旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

北朝鮮との人間的対話はいつか――金賢姫会見にふれて

2009-03-12 23:07:42 | 政治経済

 飯塚耕一郎さんと金賢姫元死刑囚の面会に、想像を超えた人間的なふれあいを見てホッとした。当然のことではあるが・・・。
 それにしても金賢姫という女性はどんな人なのだろう? 全く平凡な一女性であったのかもしれないが、不幸にも国の工作員として教育され、国際的テロ行為の実行犯になったのかもしれない。とらえられて死刑を宣告され、素直に反省して元の一女性に返ったのだろうか?
 会見を見る限り、北朝鮮という極めて特異な国の国民とは思えない、全く普通の、女らしい感情を持った女性に見えた。
 彼女は耕一郎さんを、「大きくなったね」、「お母さんに似ている」と、そのお母さん(拉致被害者田口八重子さん)に習った日本語で話しかけ抱擁した。しかも「抱いていいですか」と礼儀正しく断わりながら・・・。彼女は、テロ実行犯、元死刑囚と思えない心豊かな女性としてそこにあった。とはいえ彼女が北朝鮮人であることもまぎれも無い事実である。
 私はその会見の状況を見ながら、「必ず北朝鮮と人間的な話合いが出来る日が来るだろう」と思った。テロ実行犯も、ほんの一皮剥いて本来の人間に返れば、全く普通の人間に立ち返るのであろう。北朝鮮と言う国も、いつか「ほんの一皮剥ければ」普通の国になるだろう。
 しかも日本人とは様々な点で共通点を持つ。金さんは、飯塚繁雄さん(田口さんの兄)に挨拶されて、「私が先に挨拶しなければ悪かった」と言いながら握手を求めた。そこには謙譲を美とする儒教の匂いが漂っていた。日本人と同じ哲学を持っているのだ。

 拉致問題の全面的解決は、二国の関係が完全に打ち立てられたときであろう。その可能性を深く信じさせてくれた会見であった。
                         


高まる政治不信を嘆く

2009-03-08 15:17:16 | 政治経済

 民主党の小澤一郎党首と西松建設の政治献金問題がもめている。
 そもそも小澤一郎という人は、田中角栄金脈問題以来の流れを汲む人物で、そのようなことがあることに何も驚きを感じない。一方の自民党にも同質の問題を抱えている人の名前がぞろぞろ出てきており、お互いになじり合っているが、これこそ「目くそ鼻くそを笑う」というものだろう。
 このようなことが発覚するたびに「政治と金」が問題になり、企業と政治家の癒着が問題になるが、既存政治は、それを完全に断つ改革をやろうとは絶対にしない。つまり金との結びつきが「政治」の命であるので、既存の政治家の下でそれが行われることは無いのであろう。改革の素振りを見せて必ず抜け道を作り、金とのつながりを保ち続ける。
 その意味で自民党はもちろん、民主党にも一切の信頼を抱いていない。このようなことが重なるに連れて、国民は政治不信を重ねていくであろう。それが怖い。それは、いつ、どのような形で爆発するのであろうか?

 北欧やオランダの本などを読んでいると、消費税が20%などと高くても国民に不満は無いと書かれている。そのような国に行ったとき多くの人に質問してみたが、答えは不満は無いというものであった。その最大の理由は「収支の透明性」であり、消費税により福祉、医療、教育などが保障されている安心感にあるようだ。
 政治に関わる「金の使い道とその透明性」が、日本ではなぜ保障されないのだろうか?

 もう一つ、それらの国の本を読むと、国会に自転車で向かう議員などに、手を降って挨拶している市民の姿が書かれている。何も外国かぶれするつもりは無いが、それらの国会議員は企業利権や金よりも国民生活に目を向けていると思える。もちろんそれらの国でも、汚職もあり公金使い込みもある。ただ、それらがすぐ正される仕組みや透明性が違うので、国民は政治を信頼しているのであろう。
 日本の交通事情では、自転車で国会に通うのは無理かもしれないが、政治家も企業献金の抜け穴作りに精出すよりも、もう少し国民と同じレベルの生活をしてみたらどうか?
                         


24節気の酒 ・・・ 啓蟄

2009-03-05 20:28:27 | 

 雨水(218日)を過ぎたら本当に雨の日が多く、この半月の東京は太陽の照る日が少なかった。しかも今冬で最も寒い日が到来し雪が降ったりした。日中に降った初めての雪は半分は雨で、地面を白くすることもなく、「雪が解けて雨になる」という雨水をそのまま実演してくれたのかもしれない。
 こうして雨の日が続き土は湿り、迎えた今日は啓蟄・・・。
 ようやく冬眠から目覚めた虫たちが、雨で柔らかくなった土の中から地上に這い出してくる日である。このところ異変も多いが、まあ自然はよく出来ていると言うべきだろう。

 いよいよ穴から出てきた虫たちは、地上を眺め回し大気を吸って、「よし、今年も頑張るぞ!」と叫んでいるのかもしれない。人間様もおちおちしてはいられない。ひとつ酒でも飲んで気合を入れるか!
 このような時に、必ず飲みたくなる酒がある。「神亀」という酒だ。数千銘柄はあると言われている日本酒の中でも最も酒臭い酒で、何とも力を感ずる酒である。
 埼玉県蓮田市にある神亀酒造は、現在約20蔵ある「純米酒だけを造る蔵」の先駆けである。戦後のアルコール、水飴、調味料などを添加した「アル添三増酒」や、「アルコール添加酒」が普通であった時代に、この蔵は1967年代から純米酒を造り始めたと伝えられる。そして今から20年以上前の1987年に、全製造量を純米酒に切り替えた。
 その発端は、専務小川原良征氏の学生時代(40年以上前)にさかのぼるらしい。東京農大醸造科で、教授に「日本酒は本物(純米酒)に帰らなければ消えてしまうかもしれない。娘もワワインは飲むが日本酒は飲まない」と言われたことから純米酒つくりを志した、と何かで読んだことがある。爾来40数年、純米酒を追求しつづけてきたのである。
 本物をつくろうとする根性が違う。この小河原専務の執念が、現下の純米酒ブームに道を開いたと言っても過言ではあるまい。

