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鎌倉が世界遺産の申請を検討していることをニュースで知った。聞けば、頼朝の町つくりに城壁をめぐらした町の構想があり、その跡もあるので、それらを総合した町全体を取り上げられないかを検討しているという。これは一つや二つの神社仏閣を申請するのとわけが違う。面白いと思うが難しさもあると聞く。
9月下旬に訪問したフランスのリヨンは、古リヨン地区、旧市街地区を中心にした町の一部全体が世界遺産に指定されている。しかも、紀元前のローマ支配時代の遺跡から中世の大聖堂、ルネッサンス期から産業革命時代の建物や機械類(主として絹織物の織機の発展史)など壮大な人類史が含まれている。
鎌倉も歴史遺産として多くが残されているが、せいぜい鎌倉時代以降のものが主流であろうからスケールが違う。
リヨンの友が私に一番力説したのは、リヨンが過去をいかに破壊せずに保存したかということであった。中世の大聖堂建設に当たっては、ローマ遺跡を破壊してその石を使った形跡が一部にあるようであるが、ルネッサンス期の商人や銀行家たちは過去の遺跡を残しその隣接する地域に町を広げていった。これが現在の「古リヨン地区」だ。17~19世紀の産業の変革期は、ソーヌ川を渡った半島部分に町を広げ(これが現在の「旧市街」)、古リヨンを守った。20世紀の発展期には、もう一つローヌ川を渡った地域に街を広げていった。
人類は、政治経済の大変革期に旧来のものを壊してその上に新しい物を建て、それを「発展」としてきた。リヨンは隣接地に町を広げていくことにより歴史遺産を守り、新旧共存して生きてきたようだ。だからリヨンに行けば、ローマから現代までを見ることができる。
鎌倉の保存してきたものに、リヨンに見るような「人類史的普遍性」が見出されていくならば、当然のこととして世界遺産に指定されていくのだろう。
淨光明寺の貴重な仏像の解説を受けながら、そのようなことを考えた。
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