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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

全体主義の島!沖縄タイムスが校長の異論を封じる!

2009-08-19 06:49:41 | 未分類

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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沖縄タイムスによると、沖縄の教師が米軍に肯定的意見を持つことは絶対に許せないことらしい。

ただ、同紙が報道する沖縄の先生像は全てが赤鉢巻で、「米軍基地出て行け!」と絶叫する姿しか想像できないのだが・・・。

ところが実際は、米軍に肯定的意見を持ち、生徒を連れて基地訪問し共にバーべキューを楽しんだりして沖縄タイムスに「異論を持つ」教師もいた。

米軍側がその基地訪問の和気あいあいとした様子をHPに掲載してしまった。

その先生にとっては不幸なことに、それが異論を許さぬ沖縄タイムスの目に止まってしまったから、さー大変。

さて、事の顛末は・・・。

以下引用の記事は在日米国海兵隊ホームページの「ニュース(8月13日) 」よりの引用である。

                    ◇

金武町の教育者らが勤務中の海兵隊員を見学

金武町の教育者らが勤務中の海兵隊員を見学【キャンプ・ハンセン】 金武町嘉芸小学校の約20名の教師と家族らが7月27日、キャンプ・ハンセンの第3海兵遠征軍、第3海兵兵站群、第35戦闘兵站連隊、第3医療大隊を訪問した。

嘉芸小学校のスタッフが基地を訪れ、第3医療大隊の海兵隊員や海軍兵の仕事振りを見学するのはこれが初めてだとキャンプ・ハンセンの棚原香基地渉外官は話す。

毎月、同大隊のボランティアが嘉芸幼稚園を訪れ、子供たちへの英語指導の手伝いや読み聞かせ、ゲームなどをして遊ぶ。

「私たちの部隊は嘉芸幼稚園との長く、友好的な関係があり、私たちは国際友好と日米間の理解を深めるのに貢献している」と第3医療大隊従軍牧師のジョン・W・ポッター少尉は言及した。

この訪問は(同基地内)パームズ・クラブでのモンゴリア式バーべキュで始まり、昼食後は同大隊の補給倉庫を訪れ、そこには救急車仕様で一般的にハンビーとして知られる高機動多目的装輪車や7トンの中型戦術車両補充貨物車両などいくつかの車両や派遣状況で用いられる野外テントの設置の展示があった。

嘉芸小学校で算数を教える平野里奈先生にとって、戦術車両に乗り込んで中に座ったことがその日一日で一番楽しかったことだった。

展示ツアーの終了後、同グループはキャンプ・ハンセン医療クリニックに立ち寄り、同クリニックの任務や海兵隊員と海軍兵がどのように仲間の世話をしているのかを学んだ。

その日最後に公式に立ち寄ったのは同大隊の指揮所で、そこでは第3医療大隊指揮官のパトリック・W・ポール少佐が、嘉芸小学校の平良瑞枝校長にこれまで行ってきた地域渉外活動で同学校から手厚いもてなしを受けた事に対する感謝状を手渡した。

また平良校長はこの訪問を主催してくれたポール少佐に感謝を述べ、同学校では今後も協力していくことを期待していると話した。

「今日、ここに来るまで私の海兵隊員や海軍兵に対するイメージは否定的でしたが、今日皆さんが行っている事を垣間見たことで私見が変わった」と平野校長は語った。(在日米国海兵隊ホームページより)

                    ◇

続いて引用の8月17日付沖縄タイムス記事を読んで頂きたい。

沖縄タイムス 2009年8月17日

嘉芸小教員家族

ハンセン内視察

校長「米軍HPに誤認」

【金武】金武町立嘉芸小学校(平良瑞枝校長)の教員とその家族20人が7月、地域研修を目的に米軍キャンプ・ハンセン内を見学していたことが、17日までに分かった。 在沖米海兵隊が、同教員らが見学時に米軍に肯定的な言動をしたとする記述をホームページ(HP)に掲載したことに対して、学校側は「事実に反しており心外だ」と海兵隊に削除を求める方針だ。 平良校長らは7月27日に見学した。 町教育委員会にも事前に報告したという。 海兵隊のHPでは、平良校長が「私の海兵隊員や海軍兵に対するイメージは否定的だったが、今日皆さんが行っていることを垣間見たことで私見が変わった」と発言したと紹介。 また20代の学習指導員が、戦術車両に乗り込んだことを楽しんだと表記している。 学校側はいずれも記事内容を否定している。 流弾事件に抗議して開かれた伊芸区民総決起大会にも参加した平良校長は「平和教育を行うためにも教員が基地内を知ることは重要だ」と説明し、視察の必要性は否定しなかった。

                   ◇

平良校長は事前に町教育委員会にも報告の上、海兵隊基地を訪問している。

それに突然の思いつきで訪問したわけではなく、海兵隊員による、同校への英語教育の手伝いなど、これまでの交流の返礼の意味の訪問であることがHPから読み取れる。

タイムス記者の脅迫まがいの追及を受け、思わぬ展開に慌てて前言を翻す平良校長の動揺が伺える記事である。

タイムス記者の考えでは、沖縄の教師はすべからく米軍基地には否定的意見を持つべきであり、異論は一切許されないのだろう。

平良校長は無理やり米軍に対する「肯定的意見」を変更させられたようだが、

そもそも当初から否定的意見の教師なら、子供を連れて基地訪問をするはずもなく、ましてやモンゴリヤ式バーベキューなどをご馳走になるはずもない。

那覇市役所職員の高里洋介さんが事前に届けを出した上で、小林よしのり講演会を開催したことで、上司に叱責されたことが「全体主義」だと書いたが、今回も同じような話だ。

HPを読んだ沖縄タイムスが、町教育委員会にねじ込んで、平良校長も教育委員会あたりから叱責を受け、前言を翻さざるを得なかったのだろう。

沖縄タイムスにとって、沖縄の教師は基地を取り巻いて「出て行けコール」で拳を突き上げる姿であるべきであり、それ以外の異論は絶対に許されないのである。

沖縄では言論封殺の作家先生が「沖縄言封魔」としてご活躍だが、沖縄タイムスも校長先生の「米軍へ肯定的」な意見を封殺したようである。

平良校長が「流弾事件に抗議して開かれた伊芸区民総決起大会にも参加した」という理由で、当然米軍には否定的意見を持つべきと言わんばかりの記事だが、「米軍流弾被弾事件」はそれが事実なら、米軍基地への賛否に関わらず、沖縄県民なら抗議すべき事件である。

平良校長が抗議大会に参加することは伊芸区界隈に住む人なら参加して当然であり、それが今回の友好的な米軍訪問と何ら齟齬はないはずだ。

そもそも「流弾事件」自体が、米軍の調査によれば、でっち上げの疑いがあり、県警も米軍発表には沈黙したままではないか。

又沖縄二紙も米軍にでっち上げだといわれて沈黙しているのは米軍の調査が正しかった証左ではないのか。

あくまで推測だが、平良校長はその辺の事情を敏感に察知して、濡れ衣を着せられた米軍への慰問の意味も含んだ訪問ではなかったのか。

それにしても「流弾事件」は、米軍にでっち上げといわれて沖縄二紙が沈黙を守るのが何時まで続くのか。

誤報だったら誤報だと読者に知らせるのが新聞としての最小限の義務ではないのか。

 

【おまけ】在米米軍海兵隊HPよりの引用。

 沖縄にある在日海兵隊基地

海兵隊員が子供たちとの絆を深める私たちは地域の一員として地元へ貢献したいと願っています。沖縄県内の学校でボランティアの英語講師をはじめ、海辺の清掃活動など年間さまざまな地域活動に参加し、また基地内のイベントに地元の方を招いています。

米軍基地周辺の住民の方々と積極的に接し、地元の一員としてとけ込めるよう努めており、また地元の方を基地内に招待して私たちの地域の一員となってもらいたいと思っています。

私たちには、地域に貢献するという伝統があります。民間の軍関連機関が年間を通して地元の慈善事業に多額の寄付をしています。1999年だけでも海兵隊婦人クラブを例にあげると、1千万円以上を地元の慈善事業に寄付しました。

地域の一員としての私たちの公約を例にあげますと、1998年12月に採用された「リバティ キャンペーン プラン」がありますが、 海兵隊員および海軍兵に対して公務外の適切な行動を明確に記した指針です。海兵隊員および海軍兵は常時公務中と考えられ、常に良いお手本であるよう努めています。

海兵隊員がゲームと笑顔で小学生に英語を教えるリバティ キャンペーン プランには多くの事項が記載されていますが、すべての事項において共通することは制服着用の有無に関わらず、行動を改善し、すばらしい大使になる手助けをしてくれるということです。

このプランが強調するのは、教育と自覚です。新しい政策は、ゲートでの飲酒検問所設置、車の運転特権制限や下士官の海兵隊員および海軍兵に対するアルコール購入制限があります。

海兵隊員はただ単に沖縄に駐留しているのではなく、地域の一員としてここで生活しています。沖縄で生活し、仕事をしてそして家族を養っているのです。沖縄は私たちにとって、第2の故郷なのです。

【おまけ2】

金武町伊芸区の「米軍流弾事件」については、何者かが偽装したと米軍は暗示している。

その偽装流弾事件を沖縄二紙が扇動して大事件にでっち上げた疑いが濃厚である。

騒ぎを大きくした張本人の二紙が沈黙を通して読者の忘却を待つのは、『うらそえ文藝』の告発に対する二紙の沈黙と同じである。

当日記はしつこくこの問題を追っていきたい。

ウソつきは県警か米軍か!真相解明、県や在沖米総領事に要請

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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コメント (6)

3・オカッパの少年の正体 沖縄タイムスがスルーした理由は?

2009-08-18 07:09:42 | オカッパの少年

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■却下された「援護法」適用■

大城少年が捕虜収容所の診療所で傷の手当てを受けた後、軍病院に一週間ほど入院させられ右肩の脱臼や眼の治療などを受け養父母との再会も果たすことになるが、その後大城氏が視力を失い歩行困難になる経緯が『沖縄戦を生きた子どもたち』(大田昌秀著 (株)クリエイティブ21 2007年)では、次のように記されている。

<こうして、約一か月後には眼帯も外せるほど回復したのですが、視力は二度と戻りませんでした。養父が二世の通訳兵を通して米軍の医者に訊いたところ、もはや眼は完治できないとの返事だったようです。しばらくして後頭部の傷もいくらか良くなったけれども、不自由になった右足の傷は完治せずに足を引きずって歩く始末でした。>

この記述が正しいとするならば、大城氏が右目の視力を失い、歩行障害を自覚したのは、戦後になってからではなく日本兵の暴行を受けたほぼ一か月直後のことになる。

さて、戦後の大城氏の居住地はめまぐるしく変わる。 

1951年、大城氏は大阪にいた実父に呼び寄せられ大阪での生活を始めるのだが、1970年に、米軍の爆撃で戦死と聞かされていた実母が、実はスパイ容疑で日本軍に斬殺されていたと聞かされる。

沖縄が返還された3年後の1975年、大城氏は沖縄に戻り与那原町でクリーニング業を始める。更に1991年、大城氏は沖縄の家を引き払って大阪の大正区に移転する。 ところが1995年の阪神大震災で自宅が全壊する災難に遭い、以後兵庫県伊丹市に転居する。


その間、沖縄に戻った二年後の1977年、沖縄戦の負傷者に「援護法」により障害年金が適用されることを知る。  だが大城氏は「援護法」の存在を知って直ちにその適用を申請したわけではない。 大城氏はそれから14年も経った1991年になって初めて自分が受けた障害の「援護法」適用を申請するが、その時は「右眼の失明が沖縄戦で被った障害であることを誰か証明する人がいなければ受け付けることは出来ない」と門前払いを受けている。大城氏が沖縄戦の講演会を始めたのは「援護法」適用を却下されたことが動機だというが、これが事実だとしたらこの頃から講演を始めたことになる。

<それ(却下)以後、大城さんは年金受給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。(『沖縄戦を生きた子どもたち』)>「

申請を却下された直後の1991年から講演を始めたとしても、2007年の琉球新報の取材を受けた時点では講演は16年間続けたことになり、新報記事の「(講演は)23年で1120回を数える」という記述と矛盾が生じる。 さらに『沖縄戦を生きた子どもたち』の別の記述によると、1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とあり、講演は新報取材の時まで20年間続けたことになる。 大城氏の証言はこのように取材メディアによってまちまちで、同じ本の記述でも齟齬が多い。

<こうして、「沖縄の語り部」として大城さんの新しい人生が始まることになります。それ以後、大城さんは年金支給の対象資格を勝ち取る運動と同時並行して、沖縄戦について語り始めるようになりました。>(『沖縄戦を生きた子どもたち』)

■39年ぶりの自分の写真に遭遇■

1984年、大城氏は腎臓病で那覇の病院に入院中に、偶然に『これが沖縄だ』の表紙に掲載されているオカッパ頭の自分の写真に遭遇する。 『沖縄戦を生きた子どもたち』の記述によると、その4年後の1988年に「まず最初に小中学校の生徒たちに語り始めた」とある。従って大城氏の講演活動は沖縄でスタートしたことになる。

 

沖縄出身の筆者がこの「少女」が実はオカッパ頭の少年であったという事実を初めて知った2007年8月当時の沖縄は、「9・29教科書検定意見撤回を求める県民大会」(「11万人」集会)を目前にし、地元紙が沖縄戦の証言者を連日のように紹介し、「悪逆非道の日本兵」を喧伝するキャンペーンが真っ盛りの時期であった。

沖縄中が反日本軍キャンペーンに熱気を帯びている最中に、大城氏は地元紙の取材を受けるため伊丹市からわざわざ沖縄を訪れ驚愕すべき証言をしたのだ。にもかかわらず、「悪逆非道の日本兵」を印象操作に必死の沖縄地元紙が、その時大城氏に一回の講演もさせずに伊丹市に戻しているのはいかにも不自然だった。

60数年前に米軍によって撮影された有名な「少女」の写真が撮られた経緯を、そのときの琉球新報は次のように報道している。


<教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。……表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。……

 5月下旬、日本兵が入り込んできて「食料をよこせ」と銃を向けた。彼らは黒砂糖が入った大城さんのリュックサックを取り上げようとした。大城さんが「取らないで」とお願いすると、「生意気なやつだ」と壕の外に引きずりだし、激しく暴行。硬い革靴でけり飛ばされた大城さんは気を失った。殴られた右目は失明した。>


大城氏は1983年、喉頭がんで声帯を失ったが、人工声帯で沖縄戦の実相を全国各地で語り続け、講演は「23年で1120回を数える」と記事は結んでいる。

■疑惑の「少女」■

記事を見て「少女」の正体がオカッパをした少年であったことに驚いたが、驚愕と同時に幾つかの疑念が暗雲のように胸中に湧くのを抑えられず、素朴な疑問をブログに書いた。

その時の疑問を整理すると次のようになる。

①日本軍の残虐性を象徴するような、「少女」に暴行を加え失明までさせるという沖縄紙にとってオイシイ事件を、地元紙は何ゆえこれまで報じてこなかったのか。

②琉球新報は、このような悲劇の主人公とインタビューをしておきながら、何故大城氏に一回も沖縄で講演をさせず返しているのか。 

大城氏が講演経験のない人ならともかく、彼は沖縄以外の本土各県ではそれまで23年間に1120回の講演会をこなしており、鹿児島と北海道以外はすべての地域で講演したという。単純計算をしても1週間に1、2回の割で講演会を続けたことになり、大城氏はまさに、講演のプロである。日本軍の残虐性を訴えるのに「うつろな目の少女」の主人公の講演会ほど好適な企画はなかったはずだ。

