先日、「燕返し」というタイトルの日記で、デジカメの練習を披露しました。
それがあまりうまく行っていないので、今日再度雪辱戦を行いましたけど、やはりとても難しい。
私にはできるのかどうか心配になって来ました。
大きな丸い木を抜けて、
(この~木なんの木、気になる木
小さな池に面した芝生に腰を下ろす。
池には蓮の葉が表を出し、
(この池には蛙がいないようで、幸いなことに蓮の葉の上にも蛙のおしっこはない
(”蓮の葉にたまりし水は釈迦の涙かありがたや、
ところへ蛙がピョコト出て、それはわたしの尿(しい)じゃいな”
(なんて、おせっかいな蛙がいないだけでもありがたい
水鳥がその水面にたゆとう
(ちょっと、がぁ、がぁって鳴かないでよ、ムードが壊されるから
(それにもうちょっと優雅に泳いでくれないかな~
岸辺にはキショウブの花が咲き乱れ、川面にその姿を映している
緑陰を渡ってくる風が ほてった頬を撫でていく
通り過ぎてきたたくさんの花たちを思い出す
あるものはあでやかに
また、あるものは力強く
そして気高く
また、ひっそりと内気に
その絹のような肌触り、、、
虫たちをさえ惑わすその危険な誘惑
まどろみに誘われる午後のひと時
「それにしても、あんちゃんは何しに出かけたの?」
「いや、等々力緑地へカワセミを撮りに」
「でもカワセミは一枚もないじゃない」
「うん、カワセミどころかカルガモがいただけ」
「ふ~ん、だから訳の判らん文句をだらだらと書いていたのね」
「えっ? まぁ、あの、その、そんなところですかね~」
初夏即事 王安石
ところで、またまたMixiの話ですけど、他の方につけたコメントに王安石の初夏即事をお返しになった方がいます。
これを以下のコメントに紹介していましたけど、あまりにもこの上の写真とぴったりなので、本文のほうにこれを加えて、「漢詩を長崎弁で読む」のカテゴリーに入れてしまいましょう。
>
はいはい、一世風靡を、兄者が知らなくても構いませんから。
石梁茅屋有彎碕 石梁 茅屋 彎碕有り
流水濺濺度両陂 流水濺濺として両陂を度(わた)る
晴日暖風生麦気 晴日暖風 麦気を生じ
緑陰幽草勝花時 緑陰幽草 花時に勝る
兄者のお散歩の日々は、まさにこんな感じでは?
セピアは知らなくても、兄者には漢詩がありますから!
/>
いつもの漢詩と、読み下しはこの方がやってくださっていますので、省略できる、楽チン!
石の橋や藁葺き小屋が曲がりくねった川岸の上に見えるっちゃ
土手の間を抜けて川の水はさらさらと流れとる
透き通るような陽射しの中を、麦の香りを帯びた風がやわらかく吹いとるたい
緑陰に儚そうな草、春ん花の一杯咲いとる時にも勝る風情じゃね~
ちぃ~とも長崎弁にならんかったね。まあ、無理してせんでもよかでしょ?
(この~木なんの木、気になる木
小さな池に面した芝生に腰を下ろす。
池には蓮の葉が表を出し、
(この池には蛙がいないようで、幸いなことに蓮の葉の上にも蛙のおしっこはない
(”蓮の葉にたまりし水は釈迦の涙かありがたや、
ところへ蛙がピョコト出て、それはわたしの尿(しい)じゃいな”
(なんて、おせっかいな蛙がいないだけでもありがたい
水鳥がその水面にたゆとう
(ちょっと、がぁ、がぁって鳴かないでよ、ムードが壊されるから
(それにもうちょっと優雅に泳いでくれないかな~
岸辺にはキショウブの花が咲き乱れ、川面にその姿を映している
緑陰を渡ってくる風が ほてった頬を撫でていく
通り過ぎてきたたくさんの花たちを思い出す
あるものはあでやかに
また、あるものは力強く
そして気高く
また、ひっそりと内気に
その絹のような肌触り、、、
虫たちをさえ惑わすその危険な誘惑
まどろみに誘われる午後のひと時
「それにしても、あんちゃんは何しに出かけたの?」
「いや、等々力緑地へカワセミを撮りに」
「でもカワセミは一枚もないじゃない」
「うん、カワセミどころかカルガモがいただけ」
「ふ~ん、だから訳の判らん文句をだらだらと書いていたのね」
「えっ? まぁ、あの、その、そんなところですかね~」
初夏即事 王安石
ところで、またまたMixiの話ですけど、他の方につけたコメントに王安石の初夏即事をお返しになった方がいます。
これを以下のコメントに紹介していましたけど、あまりにもこの上の写真とぴったりなので、本文のほうにこれを加えて、「漢詩を長崎弁で読む」のカテゴリーに入れてしまいましょう。
>
はいはい、一世風靡を、兄者が知らなくても構いませんから。
石梁茅屋有彎碕 石梁 茅屋 彎碕有り
流水濺濺度両陂 流水濺濺として両陂を度(わた)る
晴日暖風生麦気 晴日暖風 麦気を生じ
緑陰幽草勝花時 緑陰幽草 花時に勝る
兄者のお散歩の日々は、まさにこんな感じでは?
