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セメント積み出し埠頭と函館山…北斗市・本社
住宅システムの創出などと崇高な理念などは全くなく、ひたすら稼ぎを増やそうと青函連絡船の船底にある3等室で津軽海峡を渡りった事を想い出します。
画像の函館山の左裾には函館桟橋があり、そこから青函連絡船が4時間半かけて青森港に到着しました。長い連絡通路を通って青森駅から特急はつかり号で上野駅まで12時間です。
画像の右から突き出た埠頭は、太平洋セメント(当時はアサノセメント)上磯工場からのセメントを直接に積み込めるようになっています。
当時は、セメント積載列車が上磯工場に乗り入れており、その列車がそのまま線路の繋がった青函連絡船に乗船し青森港、青森駅そしてそのまま本州に送られておりました。
私の父は、このセメント工場を敷設するために赴任されたエンジニアの役員でした。
父の上磯町での生活は、短期間のようでしたが母と知り合い私達兄妹が生まれます。
早々に父は、この地を離れ私達は母の手で育てられました。
父が僅かに残した田圃で、母は農業で生計をたて、私達を育んだのです。
まさに私達兄妹は、極めて貧農の子供達でした。
大会社の重役で金回りの悪くない父は、その大半を関東に広大な土地を持っていました。
農地解放と云われる戦後の政策で、父が持っていた関東の土地は人手に渡りました。
その父が僅かに遺した土地を母が護り、貧しさを克服するため、この津軽海峡を渡りました。青函連絡船の3等室で津軽海峡を渡り、東京で福地建装を創設したのです。
長姉の励ましと、次姉が出してくれたお金があってこそ……
この画像を眺めると、あの時代の光景が走馬灯のように脳裏に浮かんできます。
もちろん、多くの方々からの支援と協力のあった事は、疑いようのない事実でもあります。
お陰様で現在は、全国各地に「健康寿命を延ばすファースの家」が建築されています。
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