ちなみに2007年8月25日付琉球新報の記事では「(取材時まで)23年間講演をしてきた」となっているが、大田昌秀著『沖縄戦を生きた子どもたち』によると大城氏が講演を開始したのは1988年からであり、新報の取材時には20年間講演を続けてきたことになる。

大城氏は他にも多くのメディアの取材を受けているが、「オカッパ頭にした理由」など重要な部分の多くの証言に矛盾が見られる。

③このドラマチックな記事が、何故この種の報道では常に先頭をきって大騒ぎする沖縄タイムスにはスルーされ、琉球新報の特ダネのように報じられたのか。(沖縄タイムスは新報より4日も遅れた8月29日になって初めて報道している。)

■沖縄タイムスが「特ダネ」をスルーした理由は?■

更に不可解なのは、沖縄タイムスは琉球新報のスクープ記事の二年前にも大城盛俊氏にインタビューしていながらその時はスクープ記事を書いていないことだ。

2005年のその記事には日本兵の暴行を避ける為オカッパの少女の姿をした大城少年のいたいけない女装については一行も触れていない。

記事はもっぱら残虐非道な日本兵の暴行により、右目失明や肩の脱臼の被害を受けたと言う記事と、それが援護法の対象にならなかった憤懣を記しているが、二年後に琉球新報のスクープとなる「オカッパの少年」については一言も触れていない。

長くなるが、二回にわたる2005年のタイムス記事を全文引用しておく。

◆沖縄タイムス<2005年3月13日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](11)
適用拡大
日本兵が暴行 右目失明
43年目に障害年金申請

 

 大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、沖縄戦の最中、日本兵による暴行で右目を失明した。母親もまた日本兵にスパイ容疑をかけられ、惨殺されている。

 戦争当時、十二歳。玉城国民学校に通う元気な少年の人生が、そのけがで一変した。

 右目が見えないため、米軍基地のハウスボーイや、土建業のお茶くみ、穴掘りといった単純な仕事しか就くことができなかった。

 敗戦六年目の一九五一年、大阪へ働きに出た。「いつか、日本兵を見つけて、敵討ちしたい」という憎しみを抱いて旅立った。

 大城さんが去った沖縄では、五三年に援護法適用、五九年には一般住民も「戦闘参加者」として、適用拡大。遺族年金や障害年金が支払われていった。

 四五年三月。十二歳の大城さんは、玉城村に養父母と住んでいた。三月二十三日に港川沖の水平線をびっしりと米艦隊が埋めた。翌日から激しい艦砲射撃が始まり、一家は同村親慶原にあるワチバル壕へ避難した。

 昼は攻撃を避け壕で過ごし、攻撃がやんだ夜に壕を出て、畑を耕した。

 そんな状態が二カ月続いた五月下旬。首里から撤退してきた石部隊の日本兵が、壕に来て「民間人はここを立ち退くように」と命令した。大城さんらは、家財道具や食糧を抱えて、玉城城跡にある壕に移らざるを得なかった。移った先で惨劇が起きた。

 六月上旬、球部隊の日本兵六人が壕にやってきて、食べ物があるか聞いた。大城さんが「ない」と否定しても持っていたリュックサックを奪い取ろうとした。

 リュックの中には、家族のための食糧が入っていた。日本兵は、「これは渡せない」と再び拒んだ大城さんの襟首をつかみ、近くの畑に引きずっていって、投げ飛ばした。意識がもうろうとする中を無理やり立たされ、顔を殴られた。倒れこむと今度は軍靴でけり飛ばされた。

 「こんな子どもに何をするのか」。追いかけて抗議した父親にも、兵隊は暴力を振るおうとした。だが、リュックをあさっていた兵隊が食糧を見つけると、暴行を加えた兵隊は用が済んだとばかりに、立ち去って行った。

 大城さんの右目は充血し腫れあがり、右肩は脱臼。体中に傷や打撲傷を負う瀕死の重傷だった。

 その後、捕虜になり、米軍の診療所で手当てを受け、傷は癒えた。しかし、その時、既に右目の視力回復は難しいといわれた。戦後に治療を受けたが回復しなかった。

 五一年、大阪に渡り、工場勤めをした。「日本兵に殴られんかったら、目も見えて、仕事もできた」。心の中では怒りを持ち続けた。沖縄を差別する同僚を懲らしめようとしたこともあった。

 七五年に転職で沖縄に帰郷。援護法の障害年金が一般住民にも支給されることを知った。

 大城さんが援護法適用を申請したのは八八年。戦後四十三年もたっていた。

                   ◇

<2005年3月17日 朝刊26面>

[戦闘参加者とは誰か](12)
審判
日本兵暴行は「規定外」
裁判できず泣き寝入り

 

 一九七五年、大城盛俊さん(72)=兵庫県=は、新しい仕事を得て二十四年ぶりに、沖縄へ帰郷した。その時初めて、沖縄戦で「戦闘参加者」と認定されれば、一般住民にも遺族年金や障害年金が支給されることを知った。

 県が実施した援護法の巡回相談を訪れた時のこと。大城さんは担当職員に、日本兵に暴行を受け失明した状況を説明した。

 「あなたを殴った兵隊はいるのか」。担当職員は、事務的に質問をした。

 いや応なしに沖縄戦に巻き込まれて、味方の日本兵に暴行された。十二歳だった大城さんが何一つ自分で選んだことではない。なのに、それを証明するのは自己の責任でと言われる。

 あまりに理不尽な問いに、大城さんは激怒した。「戦闘中だから、その日本兵が誰かは分からない。じゃあ、艦砲射撃でけがをした人は、撃った米兵を特定しないといけないのか」

 相談に訪れていた戦争体験者のお年寄りたちも「やんどー、やんどー(そうだ、そうだ)」と加勢してくれた。

 沖縄で援護法が適用されてから、すでに三十年たっていた。「できるだけ多くの人を救う」。初期の援護担当職員によって、そうやって運用されてきた援護法は、時の流れとともに、住民の戦争体験を審判するものに変わっていた。

 それでも、大城さんは、友人らの助けを借りながら当時の証言を集め、八八年に、申立書を申請した。

 しかし、厚生省は九二年、日本兵の暴行による障害は「援護法の規定外」として、申請を却下した。

 沖縄の一般住民が、援護法の「戦闘参加者」として認定されるためには、「日本軍への協力」が前提だ。住民が、戦争で受けた被害を補償するものではなかった。

 大城さんは、支援者らとともに、三万人余の署名を集め、厚生省に援護法適用を認めるよう要請した。却下に対して不服申し立てをしたが、九四年に再び却下された。

 後は裁判しか道は残されていなかった。「何年かかるかと弁護士に聞いたら、十年から十五年という。年も取るし、費用もかかる。結局やめてしまった」。大城さんは悔しそうに振り返った。

 九一年に娘らが育った本土へ移り、現在は伊丹市に住む。「沖縄のことをみんなが考えてくれたらありがたい」。そう思い、ボランティアで沖縄戦の語り部として、講演活動で訴える。「沖縄の戦後は終わっていない。私のように、泣き寝入りをさせられている人はたくさんいるはずだ。日本の国は、沖縄への戦後補償をしていない」

 「軍への協力」が前提となる援護法では、一般住民が沖縄戦で受けた被害は救えない。

 「住民を守る軍隊が、沖縄では、沖縄人に銃を向けた。沖縄の人一人ひとりが、沖縄戦が何だったのかもっと考えてほしい」

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コメント (9)

沖縄戦、県民疎開に尽力した知事 週刊新潮記事

2009-08-18 01:56:20 | ★集団自決

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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星雅彦氏、週刊新潮第二弾!沖縄版・言論封殺魔登場」で、

「週刊新潮」8月6日号の「櫻井よしこ日本ルネッサンス 第373回」の冒頭部分を紹介したが、その全文を櫻井ブログで公開したので、以下に転載します。

記事に出てくる昭和19年11月3日の明治節に那覇で行われたとされる県民大会を報じる「沖縄新報」(当時の唯一の県内紙)は現在発見されていない。

約一ヶ月前の「10月10日那覇大空襲」のため焼失したとも考えられるが、10月10日以前の新聞が消失するのはともかく、11月13日までの同紙が見つからないのは不思議である。

沖縄県立図書館にも11月14日以降の「沖縄新報」のコピーしか保存されておらず、問題の11月3日前後の新聞が紛失している理由は不明である。

戦火に遭わなかった離島の旧家の古い倉庫あたりからひょっこり出てくるのを期待したいのだが。

                  ◇

「 沖縄戦、県民疎開に尽力した知事 」

『週刊新潮』 2009年8月6日号
日本ルネッサンス 第373回

 

沖縄の星雅彦氏が興奮気味に電話をかけてきた。

「昭和19年11月3日、那覇市で県民決起大会が開かれ『県民一丸となって戦おう、元気な者は皆戦おう。老人と婦女子は日本古来の伝統にのっとり、後顧の憂いなからしめるために集団自決しよう』と決議したと報道されています。この決議があったのなら、集団自決は軍命と関わりないことが明らかになります。この報道の根拠は何でしょうか」

星氏は文芸雑誌『うらそえ文藝』の編集長で、去る6月9日、日本軍の集団自決命令はなかった、だが沖縄のメディアはそのことを報じないと記者会見で語った人物だ。

沖縄戦で米軍の艦砲射撃が始まった後の昭和20年3月25日から28日にかけて、住民多数が自決、それは軍命だったとされてきた。しかし、それより4ヵ月以上前に県民大会で前述の決議をしていたとしたら、軍命説は覆されると星氏は言うのだ。

同決議を報じたのは05年9月号の『正論』だった。発言の主は梅澤裕氏。氏は集団自決を命じた本人とされ、同じく軍命を下したとされる故赤松嘉次氏とともに、大江健三郎氏から「罪の巨塊」「者」「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき」と非難された(『沖縄ノート』岩波新書)。

梅澤氏は集団自決など命じていないとして、大江氏らを訴えている。

私は、星氏に問われてすぐに梅澤氏に電話し、氏が4年前に語った県民決議について尋ねた。いま92歳の氏は電話口で実に詳細に語った。

「慰霊祭で2度目に沖縄に行ったとき、座間味にいた郵便局長の石川重徳さんから聞きました。昭和19年の明治節(明治天皇誕生日、11月3日)に、沖縄本島で決起大会が開かれた。集まったのは県長(知事)を筆頭に県庁の主要人物、市町村の長や助役、警察、消防の主だった人たちで、軍は参加していないそうです。そこでは、間もなく米軍が来る、働ける者は第32軍(沖縄軍)に協力しよう、しかし我々は日本人だ、老幼婦女子は自決して後顧の憂いなきようにしよう、となったそうです」

消えた『沖縄新報』

梅澤氏はさらに語る。

「決起大会では、サイパンの惨状を考えると、米軍が来れば沖縄はどんなことになるか分からない。だから身の振り方を決めておこうとなった。そのとき、当間という高齢の、日露戦争に行った人が壇上に飛び上がり、『ヤマトンチューはこういうときは死んだ、我々沖縄人もそうして死のう』と言った。出席者らは皆、同調して、決議になったそうです」

予告なしの問い合わせにもかかわらず、梅澤氏は4年前の発言について人物、日付、場所など、極めて具体的に語る。実体験でなければこうした詳細は出てこないだろう。

県民決起大会の件は当時発行されていた『沖縄新報』が報道したという。梅澤氏らは随分、その新聞を探したが未だ見つかっていない。

県民決起大会に参加した知事の泉守紀(しゅき)は、同年12月、沖縄が間もなく戦場になることを恐れて帰京し、そのまま戻らなかった。後任となったのが島田叡(ルビ=あきら)だった。

島田については、『明日への選択』(2009年3~5月号)で日本政策研究センター主任研究員の岡田幹彦氏が「沖縄の島守・島田叡」として詳報した。以下、岡田氏の記述を基に島田の足跡を辿ってみる。

島田が沖縄で過ごしたのは昭和20年1月31日の赴任から同年7月の自決まで、わずか5ヵ月余である。島田は沖縄県知事の後任の打診を即答で引き受けた。着任直後、同情的に問われ、次のように答えたという。

「私だって死ぬのは怖いですよ。しかしそれよりも卑怯者といわれるのはもっと怖い。私が来なければだれか来ないといけなかった。人間には運というものがあってね」

島田の赴任は沖縄軍司令官牛島満中将の懇請でもあったという。肝胆相照らした牛島と島田はやがて戦場となる沖縄から出来るだけ多くの県民を疎開させ、同時に県民の食糧確保を重要課題とした。島田は島民、とりわけ老幼婦女子の疎開に力を注いだ。結果、県民59万中22万余、本土に5万3,000、台湾に2万、戦場とならない県北部に15万の県民の疎開を実現した。

当時、県知事は大変な存在だった。特に官尊民卑の風潮が強かった沖縄では勅任官の知事は「天皇陛下も同然」だったと岡田氏は書く。そのような立場の島田だったが、気軽に地域の民家に足を運んだ。行く先々には、土地や家畜を気にして疎開を渋る人々がいた。島田は彼らを「それでも危ないから疎開した方が良いよ」と説得したというのだ。

島に留まった知事

米軍の圧倒的力に追い詰められ、船も燃料もすべて不足の状況下で、人々を説得し、わずか5ヵ月間で22万余を疎開させたのは驚きである。

米軍が上陸し戦闘が始まると、島田は壕で県政を行った。だが、壕内にとどまらず、砲火の下、各地に出かけて人々を指導した。空間を広げるため壕を掘る作業にも積極的に加わった。食事は皆と同じものだけを口にした。下着は必ず自分で洗った。村人が川や田で捕えた鰻や鮒、野菜などを届けると、少しだけ口にして、あとは「怪我人に」といって渡した。

6月19日、『毎日新聞』の支局長野村は沖縄脱出に当たり、島田に別れの挨拶に来て、言った。県民にはもう十分尽した、文官のあなたは本土に引き揚げてもよいではないか、と。すると島田は答えたという。

「君、一県の長官として僕が生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ」

そして、自分ほど県民の力になれなかった知事は、後にも先にもいないと、嘆じたという。

玉砕を免れないであろう沖縄の知事職を、島田は誰かが引き受けなければならない責任だとして引き受けた。そして全力を尽した。しかし尚このように語るのは、県民全員を救いたいと心底願っていたからだ。

6月23日、牛島司令官が自決。沖縄は陥ち、県民を守りきれなかった責任をとって、7月、島田も自決した。敗れはしたが、最後まで沖縄と県民を守るべく文字どおり死力を尽した牛島、島田、そしてあの苦難の時に沖縄にとどまり、沖縄の人々と心を一にしたヤマトンチューを、沖縄の人々は忘れてはいない。

昭和26年6月23日、島田をはじめ戦没県職員468柱を合祀する「島守の塔」が全県民の浄財で建立された。除幕式と慰霊祭には島田美喜子夫人が招かれた。

岡田氏の綴ったこの「沖縄の島守・島田叡」は涙なしには読めない。牛島、島田両氏が軍と行政の長として指揮した沖縄で、梅澤氏ら軍人が住民に集団自決を命じたなど、あり得ないのだ。


 

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2・オカッパの少年の正体

2009-08-17 06:09:01 | オカッパの少年
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■地元では知られていない「女装の少年」■

 朝日新聞のこの記事を読みながら、一年前に同じ「少女」を報じた琉球新報を思いだした。大城氏は、2007825日付琉球新報記事の取材に応じるため帰郷しているが、その時も取材のみで沖縄での講演は一度もせずに神戸に戻っている。

朝日新聞の二枚の写真付記事を見、さらに一年前の琉球新報記事を見なおして、滓のように胸中に残っていた疑惑が再び活性化してきた。                     

 

