昨晩の第70回ダイオライト記念。
テンカハルは発馬後のダッシュが鈍く1馬身の不利。アウトレンジがハナに立ちましたが外から追い上げていったメイショウフンジンが競りかけていき,アウトレンジが引いたのでメイショウフンジンの逃げに。そこからペースが緩み,3番手のグランブリッジ,4番手のハイエストエンドまでは1周目の正面で前の2頭に追いついてきました。5馬身差でセラフィックコール。6番手にガルボマンボ。7番手はキリンジとミヤギザオウ。2馬身差でディクテオン。3馬身差でテンカハル。4馬身差でアンタンスルフレとキングオブザナイル。スマートウィザードは大きく離されました。最初の1000mは62秒8のハイペース。
3コーナーではアウトレンジが押しながら何とか2番手。この時点では3馬身ほど離れた3番手にいたグランブリッジが仕掛けると,コーナーで2頭を捲り切って先頭で直線に。グランブリッジは抜け出しましたが,グランブリッジより2馬身ほど後ろの4番手にいたセラフィックコールが猛追。フィニッシュ直前でグランブリッジを差し切って優勝。グランブリッジがクビ差の2着。逃げ粘ったメイショウフンジンが3馬身差で3着。
優勝したセラフィックコールは昨年のダイオライト記念以来の勝利で重賞3勝目。ダイオライト記念は連覇で2勝目。この馬はその後に大レースを3戦して好走できませんでしたので,能力の上限は明らかになってしまいましたが,ここはそれほど強力メンバーがおらず,なおかつ長距離戦はリピーターが活躍しやすいので,有力候補と考えていました。昨年が不良馬場での勝利でしたから,重馬場になったこともプラスに作用したのだと思います。母の父はマンハッタンカフェ。祖母がハルーワソング。母の5つ上の半兄が2011年のラジオNIKKEI賞を勝ったフレールジャックで4つ上の半兄が2014年に中日新聞杯と新潟記念を勝ったマーティンボロ。Seraphicは熾天使。

騎乗したミルコ・デムーロ騎手はダイオライト記念初勝利。管理している寺島良調教師は連覇でダイオライト記念2勝目。
それでは僕が考察してみたかったことに移りますが,実はこの点は,直前の考察と若干の関係を有しているといえなくもありません。それはスピノザが第四部定理四五備考でいっているような,この部分の憎しみodiumを人間の人間に対する憎しみに限定して説明している点です。これが人間の人間に対する憎しみに限定されなければいけないことは僕自身が考察した通りですから,スピノザが何か間違ったことをいっているわけではありません。むしろ憎まれるのが人間でない場合には,その憎しみが共同社会状態status civilisにとって有益utileであるという場合もあり得るからです。ただこの場合にみられるように,スピノザは感情affectusについて語るときに,妙に人間に限定して語りすぎるきらいがあるように僕には感じられるのです。吉田が虐待されているネコや破壊されている地蔵に対して感情の模倣imitatio affectuumをする例をあげたとき,僕はスピノザはたぶんそのようなことは想定していないという意味のことをいいましたが,僕がそのようにいったのは,まさにスピノザが感情について語るときには,人間に限定して語りすぎていると僕には思えるからなのです。
まずこの点が,スピノザの哲学全体の中でどのように考えられなければならないのかということを,総論的に考えておきます。
吉田が指摘していたように,デカルトRené Descartesは動物を自動機械automa spiritualeとみなします。デカルトの哲学はスピノザの哲学と異なり,精神mensに自由意志voluntas liberaの裁量が認められています。人間以外の動物が自動機械とみなされるのは,そうした自由意志が動物にあることをデカルトは認めないという意味です。自由意志は精神の裁量として認められているので,自由意志を認めないということと精神を認めないということは同じ意味です。つまりデカルトは精神というのは人間に特有のものであって,人間以外の動物には精神はないと主張しているのです。よってこれをスピノザの哲学に置き換えれば,人間以外の動物は物体corpusではあっても思惟の様態cogitandi modiではないというのがデカルトの主張であることになります。
スピノザはこのようには考えません。第二部定理一三備考でいわれているように,人間も含めたすべてのものは精神animataを有するのだとされます。
