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狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

星雅彦氏、週刊新潮第二弾!沖縄版・言論封殺魔登場

2009-08-04 06:53:14 | ★集団自決

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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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現在発売中の週刊新潮8月6日号で、櫻井よしこ氏の星雅彦氏への取材第二弾が掲載されている。

前回は最初に櫻井氏から電話が入り、取材の申し込みを受けたがお互いの日程が合わず、日時を設定して改めて櫻井よしこ氏の電話取材を受けたという。 

その後、週刊新潮の記者が来県し、上原氏と二人で取材を受け、その取材内容を櫻井よしこ氏が目を通して特集記事にするとのことだった。

ところが今回は星氏のほうから電話をいれたという。

その記事の冒頭部分を紹介する。

《櫻井よしこ 日本ルネッサンス

沖縄戦、県民疎開に尽力した知事

沖縄の星雅彦氏が興奮気味に電話をかけてきた。
「昭和19年11月3日、那覇市で県民決起大会が開かれ『県民一丸となって戦おう。 元気な若者は戦おう。 老人と婦女子は日本古来の伝統にのっとり、後顧の憂いなからしめるために集団自決しよう』と決議したと報道されています。 この決議があったのなら、集団自決は軍命に関わりないことが明らかになります。 この報道の根拠はなんでしょうか」
星氏は文芸誌『うらそえ文藝』の編集長で、去る6月9日、日本軍の集団自決はなかった、だが沖縄のメディアはそのことを報じないと記者会見で語った人物だ。 
沖縄戦で米軍の艦砲射撃が始まった後の昭和20年3月25日から29日にかけて、住民が自決、それは軍命だったとされてきた。しかし、それより4ヶ月以上前に県民大会で前述の決議をしていたとしたら、軍命説は覆されると星氏は言うのだ。
同決議を報じたのは05年9月号の『正論』だった。 発言の主は梅澤裕氏。 氏は集団自決を命じた本人とされ、同じく軍命を下したとされる故赤松嘉次氏とともに、大江健三郎氏から「罪の巨塊」「者」「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべき」と非難された(「沖縄ノート」岩波新書)。
梅澤氏は集団自決など命じていないとして、大江氏らを訴えている。 
私は、星氏に問われてすぐ梅澤氏に電話し、氏が4年前に語った県民会議について尋ねた。 いま92歳の氏は電話口で実に詳細に語った。 
「慰霊祭で二度目に沖縄に行ったとき、座間味にいた郵便局長の石川重徳さんから聞きました。 昭和19年の明治節(明治天皇誕生日、11月3日)に、沖縄本島で決起大会が開かれた。 集まったのは県長(知事)を筆頭に県庁の主要人物、市町村の長や助役、警察、消防の主だった人たちで、軍は参加していなかったそうです。 そこでは、間もなく米軍がくる、働けるものは第32軍(沖縄軍)に協力しよう。 しかし我々は日本人だ、老幼婦女子は自決して後顧の憂いなきようにしよう、となったそうです」》

記事はこの後、「消えた『沖縄新報』」という小見出しで、梅澤氏の談話が続くが、著作権の関係で続きは同誌を購入して読んで頂きたい。

ところで目取真俊氏が自身のブログで星雅彦氏との面会と題して、星氏と面談したこと書き綴っているが、星氏が裁判の判決文全文は読んでいないことを捉えて、「判決文も読まずに安易に発言するな」と取れる「ソフトな言論封殺」をしている。

記事内容に不自然な点が多いので、星氏に問い合わせたところ、意思疎通上の誤解なのか、それとも目取真氏の意識的・確信犯的な誤記なのか、星氏の発言が数箇所にわたて歪曲して報じられている。

その詳細はここでは省いて稿を改めたいが、そもそも目取真氏のような「裁判応援団」の中心人物ならともかく、裁判に関わっていない星氏が裁判の膨大な判決文を読まなければ発言できないと言う謂れはない。 

「隊長命令の有無」に焦点を当てて発言している星氏としては、裁判の結果である「大江・岩波の謝罪・出版差し止め」などには興味がないようで、本人の言うように、判決は新聞の「判決要旨」を検証するだけで足りるはず。

結局、目取真氏はいつもの反対論者に対する得意の罵詈雑言を極力抑えて、「これ以上発言は控えるように」とソフトな圧力を加えたつもりらしい。

地元紙に連載コラムを持つ目取真氏なら、星氏の発言の疑問点は紙上で論ずれば済むことを、発言を控えろということは、やはり沖縄では沖縄二紙に反旗を翻した論調は罷りならんということなのか。

沖縄版・言論封殺魔の登場とは・・・。

ブルブル、恐ろしや!