沖縄戦で米軍が撮影した膨大なフィルムが公開されてきたが、その中でも見る人の胸を打つ有名な二枚の写真がある。二枚の写真はそれぞれ大田昌秀著『写真記録「これが沖縄戦だ」改訂版』(琉球新報刊)の中に収録されているが、その一枚が「白旗の少女」として知られる一枚で、他の一枚が今回朝日が紹介した「うつろ目の少女」の写真である。

「うつろな目の少女」は同書の表紙に使用されているだけでなく、冒頭第1頁でも「傷つき血みどろになった少女」とキャプション付きで掲載。一冊の本で二度も大きく紹介されているので、同書を手にした者の目に必ず飛び込んでくる構成になっている。同書は40万部を売る大ベストセラーになったせいか、この「少女」の写真は沖縄では良く知られた写真である。だが、この少女が実は男の子であったということを、地元沖縄でも、知る人は少ない。

実際、筆者の知人友人ら二十数人に尋ねてみたが、「少女」の写真は見たことはあっても「少女」の正体が少年であると知る者は一人もいなかった。 

 

試しに沖縄戦の資料展示で「反軍姿勢」で知られる二つの歴史資料館を調べてみた。

激戦地のあった本島南部にある「具志頭村立歴史民俗資料館」の沖縄戦の資料展示コーナーは、ご多分にもれず日本軍の残忍さとアメリカ人の人間性溢れる行為を強調した展示構成になっている。 

同コーナーの「村内の仮収容所(米軍指定)に集められた人たち」と題した写真展示の中に「うつろな目の少女」の写真が展示されている。 だが説明文は「傷の手当てを待つ少女」の記述だけで、「少女」の数奇な体験については一言も触れていない。「反日本軍」を訴えるには絶好のテーマのはずの「少女」の正体も記されていなければ、「日本軍の暴行を避ける為のオカッパ頭の少年」とも記されていないのだ。   

たまたま隣で見ていた地元出身の青年に「この少女は実は少年だよ」と話したが、信じてもらえなかった。 

「もしそうなら、何故事実を掲示してないのか」と反論され、返答に窮した。

「具志頭村立歴史民俗資料館」からそう遠くない場所にある「沖縄県立平和祈念資料館」といえば徹底した反日思想の展示で有名だ。赤ん坊を抱く母親に銃剣を向ける人形まで展示して反軍思想を煽っているが、不思議なことに、ここには「うつろな目の少女」の写真展示はない。 

見落としたかと思い、念のため受付の係員に尋ねたが、そもそも「うつろな目の少女」を知らなかった。学芸員と称する専門家に聞いても、最初は「うつろな目の少女」が理解できず、大田元知事の著書の表紙に使われている写真だと説明してやっと理解してくれたが、「少女」の正体が少年だったと話してもよく飲み込めない様子だった。

このように沖縄戦の資料を専門的に展示してある沖縄の代表的資料館でも「うつろな目の少女」の正体は少年だったという話は認識されていない。筆者の友人、知人達が「少女」の写真は知ってはいるが、その正体をごく最近まで知らなくても無理はない。 

続く

  

【おまけ】

沖縄出身者の筆者が、初めて「うつろな目の少女」の正体はオカッパの少年であったという報道を見たのは、戦後62年も経って琉球新報がスクープした次の記事によってである。

教科書の嘘許さず 大城さん、憤りで声震わせる

2007年8月25日琉球新報

 <「うつろな目の少女」と題し、大田昌秀著「これが沖縄戦だ」(1977年出版)の表紙写真で紹介された兵庫県伊丹市の大城盛俊さん(75)=旧玉城村出身=が来県、高校歴史教科書検定で沖縄戦の「集団自決」に関する記述から日本軍の強制が修正・削除された問題で、「沖縄県民はもっと怒って立ち上がらなければ」と訴えている。・・・・ 表紙の“少女”の正体が大城さん。当時12歳で、育ての父に「男の子は兵隊にやられるから女の子になりすましなさい」と言われ髪を伸ばした。>

 

【お願い】

「うつろな目の少女」に情報をお持ちの方、ご一報頂ければ幸いです。管理人

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オカッパの少年の謎 疑念の出発

2009-08-16 07:00:25 | オカッパの少年

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「白旗の少女」については過去に何度かエントリーし、現在でも一日に100件前後の閲覧者がいるが、昨日は200件を越えた。

古い過去エントリーで閲覧者が200件を越すのは当日記のようなささやかなブログでは珍しいこと。 昨日のコメント欄で読者のヒロシさんが知人の小学生が「白旗の少女」の記事を読んでくれたと知らせていただきブロガー冥利につきると書いた。

戦争で戦火に翻弄される子供たちの姿は、米国側の記録写真で数多く紹介されているが、見るたびに心を痛めるものがある。 中でもこの「白旗の少女」と「うつろな目の少女」の写真が有名だが、「うつろな目の少女」が実は「オカッパの少年」だったという事実を知る者は沖縄県民でさえ少ない。

当日記でも過去に数回エントリーしたが、一部の読者には反響があったが「白旗の少女」に比べて、過去記事閲覧も少ない。

「うつろな目の少女」の体験は「残虐非道の日本軍」という沖縄紙の見出しそのままを具現したようなものである。

日本兵に食料を強奪され、壕を追い出され、その際打つ蹴るの暴行を受け右目を失明、歩行に障害の後遺症を持つ。 それだけではなく実母はスパイ容疑で日本兵に虐殺され、戦後は右目の失明と歩行障害により仕事にも困難を伴ったという。

「少女」の受けた災難はそれだけでは止まらず、戦後「援護法」の受給申請をしたがそれも非情に却下された。

沖縄二紙が糾弾する「悪逆非道の日本兵」の被害者として、これほど絶好のネタはないはずなのに、これを報ずる沖縄紙は極めて少ない。 初めてこれをスクープした一昨年の琉球新報と、数日遅れでフォロー記事をだした沖縄タイムスの二回しか筆者は知らない。(昨年最後の講演会を石垣で行ったとき、八重山」毎日がこれを報じた。)

「少女」の体験が余りにも数奇なため、読者の理解を得るのが困難だと思うので、再度「少女」について検証し再度エントリーしてみたい。

昨年の慰霊の日(6月23日)の朝日新聞夕刊のトップに「少女」についての大きき記事が掲載され、それを中央日報がフォローしたので、読者の理解の一助として先ずそれを紹介する。

険を避けて少女になった大城さん、最後の講演/沖縄 

 

 太平洋戦争当時、日本軍が沖縄で行ってきたことを日本人に伝えてきた大城盛俊さん(75)が21日、沖縄県石垣島で最後の講演をしたと朝日新聞が伝えた。63年目を迎えた沖縄被害者「慰霊の日」の2日前だった。彼が25年間、全国を回りながら行った講演は約1230回。毎週1回のペースだった。しかし妻の病気の看護をしているうち、自分の足首の関節も弱くなって公式講演は今回で終えることにした。彼はこの日「初めて講演するときは『沖縄ってアメリカにあるんですか』と質問する子供もいた」と回顧した。それほど過去の沖縄の悲しい歴史を知らない日本人が多かったという意味だった。

  彼が沖縄戦争の証言するようになったきっかけは、1984年に現われた1枚の写真だった。沖縄琉球大学教授だった大田昌秀元沖縄知事が沖縄の悲劇を告発する『これが沖縄戦だ』という本を出し「うつろな目の少女」というタイトルで本表紙に載せた大城さんの幼いころの写真だった。この本が出ると大城さんは「写真の中の人物は僕です」と明らかにし、世間の注目を集めた。彼の証言の人生は少年が少女に化けた事情から始まる。

  日本が太平洋戦争で敗戦の色が濃くなった1945年5月。大城さんは12歳の少年だった。「男の子は日本軍にひっぱり出され、何をされるかわからん」として彼の父親は大城さんを女の子に変装させた。彼の頭をおかっぱ頭にして女の子の服を着せた。その後、洞くつに隠れて過ごす中、日本軍が訪ねてきた。日本軍は大城さんが黒砂糖を入れておいた袋に何が入っているかを尋ねた後「生意気だ。反抗するのか」と大城さんの顔を軍靴で蹴った。翌日、沖縄に上陸した米軍は血だらけになったまま倒れている大城さんを治療し、このとき撮った写真が「うつろな目の少女」という名で本の表紙に使われたのだ。

  この本が出版された後、大城さんは全国を回りながら行った講演の核心は「反戦」だ。彼は「私が本当に訴えたいのは日本軍の残酷さではなく、彼らをそこまで追いやった戦争の狂気」だとし「ベトナム戦争もイラク戦争も同じだ」と強調した。

  太平洋戦争当時、日本軍も初めは沖縄住民に「私たちが皆さんを守ってあげる」と言ったという。それで住民たちは素直に日本軍に寝る場所や食糧を提供して協力した。しかし、米軍上陸が切迫すると日本軍は恐怖に震え、狂気を見せ始めた。道路と陣地構築に住民を動員すると壕に抑留させた。そのせいで米軍の砲弾が落ちても民間人は逃げだせなかった上、日本軍が壕外に出るときには住民を前に立てて盾にしたというのが大城さんの証言だ。

  日本軍に暴行されて失明した彼は母親が死亡した経緯についても話した。「母はほかの洞くつから私(大城)がいた洞くつに戻る途中、日本軍につかまり、米軍スパイと疑われた。日本軍は母を洞くつに閉じこめて手榴弾を投げた」

  彼は喉頭がんの手術を受けたことから人工発声器を使って講演をしてきた。電気装置で声を伝達するので聞き取りにくいのだが、彼の講演にはいつも人があふれた。彼は「沖縄の空は青いが、痛い過去があったという点を覚えていてほしい」とし、最後の講演を終えた。   中央日報 2008年6月26日

 

                    ◆

「オカッパの少女」の謎を追う

うつろな目の少女」は、本当に沖縄戦の語り部・大城氏か

毎年6月23日、沖縄では戦没者を追悼する「慰霊の日」を迎える。その日は沖縄県限定の公休日であるため、国の出先機関や国立大学(琉球大学)以外の役所・学校等は休日になる。その日は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で沖縄県主催の沖縄全戦没者慰霊祭が行われる。

 

■「うつろな目の少女」の衝撃■

2008年のその日623日、朝日新聞夕刊は、沖縄戦の語り部として講演活動をしてきた大城盛俊氏(75)が講演会活動を来年で引退すると一面トップで報じた。その記事には「うつろな目の少女」として有名な「少女」の写真と、講演をする大城氏の現在の写真を並べて掲載してある。

63年前に米兵によって撮影された「少女」の写真の説明を、朝日記事は次のように説明している。

<大城さん沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>

さらに同記事は、大城氏が「23日に沖縄県石垣島では最後となる講演を行い、戦争の残酷さを訴えた」と報じているが、事情を知らない読者は、記事が報じるように過去に1230回を超える講演をこなしてきた大城さんなら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると想像するだろう。 

だが、沖縄出身で長く沖縄に在住する筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、後にも先にも朝日が報じる20086月の一回しか知らない。しかも23年もの長期にわたる講演活動の最後の沖縄講演が、沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だという。 

何ゆえ大城氏は、沖縄での最後の講演を自分の故郷がある沖縄本島で飾らなかったのか。筆者には、知人縁者の多く住むはずの故郷での講演を避けているように感じられた。

「平和教育」のメッカともいえる那覇や本島南部地域こそ大城氏のユニークな講演の最後を飾る場として相応しくはなかったのか。大城氏は一体何を避けているのか。

「うつろな目の少女」に筆者が疑問を持ち始めたのは、この素朴な疑問がすべての出発点であった。

続く

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コメント (5)

再論・全体主義の島 言論封殺魔の跋扈

2009-08-15 07:32:47 | 未分類

 

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小泉元首相に批判はいろいろあっても、唯一評価できるのは、日日をずらす姑息な点はあったとしても、在任中靖国参拝を実行したことだ。

そもそも自国の特定の地域に外国に言われて首相が立ち入ることが出来ないということが異常なのだが、中国の顔色ばかり伺うマスコミにその意味が理解できないらしい。

「宗教はアヘンである」という共産主義の中国にとって、隣国の首相が自国の神社に参拝しようがしまいが本来どうでもよいことであった。 それがマスコミのご注進に応え、一言文句をつけててみたら日本の首相が動揺して、これまで継続していた参拝を急遽取りやめた。

そこで中国は「靖国は外交カードとして有効だ」と考え、以後靖国にイチャモンをそれを付けるようになった。

今ではこれは中学生でも知る事実である。

その外交カードに最初から白旗を揚げ、中国様に跪いて恭順の意を露にしている次期首相候補にも困ったものだ。

民主・鳩山氏の「靖国参拝せず」発言、中国が歓迎

民主党政権が続けば「沖縄自治区」、いや「日本自治区」さえ笑い話ではなくなる。

で、麻生首相はどうするつもりか。

麻生首相、靖国参拝見送りへ=「政争の具にするのは間違い」

首相は「国家のために尊い命をささげた人たちを、政争の具とか、選挙の騒ぎとか、新聞のネタにするのは間違っている」とも語った。首相官邸で記者団の質問に答えた。》

首相発言は、正論であり「その通り、政争の具にするの間違いだ!」と拍手をしたくなるのだが、その後がいけない。

麻生発言が次のように完結していたら支持率も逆転していたと思うのだが。

「国家のために尊い命をささげた人たちを、政争の具とか、選挙の騒ぎとか、新聞のネタにするのは間違っている。 
従って私は粛々と参拝する」と。

                   ◆

最近、言論封殺魔こと佐藤優氏が沖縄に頻繁に来訪し、「沖縄は全体主義の島」という小林よしのり氏に反撃を加えているようだが、沖縄版言論封殺魔まで登場して共同戦線を張って必死で反論を試みている。

ご両人の反論の根拠は「反対意見が新聞に掲載されないのは内容が無いから」という点で共通している。

なるほど新聞社は編集権という伝家の宝刀で反対意見を封殺するものらしい。

沖縄版言論封殺魔が新聞社を代弁して編集権を持ち出し全体主義を正当化しようとしている。⇒反論権と編集権またはゴーマニストの腐臭

それにしてもこのお方が相手を罵るときの汚い言葉のボキャブラリーの豊富さは、なんだ。

さすがは作家センセと妙なことに感心してしまう。 そういえばコメント欄に出入りを認められている数人のお仲間たちも揃って汚い言葉の得意な連中なので類は友を呼ぶのであろうか。

沖縄版言論封殺魔は長すぎるので、以下「沖縄言封魔」と短縮形を用いる。

沖縄言封魔が代理で反論するまでも無く、去年の今頃、沖縄タイムスは「沖縄紙の偏向」について、県内外の識者を使って連載企画を掲載していた。

ところがその識者の顔ぶれを見ただけで「沖縄紙は偏向している」「沖縄は全体主義の島である」と自ら証明したような企画である。

以下は一年前の記事筑紫哲也と沖縄タイムス 沖縄紙偏向していない!を一部編集加筆したものである。

勿論その頃は、沖縄タイムスの連載企画に識者として登場する筑紫哲也氏はまだ元気で健筆を振るっていた。

                  ◇

8月11日から始まった沖縄タイムスの連載特集「沖縄メディアの役割り」が14日で終わった。(四回シリーズ)

