スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
22日に北國新聞会館 で指された第50期棋王戦 五番勝負第二局。
増田康宏八段に先手で角換わりを目指しましたが,☗2六歩保留型だったために後手の藤井聡太棋王が拒否して雁木。先手も雁木に構える将棋になりました。
ここで☗7五歩と打ったことにより大決戦に進みました。
☖同角☗同角☖同飛で角交換。そこで先手は☗5四歩と伸ばしました。
後手は☖5七歩☗同金☖6五桂と反撃。☗同銀に☖4八角と飛車銀両取りをかけました。
このように進んで先手は苦しくなってしまいました。
上図ではAbemaのAIは☗1五歩☖同歩☗1四歩というのを示していましたが,これは茫洋としていてどういう効果があるのかが分かりません。解説で有力とされていたのは☗4四歩で,☖同銀なら☗3四歩☖2五桂☗4五桂,☖同飛なら単に☗4五桂でしたが,これは先手は自信がなかったようです。ということで途中の☗5四歩と伸ばしたところで☗6六角と打ってしまう手があり,そちらを選択するべきだったという結論になりました。
藤井棋王が連勝 。第三局は来月2日に指される予定です。
受動感情は明瞭判然 と認識されれば受動passioであることをやめるのですが,それは当座限りであって,それでもう受動感情に刺激されるafficiことがなくなるわけではないのは,第四部定理一 にあるように,明瞭判然とした認識 cognitioはそれが明瞭判然であるということをもって,誤った観念idea falsaに含まれる積極的なものを除去することができないからです。この定理Propositioの意味は,ある人間の精神mens humanaのうちにあるXの真の観念idea veraは,同じ人間の精神のうちにあるXの誤った観念を除去することはできないということであり,したがって同じ人間の精神のうちに,Xの真の観念とXの誤った観念が同時に存在する場合があるということですが,これは第一の意味であって,ある人間の精神のうちにXの真の観念があるからといって,その人間がXの誤った観念を形成するという場合もあるという,第二の意味も含みます。この定理に後者の意味も含まれるということはかつて考察してありますから,ここでそれを繰り返すことはしません。したがって,ある人間の精神のうちにあるXの真の観念は,同じ人間の精神のうちに現在するXの誤った観念を除去することはできず,また同じ人間の精神のうちにXの誤った観念が発生することを防ぐこともできないのです。
したがって,Xの誤った観念,吉田が示している例だと菊の花の表象像imagoがそれに該当しますが,このXの誤った観念がそれを認識するcognoscere人間のうちである感情affectusと結びついているとき,Xの真の観念は,その限りでその感情を受動であることをやめさせることができるのですが,それはXの誤った観念と受動感情の結びつきを破壊するという意味ではありません。むしろこの人間は,Xの誤った観念を形成するならその受動感情に刺激されることになりますし,かつXの真の観念はXの誤った観念の発生を防ぐこともできないので,Xの真の観念を有した後もこの人間はXの誤った観念を形成する場合があるのであって,そのときにはその誤った観念と結びついている受動感情に刺激されることになるのです。かくして第四部定理六 にあるように,こうした受動感情は執拗に人間につきまとうことになります。人間がXを真に認識する力 potentiaを上回っているからです。
24日に豊橋競輪場 で行われた第40回全日本選抜競輪の決勝 。並びは真杉‐吉田の関東,寺崎‐脇本の福井に三谷,古性‐南の大阪に村田で深谷は単騎。
古性,吉田,寺崎がスタートを取りにいき,誘導の後ろに入ったのは吉田。真杉の前受けとなり,3番手に寺崎,6番手に古性,最後尾に深谷で周回。残り3周のバックに入って古性が上昇開始。残り2周のホームで真杉を叩きにいきましたが,真杉が突っ張りました。古性は吉田の後ろに入り,6番手に寺崎,最後尾に深谷で打鐘。直後に深谷がインから上昇。ホームで寺崎をどかして6番手に入りました。ホームから吉田は真杉との車間を開け始めました。バックに入って寺崎が発進。古性も出ると吉田も番手捲りを敢行。古性は吉田にスイッチしましたが,外の寺崎の勢いがよく,最終コーナーでは前を捲ろうかという態勢。早めに寺崎の外に出していた脇本も踏み込み,捲った寺崎を差して優勝。寺崎が1車身半差で2着で福井のワンツー。やや踏み遅れる形になった深谷が4分の3車輪差で3着。
優勝した福井の脇本雄太選手は競輪祭 以来の優勝でビッグは11勝目。GⅠは9勝目。全日本選抜競輪は初優勝。豊橋では一昨年1月の記念競輪 を優勝しています。このレースは寺崎の出方がひとつの注目点でしたが,後ろを引き出すのではなく自身の優勝を目指すというレースに。真杉と古性で先行争いをするのは意外でしたが,これがあったために展開は絶好となりました。1車身半の差がついたのは,脇本が早い段階から踏み込んだためだと思います。
現在の考察と直接的に関連するわけではないのですが,これはスピノザの哲学のほかの部分と重要な関連をもちますので,その点も考察します。
第五部定理三 では,受動感情Affectus,qui passioはそれについて明瞭判然とした観念ideaが形成されれば,受動であることをやめるといわれています。したがってここで示した例でいえば,菊の花を表象するimaginariと悲しみtristitiaを感じるということが,菊の花の表象像imagoが大切な人の葬儀の表象像と結びついているから悲しみを感じるのだということを,悲しみを感じている当人が明瞭判然と把握すれば,この悲しみは受動感情であることをやめるのです。もっとも,第三部定理五九 により,悲しみは必ず受動感情なので,悲しみが受動感情であるということをやめるということは,悲しみが消失するという意味にほかなりません。
このことはその通りですが,これはこの場合にのみ成立します。つまり,悲しみを実際に感じているときに,その悲しみは,菊の花の表象像が葬儀の表象像と自分の精神 mensのうちで結びついているということを明瞭判然と認識するcognoscere限りにおいて,その悲しみが受動であることをやめる,いい換えれば悲しみが消滅するということであって,それを明瞭判然と認識したからといって,菊の花を表象しなくなるというわけではありませんし,菊の花と葬儀の表象像の連結connexioが解除されるというものでもありません。したがってこの人が後にまた菊の花を表象することがあったとしたら,そのときはまたその人は悲しみを感じることになります。ただその悲しみもまた,菊の花の表象像が葬儀の表象像と結びついていることを明瞭判然と認識することによって,悲しみであることをやめるというまでです。
もちろんこうしたことが繰り返されることによって,いずれは菊の花を表象しても悲しみを感じなくなるということはあり得るかもしれませんが,こうしたことは単に時間tempusの経過とともに生じることもあるわけですから,そこに特別の意味を見出す必要はないでしょう。葬儀から時間が経過すればするほど,感じる悲しみが軽減していくということは,僕たちが経験的に知っているところであり,このことについて深く説明する必要はないと思います。
24日に行われた桜花賞トライアルの第17回ユングフラウ賞 。