 

【おまけ】

動画⇒ 集団自決サイパンが近因だった!

 

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秦 郁彦
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国境の島・与那国での勝利!自衛隊誘致派町長が再選

2009-08-03 11:11:49 | 未分類

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秦 郁彦
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外間氏が再選 与那国町長選(2009.8.2) カメラ     外間守吉氏

 【与那国】任期満了に伴う与那国町長選挙が2日投開票され、外間守吉氏(59)=無所属、自民、公明推薦=が619票を獲得し、元町職員の新人・田里千代基氏(51)=無所属=に103票差で再選した。投票率は96・03%(前回97・14%)。
 同町長選は、人口減少が進む同町の地域活性化策として、自衛隊誘致の是非や台湾との国境交流の手法が主な争点だった。
 当日有権者は1208人(男605人、女603人)。

 外間守吉氏(ほかま・しゅきち) 1949年10月8日生まれ。同町祖納出身。沖縄国際大卒。「福山海運」元代表。78年から与那国町議4期。86年から町議会議長。2005年町長選初当選。
 外間守吉氏の話 今以上に与那国島が発展することを約束する。自衛隊誘致に民意は示されたが、住民説明会を開き、必要なら住民投票も行う。

▽与那国町長選開票結果
当 619 外間 守吉 無現
  516 田里千代基 無新
(選管最終)

◆経済活性化に期待感/「自衛隊」町民議論へ
 外間守吉氏の再選は、1期4年間の実績への評価と、自衛隊誘致を含めた経済活性化への期待感の表れだといえる。ただ、自衛隊誘致の直接的な是非については、外間氏が政策から外し、反対派の新人と論戦を交わす予定だった公開討論会も中止になるなど、議論が十分に深まらなかった。
 町長選は3月に外間氏が出馬表明した後、対立候補が出ず、無投票の可能性が強くなっていた。だが町長や町議会議長が6月30日に浜田靖一防衛相に自衛隊誘致を要請したことで一変。告示日19日前の7月9日、田里千代基氏が出馬を決めた。
 自衛隊誘致が最大の争点となるはずだったが、町内は地縁血縁が強く、町民の自衛隊誘致への意思は見えにくかった。
 自衛隊誘致について外間氏は当選直後、自衛隊配備に対する住民の意思確認について「説明会を開き、その上で必要なら住民投票も行う」と話しており、あらためて議論し、意思を示すことになる。(深沢友紀)

◆「住民の意見聞く」/自衛隊誘致 田里氏は反対継続
 【与那国】島に自衛隊は必要か、否か―。自衛隊誘致をめぐって島を二分した激しい選挙戦を制し、再選を決めた外間守吉さん(59)は「町民一人一人の気持ちがこの結果を生んだ。民意は示された」と表情を緩ませ、駆け付けた多くの支援者と喜びを分かち合った。
 一方、敗れた新人の田里千代基さん(51)は「残念な結果だった」と敗戦の弁を述べた。
 町長選は町への自衛隊配備を浜田靖一防衛相に要請した現職の外間さんと、反対を掲げて出馬した新人の田里さんの一騎打ちとなった。台湾の国境交流の手法でも対立し、約20日間の短期決戦は熱を帯びた。
 外間さんは当選後のあいさつで自衛隊誘致に触れず、取材陣に「自衛隊配備で具体的にどうなるか(国から)示された後、住民に対して説明する責任がある。住民の意見を聞きたい。状況を見ながら住民投票するか決めていきたい」と述べた。
 一方、
与那国防衛協会の金城信浩会長(65)は「住民投票なしで自衛隊誘致への賛成が示された」と満面の笑みで語った。
 外間さんに投票した自営業の女性(51)は「今の人口では商売が成り立たないし、自衛隊が来れば医療が充実する。そうすれば(自分の)弟のように搬送遅れで半身不随になるようなこともない」と自衛隊配備への期待をにじませた。
 一方、田里さんは「選挙中は町づくり政策を中心に訴えてきた。日々支持が強くなっていると感じていただけに、残念な結果だった」と唇をかみしめた。争点となった自衛隊誘致の是非については「ほかにも争点があったので、町民が自衛隊誘致に賛成ということにはならない」と強調し、今後も反対活動を続ける意志を示した。
 与那国島への自衛隊誘致に反対する住民の会共同代表の新崎長吉さん(67)は「外間陣営は争点をぼかし、誘致に賛成か反対かの投票ではなかった。みんなと話し合い、住民投票を求めるなどの活動を続けたい」と述べた。

