしまった感はありますが,僕がいっておきたかったことはすべていうことができました。そちらを主眼に置いたために,國分の議論の展開については端折ってしまった面がありますので,そちらの方に興味があるのであれば,ぜひ『スピノザー読む人の肖像』の該当部分をお読みになってください。これでこの部分の考察は終了して,次の部分に移ることにします。
                                        
 第六章で,第四部定理八が探求されているのですが,そこで良心conscientiaと意識conscientiaの関係が説明されています。これは今回の考察の中ですでにみておいたところではありますが,ここでは別の観点から改めて探求します。
 第四部定理八が意味しているところは広大で,そこには思想史的な背景が含まれていると國分はいっています。そこでまず,この定理Propositioに関して最低限のことを確認しておきます。
 感情affectusは何度もいっているように,スピノザの哲学では特徴的な意味をもつ語句で,身体corpusのある状態と,その状態の観念ideaの両方を意味します。つまり感情というのは,身体のある運動motusであると同時に,その精神mensのある思惟作用の両方を意味することになります。この定理ではその感情が意識されるといわれていますが,僕は意識というのを観念の観念idea ideaeと解しますので,その路線でここも解釈します。したがってある感情が意識されるというのを,ある感情の観念の観念がその感情を有する人間の精神mens humanaのうちに発生するという意味に解します。これは感情というのを,延長の様態modiとみた場合にも思惟の様態cogitandi modiとみた場合にも成立すると僕は考えますが,身体のある状態の観念の観念と解するのが,ここでスピノザがいっていることが何を意味しているのかを正しく理解するという観点からは分かりやすいと思います。要するに現実的に存在するある人間の身体が喜びlaetitiaなり悲しみtristitiaなりを感じているときはその人間の精神も喜びや悲しみを感じているのであり,その状態の観念が同じ人間の精神のうちにあるとき,その人間は自身の悲しみや喜びを意識するといわれるのです。
コメント
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