前にいこうとしたのはツウエンティフォー,ゼロアワー,リヴェルベロ,エスカティアの4頭。最内のツウエンティフォーがハナを奪い1馬身半くらいのリードに。リヴェルベロが単独の2番手となり,ゼロアワーとエスカティアが3番手で併走。プラウドフレールが5番手でパトリオットゲームが6番手。この後ろをモンゲーキララ,フリーダム,ウィルシャインの3頭で併走。3馬身差でナーヴィスゼーダとアメストリスが並び最後尾にサティスファイア。最初の600mは36秒9のミドルペース。
直線の入口ではツウエンティフォーとリヴェルベロが併走となりその後ろがエスカティアとプラウドフレール。この中でプラウドフレールの勢いがよく,すぐに先頭に立つと抜け出して快勝。前を捌けず遅れて追い出されたゼロアワーが逃げ粘るツウエンティフォーを差して1馬身半差で2着。逃げたツウエンティフォーが4分の3馬身差で3着。
優勝したプラウドフレール は東京2歳優駿牝馬 からの連勝で南関東重賞2勝目。東京2歳優駿牝馬,ユングフラウ賞と連勝したわけですから,桜花賞は最有力候補でしょう。ただこのレースは外枠からスムーズにレースを進められたのに対し,ゼロアワーは苦労していましたから,逆転の可能性もある程度はあると思われます。母の父はネオユニヴァース 。4つ上の半兄が一昨年 と昨年 のフジノウェーブ記念を連覇している現役のギャルダル でひとつ上の半姉が一昨年のローレル賞 を勝っている現役のミスカッレーラ 。Fleurはフランス語で花。
騎乗した船橋の張田昂騎手は川崎マイラーズ 以来の南関東重賞9勝目。第14回 以来となる3年ぶりのユングフラウ賞2勝目。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞36勝目。ユングフラウ賞は初勝利。
自身の感情 affectusの真の原因 causaが自身にも分からなくなってしまうようなことが生じる要因を,スピノザはふたつの法則が働くからだといっていると吉田は指摘しています。ふたつの法則のうちのひとつが模倣imitatioで,もうひとつが連想associtatioです。ここでは感情の模倣imitatio affectuumを考察の中心として取り上げたいのですが,吉田は連想を先に考察していますので,それをみておきましょう。なお,僕が事前に感情の要因が現実的に存在する人間においては複雑になるということを示した部分は,この連想の方と大きな関係を有しています。というのは現実的に存在する人間がある表象像imagoから別の表象像へと移行することは,連想そのものといっていいからです。つまりこのことについては僕はすでに僕の仕方で説明したのですが,それを吉田がどう探究しているかを確認するということになります。
吉田は連想がある感情と結びつくメカニズムを,本来は現実的に存在する人間が刺激された感情と無関係である筈の事物が,たまたまその感情に刺激されたときにそこに現実的に存在した,あるいはそのように表象されたということによって,いってみれば巻き添えのような形で,その感情の原因となってしまう場合として説明しています。これは僕の説明とは異なった事例といえるでしょう。吉田が具体例として指摘しているのは以下のようなものです。
ある人間がだれか大切な人を亡くしてしまい悲嘆にくれているとき,葬儀で大量の菊の花を目撃したとします。この菊の花とこの人の悲しみtristitiaは,本来的にはまったく関係がないといわなければなりません。しかしこの人はこれ以降,菊の花を表象するimaginariたびごとに,深い悲しみを感じるということがあり得ます。これはこの人の中で,菊の花の表象像が,大切な人の葬儀の表象像と連結したからで,菊の花を見ると葬儀のことを連想し,それで悲しみを感じるというメカニズムが働くようになるからです。これはごく簡単なメカニズムですから,その当人が菊の花を表象することによって悲しみを感じることがなぜなかが分からないというほどではないでしょう。しかし菊の花はたまたま葬儀のときに表象されただけですから,連想であることに違いはありません。
昨日の第27回かきつばた記念 。
先手を奪ったのはエートラックス。ロードフォンスとシャマルが2番手でサントノーレとペイシャエスが4番手。6番手のサンライズホークまでが集団。2馬身差差でサヴァ。マスクトライとメルトが並んで追走し,6馬身差の最後尾にセイヴァリアントで発馬後の正面を通過。ミドルペースでした。
向正面で内からロードフォンスが上がっていくと外からシャマルも応戦。3コーナーで逃げたエートラックスを間に挟んで3頭が併走になりましたが,エートラックスに挟まれる不利があったようで後退。ロードフォンスのさらに内からサンライズホークが追い上げてきました。サンライズホーク,ロードフォンス,シャマルの競り合いからはシャマルが脱落。2頭はフィニッシュまで競り合い,外のロードフォンスが制して優勝。サンライズホークがクビ差で2着。シャマルのさらに外から追い込んできたペイシャエスがクビ差の3着でシャマルは1馬身半差の4着。
優勝したロードフォンス は重賞初制覇。重賞初挑戦だった前走の根岸ステークスは離されたとはいえフェブラリーステークスを勝ったコスタノヴァの2着。前々走はオープンを勝っていたこともあり,実績馬を差しおいて1番人気の支持を集めていました。快勝とはいきませんでしたが,初めてとなる小回りコースに対応できたのは大きく,今後の展望が広がりそうです。父はロードカナロア 。母の父はダイワメジャー 。
騎乗した横山和生騎手と管理している安田翔伍調教師はかきつばた記念初勝利。
表象像imagoの連結connexioは『エチカ』の中でいくつかの仕方で説明されているのですが,ここでは考察の便宜上,感情の模倣imitatio affectuumとはあまり関係を有さない部分として,第二部定理一八備考 を援用しておきましょう。
この備考Scholiumでいわれている様式によって,現実的に存在する人間の表象像は,Aの表象像からBの表象像へ,そしてまたCの表象像へと次から次へと移り変わっていくことになります。このような仕方でたとえば最後にDの表象像に至ったとして,そのDを表象するimaginariことによって何らかの感情affectus,たとえばXという感情に刺激されたとしましょう。この人間がXという感情に刺激されるafficiのは,Dを表象したからです。なのでXの感情に対してDの表象像だけがその人間の中で原因causaを構成しているかといえば,必ずしもそうはいえないことは明白でしょう。なぜならこの人間がXという感情に刺激されたのは,いい換えればDを表象したのは,まず最初にAを表象したからであり,そのAの表象像から次々と表象像が移行し,最終的にDの表象像に至ったからだといえるからです。なので,たとえこの人間が最初にAを表象したときにはXという感情には刺激されていなかったとしても,もっと分かりやすく何の感情に刺激されていなかったとしても,Aの表象像はこの人間がXという感情に刺激されるときの原因である,少なくとも原因の一部を構成しているということができるでしょう。そしてこのことは,AからDへと至る間のすべての表象像にも妥当するでしょう。このようなわけで,単一の表象像がある定まった感情の原因であるという場合よりも,複数の表象像がひとつの感情の原因を構成するということが,現実的に存在する人間の場合には多くなるのです。僕が第二部自然学②要請三 を原理的説明の主要部分であるといったのはこのような意味においてです。
それでは吉田の探究に戻ります。