                   ◇

自衛隊誘致は町議会で議決され現職町長も賛成で、民意は示されていたはずだが、

「平和運動」を背景に地元の反戦平和団体やマスコミはあたかも島中が自衛隊に反発しているようなキャンペーンを張り、今回、外間氏が防衛省に誘致要請したことにも強く反対していた。

投票日直前にも沖縄反戦グループの一つ、「沖縄平和運動センター」は、防衛省や県に対し自衛隊配備に反対する決議文を手渡し、与那国島でも反対運動を繰り広げ、これをマスコミが派手に報道していた。

その民意を無視したノー天気な平和行動を「逆風ってすばらしい!」の縁側さんが、例によって一刀両断していたので改めてここに紹介したい。

決議文提出

沖縄平和運動センターの崎山嗣幸議長は、今月28日に行われた与那国島への自衛隊配備反対集会及びデモでの決議文を沖縄防衛局や県庁などを訪れ提出したようだ。

 防衛局では真部朗局長が「与那国町長の自衛隊配備要請などを勘案しつつ年末に向け防衛計画の大綱の見直しを政府内で進めている」と述べている。

 それに対して崎山議長は

 「県民の多くが自衛隊の配備を旧日本軍の再来と感じる。防衛局として県民にどう理解を求めていくのか」と話した。凄いこというよね、この崎山とかいう変態オヤジ。

  また同行した参院議員の山内徳信は「与那国などの離島は昔から台湾などの周辺地域と文化交流を行っている。その流れの中で自衛隊の配備は狂気の沙汰だ」と批判しちゃいました。

 自衛隊は旧日本軍の再来ね~・・・・・・ん?あってんじゃん。そーだよ、そのとおり。それでいいんだよ。日本軍なんだもんね、間違いないけど、それが何か?

崎山の言う「県民の多く」とはどこのどいつのことでしょうね。私の周りにはそんな変人いませんが。

 参院議員の山内も同等レベルの猛者であるな。「自衛隊配備は狂気の沙汰」だとさ。オメーらのやってる集会や一昨年のいわゆる11万集会のほーがよっぽど狂気の沙汰だろが、ドアホ!この山内って、読谷村の出らしーが、まさか軍用地主じゃねーよな?》

このようにマスコミと「平和団体」が大騒ぎして煽っても与那国町民の判断は揺らがなかったのは、

一応、めでたしめでたしだが・・・。

自衛隊配備に否定的な立場をとる民主党が政権を取れば、白紙に戻る可能性もある。

国境の島の民意は外間町長の再選で自衛隊誘致が示されたが、友愛・民主党が政権を取ったら「友愛に自衛隊は不要」と民意を無視しかねない。

南西諸島の防衛力強化は、中国が東シナ海でのガス田開発を目的に海洋進出を進めていることや、

中国や台湾が領有権を主張する尖閣諸島問題もあり、防衛省の懸案となっている。

陸自を与那国に配備する場合、周辺海域の船舶の航行を監視する役割を担うとみられる。

今度の総選挙の結果次第では、南西諸島の防衛に大きな禍根を残すことにもなる。

自民党政権に必ずしも満足していなくとも、消去法を取れば民主党は消去されねばならぬ。

民主党に国の安全保障は任せられないと思う方、

クリック応援を。

 

【おまけ】

空想的平和主義者の巣窟「沖縄平和運動センター」を縁側さんが、ここでも快調に切り刻んでいます。

与那国に武力はいらない!