セピアは知らなくても、兄者には漢詩がありますから!
/>
いつもの漢詩と、読み下しはこの方がやってくださっていますので、省略できる、楽チン!
石の橋や藁葺き小屋が曲がりくねった川岸の上に見えるっちゃ
土手の間を抜けて川の水はさらさらと流れとる
透き通るような陽射しの中を、麦の香りを帯びた風がやわらかく吹いとるたい
緑陰に儚そうな草、春ん花の一杯咲いとる時にも勝る風情じゃね~
ちぃ~とも長崎弁にならんかったね。まあ、無理してせんでもよかでしょ?
こちらには転載しなかったけど、5月9日のMixiには収斂ということで、身の回りのいろんなことが収斂してきているようだと書いた。要するに気が付かないうちに自分が周りのものをフィルターをかけてはじいている、その結果、周りで起こることが収斂してきているように見えるということであるし、裏返せば、身辺をだんだんと整理していかなきゃねという願望でもあるかもしれない。
日記は要するにその日その日のメモだし、それに添える写真も散歩に刺激と付加価値を与えるために、目に付いたものをとにかく何でもバシャバシャと撮っているだけ、内容も、展開もまるで方向性のないものばかりだけど、ただそれを続けているとだんだんと内容が整理されていって、どこかへ集中してこないだろうかな~って思っている。
今のところ、その兆候は非常に少ないけど。
死ぬまで、あれもこれもってのもちょっと考え物。少しは何か特徴のあるものであって欲しいと思うのだけど、それがなかなかうまく行かない。
生活する空間にしてもその通りだと思う。横浜だ、岬だ、蒲田だって自分の住む場所さえ果たしてどこが基準なのかわからない。ふらふら、ふらふら、、、
若いうちはそれでもいいのかもしれない。新しい可能性を求めてなんてことでいろんなことを試すのもいいのだろう。(もっとも出発点の自分の座標だけはしっかり見据えていなければね、そこがふらふらじゃ浮き草って言われても仕方がない。自分で自分を見るときに、あまりにもかけ離れたかっこいい自分を見ている人も多すぎるけど、そんなんじゃいつまでたっても自分の満足する生き様はできないし、人も説得できないって感じるけど)
小さな空間の持つ快適性っていうのは何も方丈記などでの東洋的なものだけじゃない。変な話ドリトル先生なんかにも、必要なものが何でも手を伸ばせば取れるとても快適な部屋(マントルピースなのだけど)というのが出てくるけど、within arm's lenghの快適さというのは洋の東西を問わず、人間誰しも心のどこかで求めているものかもしれない。
ロシアの作家さんも人間に必要なのは2メートル、1メートルの空間だって言っているし、今の日本の法律からすれば、最終的に人間に必要なものは骨が入るだけのもの、その空間ということになるのだろうか?