実際の現実的に存在する人間の感情というのは,ひとつの原因に絞れるものではなく,僕が示したようなもっと複雑な原因が錯綜しているのであって,あまりにも錯綜しているため,感情に刺激されている当人にも,本当の原因が分からなくなってしまうということがあり得ます。
高知から1頭が遠征してきた昨日の第42回フェブラリーステークス 。
逃げたのはミトノオー。ウィリアムバローズ,サンデーファンデー,アンモシエラ,デルマソトガケの順で差がなく続き,押さえながらミッキーファイト。さらにエンペラーワケアとコスタノヴァ。さらにペプチドナイル,ドゥラエレーデがいてタガノビューティーとガイアフォース。さらにサンライズジパングとヘリオス。メイショウハリオまでの15頭は集団。アーテルアストレアだけが3馬身ほど離されました。最初の800mは47秒2のミドルペース。
直線の入口ではミトノオー,ウィリアムバローズ,サンデーファンデーで雁行。ここから直線で前に出たのはサンデーファンデーでしたが,すぐに外からコスタノヴァが先頭に。コスタノヴァを追ってきたのは内からサンライズジパングとエンペラーワケアで外からミッキーファイトとペプチドナイル。しかし4頭ともコスタノヴァには追いつくことができず,優勝はコスタノヴァ。最内のサンライズジパングが4分の3馬身差で2着。ミッキーファイトが1馬身4分の1差の3着で大外のペプチドナイルがクビ差で4着。エンペラーワケアが半馬身差で5着。
優勝したコスタノヴァ は根岸ステークスから連勝で大レース初制覇。このレースはチャンピオンズカップからの直行組か前哨戦の勝ち馬が強いレースで,その傾向に合致していました。とくに東京コースの実績が豊富でこれで6戦して6勝。今後が楽しみな馬ではありますが,距離やコースも含めて出走するレースの選択はやや難しいところがあるかもしれません。父はロードカナロア 。母の父はハーツクライ 。母の5つ上の半兄に2012年に佐賀記念 と浦和記念 を勝ったピイラニハイウェイ 。
騎乗したオーストラリアのレイチェル・キング騎手は日本での大レース初制覇。管理している木村哲也調教師は有馬記念 以来の大レース13勝目。フェブラリーステークスは初勝利。
吉田の講義はそのまま本論に入っていますので,ここは僕の方から補足の説明を入れておきます。
僕たちが何らかの感情 affectusを抱くときに,その原因 causaが単純ではなく複雑なものになることの要因を原理的に説明するのは,第二部自然学②要請三 です。これにより,僕たちの身体 corpusが,多様な物体corpusから多様の仕方で刺激を受けるafficiことが理解できます。
第二部定理一七 は,僕たちが外部の物体から刺激を受けると,その物体の表象像imagoが僕たちの精神mensのうちに生じることを示しています。したがってこれらを合わせると,僕たちの精神のうちには多種多様な物体の表象像が生じることになります。
第二部公理三の意味 は,僕たちの精神のうちに生じる思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念ideaであり,観念を肯定したり否定したりする意志作用volitioであるということです。したがって,僕たちの精神のうちに何らかの表象像が生じたからといって,僕たちは必ず何らかの感情に刺激されるafficiというものではありません。このことは第三部要請一 から明らかだといわなければなりません。ただ,思惟の様態のうち第一のものが表象像をはじめとする観念である以上,感情もまた第三部定義三 により思惟の様態としてみることができるわけですから,僕たちは表象像を形成すればするほど,何らかの感情に刺激されることもそれだけ増えていくことになります。そして僕たちは現に多種多様な物体の表象像を形成するわけですから,僕たちが何らかの感情に刺激される割合は非常に高くなっているといえます。
第二部定理一七は,ある表象像は別の表象像が出現すると排除されるということも意味しています。したがってAの表象像はBの表象像が僕たちの精神のうちに生じれば除去されることになります。そこでこのときに,Aの表象像からはXという感情に刺激され,Bの表象像からはYの感情に刺激されるという具合に,各々の表象像がある特定の感情に関連付けられているとすれば,僕が原理的といった方法によってすべての感情の発生を説明することができることになります。ところが事情はそのようになっていないのです。というのは,表象像と別の表象像が関連付けられることがあるからです。
日本時間で昨日の夜から今日の未明にかけてサウジアラビアのキングアブドゥルアジーズ競馬場で開催されたサウジカップデー 。18頭の日本馬が遠征しましたので,結果だけ簡略化して紹介します。
サウジダービーGⅢダート1600m。逃げたシンフォーエバーが残り100mまで先頭という見せ場を作って2着。3番手から進めたミストレスが4着。2番手につけたミリアッドラヴは7着。
リヤドダートスプリントGⅡダート1200m。勝った内の馬と並ぶように逃げる形になったジャスパークローネが9着。残る4頭は後方からのレースとなり,追い込んだガビーズシスターが3着。リメイクは7着でチカッパが10着。立ち上がるような発馬になったイグナイターは11着。
ネオムターフカップGⅡ芝2100m。逃げたシンエンペラーが逃げ切って優勝。3番手の外にいたキラーアビリティは10着。
優勝したシンエンペラー はラジオNIKKEI杯2歳ステークス以来の勝利で重賞2勝目。日本馬による海外重賞制覇はコリアカップ 以来。サウジアラビアでは昨年のリヤドダートスプリント 以来。ネオムターフカップは2022年 以来。騎乗した坂井瑠星騎手は昨年のUAEダービー 以来の海外重賞5勝目。ネオムターフカップは初勝利。管理している矢作芳人調教師 は昨年のUAEダービー以来の海外重賞15勝目。ネオムターフカップは初勝利。
1351ターフスプリントGⅡ芝1351m。ウインマーベルが逃げ,2列目から進めて内を回ったアスコリピチェーノが直線の入口で2番手に上がると2頭の優勝争い。僅かに差し切ったアスコリピチェーノが優勝でウインマーベルが2着。後方の位置取りだったテンハッピーローズは7着。
優勝したアスコリピチェーノ は京成杯オータムハンデキャップ以来の重賞4勝目。父はダイワメジャー 。母のひとつ下の半妹に2015年のローズステークスを勝ったタッチングスピーチ 。Ascoli Picenoはイタリアの都市。日本馬による1351ターフスプリントの勝利は2023年 以来。騎乗したクリストフ・ルメール騎手は一昨年のドバイシーマクラシック 以来の日本馬に騎乗しての海外重賞11勝目。管理している黒岩陽一調教師は海外重賞初制覇。
レッドシーターフハンデキャップGⅡ芝3000m。最後尾から進めたビザンチンドリームは漸進。直線で外にもち出すとあっという間に先頭に立ち,そのまま優勝。
優勝したビザンチンドリーム はきさらぎ賞以来の重賞2勝目。父はエピファネイア 。母の父はジャングルポケット 。4代母がラスティックベル で3代母が1999年のシンザン記念と桜花賞トライアルの4歳牝馬特別,2000年のダービー卿チャレンジトロフィーとマーメイドステークスを勝ったフサイチエアデール 。日本馬によるレッドシーターフハンデキャップの勝利は2023年以来。騎乗したイギリスのオイシン・マーフィー騎手は2021年のブリーダーズカップディスタフ 以来の日本馬に騎乗しての海外重賞3勝目。管理している坂口智康調教師は海外重賞初勝利。
