碁石海岸の興奮を乗せて、バスはその日の宿気仙沼プラザホテルに向かう。
美しい海岸から、だんだんと魚の匂いと人いきれが聞こえてくるようだ。そう、この気仙沼こそ三陸海岸一の漁業の町である。特に秋刀魚の水揚げ量では日本一、また、「大島を懐に抱く気仙沼湾は水の汚れもなく、カキ、ノリなどの養殖も盛んに行なわれ、松島名物のカキもこの付近で養殖することが多い」(実業之日本社『ブルーガイド』132頁)ということだ。
海岸線から深く入り組んだ入り江は天下の良港で、これでは台風や津波の被害なども受けにくいであろう。津波といえば宮古の手前に「田老」という町があったが、かの“三陸大津波”最大の被害地であったらしく、町中には「三陸大津波ここまで」という甲板がいくつも立っており、今後の被害を防ぐために街のまん中に長い堤防が築かれ「万里の長城」と呼ばれている。昭和8年の津波は高さ12m、明治29年は高さ15mに及び、全戸壊滅に近い被害であったという。
そのような点からすれば、気仙沼はいい港なのであろう。
三日目の朝、早く起きてワイフと港を散歩した。昨日までの快晴と打って変わって、空を厚い雲が覆ってきたが、その重々しさが“東北の漁港”の厳しさのようなものを感じさせてくれた。桟橋には連絡線や様々な船がギッシリと並んでいる。早朝で静寂に包まれていたが、これらの舟が様々な役目を帯びて各方面に出航していくのであろう。
桟橋の傍に、恵比寿様が魚を釣上げた建造物があるので近づくと、「世界一大きい鮪の貯金箱」とある。世界一素晴らしい街づくりのための基金を集めているそうだ。また大きな錨がそのまま飾られていたり、港町ならではの風景だ。
公園の隅に、俳句とサンマ川柳と短歌の「全国大会入選作」が掲げられていた。心に残った作品を書き留めておく。
俳句 競り終えて 港祭りの笛稽古
川柳 どどどっと海を引き連れさんま来る
いずれも港気仙沼ならではの句である。そしてまた、次の歌は心に響いた
ビルマ戦線の被爆の破片拾い上ぐ 兄の火葬の灰の中より
この平和な港町にも戦争の惨禍は等しく押し寄せて、65年を経た今なお、その苦悩を残しているのである。
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