第一回は新崎盛暉沖縄大学名誉教授が登場して、「沖縄紙の報道はまだ偏向が足りない」と逆に叱られた。

沖縄タイムスは偏向していない!by沖縄の「識者」

沖縄の「識者」だけかと思ったら、ヤマトの「識者」も登場。

二回目は、西谷修東京外国語大学教授で、

「沖縄メディアが偏向報道するのは当然である。 理由は沖縄は日本で唯一、本土と違う歴史があるから」と、偏向報道は認めながらも、それは当然であると援護射撃。

三回目は、再び沖縄の「識者」の波平恒男琉球大学教授。

小林よしのりの『誇りある日本へ』を批判してお茶を濁しているが、最後は

「重要なのは民主主的な自己決定や人権といった理念であり、重層的で柔軟な共感と連帯の意識が育つことである」

と大上段に構えたごよくわらない高説の次に、

「沖縄の新聞にはローカリズムに寄り添いつつ、グローバルな視野からそうした理念や課題の実現へ寄与することを期待したい」

と、結論付けているが、当たり前すぎてこれもよくわから.ない。

「識者」の顔ぶれから見て、はじめに結論ありきだと思い、斜め読みでスルーしようかと思ったのだが。

最終回14日の、「識者」は沖縄にはゆかりのある筑紫哲也氏が登場とあってはスルーは失礼というもの。

詳しくはタイムス記事を読んでいただくとして、さわりだけでもお付き合いしたい。

沖縄は、筑紫氏のジャーナリストとしての起点であり、それは抽象論ではなく米軍占領下の昭和43年から昭和45年の二年間、朝日新聞沖縄特派員として、沖縄タイムス、特に創業者の豊平良顕氏の薫陶を受けたという。 現在でもそうだが当時の朝日新聞那覇支局は沖縄タイムス社屋に間借りしていたという。

豊平氏といえば『鉄の暴風』の執筆者であり、監修者でもあるので、若き日の筑紫氏が新聞記者として、その薫陶を受けていたとなると、朝日の筑紫記者が沖縄タイムスに影響を与えたというより、その逆であったといえる。

筑紫氏によると沖縄紙の「偏向報道」米軍占領当時からあったという。

筑紫氏は沖縄駐在当時、豊平氏に沖縄紙は「復帰運動の機関紙ではないか」という問いをぶっつけて見た。

これに対し記者としての師匠格の豊平氏は次のような意味の答えをしたという。

「一方には政治、経済、軍事に及ぶ全権力を手中にした異民族の統治者がいる。 その一方には民主制の下なら誰もが保障されるはずの基本的権利一切を奪われている被統治者がいる。この両極端な不均衡のなかで、両者の言い分を平等に取り上げることが果たして客観的、中立、公平をいえるのか」。

なるほど、当時の沖縄でなら理解できなくもない意見だが、筑紫氏は豊平氏の言葉を借りて現在の沖縄紙の「偏向報道」を正当化しようとしている。

だが、現在の沖縄はチベット自治区でもなければ、コソボ自治州でもない。 そして沖縄がまぎれもなく日本国憲法の下の日本の一県であることを忘れている。

それどころか沖縄紙の偏向報道は日本復帰してからその度合いを激しくしており、今では偏向報道というより反日報道といった方がふさわしい。

 

沖縄紙が偏向しているかどうかの結論は、掲載紙と論者のリストを見れば、いちいち取り上げて論評するのも野暮というもので、勿論筑紫氏も例にもれない。

仮に沖縄の置かれた特殊性から、沖縄紙の「偏向報道」を容認したとしても、これらの「識者」たちの論には次の視点が欠落している。

それは「沖縄県民は地元二紙以外に、新聞購読の選択の自由がない」ということである。

ほぼ独占状態の沖縄二紙の「偏向報道」が、どれだけ県民の判断力に悪影響を与えているかに、彼ら「識者」はあえて目をつぶっている。

自分たちと違う意見は、「知らしむべからず」、

沖縄県民なんて、

沖縄二紙のみに「由らしむべし」

その傲慢不遜な態度には、

孔子さまもビックリのことだろう。

                   ◆

本稿の結語として、コメント欄の太平山さんのコメントを引用させていただきました。 

いつも有意義なコメントを頂いていた「太平山」さんそして「きんじょう」さん、最近ご無沙汰ですがお元気でしょうか。

アントニーの詐術 (太平山)
2008-08-16 18:43:39

狼魔人さま

また失礼します。沖縄タイムス・琉球新報が偏向していると言っても、あまりに当たり前過ぎて怒るのも疲れてしまい、反論する気にもならなくなってしまいます。が、それは非常に危険なことですね。

沖縄タイムス・筑紫哲也・琉球新報には何を言っても蛙の面にションベンですから無理もなからぬことですが、例えごまめの歯ぎしり、メダカの歯ぎしりでも言い続けたいとムチ打っています。

彼らの煽動の仕方は山本七平氏の「ある異常体験者の偏見」にあるアントニーの詐術にそっくりですね。それは(1) 編集の詐術、(2) 問いかけの詐術、(3) 一体感の詐術の3つからなります。

たとえば編集の詐術については一人の人間を「事実」だけで構成して、神様にもできれば悪魔にもできるということです。それゆえに編集という仕事をしている人間にとって、常に直面しなければならないのが、「事実に基づくトリック」をどうやって克服するかという問題のはずだと述べているのですね。

私なりの解釈をすれば人間には長所もあれば短所もある。短所だけの事実をもってその人を評価すると短所だらけの人間になってしまうということですね。「人は相反する二つの事実でもって評価しなければならない」と極当たり前に考えるわけです。

タイムスや新報の報道の仕方というのはまさしく一方的な事実しか示していないということです。その事実さえも事実かどうか怪しい。ある目的のための誘導・煽動の意図が見えます。

煽動はまず集団にヒステリーを起こさせることが必要でその方法論がアントニーの詐術であると私は解釈していますが氏は煽動の原則について次のように述べています。

「まず一種の集団ヒステリーを起こさせ、そのヒステリーで人々を盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーがある対象に向かうように誘導するのである。これがいわば基本的な原則である」と。

去年の教科書検定における県民決議大会はまさにそれでしたね。県知事までが乗せられヒステリーを起こしたのではどうしようもない。私達は巨大権力の暴走を監視しなければなりませんね。

それではまた。長居にて失礼しました。

 

  

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コメント (14)

沖国大ヘリ墜落 事故と虐殺の混同!主客転倒の基地移設論

2009-08-14 07:56:11 | ★米兵事件

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航空機の即時飛行中止を 沖国大が抗議集会 米軍ヘリ事故5年で

夏期休暇を利用して観光で来県している東京の友人がテレビのニュースを見て気の毒そうな表情で尋ねた。

「この米軍ヘリ事故で何人の犠牲者が出たの?」

「死傷者は一人もいなかったよ」

「え?」

怪訝な表情で友人は聞き返した。

「確か、多くの死傷者が出たというニュースを見たけど」

この友人、50年前の宮森小学校の事故と沖国大の事故を混同している様子。

米軍機墜落事故といえば「沖国大ヘリ機墜落事故」が例年大々的に報じられるが、

米軍統治下の沖縄で、宮森小学校に墜落した米軍機の大惨事については沖縄のマスコミはそれほど騒いでこなかった。

さすがに今年は50周年に当たるということで、マスコミも沖国大ヘリ事故とあわせて宮森小学校の大事故を報道し始めたが、友人はこの報道を見て沖国大ヘリ事故と勘違いをしたらしい。

米軍統治下の1959年6月30日午前、米軍戦闘機が石川市にある宮森小学校に墜落し、炎上した。

事故による死者17人、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。

観光客である友人が、今では県民でさえの関心の薄れ掛けている宮森小学校の大惨事の報道と沖国大の事故と取り違えるのは無理もないことではある。

一人の死傷者も出なかった沖国大ヘリ墜落についてはマスコミはこのように派手に報ずるのだから。

心の傷語り合う場に 沖国大ヘリ墜落5年目の写真展2009年8月12日

 

                   ◇

今朝のタイムスの見出しを見てもヘリ墜落事故一色である。

◆一面トップ

米ヘリ危険放置に抗議

墜落5年で沖国大集会

普天間封鎖訴え

◆社会面トップ

今も危険の真下

住民・学生怒りの声

ところが第二社会面には小さな次のような見出しが・・・

参加者、一握り

そして記事にはこうある。

《「沖国大は教官と事務員あわせて約200人いるのに、集会には数えるほどしか来ていなかった。 学生もあまりいなくて報道陣が多いくらい。 びっくりした。」》

おいおい、記者さん、こんな真実を報道して大丈夫ですかね。

抗議集会には「数えるほど」の参加者で「報道陣の方が多い」というのに、参加者数を聞くのも気の毒だが、一面の大見出しや三面の「住民・学生怒りの声」はパラパラとでも起きたのだろうか。

【追記】

【追記】沖縄タイムス、も琉球新報もウェブ記事では、申し合わせたように、抗議集会の参加者200名と主催者発表をそのまま掲載している。主催者発表だったら100名くらいが実数だろうが、仮に200名程度でも容易に数えられる数だ。

「数えられる人数」だったら記者が自分で数えたろどうだろうか。

                    ◇

以下は過去の関連記事ヘリ墜落事故は、「事故」であり「大虐殺」ではないを一部編集したものです。

 沖縄タイムス
今晩の話題  (2008年8月20日)

「ヘリ墜落「事件」」

 沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故から四年目の十三日、同大の学生たちによって、ヘリの激突で焼け焦げた旧校舎の壁をプリントした大型シートが、新校舎に掲げられた。
 中心メンバーの社会文化学科四年の阿波根優斗さん(21)=読谷村=から話を聞いていて、彼が墜落事故のことを「事件」と繰り返すのが気になった。否、正直に言うと、そのときは彼の言い間違えだと解釈し、記事でも「事故」と言葉を置き換えた。

 だが、時間がたつにつれ、事件という言い方は彼が最も腑に落ちる、当を得た表現だったのではないかと思うようになった。

 阿波根さんは当時、高校三年生。事故の実体験はない。それでも、風化させてはならないと切実な思いを抱くに至ったのは、おそらく先輩から聞いた話が墜落した瞬間の出来事だけではなく、その後の「事件」も含んでいたからではないか、と。

 米軍が大学を一時封鎖し県警の現場検証を拒否したこと、夏休みを理由に小泉純一郎首相が稲嶺恵一知事の面談要請に応じなかったこと、今も米軍ヘリが大学上空を飛び回っていること、これらはいずれも事件だ。

 事故というと、偶発的に発生したように聞こえるがそうではないいつ起きてもおかしくないと指摘されながら、政治の怠慢で放置された末に起きた事件であることを忘れてはならない。(渡辺豪)
                                     ◇     

記者の渡辺さんは、学生の誤記をあえて 「ヘリ事件」とし、

自分のイデオロギーに当てはめようとしているが、

誰が何といおうと、これは「ヘリ事件」ではなく、

航空事故の一種である「ヘリ事故」に違いはない。

航空事故といえば、今朝のニュースでスペイン空港で離陸失敗の為45人が死亡している。

航空事故:スペインの空港で離陸失敗、45人死亡 滑走中、左エンジン出火か(8/21)

この一ヶ月間を見ただけでも航空事故は二件も発生している。

航空事故:国道に小型機墜落、2人けが--大阪・八尾の市街地(8/19)

航空事故:小型機墜落、1人重体 長崎空港離陸直後(7/27)

沖縄に限って見ても、去年はこんなことがあった。

中華航空、沖縄那覇空港で駐機後に炎上

 

「ヘリ事故」を再発させないように、学生たちが運動を起こすことに異論はない。

だが、イデオロギーを前面に出しすぎると、かえって逆効果にもなりかねない。

「ヘリ事故」を「原爆遺構」とを同レベルで扱おうという運動があったが、これは明らかに行き過だ。

 ⇒原爆遺構と沖国大の“壁”

 

「航空事故」と、日本国民を無差別に殺害した「大虐殺」とを、

同じ扱いにしては原爆被害者に礼を失する行為だと書いた。        

「ヘリ墜落」は事故であり、「攻撃」ではない

                   ◆

ヘリ墜落3年 決意新た【写真】 沖縄タイムス沖国大の減り墜落事故跡を、原爆遺跡やゲルニカの壁絵に並ぶ戦争の遺跡にしようと言う運動がある。

これに対して、8月10日のエントリーで次のように書いた。

沖国大構内に墜落した米軍ヘリコプターの油煙跡の残る壁を保存する運動には理解も出来る。

だからと言って、幸いにして一人の死傷者も出なかった事故の“壁”と、死者数10万にも及ぶ広島、長崎の原爆遺跡とを同列に扱う神経を疑う。

基地被害を訴える余り「事故」と「大惨劇」を同列に扱うことは広島、長崎の被爆者に礼を失すると言うものだろう。

原爆遺跡と沖国大の“壁”を実際に見た者として、その余りにも大きな“意味”の差に、この文章をコラムとして報じる琉球新報に怒りさえ感じる。原爆遺構と沖国大の“壁”

さらに言えば「大惨劇」ではなく、アメリカによる「大虐殺」と言った方が正しい。

ヘリ事故も原爆投下も主体はアメリカだが、ヘリ事故の操縦士は事故を起こす意思はなく、ましてや「加害の意思」などなかったはずだ。

ところが原爆投下機の操縦士は明らかに「加害・虐殺の意思」で原爆を投下をしている。

ここで再び言おう。

一米兵の起こした「交通事故」と人類が犯した最大の罪である「原爆投下」を同列に扱うような「ヘリ事故跡保存運動」は原爆被害者を冒涜することになる。

 

■「抗議集会」は辺野古の「プロ市民」に向かって行え■

何度も繰り返すが「住宅密集地に隣接する普天間基地が危険である」ということに異論はない。

ジュゴンのことを心配する前に、

まず危険なモノはとりあえず移転させるのが、

人命を考えた緊急の優先順位だ。

だとしたら沖国大の「抗議集会」拳を突き出す相手は、辺野古でピケを張る「プロ市民」集団ではないのか。

                 ◆

■主客転倒の目取真氏の移設論■

昨日のタイムス文化欄に「沖国大ヘリ墜落事故」特集の一環として目取真俊氏が寄稿している。

同氏の論調からいって想像のつく内容だが、見出しだけで対応させてもらうと、普天間基地が住宅密集地に隣接しており毎日が「今も危険の真下」に勉学や生活をし「住民・学生の怒りの声」があるのなら、危険回避のためには取りあえず次善の策をとるのが「命どぅ宝」の精神ではないのか。

そこを無視して目取真氏は、辺野古移設を主張する県知事を非難してこう述べている。(いずれも目取真論文の見出し)

「県内移設固執」 「問われる政治家の責任」

「ベターは虚構」

人命の関わる緊急を要する懸案に、自己のイデオロギーを絡ませ、「ベターは虚構」とし、ひたすら「ベストを要求する」目取真氏こそ、事故が起きた場合の責任を問われるべきであろう。

危険地域にいる学生・住民の生命の安全を無視し、「ベターは虚構」と断じる目取真氏の論はイデオロギーで思考停止した主客転倒の論である。

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コメント (6)

大江健三郎は新川明のレクチャーを受けていた!