サウジカップGⅠ ダート1800m。フォーエバーヤングが先行集団,ラムジェットが好位集団,ウィルソンテソーロが中団でウシュバテソーロは最後尾から。最終コーナーで外から5頭目を進んだ香港のロマンチックウォリアーが捲り切って直線入口では先頭。ふつうは先行馬総崩れで圧勝となるところでしたが,フォーエバーヤングだけはそれほど離されずにまた差を詰めていき,残り50mを過ぎてから差して優勝。ウシュバテソーロが前の2頭からは10馬身以上離されましたが3着でウィルソンテソーロが4着。ラムジェットは6着。
優勝したフォーエバーヤング は東京大賞典 からの連勝で大レース4勝目。父はリアルスティール 。ひとつ下の半妹が昨年のアルテミスステークスを勝っている現役のブラウンラチェット で3代母がローミンレイチェル 。日本馬による海外GⅠ制覇は一昨年のドバイワールドカップ以来。日本馬によるサウジカップ制覇は2023年以来。騎乗した坂井瑠星騎手は東京大賞典以来の大レース14勝目。海外重賞6勝目で海外GⅠは初勝利。管理している矢作芳人調教師は東京大賞典以来の大レース28勝目。海外GⅠは一昨年のサウジカップ以来の9勝目でサウジカップは2年ぶりの2勝目。
不安 metusという訳に関連することはここまでにして,感情の模倣imitatio affectuumに関する探究を始めます。
第一部公理三 でいわれていることは,全自然に共通です。感情 affectusは第三部定義三 でいわれているように,人間の身体humanum corpusのある状態とその状態の観念ideaの両方を意味する,スピノザの哲学においては特殊な語です。それが身体の状態であるなら延長の属性Extensionis attributumの下で考えられる事象ですが,その観念ということになれば思惟の属性Cogitationis attributumの下で考えられる事象であることになるからです。しかし第一部公理三が全自然に共通といわれるとき,それは延長の属性の下でのみ成立するということではなく,思惟の属性の下でも成立するということを意味します。スピノザは自然Naturaということで延長の属性に属するもののことだけを意味させようとする場合もあるのですが,僕がこのブログで自然というときは,必ず思惟の属性に属するもののことも含めているのです。
したがって,感情というのは延長の様態modusとしてみられようと思惟の様態cogitandi modiとしてみられようと,何らかの原因causaが与えられて僕たちのうちに生じるということは変わりありません。そこでもしも,僕たちがあるものを表象するimaginariことによって何らかの喜びlaetitiaを感じるということがあったとしたら,僕たちの喜びの原因はそのものを表象したというそのこと自体にあるということになり,その表象像imagoという観念の対象ideatumとなっているものは僕たちに喜びを齎す外部の原因として認識されることになり,僕たちはそれに愛amorという感情を有するようになることになります。これは第三部諸感情の定義六 を参照してください。
しかしこの説明は,僕たちのうちにある感情が発生するということを原理的に説明するためのものです。もちろんこういう説明のされ方によって僕たちのうちに喜びや愛といった諸々の感情が発生するということがないというわけではありませんが,それはごく一部なのです。むしろ僕たちの感情の原因というのは,この原理的な説明にあるような,単一の単純なものであるということは稀なのであって,ほとんどの感情の原因というのはもっと複雑なものであって,そうした複雑な諸々の要素が同時的に原因を構成し,僕たちの感情が発生します。
19日に指された第32期倉敷藤花戦 三番勝負第一局。対戦成績は福間香奈倉敷藤花が30勝,伊藤沙恵女流四段が11勝。
振駒 で福間倉敷藤花の先手となり,5筋位取り中飛車。後手の伊藤女流四段が向飛車にして相振飛車 。先手が左玉から6筋の位も取るという力戦になりました。
ここで☖5三金と上がりました。先手の玉頭から攻めようという目論み。察知した先手は☗5八王 と引きました。
手の流れからは☖6四歩と突くのでなければならないのですが,それが無理ということで☖6一飛と回りました。ただそのために先に先手から☗8五歩と攻められ,苦戦を招きました。
図では☖2四歩と突いて2筋の突破を目指していくのがよかったようです。突破できるわけではないのですが,受けるためには先手は☗3六歩から桂馬を跳ねて☗2九飛と回らざるを得ず,8筋からの攻めを緩和できる上に角筋も通っていて,後手も戦えたようです。
福間倉敷藤花が先勝 。第二局は来月25日に指される予定です。
第三部諸感情の定義一三 の感情 affectusは,それ自体でみられるときは不安 metusと訳されるより恐怖metusと訳される方がよいので,畠中が恐怖という訳を選択していることにも一理あります。ただこの場合はとくに第三部諸感情の定義一三説明 でいわれていることに注意しなければならないのであって,この恐怖は単に希望の反対感情 であるばかりでなく,常に希望spesという感情とともに同じ人間の精神mens humanaのうちにあるのです。
僕が示した例でいえば,死の恐怖に怯えている人間の精神のうちに希望が同時に存在するというようには考えにくいのではないかと思います。しかし実際はそうではなく,死が不確かなものである以上はそこに希望が存在しているのです。これは,もし死が確実視されるものとして表象される場合は,その感情は恐怖,僕や吉田の訳でいえば不安といわれるのではなく,第三部諸感情の定義一五 の絶望desperatioに該当するということに注意すれば分かりやすいでしょう。不確かな死への恐怖に怯えている人間のうちには,希望,生きることへの希望が同時に存在しているのです。他面からいえば,人間は生きることへの希望を有しているから,死への恐怖に怯えることができるということになるのです。
これは僕が糖尿病を発症し,救急車で病院へ運ばれる前に自宅でほぼ寝たきりの状態になっていたときにもいったことですが,『悪霊 』のキリーロフ の自殺を例示したときにいったことを想起すればよく分かると思います。キリーロフの自殺はキリーロフ自身の人神思想 に由来しているのであり,その人神思想によれば,死の恐怖を克服した人間が神になることができるのです。キリーロフは自身が死への恐怖を克服した,すなわち神になることができる人間であるということを証明するために自殺したのです。しかしそれは,キリーロフの中に生きることへの希望がなかったということを意味するのであって,生への希望を失っている人間が自殺することは,是非は別として凡庸なことだと僕には思えます。自身が生きていくことへの希望をいっかな失ってしまっている人間が,どうして自分の死に怯えることができるでしょうか。
このように,恐怖は常に希望とともにあるのです。
17日に指された第14期女流王座戦 五番勝負第二局。
西山朋佳女流三冠が先手で居飛車を選択。後手の福間香奈女流王座のごきげん中飛車 で①-Aに。中盤で先手にうっかりがあり,大差になってしまう将棋でした。
先手が2三に銀を打ち,後手が4四の銀を引いた局面。先手の☗2三銀では☗1五銀と打つ方がよかったようです。
先手はここで☗4五銀と出ました。☗2三銀からの流れとしては当然なのですが後手に☖8四飛と回る返し技がありました。
☗3四銀引成 としたものの☖7六銀が炸裂。☗同歩☖8八角成☗同玉☖5五角で王手飛車が決まりました。
この順をうっかりしていたので☗2三銀だったので,事実上の敗着はそこにあったといえるでしょう。
