五月五日、端午の節句ですね。
端午の節句は、もともとは中国の詩人、屈原に深く関係した行事だといわれています。
屈原は、「漢詩を長崎弁で読む」の中にも取り上げていたかもしれませんし、それ以上に洞庭湖のねずみ騒動の日記や、そのすぐ後に、なんとここいすみ市岬町と一宮の間にも洞庭湖を発見したことを書いていました。そして気にかけていた写真家の家をその入り口で発見したと思ったら、彼は今は私の故郷の長崎に移住しているとわかったり、、
屈原は洞庭湖の汨羅(べきら)という川に身を投げて自殺するのですけど、そのときに屈原の遺体を捜しに出た人々が、屈原の遺体を魚が食べないように、船のへさきで太鼓を叩き、粽を水に投げ入れたのが、長崎などに残るペーロン(ドラゴンボート)の起源にもなっているそうです。
そしてこの風習が病気や災害から身を守る行事として中国全土に広まり、三国志の時代に中国では国の行事として制度化されていったのですね。
前の仕事場にいたときに、オランダのライデンという町から、長崎や香港、沖縄など世界のドラゴンボートを集めて、大会をしたいという話が舞い込みました。そのときにはちょうど、手一杯であまりお手伝いができなかったのですけど、長崎生まれの私としてはいろんなことでこの大詩人との不思議な関係を思わざるを得ません。
それにしても、外は青空、鯉幟が高く踊って、、、、なんてのが今日の曇天で望むべきもない状態になってしまいました。
仕方ありません、粽と菖蒲と蓬を買ってきて、家の中でおままごとでも楽しみましょうか。
でもペーロンや粽は判ったとしても、端午の節句と菖蒲や蓬の関係は?
もともと季節の変わり目になる節句は健康増進月間だったんです。
桃の節句も厄除けでしたし、重陽の節句に使われる菊酒も薬用の意味もあったらしいですからね。
この五月は特に疫病が蔓延しがちな月なので、端午の節句の時には厄除けのために菖蒲や蓬の葉を門に刺し、薬用酒や肉粽を飲食して健康増進を祈願したのです。私もこのころには生の果物などを食べるのを禁じられていました。私の子供のころには今では考えられないくらいに赤痢とか疫痢とかが流行っていたのです。
そしてそれが奈良時代に日本の宮廷にも入ってきて、日本でもだんだんと一般化して行ったそうです。
菖蒲の葉を飾ることから、尚武という言葉とかけて、この端午の節句が男の子の息災を祈る行事になったのが端午の節句。元は重五の節句とか菖蒲の節句とかとも言われていたそうです。重は重なる。九月九日の重陽も、陽の一番大きな数字(奇数)が重なったという意味で重陽ですよね。重五の五と端午の午は発音が一緒ですので、重五がだんだんと端午になって行ったらしいですね。端は端から数えての意味で、本来は重五、、五が重なる日が、端五、、端から数えて五、そして端午になって行ったのではないでしょうか。
尚武の意味で、武家では勇ましく幟を立てていたのが、町人の間では鯉幟を上げて、子供の健やかさを祈ることになったのですけど、これもだんだんと男の子の誕生を祝うという意味も加えられていったようです。
都会の生活は不便ですね。トップの菖蒲を買いに行きました。蓬を絡ませたかったのですけど、蓬は売り切れだそうで、残念。岬なら隣の家の庭に掃いて棄てるほどあるのに、、、
ところで追加なのですけど、粽について教えてください。
私が子供のころに母が作ってくれた粽なのですが、半殺しのもち米に甘酢がかかったようなもので、かなり大きいものなのです。でも今、粽を見ているとどこにもそんなものがありません。中華料理の粽には大きさや、半殺しのもち米という点では似ているののがあるのですけど、いったいあれはどこから来たのでしょうね。
似たような粽をご存知のかたお教えください。