いずれにしろ、人間はそちらへと向かっているわけだから、ある程度の年齢になったら身の回りのものを整理し、身軽に、壺へ飛び込む用意をしなければと思うのだけど、結構それが大変。なんせ今までやってきたしがらみがたくさんある。あれも欲しい、これも置いておきたいではいつまでたっても整理できなくて、どこかのゴミ屋敷みたいになって、それじゃお迎えを待てないね~~~
なんて思いながら、ふと利休の小間の話を思い出す。利休はどんどんと茶室から純粋にお茶を楽しむために不必要なもの、不要なものをそぎ落としていった。残された空間で出されるお茶、その雰囲気、、、それが本当に利休の求めている最終結果なのかどうかはわからない。それはあの天才だけが知りえることだろうけど、でも、私から見ると、とても緊張感あふれる、切迫した空間なのだろうと思う。そんなお茶はよほど相手が親しくなければ、点てたくないし、呼ばれたくもない。あれはそんな絶対空間の中でお茶に何が必要かを見出すための実験室なのではないかと、ふとそんなことを思ったりするけど、まぁ、お茶のことが何もわかっていない私が何を思っても仕方ないか。
身の回りを整理して、収斂していきたい。でもいまだに無駄の必要性もまた、どうしても必要なものとして気持の中にあるのですよね。
日記は要するにその日その日のメモだし、それに添える写真も散歩に刺激と付加価値を与えるために、目に付いたものをとにかく何でもバシャバシャと撮っているだけ、内容も、展開もまるで方向性のないものばかりだけど、ただそれを続けているとだんだんと内容が整理されていって、どこかへ集中してこないだろうかな~って思っている。
今のところ、その兆候は非常に少ないけど。
死ぬまで、あれもこれもってのもちょっと考え物。少しは何か特徴のあるものであって欲しいと思うのだけど、それがなかなかうまく行かない。
生活する空間にしてもその通りだと思う。横浜だ、岬だ、蒲田だって自分の住む場所さえ果たしてどこが基準なのかわからない。ふらふら、ふらふら、、、
若いうちはそれでもいいのかもしれない。新しい可能性を求めてなんてことでいろんなことを試すのもいいのだろう。(もっとも出発点の自分の座標だけはしっかり見据えていなければね、そこがふらふらじゃ浮き草って言われても仕方がない。自分で自分を見るときに、あまりにもかけ離れたかっこいい自分を見ている人も多すぎるけど、そんなんじゃいつまでたっても自分の満足する生き様はできないし、人も説得できないって感じるけど)
小さな空間の持つ快適性っていうのは何も方丈記などでの東洋的なものだけじゃない。変な話ドリトル先生なんかにも、必要なものが何でも手を伸ばせば取れるとても快適な部屋(マントルピースなのだけど)というのが出てくるけど、within arm's lenghの快適さというのは洋の東西を問わず、人間誰しも心のどこかで求めているものかもしれない。
ロシアの作家さんも人間に必要なのは2メートル、1メートルの空間だって言っているし、今の日本の法律からすれば、最終的に人間に必要なものは骨が入るだけのもの、その空間ということになるのだろうか?
いずれにしろ、人間はそちらへと向かっているわけだから、ある程度の年齢になったら身の回りのものを整理し、身軽に、壺へ飛び込む用意をしなければと思うのだけど、結構それが大変。なんせ今までやってきたしがらみがたくさんある。あれも欲しい、これも置いておきたいではいつまでたっても整理できなくて、どこかのゴミ屋敷みたいになって、それじゃお迎えを待てないね~~~
なんて思いながら、ふと利休の小間の話を思い出す。利休はどんどんと茶室から純粋にお茶を楽しむために不必要なもの、不要なものをそぎ落としていった。残された空間で出されるお茶、その雰囲気、、、それが本当に利休の求めている最終結果なのかどうかはわからない。それはあの天才だけが知りえることだろうけど、でも、私から見ると、とても緊張感あふれる、切迫した空間なのだろうと思う。そんなお茶はよほど相手が親しくなければ、点てたくないし、呼ばれたくもない。あれはそんな絶対空間の中でお茶に何が必要かを見出すための実験室なのではないかと、ふとそんなことを思ったりするけど、まぁ、お茶のことが何もわかっていない私が何を思っても仕方ないか。
身の回りを整理して、収斂していきたい。でもいまだに無駄の必要性もまた、どうしても必要なものとして気持の中にあるのですよね。
このところ多摩川にコアジサシが来ているので何度かアップしていますけど、あの垂直ダイブが撮れない。今日も練習して見ましたけど、垂直にダイブしているのは入っているのですけど、ブレているのです。もちろん背景はブレていないので、アジサシが早すぎるのですね。あれを止めるには少なくとも2000分の一よりも早いシャッタースピードが必要かもしれません。(もっとも今日は薄曇であまり早いシャッターは切れませんでしたけど)
ドボンの直前を撮りたいですね~
後をとっても仕方がない。
飛んでいるコアジサシはもう少しましな写真が前にあったと思いますけど、今日はこんなもんでした。もう少し練習しなきゃ。
ドボンの直前を撮りたいですね~
後をとっても仕方がない。
飛んでいるコアジサシはもう少しましな写真が前にあったと思いますけど、今日はこんなもんでした。もう少し練習しなきゃ。