福間女流王座が連勝 。第三局は来月5日に指される予定です。
僕が第三部諸感情の定義一三 で示されている感情 affectusを不安 metusと訳しているのはこのような理由です。一方,吉田も不安と訳しているわけですが,その理由は説明されていません。もっともこれは講義がベースとなっているわけで,講義の教科書として岩波文庫版の『エチカ』が使われているわけではありません。ですから聴講生が岩波文庫版では恐怖metusという訳が与えられているということを知っているということが前提となっていないので,吉田が講義の中でその理由を説明していないのは当然であって,むしろ説明した方が不自然だといわなければなりません。ただ,吉田が岩波文庫版の訳を知らないということはあり得ないですから,それと異なった訳を与えていることに理由がないということもないでしょう。そしてそれを推測すれば,僕が示したような理由とそう大きな差はないだろうと思われます。
一方,畠中は不安ではなく恐怖という訳を与えたわけですが,ラテン語の原語が日本語としてどのような意味に該当するのかということを別にしても,この感情に恐怖という訳を与えていることに理由がないわけではないと僕は考えています。というのも,僕が説明した不安という感情が『エチカ』で有しているような特別の事情というのを考慮せず,この感情をただこの感情して,つまり不確かな過去や未来と関係するような悲しみtristitiaとしてみた場合には,この感情は不安といわれなくもないのですが,恐怖といわれるのが常であるということができるからです。たとえば僕たちが不確かな未来に関する何らかの悲しみ,分かりやすいところで僕たちが死んでしまうということに関するような悲しみは,死への不安といっても成立しないことはないですが,死への恐怖といわれるのが常であるといえるでしょうし,この感情そのものに着目した場合には,その人間が自分の死に不安を感じているというより,自分の死に恐怖を感じているといった方が,ことばとしてはその人間の心情を正しく説明しているといえるでしょう。なのでこの感情は,その感情自体を注視する場合には不安と訳すよりも恐怖と訳した方が適切なのであって,畠中が何か過ちを犯しているというわけではありません。
小松島競輪場 で行われた昨晩のウィンチケットミッドナイトの決勝 。並びは新田に松坂,鈴木‐金子‐佐藤の関東,久田‐島川の徳島。
新田,鈴木,島川の3人がスタートを取りにいきました。枠順通り,新田が誘導の後ろに入って前受け。3番手に鈴木,6番手に久田で周回。残り3周のバックを通過した後のコーナーから久田が上昇。残り2周のホームに入って新田を叩きました。鈴木がこのラインに続き,一時的に内の新田と外の新田が島川の後ろで併走。バックに入ってから新田が引き,3番手に鈴木,6番手に新田の一列棒状となって打鐘。バックから新田が発進すると鈴木も合わせて出てさらに番手の島川も発進。鈴木の番手の金子が新田を牽制したので新田は内に進路変更。直線は島川と鈴木,その間を突いた新田と鈴木マークから外を追い込んだ金子の争い。鈴木が制して優勝。新田が4分の3車輪差で2着。金子が4分の1車輪差の3着で島川が半車輪差で4着。
優勝した東京の鈴木竜士選手は2017年のヤンググランプリ 以来のグレードレース2勝目。この開催は全日本選抜競輪に出場しない選手での開催で,そうであれば新田が実績からも脚力からも圧倒的上位で,本来ならば優勝しなければいけないメンバー構成でした。新田のミスはおそらく一時的に併走となってしまったところで,即座に引いておくべきだったでしょう。そのミスを鈴木がうまくついたということだと思います。
『スピノザ 人間の自由の哲学 』に関連する考察はこれが最後になります。これは第一二回の中の感情の模倣imitatio affectuumに関連する部分なのですが,その前に,同じ一二回の中で,吉田が第三部諸感情の定義一三 で示されている感情 affectusに対し,不安 metusという訳語を与えていますので,この点について僕の考え方を改めて説明していきます。
岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,この感情に恐怖metusという訳語を与えています。しかし僕はこのブログの開設時から一貫して,不安という訳語をあててきました。吉田のような有識者が僕と同じ訳語を選択したことは,僕は心強く感じます。
僕がこの感情を不安というのは,この感情が第三部諸感情の定義一二の希望spesの反対感情に該当するからです。希望の反対感情であるなら,それは恐怖といわれるより不安といわれる方が,日本語として適切だろうというのが僕の見解opinioなのです。しかもそれだけではありません。希望と不安は単に反対感情であるというだけでなく,第三部諸感情の定義一三説明 でいわれているように,必ず現実的に存在する同じ人間のうちに,ともに存在する感情なのです。つまりもしもある人間が希望を感じているのであればその人間はその事柄に関して不安も感じているのですし,もしもある人間が何らかの不安を感じているときには,その人間はその事柄に対する希望も抱いているのです。このように希望と不安は,単に反対感情というだけではない特殊な関係を有しているふたつの感情なので,それならなおのこと,希望と恐怖という組み合わせで示すよりも,希望と不安という組み合わせで示す方がよいだろうと僕は考える concipereのです。
スピノザは第四部定理四七 で,希望も不安もそれ自体では善bonumではあり得ないといっています。また,第四部定理五四備考 では,人間が理性 ratioに従うということは稀なので,共同社会状態status civilisにおいては受動感情である希望も不安も害悪より利益utilitasを齎すという意味のことをいっています。これらの例から分かるように,希望と不安はほとんどの場合でセットで言及されるのであり,この観点からも僕は希望と不安というセットで示す方が,希望と恐怖のセットで示すよりいいだろうと思っているのです。
第7回雲取賞 。
キングオブワールドは両サイドの馬から挟まれる発馬で1馬身の不利。すぐにスマイルマンボが先頭に。2番手は1コーナーを出たあたりでシビックドリームとアクナーテンの併走となり,4番手もリコースパローとジャナドリアで併走。3馬身差でケンシレインボー。以下は1馬身差でグランジョルノ,タイセイカレント,ペピタドーロと続き,4馬身差でプレミアムハンド。向正面で巻き返していったキングオブワールドがその直後まで追い上げ,5馬身差の最後尾にオンリーユーズドという隊列に。最初の800mは50秒7のミドルペース。
3コーナーからスマイルマンボ,シビックドリーム,アクナーテンが雁行となり,さらに外からジャナドリア。コーナーワークで直線ではスマイルマンボが一旦は差を広げましたが,外を回ったジャナドリアが追い上げ,残り100m付近でスマイルマンボを差し,そのまま抜け出して優勝。勝ち馬のさらに外から追い上げてきたグランジョルノが1馬身4分の3差で2着。逃げたスマイルマンボが4分の3馬身差で3着。
優勝したジャナドリア はデビューから3連勝で重賞制覇。1勝クラスの勝ち方が強かったので,実績はあるグランジョルノよりも能力は上で,最有力候補ではないかとみていました。末脚が確かな馬ですが,ここはわりと前の位置でレースを進められ,それがより生きる展開に。ダートのクラシック路線を目指すとのことで,有力馬になったといえるでしょうが,速いタイムに対しての裏付けはまだありませんから,速いタイムが出るような馬場状態になったときに対応できるのかという点は未知数です。父は2017年のJRA賞 で最優秀ダートホースに選出されたゴールドドリーム でその父がゴールドアリュール 。11歳上の半姉が2014年に関東オークス を勝ったエスメラルディーナ 。Janadriyahはサウジアラビアの祭典。