【おまけ】その2

【必見動画】です!

 
 
【追記】
 
驚いた! 
 
琉球新報は自説が民意だと思っているのだろうか。
 
 
 
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秦 郁彦
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怪人・上原正稔 最終章 追記あり

2009-08-03 06:37:56 | 未分類

 

以下は「ハーバービューホテルの決闘」第八章を編集したものです。

文末に【追記】あり。

■怪人・上原正稔 最終章■

佐野眞一氏のいう沖縄の愛すべき妖怪キジムナーこと上原正稔氏と、アンダケーボージャー(油食い坊主)とも言うべき太田昌秀氏の「沖縄ハーバービューホテルの決闘」を書いていたら、止め処もなく脱線して9回も続いてしまった。

さて、長いシリーズもいよいよ今回で最終章だが、途中から読む読者は、次ぎのリンクの順で読むと少しは分かりやすい・・・かも。

怪人・上原正稔氏を通して、沖縄のマスコミが報じない沖縄裏面史の一端が覗けるかもしれない。

勿論通して読んで頂いている方はスルーを。

 沖縄を語る“大文字言葉”-『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』感想文

ハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔

続・ハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔

第三章ハーバービューホテルの決闘

第四章「ハーバービューホテルの決闘」

第五章「ハーバービューホテルの決闘」 「1フィート運動」の正体

「ハーバービューホテルの決闘」第六章 沖縄戦メモリアル構想

「ハーバービューホテルの決闘」第七章 メディアの驕りが雲仙・普賢岳災害をもたらした

「ハーバービューホテルの決闘」第八章

 

(前回)<恵子夫人と入れ違いに太田昌秀県知事が会場に登場した。 上機嫌にフィアリー氏や総領事と話し、酒に手をつけた。 ぼくの存在に気がついた太田の秘書官桑高は顔色を変えて会場から出て行った。 何か、危険を察知したらしい。>

<だが、ぼくは気付かない。 ようやく、フィアリー氏と総領事に挨拶し沖縄タイムスの大山哲らと談笑している時だった。 会場の奥から顔を上気させ、目を吊り上げ、恐ろしい形相をした酒乱男が、「おい、上原、お前は県議会でよくも俺の悪口を言ったな」と叫びながら、掴みかかってきて、組んずほぐれつの大喧嘩が始まった。 その男が太田知事だった。 会場の「文化人」らは、呆気に、仰天している。 誰も太田を止める者はいない。 やがて、太田の罵り声を聞いた太田の一の子分である宮城悦二郎教授が青い顔をして、駆けつけてきて、太田を押さえようとするが、「キレた」太田を押さえることができない。三人がかりでようやく押さえつけたが、太田は「誰がアイツをここに入れたんだ」と喚いている。何という醜態だ。 ぼくはその時、怒りがこみ上げてきて、「知事たる者がなんだ。 貴様は知事じゃない。 沖縄の恥だ。 知事を辞めろ。」と叫んだ。 ぼくは憤然として、会場を出ようとした。 出口には20人ほどの琉球大学の女学生たちが茫然と立ちすくしていた。 泣いている少女もいる。 ぼくはそこで我にかえり、惨劇の場所を後にした。 だが、この事件が報道されることはなかった。

同じ酒のせいでも、太田知事のご乱行に比べれば、草なぎ剛君の全裸騒動なんて可愛いもの。

現役の沖縄県知事が外国の賓客を迎えた「文化人」たちが集まる高級ホテルのパーティ会場で、来客の一人に襲い掛かり、組んずほつれずの大乱闘劇えを演じる醜態に比べれば、

人目のない深夜の公園で全裸になって逮捕され、草なぎ剛君の方がよっぽど罪が軽いと思うのだが・・・全国的に報道されてしまった。

一方の太田元知事の醜態を報じる新聞はない。

何しろ当日参加した「文化人」たちのほとんどが、太田氏の息の掛かった者であり、太田氏を支援するマスコミも、本来なら逮捕されてもおかしくない乱闘劇を報道さえしないのだ。 