2009-08-13 07:09:15 | ★集団自決

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「集団自決」疑いなし (12月9日朝刊総合6面)沖縄タイムス 2007年

「鉄の暴風」根拠に執筆

 大江健三郎氏の著作「沖縄ノート」などの記述をめぐり、旧日本軍の戦隊長らが名誉棄損を主張している大阪地裁の「集団自決」訴訟で、大江氏が「沖縄ノート」について記した陳述書の本論部分を全十三回にわたって掲載する。沖縄戦時の慶良間諸島で相次いだ住民の「集団自決(強制集団死)」について、「太平洋戦争下の日本軍、現地の第三二軍、島の守備隊をつらぬくタテの構造によって島民に強制された」と語る大江氏。陳述書では、米軍施政権下の沖縄で数多くのジャーナリストや研究者らに会い、思考を深めていった経緯や、文章の構造や表現の趣旨、言葉の選び方までがつづられている。

 私は一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会で、二人の小説家とともに、沖縄本島、石垣島に旅行しました。この旅行に先立って沖縄について学習しましたが、自分の沖縄についての知識、認識が浅薄であることをしみじみ感じました。そこで私ひとり沖縄に残り、現地の出版社から出ている沖縄関係書を収集し、また沖縄の知識人の方たちへのインタヴィユーを行いました。『沖縄ノート』の構成が示していますように、私は沖縄の歴史、文化史、近代・現代の沖縄の知識人の著作を集めました。沖縄戦についての書物を収集することも主な目標でしたが、数多く見いだすことはできませんでした。

 この際に収集を始めた沖縄関係書の多くが、のちの『沖縄ノート』を執筆する基本資料となりました。またこの際に知り合った、ジャーナリスト牧港篤三氏、新川明氏、研究者外間守善氏、大田昌秀氏、東江平之氏、そして劇団「創造」の若い人たちから学び、語り合ったことが、その後の私の沖縄への基本態度を作りました。とくに沖縄文化史について豊かな見識を持っていられた、沖縄タイムス社の牧港篤三氏、戦後の沖縄史を現場から語られる新川明氏に多くを教わりました。

 そして六月、私は自分にとって初めての沖縄についてのエッセイ「沖縄の戦後世代」を発表しました。タイトルが示すように、私は本土で憲法の基本的人権と平和主義の体制に生きることを表現の主題にしてきた自分が、アメリカ軍政下の沖縄と、そこにある巨大基地について、よく考えることをしなかったことを反省しました。それに始まって、私は沖縄を訪れることを重ね、さきの沖縄文献に学んで、エッセイを書き続けました。

 本土での、沖縄への施政権返還の運動にもつながりを持ちましたが、私と同世代の活動家、古堅宗憲氏の事故死は大きいショックをもたらしました。古堅氏を悼む文章を冒頭において、私は『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載し、一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書として刊行しました。

 私はこの本の後も、一九七二年(昭和四十七年)刊行のエッセイ集『鯨の死滅する日』、一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』、二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』において、『沖縄ノート』に続く私の考察を書き続けてきました。とくに最後のものは、『沖縄ノート』の三十年後に沖縄に滞在して「朝日新聞」に連載した『沖縄の「魂」から』をふくんでいます。

 この裁判を契機に、多様なレベルから『沖縄ノート』に向けて発せられた問いに答えたいと思います。

 座間味島、渡嘉敷島で行われた集団自決の問題が、後半の沖縄戦についての記述で重みを持っているが、その記述はどのようなものを根拠としたのか。

 沖縄戦について、戦後早いうちに記録され、出版された戦争の体験者の証言を集めた本を中心にして読みました。それらのなかで一九五〇年沖縄タイムス社刊の『沖縄戦記・鉄の暴風』を大切に考えました。理由は、私が沖縄でもっともしばしばお話をうかがった牧港篤三氏がこの本の執筆者のひとりで、経験者たちからの聴き書きが、一対一のそれはもとより、数人の人たちを一室に集めての座談会形式をとることもあったというような、詳細な話を聞いていたからです。もとより牧港氏の著作への信頼もあります。

 私は、それらに語られている座間味島、渡嘉敷島において行われた集団自決の詳細について、疑いをはさむ理由を持ちませんでした。

 私は、この集団自決が太平洋戦争下の日本国、日本軍、現地の第三二軍までをつらぬくタテの構造の力によって島民に強制された、という結論にいたりました。そして、このタテの構造の先端にある指揮官として島民たちの老幼者をふくむ集団自決に、直接の責任があった、渡嘉敷島の守備隊長の、戦後の沖縄に向けての行動について、それが戦前、戦中そして戦後の日本人の沖縄への基本態度を表現しているとして、批判する文章を書きました。この批判は、日本人一般のものであるべき自己批判として、私自身への批判をふくみます。

                  ◇

沖縄タイムス恐喝事件から、それに対応した当時の編集局長で後に社長になる新川明氏が話題になり、更に転じて新川氏が一フィート運動を捏造しイデオロギー塗れの絵本を出版したことに話が及んだ。

係争中の「集団自決訴訟」が大江健三郎著『沖縄ノート』などの出版停止を求めて、その記述の是非が争点になっている。

大江氏は、その執筆の根拠になった本が『鉄の暴風』であると証言しているが、氏が沖縄問題のレクチャーを受けた人物のことはあまり知られていない。

■大江健三郎は新川明のレクチャーを受けていた■

上記の古い記事は、大江健三郎氏が一昨年証言台に立ったときの「証人陳述」をタイムスが連載で掲載したものの一部である。

大江氏は問題の書『沖縄ノート』を自身は取材もせずに書いたのは『鉄の暴風』を信じたからと述べているが、沖縄については不勉強だったので牧港篤三氏や新川明氏、そして太田昌秀氏などのおなじみの方々からレクチャーを受けて書いたと述べている。

大江氏は『沖縄ノート』の執筆にあたり多くの沖縄の左翼知識人のレクチャーを受けたといっているが、特に戦後史に関しては新川明氏に教えを受けたと述べている。

昨日のエントリーで、事実を捻じ曲げて「悪逆非道の日本軍」を捏造した新川明氏の報道姿勢について述べたが、大江氏は平気で歴史を捏造する新川氏に沖縄史を学んでいたのだ。

さらに新川氏のほかにも、上原正稔氏に「大嘘ツキ」といわれる太田昌秀氏のレクチャー受けて書いたのなら『沖縄ノート』の内容のいかがわしさは推して知るべしである。

『鉄の暴風』の執筆者の一人で、タイムス記者の中では良識派とされる牧港篤三氏も、『鉄の暴風』の執筆にあたり、

米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です」

と述懐しているではないか。

大江氏はその『鉄の暴風』を鵜呑みにして『沖縄ノート』を書いたと法廷で証言しているのである。

大江氏が、執筆者の太田良博氏や牧港篤三氏が「ウワサで書いた」「米軍の目を気にして真実は書けなかった」と証言する『鉄の暴風』の記述を真実と信じ、

歴史捏造者新川明氏のレクチャーを受けて書いた『沖縄ノート』に対し、判決は「真実相当性」という概念で出版継続を認めたのである。

デタラメの戦記『鉄の暴風』をテキストにして、

「捏造絵本作家」がノーベル賞作家にレクチャーをしていた!

そして『沖縄ノート』が生まれたのである。

■佐野眞一氏の慧眼■

ベストセラー『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(佐野眞一著)に次のくだりがある。

大江氏と『沖縄ノート』の関係を眼光鋭くあぶりだした佐野氏の慧眼に瞠目し、何度でも読んでみたい文である。

沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。
 
沖縄本を覆う違和感とは何か。大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。
 渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。
 だが、
大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。
 沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。
 
大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、私は幾度となく遭遇した。
 こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、うんざりするほど生産されることになった。

参考⇒沖縄タイムスに取り込まれた大江氏と筑紫氏

佐野氏のこの鋭い分析を裁判官が読んだらどのような感想を洩らすだろうか、興味のあるところである。

                   ◇

蛇足を加えると、「真実相当性」とは「例え『鉄の暴風』の記述に誤りがあっても、それを真実と信じる相当の理由がある」という法律概念である。

読者の涼太さんが、この真実相当性の例えに新川明著の「捏造絵本」で説明して判決の不当性を皮肉っているが、捏造本『りゅう子の白い旗』と『鉄の暴風』を並べて例えるとわかりやすい。

コメント欄の引用です。

 2009-08-13 01:24:25 涼太   新川明と白旗の少女 捏造された... 
狼魔人様

沖縄タイムスは、「白旗の少女」の件を追及されたら、「その写真を見て私達はそう思った。」と強弁するのでしょうか。そんな言い訳が通用するぐらいに、今度の大阪高裁の判決は異常でした。
「当時は真実と信じる相当の理由があった。その後の研究などで真実性が揺らいだとしても、訂正の必要は無い。」まさに沖縄タイムスのために書いたような判決文ですね。
 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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新川明と白旗の少女 捏造された一フィート運動

2009-08-12 06:36:32 | 未分類

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『うらそえ文藝』の集団自決特集の対談で、「一フィート運動」の創始者である上原正稔氏が「沖縄タイムス恐喝事件」を暴露したことが話題になっている。

当時富村氏の恐喝に対応したといわれる沖縄タイムス編集局長新川明氏(後に社長)は、定年退社後も極左評論家として健筆を振るっているが、これまでも当日記には少なくとも二度ほど登場したおなじみのタイムスOBである。

一度は、一人の論者を集団で袋叩きにする「沖縄イニシアティブ方式」という言論封殺方式の主導者として。

実は小林よしのり氏もこの言論封殺の犠牲者である。
 
沖縄の作家目取真氏が琉球新報で小林氏を批判というより、罵倒したのが、それ反論した小林氏がその犠牲になったのである。
 
目取真氏が「沖縄版・言論封殺魔」といわれる由縁である。
 
ことの詳細は雑誌『WILL』増刊号に「これが沖縄の言論封殺だ」というタイトルで、筆者(狼魔人)が寄稿してあるので読んで欲しい。 『WILL』の記事は、ここで読める。⇒罠にかかった小林よしのり 護送船団方式の沖縄論壇
 
そして、新川明氏の当日記へのもう一度の登場は「一フィート運動」の記録フィルムを歪曲する卑劣な絵本作家としてである。

新川明氏は、米軍が写したフィルムの中に、偶々写っていた白旗を持つ少女の映像を発見し、絵本という形で子供たちに「悪逆非道な日本兵」を教え込む平和教育教材を作った。

これに関しては当日記で過去に再三エントリーしたが、今でも一日に100件近くアクセスのある人気エントリーである。

ちなみに「1フィート運動」は左翼集団に乗っ取られイデオロギー化したため、創始者の上原正稔氏は現在これに関わってはいない。

以下は白旗の少女の神話ー改定版を編集したもおの再掲です。

                   ◇

沖縄戦で、圧倒的物量をほこる米軍は、その戦力の余裕から数多くの報道班を配備した。

彼らが撮影した多くのフィルムは冷徹に戦争の実像を記録をした。

だが、後世これらを見た沖縄の「識者」たちはそれを基に数多くの神話を捏造した。

イデオロギーまみれの「平和教育」のために。

白旗の少女の写真を知る者は多いが、「平和教育」のために作られた少女にまつわる神話の背景を知る者は少ない。

                   ◇

 

「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” 

 

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿は見るもの胸を打つ。中でも特に有名な二枚の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

その写真の一枚が白旗の少女として知られ、もう一枚は「うつろな目の少女」として後に有名になる写真である。

うつろな目の少女が、実は女装した男の子であったということを知る人は少ない。⇒「うつろな目の少女」の秘密!

  

白旗の少女とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女のことで、大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。

「1一フィート運動」の成果である1986年公開の米軍撮影記録フィルムの中の少女の笑顔が県民の印象に残った。少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影したという。

以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

 白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

「平和教育」のため、沖縄の「識者」の予断により歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿に衝撃を受けたのである。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは結構なことだが、それを扱う「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される例は多い。

例えば新川明著『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)で、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争うクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。

<兵隊たちがいいあらそいをはじめました。

「おとなしく出れば殺さないはずだよ」

「では、だれがさいしょに出るのか」

「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」

ほかの人たちもいいあらそっています。

「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」

りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと

隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。

「ためしに子どもをさきに出してみよう!」

ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよろとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。

 

同書の「あとがき」には次のようなことが書かれている。

 
  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました

 
私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、もんぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 
さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。

また、版画絵を担当した儀間比呂志氏は沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾にその後ろから、米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。

で、実際はどうであったのか。

記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。

 


1985年、沖縄の「識者」たちによる『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。

その本の後書きには、当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していた比嘉が、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません
。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られたであろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはないが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が定着していたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

「りゅう子の白い旗」の書評

●沖縄タイムスの書評(1988年6月22日)=「琉子」は沖縄戦を描いた絵本「りゅう子の白い旗」を映画化したもの。主人公・琉子の体験を通して、日本軍の住民に対する残虐な行為など戦争の悲惨な実態を描いたもの。対照的に沖縄の自然や情景を織り交ぜた美しい映像で、命の尊さを訴えている。

 

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続沖縄タイムスを恐喝した男!究極の「転向者」富村順一

2009-08-11 06:22:21 | ★集団自決

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■究極の逆転向者ー富村順一■

前回、極左作家富村順一氏の恐喝に屈して『鉄の暴風』の記事を人目を避けるように削除した沖縄タイムスは、その歴史に致命的汚点を残したと書いた。

口止め料として50万円を脅し取った上、タイムスの願いを踏みにじって自著で「削除記事」を暴露し大儲けをした富村順一氏について今回も触れる。

現在大阪西成区に在住の元極左活動家、富村順一氏は、係争中の「集団自決裁判」には不自由な車椅子の体を押して大阪地裁まで来て、梅澤・赤松両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。

左翼に襲われ車椅子生活に!

それまでの極左的発言から、ドラマチックな「転向」をし、原告側応援団の仲間入りした富村氏は、それまでの作家として、あるいは沖縄の「文化人」としての安逸な生活を失ってしまった。 

富村氏が「転向」の代償として受けたのは社会的経済的マイナスの他に、「裏切り者」として左翼集団による肉体的暴力だった。その結果現在車椅子生活を強いられている。

富村氏は、左翼集団の暴力により、手にも損傷を受け、原稿を書くことさえママならない状態であるという。

■富村氏が極左作家になった経緯■

富村順一氏は1930年5月3日、沖縄県国頭郡本部に生をうけるが、生来の反抗心から学校でトラブルを起こし小学校二年で放校となる。

15歳で終戦を迎えるが、戦後は窃盗、暴力行為と刑務所の出入獄を繰り返し、1955年保釈中にクリ舟で米軍統治下の沖縄を脱出し、奄美徳之島経由で島伝いに鹿児島に上陸する。

以後全国を放浪するがその間も犯罪を繰り返し、各地の刑務所の出入獄をくり返す。

1970年7月8日、「70年安保騒動」に刺激をうけ、「東京タワー占拠事件」を引き起こす。 

その日、富村氏は牛刀二丁を手に、たまたま東京タワー見学中の米人宣教師を人質にとり、タワー特別展望台を占拠して、次のように叫んだ。

「日本人よ、君たちは沖縄のことは口をだすな」

「天皇は第二次世界大戦で300万人を犠牲にした責任をとれ」

「沖縄の女性みたいに、正田美智子も売春婦になり、沖縄人民のためにつくせ」

結局、逮捕、起訴され、懲役3年の実刑を受けるが、公判中その過激な言動に共鳴した左翼弁護士の支援団体が結成され、獄中で弁護団と交した手紙が『わんがうまりあ沖縄」(富村順一著 拓植書房 1972年)として出版されることになる。

出版日が沖縄返還の日の直前という話題性と、特異な犯罪を起こした沖縄出身者という好奇の目もあったが、そのたどたどしい日本語の文体をそのまま校正なしに出版したことが読者の興味をそそり、この手の本には珍しく重版を続けベストセラーの仲間入りをする。

ちなみに同書の前書きには「富村公判対策委員会 富村順一手記編集委員会」の名で次のような解説が付いている。

○原文中、ら行とだ行の置き換えが、たとえば「やられる」が「やだでる」のように用いられています。これを17頁~35頁までの間のみ、ルビをつけ例としました。 それ以降は原文のままにしておきました。

○原文の漢字の誤用はカタカナに書きかえました。しかし、これはすべてではなく、誤解をまねくものを主にし、本人の原文中、カタカナで記されているものとの区別はつけません。