今年からSPAT4のPOGはJRA所属馬も指名できるようになりました。ジャナドリアは僕の指名馬です。指名馬に対する評価である点に留意してください。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手と管理している武井亮調教師は雲取賞初制覇。
表現として個物 res singularisを産出しないような神Deusは存在しません。一方で神なしには,第一部定理二五系 でいわれているような神を表現するexprimuntur表現者としての個物Res particularesはあることも考える concipereこともできません。つまりスピノザの哲学においては表現を介在して神と個物は表裏一体の関係にあると吉田は指摘しています。この指摘も,ドゥルーズGille Deleuzeと一致しています。そしてこのように解するときに重要なのは,この表現のイニシアチブがどちらかにあるというわけではないということです。再び画家の例を用いれば,画家は絵画を描かずにはいられないのですから,描くという表現においてイニシアチブを握っているとはいえません。しかし画家が描かなければ絵画は存在し得ないのですから,絵画がイニシアチブを握っているとはいえないでしょう。これと同じように,神は自身の力potentiaを表現しないことはできないのですから,この表現においてはイニシアチブを握っているわけではありません。しかし神が力を表現しなければ個物は存在し得ませんから,個物がイニシアチブを握っているともいえないのです。
よって神と個物の関係は,表現を介して,同時発生的でかつ同源的な関係にあると考えなければなりません。したがって,スピノザの哲学において世界の存在existentiaというのは,神と個物の関係を創造主creaturaと被造物creatorとみた場合に示されたような,どこか余計な存在ではありません。むしろ世界のうちにあるありとあらゆる個物は,そしてその個物の総体としての世界というのは,その本性essentiaに存在が含まれているもの,第一部定義一 における自己原因causam suiではないものの,たとえばライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibnizがそういうような神の善意とか,あるいはデカルト René Descartesがそういうような神の自由意志voluntas liberaといったようなものでたまたま,そういってよければ気まぐれに存在しているというわけでもないのであって,個物モードの神として,神自身の力によって必然的にnecessario存在しているのです。つまりスピノザの哲学における世界というのは,神による被造物などではありません。むしろそれは世界モードの神,書簡六十四 でスピノザ自身が示しているような,間接無限モードとしての神そのものなのです。
この部分の考察はこれで終了とします。
15日と16日に摂津峡花の里温泉で指された第74期王将戦 七番勝負第四局。
藤井聡太王将の先手で角換わり相腰掛銀 。後手の永瀬拓矢九段が序盤の段階で新手を出し,中盤以降は先手が駒損で攻める展開。先手の攻めが繋がるかどうかが勝敗の最大のポイントとなりました。
ここで先手は☗3四銀 と打っていきました。☖3三歩と打たれれば☗2五銀と逃げるわけにはいかないでしょうから,思い切った一手。
☗5三香☖6二金☗4二銀☖3二玉☗5一銀不成☖4一香 ☗4二歩成☖同香☗4三歩と攻めを続けました。
ここで☖同香だと先手の攻めが繋がるのですが,☖5一飛と銀を取るのが絶妙の受け。これで☖6九銀と反撃する手が生じたため後手の勝ちになりました。上図以降の手順の中で,先手に誤算があったということでしょう。上図では☗4六香ないしは☗4七香と指すのがよく,それは先手に分がある戦いだったようです。
永瀬九段が勝って 1勝3敗。第五局は来月8日と9日に指される予定です。
神 Deusが個物 res singularisを現実的に存在させざるを得ないのは,そこに神の思惟作用が介在するからではありません。神は自己原因 causa suiですから,第一部定理一 にあるように,その本性essentiaに存在existentiamが含まれています。これは,存在する力 potentiaを本性に含んでいると読み替えることができます。実際にスピノザは第一部定理三四 で,神の力と神の本性を等置しています。そしてこの力が現実的に表現されるときは,個物が現実的に存在するという様式で表現されることになるのです。つまり画家が絵画を表現しないわけにはいかないというのと同じ意味で,神は個物を現実的に存在させないわけにはいかないのです。他面からいえば,第一部定理一六 にあるように,神は無限に多くのinfinita仕方で無限に多くのものを生じさせないわけにはいかないのです。
表現という観点からさらに注意を促しておけば,画家は絵画を描かないわけにはいかないとしても,物理的な面から描くことができなくなってしまうということはあり得ます。たとえば事故で腕をケガしてしまい,物理的に描くことができなくなるということはあり得るからです。しかし神にはそのような障害が生じることはありません。いい換えれば,画家には表現を阻害するような外的原因が発生する場合を否定するnegareことはできないのですが,神の場合はその表現を阻害するような外的原因が発生するということを考えなくてよいのであって,この表現が中断されるとか停止されるといったことを考えるconcipere必要はないのです。したがって存在する力の源泉としての神は,永遠aeternumから永遠にわたって表現するexprimereのであって,個物という様態modi,吉田の表現に倣えば個物モードの神を永遠から永遠にわたって表現するということになり,それは何らかの思惟作用によって表現する,つまり表現してもいいししなくてもいいが表現するとか,表現することもできるし表現しないこともできる中で表現するというわけではなく,表現せざるを得ないというような様式で表現するのです。
ドゥルーズは『スピノザと表現の問題 Spinoza et le problème de l'expression 』の中で,スピノザの哲学における表現という概念notioの特殊性および重要性を説いていますが,この部分の吉田の指摘はそれと同一のものと解してよいでしょう。
日本時間で昨日の夜にカタールのアルウクダ競馬場で開催されたアミールスウォードフェスティバル。日本から2頭が遠征しました。
カタールドゥハーンスプリント芝1200m。エコロジークは隣の馬と接触する発馬。逃げたのですがインの馬が引かなかったので,外から半馬身くらい前に出るという形になりました。直線に入る前にその馬に抜かれると直線に入って下がってしまい9着。どうもレース中に熱中症を発症していたようです。
芝2400mから芝2300mに変更されたアミールトロフィーGⅢ。サトノグランツは終始5番手を追走。最後の直線に入る手前から漸進を開始。ただこのレースは逃げた馬がそのまま逃げ切る競馬。差を詰めましたが2頭に追いつくことができず3着でした。