まるで島ぐるみで太田氏のご乱行を隠蔽しているとしか思えない。

太田氏のご乱行といえば、太田氏は知事時代、国が行うべき外交を「直接交渉」を口実に、毎年のように大名行列を組んでアメリカへ行くのを常としていた。 

同行の沖縄タイムス、琉球新報社が報じない知事のアメリカでの素行を産経新聞がすっぱ抜いたことがあった。 予定では米国政府の要人と面会するはずだが、当の知事は二日酔いでホテルの部屋で昼まから寝ていたとか。

地元紙には大々的に報じられた現地での太田氏の講演会には同行スタッフの方が聴衆より多く、知事本人は参加もしていなかったとか・・・。

いずれも太田氏の「身内」ともいえる同行の地元紙は、太田氏の現地での素行を読者に伝えようとはしなかった。

なお、上原氏が太田氏に襲われる前に談笑していた大山哲氏とは、元沖縄タイムス記者で、今では左翼の巣窟と化した「1フィート運動の会」の役員として太田昌秀氏や安仁屋政昭沖国大名誉教授等と名を連ねている。

上原氏が事務局長として若い仲間たちの協力で始めた「1フィート運動」が太田昌秀氏に乗っ取られたことを書いたが、

事務局長の椅子を巡って太田氏の周辺でも醜い椅子取りゲームが行われていたようだ。 

先ず事務局長の椅子を「上原氏は若い」という理由で奪った福地氏一派。 

次に女性運動の手に「1フィート運動」の実権を握ろうとして中村文子氏を事務局長に推した故宮里悦女史一派。(宮里女史亡き後は中村女子が継ぐ) 

そして「1フィート運動」乗っ取り劇の元凶である太田昌秀氏一派。

だが、左翼勢力の団結は見事なもので、最近の「1フィート運動の会」の名簿は太田、福地、中村の三氏が仲良く名を連ねている。

その役員名簿を一瞥すれば、「一フィート運動」は、左翼活動家に乗っ取られてと言う上原氏の主張が正しいことが分かる。

沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会 役員名簿

◆顧問  太田昌秀

       中村文子

◆代表  福地曠昭

◆運営委員 

 安仁屋政昭

 新崎盛暉

 石原昌家

  大山哲

 (以下略) 

                   ◇   

上原氏が純粋な気持ちで創設した「1フィート運動」は、太田氏に乗っ取られた後は、沖縄戦記録の発掘という地道なイメージを隠れ蓑に左翼イデオロギーの宣伝の巣窟と化したことは再三述べたが、

沖縄戦メモリアル構想は現在「平和の礎」として太田県政の成果として評価をうけている。

ところが沖縄のマスコミは決して報じることはない多くのデタラメがその石碑の裏には隠されていると上原氏はいう。

「平和の礎」の戦没者の刻銘に関しても、太田氏は自分の名誉欲達成のため多くのデタラメを行っているという。

これでは顕彰された戦没者も浮かばれないと思うのだが、これについて上原氏自身が記した文を著書より引用する。(太字強調は引用者)