○送りガナはあえて統一しませんでした。

○原文中、促音がないものが大部ありますが、それも原文のままです。

○原文中、「   」の部分を傍点をつけ、「    」をはずしました。

支援弁護団と出版社の描いた「小学校もろくに出てない虐げられた沖縄人が書いた日本に対する抗議の書」、といったイメージは見事成功した。

同書の成功以後極左集団の支持を受け、次々とサヨクが狂喜するような過激なテーマの出版を続け、沖縄に戻っても沖縄タイムスを始めとする左翼メディアや左翼文化人にちやほやされ、講演会や執筆活動に追われるようになり、すっかり沖縄左翼のヒーロー的存在になる。

富村氏の著作を拾ってみても沖縄の左翼文化人が喜ぶような過激なそのタイトルが並んでいる。

『沖縄にとって天皇制とは何か』沖縄タイムス社 編。 沖縄タイムス社。 1976。 タイムス選書 

『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 富村 順一 編著。 柘植書房。 1995。 

『沖縄戦に散った愛 天皇の押し花になった子供たち』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。 

『隠された沖縄戦記』 富村 順一 著。 JCA出版。 1979。 

『韓国の被爆者』 富村順一 著。 JCA出版。 1980。 

『皇軍とアイヌ兵 沖縄戦に消えたアイヌ兵の生涯』 富村 順一 著。 JCA出版。 1981。 

『最敬礼拒否の足跡 戦犯天皇を裁く』 富村 順一 著。 破防法研究会。 1974。 

『十字架と天皇。 富村 順一 著』 たいまつ社。 1977。 (たいまつ新書18)。

『富村順一氏意見陳述集 「東京タワー事件」』 富村 順一 著。 富村公判対策委員会。 1971。 

『もう一つのひめゆり部隊 -戦後沖縄の売春婦-』 富村 順一 著。 JCA出版。 1982。  

 『琉球慰安婦 天皇制下の闇の性』 富村 順一 著。 JCA。 1977。  

 『わんがうまりあ沖縄 富村順一獄中手記』 富村 順一 著。 柘植書房。 1972。 

                    ◇

富村順一氏の人となり知るための参考に、本人を良く知ると思われる人物のネット記事を次に紹介する。

ニホンの夏を駆け抜けた三人との出会い(転載)

毎年この時期になるとなぜか三人の人間のことをおもいだす。ひとりは沖縄人であり、ひとりは日本人であり、そしてもうひとりは韓国人だ。ふたりはすでに故人となられ、もうひとりは消息が掴めない。▼最初に出会ったのは沖縄生まれの富村順一というヤクザものだった。二十代初めのころのことだ。どのような経緯から知り合うことになったか判然としないのだが、当時さかんにおこなわれていた新左翼系の集会の場ではなかったか。ごつい身体に野獣のような精気をみなぎらせ真っ黒に日焼けした四角い顔で手刷りのパンフをひとり頒布していた。パンフには『死後も差別される朝鮮人』というおだやかならざる表題が付いていた。好奇心から手にとってみた、そこには沖縄の離島のひとつで第二次大戦末期に日本軍によって島の住民多数が虐殺された事件のことが記されていた。そのなかには乳児までが日本軍によって斬り殺された在日朝鮮人一家・具仲会さんの名前があり、彼が訴えていたのは、そのことだった。「オレは沖縄人だが、在日朝鮮人は日本人に差別され沖縄人にも差別されている、住民虐殺のあったその島でも朝鮮人故に同じ虐殺遺族の人たちからも避けられてしまって居るんだ、二重三重の差別の実態をオレは告発したい」と富村はわたしに熱っぽく語りかけた。そうしたことからわたしも彼の運動に協力することになったのだった。▼沖縄出身のフリーライターの友人が居て彼もまた富村の主張に共鳴し参加した。やがて運動はひろがって、虐殺の地に無念の想いのままに死んでいった被害者たちの石碑を建てることになった。それはけして「慰霊の碑」ではない、むしろ死んでいった人びとの恨みを刻んだものであるべきだということになり、『痛恨之碑』と名付けることになった。

                   *

 
嘗て「東京タワ-事件」というのがあった。1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。
 
私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。
1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、
また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。
私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)
 
【おまけ】
沖縄タイムス・コラムに掲載された富村順一氏に関する記事。
1973年は沖縄返還の翌年である。
 

1973年6月22日http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/tomimura.html

  沖縄タイムス  唐獅子

  意識した熱狂を

わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。

60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。

マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。

ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。

先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。

さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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コメント (2)

富村証言の衝撃!沖縄タイムスを恐喝!

2009-08-10 06:19:59 | ★集団自決

 

 

■恐喝された沖縄タイムス■

沖縄在住の芥川賞作家目取真俊氏が自ブログで、係争中の裁判の判決文を誇らしげに引用し、「うらそえ文藝」の上原氏の発言を批判して「裏事情を知っているだけで、判決文も読まないものが口出しをするな」といったニュアンスの文を書いている。

『鉄の暴風』を訴えなかった理由

ところが判決文では触れていない「裏事情」を、これ以上発言されると一番困るのは沖縄タイムスであり、その意味では同じ立場に立つ目取真氏が沖縄タイムスの意を受けて星、上原両氏に、判決文全文を読んでいないことを盾に、発言を封じようと画策していることは容易に想像できる。

目取真氏は、沖縄タイムスが富村順一氏に恐喝され50万円支払ったことを、大した問題ではないといった書き方をしているが、これは読者の目を欺くためのごまかしに過ぎない。

富村氏の恐喝は沖縄タイムスにとって二つの意味で大きな汚点、いや、新聞社としては致命的ともいえる大きな打撃である。

先ず恐喝した富山氏は、過去に沖縄タイムスから著書を出版したり寄稿をしていたタイムスにとっては重宝な左翼作家であること。

そして恐喝の理由が、問題の書『鉄の暴風』の記事削除であり、沖縄タイムスは実際削除に応じたこと。

恐喝を受けた当事者の新川明氏(元沖縄タイムス社長)が、「うらそえ文藝」の当該記事を見て立腹し、何らかの対抗手段を打つと息巻いていたが、結局この事件には沖縄タイムスOBを含む複数のの証言があるというので、問題化することを諦めたと聞く。

そして脅し取った50万円は、当然タイムス社からの出費だが、その出金名目は「原稿料」とした、という生々しい証言もある。

さらに恐喝した当人の富山氏が78歳の高齢ながら現在も大阪でお元気であることも沖縄タイムスが対抗手段を打つことなく沈黙を守る理由だという。

目取真氏はタイムスが恐喝されたことの真偽を同社に問い合わせ、それが事実だと知って愕然としたのではないか。

そこであのような目くらまし記事を書いて「沖縄タイムスが恐喝に屈した」という「うらそえ文藝」の告発を、「矮小化」(左翼の得意の表現)し、星、上原両氏のこれ以上の発言を封じ込めようとしているのではないか。

まさに、沖縄版・言論封殺魔の登場である。

■証言の信憑性■

「集団自決訴訟」の特徴は、60数年前の体験者の証言と、

数十年前に彼らに聞き取り調査した人物の記録、

という極めて曖昧な要素のある証拠物を根拠に争われているという点である。

しかも数十年前に聞き取り調査に応じた体験者も大半は鬼籍に入ってしまった現在、

彼らが残した記録に「思い違い」や「勘違い」などがあったとしてもそれを本人に確認する術はない。

いや、その聞き取りをした人さえ「聞き違い」などが考えられるが.、聞き取りした人にも既に物故した方がいて、この問題の検証の難しさを倍化させている。

証言者がその時、その場所にいたからといって、その証言を無条件で信じることは出来ない。

■証言者のバックグラウンド■

アリバイ証言を求める場合、家族や、親族の証言がその信憑性を疑われるように、証言者のバックグラウンドが証言に及ぼす影響を無視することはできない。

ここで「集団自決訴訟」に登場する証人をそのバックグラウンドによって、大きく二つに分けてみる。

①本人または近い親族が「援護金」を受給している証人

②「援護金」とは無関係な証人

この二種類の証人は夫々同じような証言をするという特徴を持つ。

①の証人は金城重明氏や、宮里春子氏、宮村幸延氏のように「軍の命令があった」と証言しているのに対して、

②の証人は宮平秀幸氏のように「軍命令はなかった」と証言している。

通常の刑事裁判ならこの時点で「援護金受給」という経済的バックグラウンドを考慮すれば、①の証言は信憑性に欠けるとして却下されてしかるべきである。

だが、奇怪なことに「集団自決訴訟」では①の証言はほとんどそのまま採用されている。

その一方で、②の「援護金受給」に無関係な人びとの証言はことごとく虚言として却下されている。

■証言者のプラス派とマイナス派■

裁判には集団自決当時、現場にいなかった戦後生まれの学者や関係者も多く登場するが、彼らはその「証言」が経済的、社会的に見て本人にプラスかマイナスかによって二つに分類できる。

①プラス派⇒宮城晴美氏、林博史、安仁屋政昭、大城将保、石原昌家など

②マイナス派⇒照屋昇雄、星雅彦、上原正稔

外にも①の【プラス派】には高校教師から琉球大学教授に駆け上がった、高嶋伸也氏や元県知事で沖縄戦戦記本を多数出版した太田昌秀氏などの大物もいるが、

中でも宮城晴美氏は、那覇市役所の臨時職員だったのが『母の遺したもの』を出版した後、わずか三カ月足らずで那覇市歴史博物館の主査のポストを得て、

その後は女性史研究家の肩書きで新聞その他の団体から講演会等で引く手あまたの地元知名士になり、母校の沖国大では講師を努めていると聞く。 

更には琉球大学に博士論文提出中というから高嶋教授の後釜でも狙おうかというほど社会的にも経済的にもプラス派の代表者であろう。 

おっと、教科書執筆者の高校教師・坂本昇氏なども①の【プラス派】の代表だろう。この方も沖縄では有名人になって沖縄の大学のポストを狙っているとか。

 

一方、②の【マイナス派】の証言者が少ないのは地元のマスコミが証言しても取り上げないせいもあるが、

経済的、社会的にマイナスになるなら、でしゃばって証言するより沈黙を選ぶのは人間の常なので、人数が少ないのも仕方がない。

例えば、戦後早い時期に現地で聞き取り調査をした、照屋昇雄さんなどは、「軍命があった」と証言しておれば地元ではチヤホヤされ、各地で集団自決の重要証人として執筆や講演会などを請われ、社会的にもプラス面が多かったはずだが、

「軍命はなかった」と証言したばかりに嫌がらせなどを受けた。 いや現在も受けているときく。

照屋さんの場合も当然マイナス面ばかりである。

最近『うらそえ文藝』で沖縄タイムスに捏造記事の訂正と謝罪を要求した、星雅彦氏と上原正稔氏が、その後沖縄の文壇から締め出され兵糧攻めに遭っていると聞くが、これも証言したための典型的なマイナス面であろう。

■富村順一・・・・・最大のマイナス派証言者■

もう一人、最大のマイナスを被った証言者がいる。

自ら座間味島を訪問し、聞き取り調査をした結果、これまでの極左的言動から一変し、沖縄タイムスの『鉄の暴風』のデタラメな記事を批判する側に「転向」した富村順一氏こそ、「転向」で最も激しいマイナスを被った人物だろう。

富村氏については改めて詳しくエントリーしたい興味ある人物だが、ここでは概略を述べる。

富村氏は、沖縄返還の前年、天皇糾弾を叫んで東京タワージャック事件を起こし逮捕された。 服役中、彼を支援する左翼弁護団と交した獄中記がベストセラーになり、出所後は「作家」として生計を立てるようになる。 

勿論出版物の内容は左翼弁護団が「天皇糾弾・反日・沖縄人」というキーワードでおだて上げたせいか、

『棄民・戦争・天皇』とか『皇軍とアイヌ兵』といったいかにも左翼が喜ぶタイトルで10冊ほど出版するほどの売れっ子作家になる。 

沖縄では沖縄タイムスを始め、出版社と新聞社からの原稿依頼が殺到し、沖縄の知識人・文化人から大歓迎をされ、さらに、各大学、各地で講演することもあった。 

そして沖縄タイムス刊『沖縄にとって天皇制とは何か』(1976。 タイムス選書)の執筆者の一人にもなる。

ところが座間味島で聞き取り調査をしているうちに、『鉄の暴風』の余りのデタラメさが徐々に発覚し、流石の極左が売りものの富村氏も、沖縄左翼の捏造体質にあきれ返ってしまう。 

特に「朝鮮慰安婦と不明死した」と侮辱的に書かれている梅澤元隊長は存命、という情報を島の古老から得て、富村氏は梅澤元隊長探索の旅を開始する。

元隊員や多くの人を辿って大阪で警備会社の重役をしていた梅沢氏と大阪で会うことになる。 その頃は未だ『鉄の暴風』には梅沢氏の「死亡記事」が平気で記載されていた。

富村氏の慶良間島取材後に「梅澤生存」を記した『隠された沖縄戦記』をするのだが、その出版年(1979年)から判断して1978年ごろのことである。 

その後30年経って梅澤氏は「集団自決訴訟」の原告の一人になるわけだが、その時は『鉄の暴風』の存在さえ知らなかったようだ。

梅澤氏は、作家というより刑務所を出たり入ったりのヤクザ者といった方が似合う富村氏に梅田の居酒屋に呼び出され、二人は酒を酌み交わしながら座間味島のことを語り合った。

そのとき梅沢氏はこう語った。

「確かに悲惨な島であった。私は自決命令を出していない。 だが、私が自決命令出したとして公表されれば、助かる島の人は一杯いるでしょう。 またお金も降りるでしょう。それでいいんじゃないでしょうか。もう終わったことです。」

「私は自分が悪者になってもいいよ。座間味は大きな犠牲を出したんだから、自決した人もいる。 私は生きのびて、こうやって生きのびているだけでありがたい。それから考えると、あまり重視する問題じゃない」(富村順一著『沖縄戦語り歩き』拓植書房1995年』)

富村氏は梅澤氏の言葉に大きなショックを受け、沖縄の論壇から総スカンを食う覚悟で『隠された沖縄戦』を出版し、沖縄タイムスの歪曲報道を暴露する。

通常のパターンだったら沖縄人が沖縄戦記を出版した場合、沖縄マスコミは揃って宣伝記事を書くものだ。

だが、『隠された沖縄戦』の場合、沖縄マスコミ、知識人、文化人は皆これを黙殺し、沖縄の書店でもこれを販売するものはほとんど無かった。

従って富村順一氏のことを知る沖縄県人は、左翼文化人と古い記者以外ではほとんどいないし、富村氏が沖縄タイムスに乗り込んで恐喝した話など知る人は少ない。(タイムスを恐喝した話は『うらそえ文藝』に詳しい)

何よりも不可解なのは、『鉄の暴風』で「死亡記事」を書かれた「悪鬼のような梅澤元隊長」が生存していることが判明したのだから、

新聞にとっては重大ニュースであり一面トップで扱ってもおかしくなかったはずだ。

だが、実際は『鉄の暴風』から該当記事をソッと削除しただけで、タイムスも新報もこの重大ニュースを報道することはなかった。

それ以降、富村氏はあれほどチヤホヤされていた沖縄マスコミからも干されてしまい、多くの出版物も今ではほとんど絶版になっている。

おまけに左翼集団に襲われ重傷を負って車椅子生活を余儀なくされるのだから、富村順一氏ほど「転向」によって損害を被った人物もいないだろう。

富村順一氏は、沖縄マスコミの徹底した黙殺により、沖縄では忘れ去られた沖縄戦記作家であり、元極左活動家であり、そして「転向者」でもある。

従って現在「集団自決」に興味を持つ人でも、その名を知る者は少ない。

『鉄の暴風』から「梅澤死亡」の記事が削除されるのは、出版後30年経過した1980年になってからだが、沖縄タイムスはその年にはどうしても「削除版」を発行せねばならぬ理由があった。