画家にとって絵画とは,生きていく手段ともいえますが,インスピレーションが湧いたら描かずにはいられないようなものでもあります。画家に限らず一般に芸術家というのはそういうものであって,小説家は小説を書かずにはいられないですし彫刻家は石を彫らずにはいられないのです。スピノザの哲学でいう表現はこのような表現のことをいうのであって,してもいいししなくともいいことなどではありませんし,することもできるししないこともできるというようなことでもありません。あえてこの種のいい方をするなら,せずにはいられないようなことなのであり,それを吉田は切実とかのっぴきならないといういい方で表しているのです。
もしも画家が描かずにはいられないのだとしたら,確かに画家が絵画を表現しているといえるのですが,そうせざるを得ないという意味でいえば,表現させられているといういい方も可能でしょう。この場合,画家が絵画を描くのですから,表現しているのが画家で表現されているのが絵画,その絵画が何かを対象objectumとしたものであればその対象ということになるのですが,その表現行為自体の主導権が画家の側にあるとは断定できません。画家は表現せずにはいられないのですから,主導権自体はむしろ絵画の方にあるという見方も可能でしょう。吉田がのっぴきならないといっていることの具体的な内容は,このようなことを指していると解してください。
この画家と絵画の関係が,スピノザの哲学における神Deusと個物res singularisの関係,これはもちろん個物が一定の仕方で神の属性attributumを表現するexprimereといわれるときの関係ですが,その関係に類似するというのがここで吉田が絵画の例をもち出している主旨です。画家は絵画を描かずにはいられません。これと同じように,神は個物を存在させずにはいられないのです。ただし僕から注意してほしいのは,画家が描かざるを得ないということのうちに,画家の思惟作用を見出すことができるということを否定しませんが,そのようにみてはいけないということです。むしろ画家はこの場合は必然的にnecessario描くのです。逆に画家に思惟作用をみるのであれば,神はそのような思惟作用を有するわけではありません。
静岡記念の決勝 。並びは新山に浅井,真杉‐坂井の栃木,深谷‐岩本の南関東,嘉永‐荒井の九州で河端は単騎。
深谷がスタートを取って前受け。3番手に真杉,5番手に嘉永,7番手に新山,最後尾に河端で周回。残り3周のバックを出たコーナーから新山が上昇を開始すると,嘉永が合わせるように出ていきました。ホームで深谷を叩いたのは嘉永。バックに戻ってから新山がさらに嘉永を叩いて打鐘。後方になった真杉がすぐさま発進。新山との先行争いになるとみたか坂井は真杉に続かず下りて浅井の後ろに。先行争いは真杉が制し,浅井はスイッチせずに新山を迎え入れたので真杉の後ろが新山に。坂井がバックから再び追い上げていきましたが,その外から深谷が捲り一閃。直線に入るところでは前を捲り切って先頭に立ち優勝。マークの岩本が半車身差の2着に続いて南関東のワンツー。新山が上昇するときに続かず,後ろに控えて深谷の捲りに乗る形になった河端が1車身半差で3着。
優勝した静岡の深谷知広選手は10月の熊本記念 以来の優勝で記念競輪22勝目。静岡記念は初優勝。このレースはだれが先行するのかを予想するのも難しいメンバー構成で,展開次第でだれにでもチャンスがありそうなレースだと思っていました。新山の先行は最も考えられる展開だったのですが,真杉が早い段階で発進したので先行争いになり,後方で足を溜めた深谷が有利になりました。河端もこのラインを追っていたと考えればラインでの上位独占ですから,前にいた選手に厳しいレースだったということがよく分かると思います。
第一部定義六 により,神Deumは絶対に無限absolute infinitumです。神が絶対に無限であるためには,ある属性attributisは備えていても別の属性は備えていないというわけにはいきません。そうではなく,無限に多くのinfinitis属性を備えていなければならないのです。第一部定義六の前半部分と後半部分は,こうした条件によって接続されていることになります。
とはいえ現実的に存在する人間が認識するcognoscereことができる属性は思惟cogitatuonesと延長Extensioのふたつなので,第一部定理二五系 はこの観点から記述されていると解しておくのがよいでしょう。もちろんこの系Corollariumは,僕たちにとって未知の属性の個物Res particularesに対しても妥当するのは間違いないと僕は考えますが,僕たちが延長と思惟のふたつの属性しか認識することができない以上,僕たちが認識できる個物は延長の属性Extensionis attributumの個物である物体corpusか,思惟の属性Cogitationis attributumの個物である物体の観念ideaのどちらかであることになるからです。よって再びこの系に注目すれば,物体は延長の属性によってみられる神を一定の仕方で表現するexprimuntur様態modiであることになりますし,物体の観念は,思惟の属性によってみられる神を一定の仕方で表現する様態であるということになります。
この文脈で重要なのは,表現という点にあると吉田は指摘しています。ただしここでは注意が必要で,日本語で表現というと,することもできるししないこともできるのにときに強制されるものとか,してもよいししなくてもよいのだけれどもときに強制されることといったニュアンスを帯びるかもしれません。たとえば美術の授業で絵画によって風景を表現せよといわれるなら,確かにそれは強制されているといえますし,しかしそのこと自体が授業でないならば,することもできるししないこともできることであり,してもいいししなくてもいいことであるといえるでしょう。
しかしスピノザの哲学でいわれる表現というのはそういうことを意味するのではなくて,もっと切実なことです。吉田のいい方を借りれば,のっぴきならないものなのです。絵画の表現でたとえれば,それは描くという形で表現せずにはいられないようなことなのであり,描くということに固執するperseverareようなことなのです。つまり画家にとっての絵画なのです。
『証言 羽生世代』は講談社現代新書から2020年12月20日に発売されたもので,著者は将棋記者の大川慎太郎。大川は『不屈の棋士 』を出版した後に,講談社の担当者から羽生世代を中心とした本の提案を受けていました。2018年の竜王戦に羽生が敗れたとき,この機会に棋士たちの証言を集めておいた方がよいと大川も思い,講談社のPR誌である『本』の2019年8月号から連載を開始。その後の情勢の変化,というのは主に藤井聡太の活躍ですが,そうしたことのために大川が書いた部分には修正があるとのことですが,ほとんどの部分は騎士へのインタビューになっていますから,内容に変更はないとしてよいでしょう。
大川が棋士へのアポイントメントを取り始めたのは2019年4月になってから。16人の棋士がインタビューに答えていますが,これはすべて大川がオファーを出した棋士だとみられます。このうち羽生善治へのインタビューだけはオンラインで行われ,他の15人は対面でのインタビューです。
大川が選出した16人は,まず先行世代として谷川浩司,島朗,森下卓,室岡克彦の4人,同世代として藤井猛,先崎学,豊川孝弘,飯塚祐紀の4人,後輩として渡辺明,深浦康市,久保利明,佐藤天彦の4人。そして羽生世代の中心となる佐藤康光,郷田真隆,森内俊之,羽生善治の4人で,これは第1章から第4章まで,この順番の記述になっています。