テンカハルは発馬後のダッシュが鈍く1馬身の不利。アウトレンジがハナに立ちましたが外から追い上げていったメイショウフンジンが競りかけていき,アウトレンジが引いたのでメイショウフンジンの逃げに。そこからペースが緩み,3番手のグランブリッジ,4番手のハイエストエンドまでは1周目の正面で前の2頭に追いついてきました。5馬身差でセラフィックコール。6番手にガルボマンボ。7番手はキリンジとミヤギザオウ。2馬身差でディクテオン。3馬身差でテンカハル。4馬身差でアンタンスルフレとキングオブザナイル。スマートウィザードは大きく離されました。最初の1000mは62秒8のハイペース。
3コーナーではアウトレンジが押しながら何とか2番手。この時点では3馬身ほど離れた3番手にいたグランブリッジが仕掛けると,コーナーで2頭を捲り切って先頭で直線に。グランブリッジは抜け出しましたが,グランブリッジより2馬身ほど後ろの4番手にいたセラフィックコールが猛追。フィニッシュ直前でグランブリッジを差し切って優勝。グランブリッジがクビ差の2着。逃げ粘ったメイショウフンジンが3馬身差で3着。
優勝したセラフィックコールは昨年のダイオライト記念以来の勝利で重賞3勝目。ダイオライト記念は連覇で2勝目。この馬はその後に大レースを3戦して好走できませんでしたので,能力の上限は明らかになってしまいましたが,ここはそれほど強力メンバーがおらず,なおかつ長距離戦はリピーターが活躍しやすいので,有力候補と考えていました。昨年が不良馬場での勝利でしたから,重馬場になったこともプラスに作用したのだと思います。母の父はマンハッタンカフェ。祖母がハルーワソング。母の5つ上の半兄が2011年のラジオNIKKEI賞を勝ったフレールジャックで4つ上の半兄が2014年に中日新聞杯と新潟記念を勝ったマーティンボロ。Seraphicは熾天使。

騎乗したミルコ・デムーロ騎手はダイオライト記念初勝利。管理している寺島良調教師は連覇でダイオライト記念2勝目。
それでは僕が考察してみたかったことに移りますが,実はこの点は,直前の考察と若干の関係を有しているといえなくもありません。それはスピノザが第四部定理四五備考でいっているような,この部分の憎しみodiumを人間の人間に対する憎しみに限定して説明している点です。これが人間の人間に対する憎しみに限定されなければいけないことは僕自身が考察した通りですから,スピノザが何か間違ったことをいっているわけではありません。むしろ憎まれるのが人間でない場合には,その憎しみが共同社会状態status civilisにとって有益utileであるという場合もあり得るからです。ただこの場合にみられるように,スピノザは感情affectusについて語るときに,妙に人間に限定して語りすぎるきらいがあるように僕には感じられるのです。吉田が虐待されているネコや破壊されている地蔵に対して感情の模倣imitatio affectuumをする例をあげたとき,僕はスピノザはたぶんそのようなことは想定していないという意味のことをいいましたが,僕がそのようにいったのは,まさにスピノザが感情について語るときには,人間に限定して語りすぎていると僕には思えるからなのです。
まずこの点が,スピノザの哲学全体の中でどのように考えられなければならないのかということを,総論的に考えておきます。
吉田が指摘していたように,デカルトRené Descartesは動物を自動機械automa spiritualeとみなします。デカルトの哲学はスピノザの哲学と異なり,精神mensに自由意志voluntas liberaの裁量が認められています。人間以外の動物が自動機械とみなされるのは,そうした自由意志が動物にあることをデカルトは認めないという意味です。自由意志は精神の裁量として認められているので,自由意志を認めないということと精神を認めないということは同じ意味です。つまりデカルトは精神というのは人間に特有のものであって,人間以外の動物には精神はないと主張しているのです。よってこれをスピノザの哲学に置き換えれば,人間以外の動物は物体corpusではあっても思惟の様態cogitandi modiではないというのがデカルトの主張であることになります。
スピノザはこのようには考えません。第二部定理一三備考でいわれているように,人間も含めたすべてのものは精神animataを有するのだとされます。