 丹念に時間をかけて造られた純米酒はじっくりと時間を取って熟成させる。米の味は酒に乗り移り、旨味とコクのある酒ができる。神亀を飲むと「これぞ米の酒!」と思う。米の甘味が口中に広がり、旨味とコクが胃の腑に落ち込む。燗をするとさらに美味しい。

  混ぜもの、ニセモノ酒ばかりの穴から抜け出し、新しい空気――本物の日本酒を求めて造りあげてきた酒だ。まさに“啓蟄の酒”にふさわしい。
                         


ブログは意味があるか(4)

2009-03-04 20:52:50 | Weblog

 本来日記であればもちろんのこと、また、酒や旅について連載的に書いていつか纏めようということであるならば、公開することはほとんど意味がない。書き溜めておいて纏めていけばいいのだ。
 しかし、公開することの最大の意味は、誤字脱字を含め間違いのないように、事実確認を含め誤りのないように、という緊張感を持って書くことにあるようだ。あとで読み返してとんでもない間違いを犯していることに気がつき、思わず赤面したことが何度もある。特にワープロによる漢字変換でとんでもないミスをやり、慌てて訂正することもしばしばだ。
 単に書き溜めておくだけなら恐らく読み返したりしないだろうし、辞書を引いたり本を読み返したり、またインターネットでいろいろ検索して調べたりしないだろうと思うが、やはり万人に公開するとなるとそうはいかない。
 その緊張感が最大の意味ではないか? もちろん、大して時間を使うわけではないし、それだけ誤りや誤字脱字を含んでいるに違いないが、それなりに注意や勉強しながら書くことの意義は大きい。それだけでも公開する意味があるのかもしれない。自分のようなだらしない人間は、せめてそのような縛りを設けながら、辛うじて生きて行くしかないのだろう。結局は自分のために公開する、というところにこの世界の奇妙さがある。

 また、定期的に読んでくれている人が何人かは居るようだ。ありがたいことだが、もしその人たちのために書くのなら一斉メールでいいはずだから公開の必要はない。やはり前記した緊張感ぐらいしか意味はなさそうだが、それはかけがえのないものにも思えるので、もう少し「危険にさらす緊張感」を求めて書いてみるか・・・?
 ただし、できるだけつまらないことを書かないように注意し、回数もできれば減らそう。つまらないことの方が面白いことが多いので、無味乾燥なブログになって行くかもしれないが・・・

 このようなことを考え始めた契機は、最初に書いたように、人類はインターネットやウェブなどという素晴らしい技術を作り上げてきたのであるが、それを使いこなす規律、秩序、思想、哲学の面において追いついていないことに嫌気がさしたことによる。その状態は何も改善されていないどころか、今後ますます問題化していくだろうことだけは十分予測できる。
                         


ブログは意味があるか(3)

2009-03-02 21:31:15 | Weblog

  ひょんなことからブログの意味に引っかかり、「ブログに意味があるか」をブログに問う日が続いている。
 ブログを「公開日記」とするならば、後半の日記には明らかに意味がある。それは自分についての記録であるので、意味がないことは書かないし、何か思うから書き残すのであるから、それだけでも意味がある。問題は「公開」である。公開する以上誰かに読んで欲しいと望むのであろうし、同時に何らかの反応を求めるのであろう。

  しかしそれはどだい無理な相談ではないか? そもそも、人が勝手に書いているものを、そう都合よく読んでいられないだろう。しかも、これまた書いた者が勝手に欲している反応など分かるはずもなく、求められているような反応など書けるはずがない。
 事実、私のブログに対するコメントなど数名の人に限られており、それも偶にあるだけだ。当然のことだ。私自身「一方的な発信」と割り切っているので、コメントに対する返事もまともにしていない。最近はできるだけするようにしてきたが。
 つまり「反応を求める」などと言っても“闇夜につぶて”を放つようなものである。コメントで一番多いのは、実に低劣で読むに耐え得ないサイト系コメントだ。これを消すだけでも大変な作業だ。そして何とも嫌な、危険な世界がその先に見えてくる。そのような世界とつながる可能性は持ちたくないなあ、と時々思う。幸いなことに、今まで変な係わり合いは一度もないが・・・。

 この問題について「おおつる」さんより続けてコメントをいただいた。気弱な私を、ブログの良い点を挙げて「ぜひ続けるように」励ますコメントだ。誠にありがたく心より御礼を言いたい。
 ただ気になるのは、おおつるを括弧書きしたように、書いてくれた人を特定できないことだ。「おおつるさん」は多分「大津留さん」だと思う。これまでの多くのコメントは大津留でくれたが、今回はおおつるとしたのに何か意味があるのだろうか? しかも最初のコメントは文末が「かしこ」となっていたので、一般的には書いた人は女性と言うことになる。若しかして大津留夫人かもしれない。二度目のコメントは「かしこ」がついてなかったので、これは本人だろう。文面からすると両方とも大津留さんだが。
 かくも難しいのがこの世界の特徴である。私は写真も含めて本人丸出しで書いているが、多くの人は自分を表に出さずに書いている。この辺が、前述したような魑魅魍魎な世界の入り口のような気もしている。

 しかしそんなことをばかり考えずに、「おおつる」さんの助言も入れて、前回書いたように「良い点はないか」をもう一度考えてみよう。
                         


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