ここでは参考のために,実際にはどういう順番でインタビューが行われたかを示しておきます。
最初にインタビューを受けているのは豊川です。2019年4月上旬となっていますから,大川がアポイントを取り始めてすぐです。5月下旬に藤井と郷田。8月初旬に島,上旬に佐藤康光。10月中旬に渡辺。11月上旬に森内,中旬に森下。2020年に入って2月上旬に谷川,下旬に深浦。6月初旬に室岡と飯塚,下旬に先崎。7月初旬に久保。8月下旬に佐藤天彦。羽生へのインタビューが最後でこれは2020年9月初旬です。
僕の考え方を先回りして説明しましたので,吉田の考察に戻ります。
吉田によれば,属性 attributumは雑多な考え方,それこそ眼鏡属性というようないい方が基本に忠実であるといえるような使われ方をしていたのですが,17世紀に入ってから哲学的に属性の概念notioが純化されました。いうまでもなくこの純化に貢献を果たしたのはデカルト René Descartesです。デカルトはあらゆる精神的実体に備わる本質的な特性として思惟Cogitatioを,そしてあらゆる物体的実体substantia corporeaに本質的に備わる特性として延長Extensioを示し,この思惟と延長だけを属性として認めました。デカルトは基本的に動物のことを,精神mensをもたない自動機械automa spiritualeとみなします。したがって人間以外の動物は延長の属性Extensionis attributumの様態modiということになります。延長というのは空間的な広がりを意味します。たとえばあるネコが年齢とともに色が白っぽくなったとしても,あるいは事故で1本の脚を失ってしまうというようなことがあったとしても,ネコがネコであることに変わりはないのですが,空間的な広がりをもたないネコというのはあり得ません。いい換えれば空間的な広がりを欠いてしまえば,ネコはネコであることはできなくなってしまうでしょう。つまりネコがネコとしてある,ありとあらゆる特性は,空間的な広がりなしにはあることも考えるconcipereこともできないということになります。したがってこの空間的な広がりを意味する延長は属性であるとデカルトはいいました。すなわちネコとは,物体的実体の属性である空間的な広がりが,ネコという形態を帯びているという意味になり,この意味においてネコは物体的実体のあるいは延長の属性の様態であるということに,デカルトの哲学のうちではなるのです。
スピノザは基本的にこの考え方を引き継いでいるといえますが,決定的な相違があります。それは第一部定理一四 にあるように,実在する実体が神 Deusだけであるとスピノザが主張している点です。いい換えれば神以外には実体は存在しないのですから,デカルトが規定しているような精神的実体とか物体的実体といった実体が存在するということは認めません。そして実在する実体が神だけである以上,あらゆる属性は神の本性 essentiaを構成することになります。
『なぜ漱石は終わらないのか 』の第十四章では,それまでの漱石の小説とは異なった愛を巡る言説が『明暗 』にはあるということが論じられています。
それまでの漱石の小説の主人公は,自分自身の実存,アイデンティティを感じられないので,唯一の女から愛されることによって自己自身を安定させようとするのだけれども,その女が自分以外の男を愛しているのではないかという疑いを有することによって不安に陥ります。つまり男の主人公が女を信じられないというのは,女を信じられないというよりは自分自身を信じられないのであって,その自分自身に対する不信感を相手の女に投影しているのだと石原が指摘しています。要するに男は女に愛されれば,正確には女に愛されているという実感をもてれば問題は解決するのであって,そのような本心が男の中にはあるということです。
『明暗』では,この種の役割が主人公である津田ではなく,津田の妻であるお延に与えられているのが,それまでの小説とは異なったところです。お延は「絶対に愛されてみたい」と口にするという点で,男の主人公とは異なり,それは女であったがゆえに小説の中で可能になったという一面はあるかもしれません。ただ,それまで男に担わせていた役割を女に担わせたという点は新しい点です。『明暗』で漱石文学では初めて女が描かれたという評価があるのですが,それは単に漱石がここで,男が担っていた役割を女に担わせたというだけの理由なのかもしれません。
石原はこれとは別の点に注目します。お延は愛されているという実感をもっていないからそのようにいうのですし,津田は津田でお延を愛しているという実感をもっていないのです。これは当時の愛を巡る言説そのもの,この種の愛があれば問題は解決するという言説そのものへの挑戦なのであって,そもそも愛とは何であるのかということを正面から問いかけているのだとみています。それは漱石の小説自体の根底を掘り崩し得るようなインパクトがあるテーマ設定だったと石原は指摘しています。
この訳注の中で畠中は,神の観念 idea Deiは,神に関して現実的に存在する人間が有する観念という意味と,神が自己自身に関して有する観念という意味の二様があるという主旨のことをいっています。畠中は単に二様の意味があるといっているだけで,前者が具体的にどのような観念であり,後者が具体的にどのような観念であるかを説明しているわけではありません。ただ,たとえ僕のようにそれらの観念を分類しているのではないとしても,現実的に存在する人間の知性 intellectusの一部を構成する神の観念と,神の無限知性 intellectus infinitusのうちにある神の観念は,同一の観念ではなく異なった観念であるとみていることは間違いないでしょう。したがって少なくともそれらを別種の観念として峻別するという点では畠中も僕と一致しているのであって,その点に着目する限り,僕の分類が僕に特殊の分類であるわけではないということが分かります。
この訳注についていえば,畠中はこの部分の神の観念は後者の意味,つまり神が自己自身に関して有する観念という意味でなければならないと指摘しているのですが,この指摘の妥当性は僕にはよく分からないところもあります。この部分のスピノザの文章は,神のある属性attributumの絶対的本性の中に有限finitumで定まった存在existentiaが生じると仮定すること,あるいは同じことですが神の属性の絶対的本性の中に持続duratioを有するものが生じることを仮定することの一例として,思惟の属性Cogitationis attributumの絶対的本性の中に神の観念が生じるという仮定で論証Demonstratioを進めているのです。したがって論証の中ではこの神の観念は仮定にすぎないともいえますから,それがどのような観念であるということを問う必要はないし,そもそも問うことができるかという疑問はあり得ます。というのも仮定にすぎないのであれば,何らかの定まった存在を有する観念,持続を有する観念が思惟の属性の絶対的本性のうちに生じるということを具体例として示すことができれば十分なので,これは神の観念でなければならない理由すらあるわけではなく,神以外の何らかの観念であったとしても,論証自体は十分に成立するように思えるからです。なのでこの部分の神の観念に,重要な意味はないかもしれないと僕は思っています。