日経新聞の7月31日付と8月3日付に、きわめて際立った二つの記事が掲載されていた。
「賞与100万ドル超 4800人に NY洲司法長官発表」(7月31日夕刊)
「日米欧の失業者3300万人に 昨年3月から6割増」(8月3日朝刊)
4800人の対象は、公的資金を受け入れたシティグループなど大手金融機関の9行で、国民の血税を受け入れた金融機関が高額賞与を支払うとは何ごとぞ、というのが記事の主旨であるが、それはさておき、100万ドルといえばざっと1億円ではないか・・・。賞与を1億円とる人は、毎月の給料も相当な額もらっているだろう。何千万円ももらっているかもしれない、少なくとも毎月何百万円はもらっている人がたくさんいるであろう。年収どのくらいになるのだろうか?
反面3300万人の失業者は、収入はゼロであろう(失業保険などはもらっているだろうが)。
この差は大き過ぎないか?
もちろん、賞与金額と失業者人数という質の違うものを同じものさしで比較できないことは分かっている。しかしそれぞれを生活実態に引きなおしてみれば、あまりにも大きい生活差が浮かんできて慄然としたのだ。
貧しい人々は失業者だけではなく、仕事にはついていても年収2百万円にも満たないワーキングプアが日本には1千万人いると言われている。私が慄然としたのは、先進国にありながら膨大な貧困層を生み、一方に賞与だけで1億円という人間の数もかなりに上り(9社で4800人だから、日米欧全体には相当数いるのだろう)、その格差が当然のこととしてこの世の常識となってきていることだ。
私は全ての人間が収入に於いて平等であるべしなどという短絡的なことを思っていない。自由な競争の中で、それなりの知恵と努力を出し合い成果を競い、それなりの差が生じることは当然であろう。それが社会発展の活力を生む、とも言われる。
しかしこの差は大きすぎるのではないかと思ったのだ。もっと言えば、このような差が無ければ「刺激を得られない。活力が生まれない」とすれば、人類はあまりにも大変な社会に足を踏み入れたのではないか、と怖くなったのである。