それは、富村氏が削除の件でタイムスを恐喝しただけでなく、前年の1979年発行の自著『隠された沖縄戦』で、梅澤氏が生存している事実を書いて『鉄の暴風』の捏造体質を暴露していたからである。

富村氏が「梅澤生存情報」を使ってどのように50万円を脅し取ったのか。 

おそらくは沖縄タイムスが、「そのうちソッと削除するから、騒ぎ立てないでくれ」と口止めの意味で50万円を支払ったのであろう。

だが、富山氏は50万円を脅し取った上、口止めどころか自著でも暴露して大儲けした。

富村氏も良くやるね。

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コメント (4)

全体主義の島! 那覇市職員高里氏の証言 

2009-08-09 06:37:31 | 未分類

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
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自分と異なる意見の人を口汚く罵るのがお得意の目取真俊氏が、7月12日のブログ・ 「全体主義の島」というおバカな嘘で、那覇市役所職員の高里洋介氏に「能力がない」と罵詈雑言を浴びせている。

高里氏が、小林よしのり氏を沖縄に招聘し講演会を開いたことで、職場の上司に呼ばれ、昇進は見送られたと記述されている『SAPIO』(年7月8日号)を見ての罵倒である。

以下は、同ブログの引用である。

小林を講演会に呼んだために高里は課長に昇進できなかった。そういう圧力がかけられるので沖縄では「異論」を唱えられない。だから沖縄は〈全体主義の島〉だ、という論法である。》

《だが、高里が当時50代半ばだと知れば、何のことはない、本人に能力や実績がなかったから、その歳になるまで課長になれなかっただけではないか、ということが分かる。高里が本当に能力や実績のある人物だったら、「小林よしのり沖縄講演会」をやるはるか以前に、30代や40代で課長になっていただろう
。》

那覇市役所の人事の知識はないが、人事に精通しておられる目取真氏の指摘によると、有能な人物は30代で課長に昇進すると言う。 目取真氏に言わせると50代になって課長を見送られるのは、高里氏の能力のせいであり、全体主義のせいではないということらしい。

高里氏の役所の仕事振りを知らない筆者は、彼の能力を云々する立場にないが、未知の人物である有名人の小林よしのり氏に接触し、沖縄で初めての講演会を開催し、1300人余の観客動員で大成功させた高里氏の企画力及び実行力は、とても目取真氏のいう「無能力の人」には思えない。

「全体主義の島沖縄」で、目取真氏が高里氏を罵倒する「無能力云々」は、お得意の論点ズラシだろうが、もし本気でそう思っているのならそれを筋違いという。

問題は、高里氏の能力云々ではなく、高里氏が小林よしのり氏の講演会を開催した件で上司に呼ばれ、叱責に近い言及を受けたことが問題なのであり、それが「全体主義」だというのだ。

つまり異論を許さない職場環境だというのだ。

これを全体主義といわずに何と言おう。

百歩譲って目取真氏のいう「高里氏の能力の問題」であったとしても、50代過ぎて上司に呼びつけられ、

「君については課長に昇進も考えていたけど、ダメだな!」と言われ、その理由が小林よしのり氏の講演会だったら、有能な人物が30代で昇進を見送られるより問題は深刻ではないか。 

そもそも役所の上司が人の耳目を憚らずこのような言動に及ぶこと自体が問題であり、「全体主義」といわれる由縁なのだ。

目取真氏の罵倒に対し反論する場のない高里氏が、チャンネル桜のインタビューに答えている。

その映像を見ると、事前に講演会の件は役所に報告もしてあり、当日も正式に夏期休暇をとっての行動だったと言う。

全国に発売される雑誌で「上司に呼びつけられ叱責されたこと」を公表し、続いて今回チャンネル桜のインタビューに答えてそれが全国のネットに流れた以上、高里氏も確信をもって発言したのだろう。 

これに対して目取真氏は保守系市長の那覇市ではあり得ないといったニュアンスのことも書いているが、保守系首長の役所でも左翼職員が強力な組合組織を作り大手を振っている例は、テレビ報道で御馴染みの「橋下知事vs大阪府職員」の例を見るまでもないだろう。

高里氏の発言はこれ。↓

【沖縄の空気】小林よしのり氏招聘のその後-高里洋介 ...
《小林よしのり氏を沖縄に招聘したために、職場などで理不尽な逆風に遭われたという高里洋介氏に、沖縄の言語空間や社会の現状についてお聞きします 》

 
再度言おう。 
 
高里氏は『沖縄論』を出版した小林よしのり氏の主張に共感し同氏の講演会を開催したが、上司に呼び出され叱責された。 
 
そのこと自体が問題であり、「全体主義」といわれる根拠である。 
 
その結果、高里氏が昇進できなかったことは、問題ではあっても事の本質ではない。
 
 
【おまけ】
 
コメント欄の紹介です。
 
2009-08-08 14:44:49 涼太  
 
またまた、目取真が馬鹿なことを書いています。
沖縄タイムスが、「鉄の暴風」の出鱈目さを指摘され、富山さんに金を脅し取られた。事に関し、上原正稔さんの「梅沢さんはそんなことしない。」の一言をとらえて攻撃しています。
いわく、梅沢さんも過去にタイムスに抗議している。と。
確かに、昭和63年に沖縄タイムスに梅沢さんは抗議しています。それはただ記述の訂正と謝罪を要求しただけで、金銭を脅し取るようなことはしていません。沖縄タイムスも一度は謝罪しています。上原正稔さんの言質は「梅沢さんは沖縄タイムスに金品の要求はしていない。」が正解でしょう。
それを、梅沢さんがさも沖縄タイムスから金を取ったから、「鉄の暴風」を訴えないで「沖縄ノート」を訴えた。と結論付けています。そこまで書くなら、梅沢さんが、何時、何処で、沖縄タイムスからいくら貰ったのかはっきり書くべきです。話し合いには沖縄タイムスの新川さんが立ち会っています。どのような話があったのか、チャント紙上で書くべきです。沖縄タイムスに何の疚しさも無かったら、書ける筈です。
私は梅澤さんが執拗に抗議しなかったのは、「自分が黙っていれば、援護金で座間味の人達が幸せになる。だったらそれでいいではないか。」だと思いますよ。
それをいいことに、沖縄タイムスを筆頭に沖縄の馬鹿左翼が、執拗に梅澤さんを攻撃し続けるから今回の裁判沙汰になったと思います。
それと、目取真は「沖縄ノート」には座間味のことは書いていない。梅沢さんは「沖縄ノート」も呼んでいなかった。従って訴える資格が無い。みたいな事を書いていますが、こいつは本当に馬鹿だ。今回原告が訴えたのは大江健三郎の「沖縄ノート」と家永三郎の「太平洋戦争」です。「太平洋戦争」には座間味のこともたっぷり書いています。何より訴える資格が無かったら、裁判所が梅澤さん、宮城晴美などから話を聞くはずもありません。
裁判の過程で家永三郎の「太平洋戦争」や被告側が証拠として提出した、元琉球政府援護局長の山川泰邦氏の著書「秘録 沖縄戦史」も平成18年に37年ぶりに隊長命令説を削除しています。何故でしょう。山川氏は県民に援護法が適用されるよう尽力した人です。その著書から「隊長命令説」が削除された意義は大きいと思います。
また、目取真は梅沢さんの背景に、政治団体が居ることが問題だ。と言っています。それがどうしたんでしょう。梅澤さんもそれは認めているし、支援団体も認めています。
何より、被告側の支援にも沖縄の極左反日左翼が居ます。イデオロギーに利用しているのは、お互い様でしょう。むしろ、偽11万県民大会など、沖縄の馬鹿左翼の方が醜い応援をしています。
目取真がそこまで言うなら、座間味村の誰がどのように申請して、援護法を貰うことが出来たのか、説明して欲しいもんです。梅澤さんが知らないうちに、どうして梅沢さんの名前と捺印が使用されたのかを。説明出来ればの話ですが。
 
 

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
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「梅澤死亡説」を利用した人々?!奥茂治氏の証言

2009-08-08 06:52:37 | ★集団自決

  

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秦 郁彦
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冒頭にチャンネル桜の動画二つをご覧下さい。

【沖縄の空気】小林よしのり氏招聘のその後-高里洋介 ...
《小林よしのり氏を沖縄に招聘したために、職場などで理不尽な逆風に遭われたという高里洋介氏に、沖縄の言語空間や社会の現状についてお聞きします 》

高里洋介氏の証言については次のエントリーに譲って、今回は次の奥茂治氏の証言を取り上げる。

【動画【沖縄集団自決】沖縄言論の現状-奥茂治氏に聞く ...
チャンネル桜でもお馴染みの南西諸島安全保障研究所 副理事長・奥茂治氏に、沖縄集団自決をめぐる沖縄言論の現状についてお聞きしていきます。》
 
奥茂治氏の発言を要約するとこうなる。
 
①軍命があったということは確認できない。
 
②これは法廷でも確認されている。
 
③問題を困難にしているのは、公金を出金するために軍命を利用したということ。軍命説は遺族年金を得るための役所と住民の創作劇である。
 
④星氏は40数年前に自ら渡嘉敷島、座間味島に聞き取り調査に行き、新聞等にも記事を書いたが、軍命があったとは一回も書いていない。 上原氏は沖縄戦ドキュメンタリーの専門家であり二人の今回の発言は非常に重い。
 
 
 
注:この件に関し星氏は『うらそえ文藝』の対談の中で次のように発言している。

 それからこの裁判で、証言者たちが前言を翻して、逆な発言をするのも不思議な現象だ。例えば、宮城晴美さんのお母さんの宮城初枝さん、以前は宮平初枝さんだが、その人が軍命につぃて嘘の証言をしたこことを告白したのを、娘が後でまた裏返してあの告白は嘘だったという経緯がある。その上、戦後生まれの宮城晴美さんは自分の証言の真実性を訴えたりする。また、二重の虚言的な操作をする人が出てきたこりして、非常に疑心暗鬼になる。ただ、住民が本当のことを言えなくて、奥歯にものの挟まったような状能で証言するのを、私は数人から何度も感じてきたわけです。
 
 また、四〇年ほど前に渡嘉敷島と、座間味島に宿泊して、私は当時の村長と駐在巡査と宮城初校に会って話を聞いたわけです。そのとき何かしっくりせず隠しているなと感じたものです。隊長命令があったとは誰も言わなかったし、なかったとも言えないふうに、非常に曖昧だった。私は七一年の「潮」に「集団自決を追って」という文章を物語風に書いたけれど、わざとぼかして書いた。ある程度の確信はあったが、あの私の逃げ口上的な表現に対しては、今でも忸怩たるものがある
。》
 
星氏は四十年前の調査で、軍命はなかったことにある程度の確信はあったが、わざと核心部分をぼかして書いたことに対して、今でも忸怩たるものがある、と告白している。 その思いが今回の告発に到る動機だったのであろう。
 
■「梅澤死亡説」を利用した人々■
 
(奥茂治氏の発言要旨の続き)
 
⑤「鉄の暴風」が諸悪の根源である。 沖縄タイムスは、梅澤氏は朝鮮人慰安婦と不明死したとデタラメを書いて30年間も放置しておきながら今だに謝罪していない。
 
⑥一方梅澤氏が死亡していた方が、都合のよい人もいた。 援護金の手続きは梅澤氏が死亡とされていたため、手続きは簡単で偽造印鑑で済ました。
 
⑦一方の、赤松氏は生存しているため手続きには本人の署名と捺印が必要だった。
 
注:「侘び状」で有名な座間味村役所援護係・宮村幸延氏は、戦後30年間も、梅澤氏が死亡しているとして偽印鑑で援護法の申請手続きをしていたのであろうか。 
 
梅澤氏に「侘び状」を書いた理由は、兄の故宮里盛秀氏が発した自決命令の濡れ衣を梅澤氏が着ていたことに対する謝罪のほかに、
 
梅澤氏を「死亡者」として利用し、勝手に偽印鑑等で手続きをしたことに対する謝罪の意味も含まれていたのではないか。
 
後になって宮村氏は泥酔させられていたので「詫び状」の記憶はないと、前言を翻すことになる。
 
宮村幸延氏は村役所の援護係として援護金申請手続きに奔走するが、これも兄・宮里盛秀氏が住民を集団自決に誘導したことに対する弟としての贖罪意識が大きな動機になっていたのではないか。
 
1957年8月、座間味村総務課長・宮村幸延氏は上京し、慶良間戦における集団自決補償の目的で当時の厚生省と折衝を重ねている。
 
その結果1963年10月、集団自決の軍命が理解できるとは思われない6歳未満から0歳児までの子供(148名)が、準軍属に決定することになる。 これも宮村氏の功績だとして座間味村役場の記録には残っている。
 
宮村幸延氏の問題の「侘び状」の文言は次の通り。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編著 PHP研究所)より)
 
《 証言  座間味村遺族会長

昭和20年3月26日の集団自決は梅澤隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した、ためのものであります

右 当時援護係 宮村幸延 捺印

 

梅澤裕 殿

昭和62年3月28日 》

自筆捺印の「詫び状」まで書いていながら、「泥酔していたから」という子どもじみた言い訳にも驚くが、

裁判長がこんなミエミエの言い訳を信じたことも、「集団自決訴訟」の七不思議の一つである。

ここにも「戦後民主主義」に毒された裁判長の、大江健三郎・岩波書店に対する必死の援護の意志が垣間見れる。
 
裁判長は「中東の笛」を吹いたのだ!
 
  

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日本軍誹謗の三点セットを沖縄版・言論封殺魔が提案

2009-08-06 06:36:51 | ★集団自決

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国によって歴史観が異なるのは理解できる。

ましてや隣国の中国と韓国では「南京大虐殺」「従軍慰安婦」などの問題があり、歴史学上の問題というより、外交カードとして政治問題になっていることも不本意ながら理解できる。

だが、自国の歴史観を頑なに相手国に押し付けると、結局相手国の反発を買うことになる。

中国国家主席江沢民は、1998年11月の訪日の際に今上陛下と当時の小渕恵三首相に自国の歴史観に基づいた謝罪要求を繰り返し、その執拗さに親中派の反発まで買ったことは記憶に新しい。

 

今回の横浜市の「つくる会」の教科書採択に歴史観の異なる韓国がクレームつけることは、他国の教科書に口出しする不条理はさておいても、これまでの韓国の動きから言えば予想は出来た。

韓国・中央日報⇒横浜市、歪曲歴史教科書を採択

韓国は横浜市の採択どころか、文部省検定にパスしたときからクレームをつけていた。

 
再度言うが「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」では、中国や韓国とは歴史観が異なってある意味当然ともいえる。
 
だが、沖縄では日本人でありながら中国や韓国の歴史観に擦り寄って、自国の歴史を誹謗する勢力が多い。
 
■日本軍誹謗の三点セット■
 
この「南京大虐殺」と「従軍慰安婦」に「集団自決」を加えて「悪逆非道の日本軍」の三点セットとして、
 
中国、韓国と沖縄で共通の歴史認識を持とうと言う沖縄の「識者」がいる。
 
その工作員的言動には呆れ果てる。
 
こんな人物が沖縄の新聞を根城に「中国・韓国の歴史観」を吹聴している。
 

中国と共通歴史体験を 慰霊の日シンポ2008年6月23日

沖縄戦を通したアジア観などについて語る胡冬竹氏(左)と目取真俊氏(中央)、仲里効氏=21日午後、宜野湾市の佐喜眞美術館

 「シンポジウムと上映会―沖縄戦から見えるアジア、アジアから見える沖縄戦」が21日、宜野湾市の佐喜眞美術館で開かれた。「慰霊の日」に向けた同美術館の企画の一つ。シンポジウムには約70人が来場し、編集者の仲里効氏、小説家の目取真俊氏、中国北京生まれで、東アジア政治文化論などが専門の胡冬竹(フードンジュ)氏の提起に耳を傾けた。
 仲里氏は、沖縄戦と「集団自決」(強制集団死)をテーマにした月刊誌「世界」臨時増刊号に掲載された韓国・聖公会大学教授のクォン・ヒョクテ氏の論考を取り上げ「ヒョクテ氏は、沖縄戦や『集団自決』、教科書問題は、東アジア共通の問題と提示している」と指摘。当時、沖縄に駐屯した日本軍の大半が中国大陸から移動してきた点に触れ、「沖縄戦も、中国への侵略戦争と同じ文脈の中で語り直していく局面に立たされていると痛感している」と語った。
 
目取真氏もまた「南京大虐殺、従軍慰安婦問題、集団自決は、日本軍の名誉を汚す3点セット政府は戦後60年プロジェクトとして、教科書の記述を変えてきている。中国との流れの中で集団自決もある」と指摘、「沖縄人もアジア侵略の一方の担い手であったことを忘れてはいけない」と提起した。
 「南京事件が起こった中国なら『集団自決』に因縁を感じるはずだが、実際、中国本土では沖縄戦や『集団自決』問題が人ごとのようにしか受け止められていないのが現実」と語った
胡氏は「共通の歴史体験を語り続けることで『魂込(まぶいぐ)み』をする作業が必要」と、民衆レベルでの連帯が課題だとの認識を示した。

                   ◇

目取真氏もまた「南京大虐殺、従軍慰安婦問題、集団自決は、日本軍の名誉を汚す3点セット。>

日本軍の名誉を汚すために必死の沖縄タイムスと琉球新報。

その歪曲記事を告発した星雅彦氏の発言。

それに圧力をかける「沖縄版・言論封殺魔」。

こんなところでも大活躍の模様。

                   ◇

【おまけ】

横浜市の「つくる会」教科書採択に左翼勢力が猛反発しているようです。 以下は横浜市で頑張る現役教師のメールです。

>> 横浜の中学教師・○○です。
>> 我が市の8区が自由社歴史教科書の採択を決めました。
>> 港南、旭、金沢、港北、緑、青葉、都築、瀬谷の各区です。
>> 快挙であります。政令指定都市の横浜でこのような決定がされたことは、他の市区町村に
>> 少なからぬ影響を及ぼすものと考えます。
>> そこで心配されるのが、今後のサヨク陣営の猛烈な抗議行動です。横浜市教員の日教組の
>> 組織率は9割を超えています。市井の活動家と手を組んで強力な抗議をしてくるものと思
>> います。ぜひ、市教委の英断に感謝と激励の言葉を送ってください。
>> ●メールは、横浜市教育委員会HPの「ご意見・ご相談」のページ
>>   http://www.city.yokohama.jp/me/shimin/kouchou/
>>  上記の左側に横浜市の地図が載っていますので、市民の方は居住する区をクリック、市 外の方は「市外」をクリックしてお進みください。
>> ●教育委員会小中学校教育課
>>   電話:045-671-3265     FAX:045-664-5499
>>
>> 以下、小生の発信したメールです。ご参考まで。(新教育基本法の趣旨と新しい学習指導
>> 要領に則って作られた教科書は自由社教科書だけ…というのが重要と愚考します)
>> --------------
>> この度の教科書採択において、歴史で自由社の教科書を採択していただいて、その英断に
>> 感謝申し上げます。
>> 今回、新教育基本法の趣旨と新しい学習指導要領に則って作られた教科書はただ一冊、自 由社教科書だけでした。他社は全く改訂していない中、この事実は重いと思
>> います。 心配されるのは、今後、反日的な活動家たちが、貴教委に対して過激な街宣活動や組織を
>> 動員した抗議などで、撤回を求めて圧力をかけてくることです。そのような計画が進んで
>> いるという情報も聞いております。
>> ぜひ、良き公民を育てる教科書を守ってください。よろしくお願いします。
>> --------------
>> 一行でも結構です。全国から、たくさんの声をお願いします。
>> ○○拝
 
 

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「つくる会」教科書採択!お笑い「軍命論」

2009-08-05 13:16:42 | ★集団自決

 

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今朝の沖縄タイムスは久々に教科書問題の大見出しが、一面と社会面のトップを飾っている。

「つくる会」主導の教科書採択  横浜市教委が8区で、全国初

一面は上記引用の共同配信記事だが、社会面のタイムス記事の見出しにはタイムスの悔しさが滲み出している。

沖縄タイムス社会面トップの見出しと記事を紹介する。

「政治的意図感じる」

教育関係者ら懸念

「集団自決」体験者も批判

「政治的意図感じる」 つくる会教科書採択/教育関係者ら懸念【08月05日】
 沖縄戦時、慶良間諸島で起きた「集団自決(強制集団死)」について日本軍の命令や強制に否定的な見解を示し、南京大虐殺などの記述を「自虐的」と主張する「新しい歴史教科書をつくる会」が執筆した中学・歴史教科書(自由社発行)を横浜市教育委員会が4日、採択したことに、「集団自決」体験者や教育関係者から批判と懸念の声が上がった。

 つくる会の教科書は沖縄戦について「(1945年)4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、ついに陸上の戦いも日本の国土に及んだ」と記述。教育関係団体などが、同年2月の硫黄島、3月26日からの慶良間諸島の戦闘を指摘し、「事実に反する」と批判していた。

 横浜市教育委員会の定例会を傍聴した琉球大学の高嶋伸欣名誉教授。訪れた約250人の市民の大半は会場に入れず、別室で音声だけを傍聴したという。高嶋名誉教授は、定例会では「教科書の実質的な教育効果や歴史的事実の内容について話し合われることはほとんどなかった」とし、「明らかに間違った記述のある教科書が採択されてしまった。歴史的事実を学ぶ『教育』とは別に、一定の思想を子どもたちに植え付けようという政治的な意図を感じる」と懸念した。

 「身を切る思いで証言した体験者の思いを踏みにじる悲しい判断だ」。座間味島の「集団自決」体験者の宮城恒彦さん(75)は、声を落とした。「わざと慶良間を除外し『集団自決』の事実を消そうとする教科書。合格にした文科省、採用した教委の責任は重い。戦争美化の動きが社会全体にじわじわと広がっていることが怖い」と指摘。一方で、「県民の怒りの底流は続いており、全国的な理解も深まっている。今回の採択をしっかり問題視し、声を上げるべきだ」と訴えた。

 2007年9月の教科書検定意見撤回を求める県民大会で副実行委員長を務めた玉寄哲永さん。沖縄戦の実態は「集団自決」の悲劇を隠しては語れないとし、「戦争できる国にしたい権力者と特定の政治思想を持つ集団が一緒になって、子どもたちにうそを教えようとしているのではないか」と不信感をあらわにした。

 「集団自決」をめぐる教科書記述で、軍の強制性を明確にするよう求める要請書を先月末、教科書各社に送付した一人、教科書執筆者の石山久男さんは、「不正常な状況で審議されたとしか思えない」と批判。子どもと教科書全国ネット21は同日、採択の撤回を要求する談話を発表した。(略)

 

「つくる会」会長の藤岡信勝氏は「集団自決訴訟」の原告側応援団の一人であり、一審、二審で敗訴はしたが、

「残虐非道の軍命令による集団自決」が事実上否認され(軍命は証明されていない)、高校歴史教科書検定意見も撤回されていない現状で言えば、「つくる会」の教科書が採択されたことは、一つの流れとしてきわめて自然である。

ところがタイムスの見出しを見る限り、司法判断である大阪高裁では「軍命はあった」と判決されたのを、あたかも文科省が「政治的意図」で捻じ曲げたかのような印象を受ける。

このように沖縄タイムスは「司法」(裁判)と「行政」(検定意見)で決まったことを、自己の主張と異なると「政治的意図」などの恣意的文言で読者を印象操作してきた。

ここらで、復習のつもりで「司法」と「行政」の判断に強弁する「軍命あり派」の崩れ去った「軍命論」を検証してみよう。

先ず、沖縄左翼の「軍命論」に多少キレ気味の読者の涼太さんの怒りのコメントの引用から始まります。

2009-08-04 19:31:58 涼太  

集団自決問題を考えたとき、当初は「軍の命令だ」と言っておきながら、それが証明できなくなると、いや、当時の養育だ、軍の構造だと詭弁する沖縄側の姿勢が、この問題を拗らせている一番の原因です。こんな幼児のような駄々をこねる。そんな我儘は大人の社会では通用しない。と毅然たる態度で臨むことが、日本本土の責任ではないでしょうか。・・・
 

『うらそえ文藝』の「集団自決に軍命なかった」という主張は、大阪高裁でも教科書検定意見でも認知された事実だと書いた。

にもかかわらず沖縄紙は、あたかも軍命があったかのような報道を続けている。 そもそも集団自決を「強制集団死」と但し書きするところは明らかな「軍命あり」の印象操作である。

「集団自決」に敢えて但し書きを付けるなら、「集団無理心中」が最も相応しいのではないか。

では、沖縄タイムスを筆頭の「軍命あり派」は、印象操作以外にどのような詭弁で県民を欺いてきたのか。

その詭弁のあの手この手を羅列すると次のようになる。

まるで「お笑い軍命論」の有様だ。 これでは漫才のギャグにさえなりかねない。

■お笑い軍命論■

①「隊長命令の有無は問題ではない」

②「集団自決を隊長命令の背景を矮小化している」

③「軍のタテの構造に組み込まれた命令である」

④「軍官民共生共死の一体化が軍命だ」

⑤「天皇陛下バンザイは軍命だ」

⑥「戦陣訓が軍命だ」

何としても軍命にこじつけようとする軍命派は、恥も外聞もなく自説をクルクル変えてきた。

『母の遺したもの』が原告側証拠物件として提出されたと知った宮城晴美氏は次のように憤ったという。

「都合のいい部分だけのつまみ食いだ」と。

どこかで聞いたことのあるセリフだと思ったら『沖縄戦と民衆』の記述が教科書検定で「軍命なし」の根拠とされたとき、著者の林博史関東学院教授も同じようなことを言っていた。

林教授も自著で「軍命はなかった」と記述し、それが教科書検定の「軍命はなかった」の根拠にされるや、宮城晴美氏と同じく、被告側との板ばさみになっり「つまみ食いだ」と怒り狂ったという。

その様子は同業者の先輩・秦郁彦氏が『沖縄戦「集団自決」の謎と真実」(PHP研究所)で面白おかしく詳述している。

その林博史教授が、今度は「広義の軍命令」というどこかで聞いたような概念を持ち出してきた。

そして、しつこくも「軍命令はあった」とする本を出したという。

「広義の云々」は「従軍慰安婦」の「軍の強制連行」を主張する勢力が、強制連行の事実を証明できないと分かるや、突然持ち出してきた「広義の強制連行」と同じである。

林教授の新著『沖縄戦 強制された「集団自決」』の書評を書いたという「売れない評論家」センセのブログを見るとこのように書かれている。

《『沖縄戦 強制された「集団自決」』(林博史著、吉川弘文舘)は、「集団自決」において、広義の「軍命令があった」派の代表的な歴史研究者である林博史関東学院大学教授の新著である。曽野綾子氏や小林よしのり氏等が主張するような、いわゆる「公式文書」や「公式発言」としての「軍命令」はなかったかもしれないが、広義の軍命令なくして、「集団自決」は起きなかったはずだという立場に立つ著書である。》http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090802/1249175724

いやはや、なんとも未練たらしい。

こんどは「広義の軍命令」の登場か。

そもそも、問題の核心が「隊長命令の有無」であったことは、軍命派の研究者達も口を揃えて主張していたこと。

それを今さら「『軍命令』はなかったかもしれないが、広義の軍命は・・・」と言われてもね。(失笑)

家永裁判に遡っても「隊長命令による集団自決」が重要な争点であったことは周知の事実。

隊長命令が大阪高裁で証明出来ないとわかるや、態度を一変、その変身振りには今さらながらあきれ果てる。

上に列記した「お笑い軍命論」は⑥で終了と思ったが、

「転向者」林教授の新しい軍命論(広義の軍命)を引っさげて再登場し、ついでのように「売れない評論家」センセまで便乗して登場となると、・・・もう一項目追加しなければならなくなってしまった。 やれやれ。

お笑い軍命論追加

⑦広義の軍命

 

前稿で宮城晴美著『母の遺したもの』の書評を書いた吉浜忍沖国大教授のことを失礼を承知で揶揄した。

だが普通の読解力のある人なら、吉浜忍沖国大助教授と同じ読後の感想を抱く。

そう、「これまでの『定説』とは違う真相を語っている」と。

「集団自決論争」の争点であり、核心の部分は「隊長命令の有無」であることを示す意味で、沖縄戦の専門家である吉浜教授の「書評」を全文引用する。

太字強調部分は引用者が施したが、沖縄国際大学で「沖縄近現代史」、特に皇民化教育、戦争、占領支配を専門とする吉浜教授が、集団自決問題の争点と核心は「隊長命令の有無」だと解説しておられる。

琉球新報 2000年12月24日

『読書』 『母の遺したもの』 宮城晴美著
 
「定説」とは違う真相語る
 
座間味島は、沖縄戦の前哨戦であり、悲劇の始まりでもあった。 悲劇の象徴が「集団自決」であり、今日まで「悲劇の物語」として語られてきた。 そして、物語の核心部分の「隊長命令による集団自決」には著者の母親の証言が有力な根拠となった。
当事者によるものであっただけにこの証言は大きな影響を与え、様々な出版物に引用されたり、粉飾されたりして。やがて「定説」化していった。 「隊長命令による集団自決」を一つの争点にした家永教科書沖縄出張裁判も記憶に新しい。
「定説」は時には善意によってつくられることもある。 座間味島「集団自決」の「定説」には、沖縄戦で戦死や負傷した一般住民に対する「援護法」適用問題が絡んでいた。 「集団自決」においては「軍との雇用関係」、すなわち隊長命令があったとすれば「援護法」が適用され、遺族は救済される。
この根拠として母親の言質がとられた。 母親の戦後苦悩はここから始まる。 さらに関係者との板ばさみで苦悩は助長する。
そして母親は死を前に、娘への遺言として、「定説」とは違う真相を語った。 隊長命令はなかったと。
本書は、戦後世代の娘が母親と真剣に向かい合い。 苦悩を共有しつつある、かつ執念をもって真相を究明し、「定説」を覆した。 戦後世代の沖縄戦継承が問われている今日、戦後世代が沖縄戦を二次体験として、体験証言を検証し次世代へ継承するという著書の姿勢は今後の指針になるであろう。
島は特攻隊の秘密基地となり、島の人口を上回る千余人の兵隊が駐屯し、軍民混在の戦場となった。 逃げ場がなく追い詰められた住民の「集団自決」。 この経緯や背景を丹念に追いかけた著者は、「隊長命令は本質的問題ではない」「『集団自決』は、まさに“皇国日本”の総決算であったといわなくてはならない」と結論付けたが、このことについては私自身も含めて、沖縄戦研究者の更なる論証が求められている。(吉浜忍・沖縄県文化振興会史料編集室主幹)
 
                    ◇
 
大阪高裁判決で証明できなかった「軍命論」。それを必死に強弁する「お笑い軍命論」を再度列記する。

 
①「隊長命令の有無は問題ではない」

②「集団自決を隊長命令の背景を矮小化している」

③「軍のタテの構造に組み込まれた命令だ」

④「軍官民共生共死の一体化が軍命だ」

⑤「天皇陛下バンザイは軍命だ」

⑥「戦陣訓は軍命だ」

⑦「広義の軍命があった」

 

まさにお笑いだ!

 
 

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