今、摩文仁の公園に平和の石ころが乱立している。 24万余の氏名が刻まれている。 だが、この中で何人が沖縄戦で死んだのか。 誰も知らない。 なぜなら、この石碑は1931年の満州事変から1946年9月までに自然死したものも含む戦没者の氏名を刻んだものだから。 しかも、生きている人の名も刻まれているのだ。  特に、沖縄住民の戦没者が10万3千を越えることはないことを肝に銘じておこう。 なぜなら、これ以上の数字だと、戦前の人口を増やさねばならないからだ。 功名心の塊である太田は50周年の記念事業に合わせ、わずか2ヶ月で沖縄住民戦没者のリストを掻き集めたのである。 どこで死んでいようと構わなかったのだ。 しかも政教分離を謳う憲法を無視して、
15億円の国費が投じられている。 だから、平和の礎の入り口には「これは慰霊碑ではありません」と断り書きがある。
ここまで、ぼくは自分の体験した沖縄の堕落を書いてきた。 だが、太田のやりたい放題の悪政乱政によって、今、沖縄は海の底へ沈没しようとしていることを指摘しておこう。 読者の皆さんもひしひしと実感しているはずだ。 税収わずか800億円の沖縄県は今、6000億円の借金を抱え、事実上、「死に体」の状態だ。やりたい放題にやらせた
のは、権力に盲従する「文化人」、太田とつるんで税金を湯水のようにせしめている悪徳企業、「見ざる、聞かざる、言わざる」を決め込んでいるメディア、太田に裏切られて初めて太田の正体を知り、右往左往している中央の政治家だ。 
沖縄は死んだ。  あの「人が平和に生き、平和にしんでゆく島」は滅びた。 沖縄戦が終わった時、ぼくらは皆、地獄から甦ったかのように活き活きとしていた。 だが、太田が知事の座を下りても、生気が甦ることはない。

最後に上原氏の太田氏とその取り巻きの「文化人」、そして太田氏の悪行を隠蔽するマスコミを激しく糾弾するのであるが、上原氏の文からこれら沖縄をダメにした連中を抜き出すとこうなる。

①功名心の塊⇒太田昌秀元県知事

②権力に盲従する⇒「文化人」

太田とつるんで税金を湯水のようにせしめている⇒悪徳企業

「見ざる、聞かざる、言わざる」を決め込んでいる⇒メディア

太田に裏切られて初めて太田の正体を知り、右往左往している⇒中央の政治家

これまで長々と引用してきた上原氏の文は『茶柱が倒れる』(神山吉光編 閣文社 1998年)の中の「怒りを込めて振り返れ-そこのけ、そこのけ、裸の王様が通るー」よりの抜粋だが、同文の冒頭部分で上原氏は太田氏を想定してこう書いている。

ー ひとりの人間を知ることは世界を知ることより難しい。 
だが、裸の王様の正体を知ることは真昼の太陽を拝むことより易しい。 ただ、ぼくのように率直であればよいのだ ー ひとりぼっちの反逆者、上原正稔

そして文の最後を次のように結んでいる。

ソドムとゴモラの悪徳の都では、今日も裸の王様の行列が通る。 愚民が「王様の衣装は見事だ」「王様万歳」と歓声をを挙げる。 「あ、王様は裸だ」と叫ぶ少年の声は届かない。>

【完】

 

【付記】

上原正稔氏の著書を基に書き綴ってきたが、引用元の『茶柱が倒れる』の編者である神山吉光氏は、太田氏の夫人がDV(家庭内暴力)を逃れハワイで長年別居生活をしていることに関連して、太田氏の酒乱と暴力癖を次のように批判している。

太田知事は国家的暴力である戦争を嫌い、いろいろな書物を通して人々に平和を訴えた知事であり、又、第一級の平和主義者として自他共にそれを認めているはずだ。 ところが、この太田知事が家庭では夫人が同居出来ないくらいに暴力を振るっていたとは、正に天地がひっくり返ったような驚きであった。 いまがどうあれ、このような反社会的暴力を肯定し、これを日常行動とした太田知事は、側近がどのように弁明しようが、太田昌秀は県知事としても学者としても大失格であった。 私は暴力追放と社会正義の立場から、このことを太田知事本人に強く指しておきたい。>(「茶柱が倒れる」 神山吉光編 1998年)

 

【追記】

7月29日放映のチャンネル桜の取材で、上原氏は太田元知事は、県予算6000万円を捻出して沖縄タイムス、琉球新報両社に夫々3000万円ずつ配って自己の「悪行」の口封じをしたという主旨の発言をしている。

 

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怪人・上原正稔 秘書も逃げ出す乱闘の予感

2009-08-02 06:53:37 | 未分類

 

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以下は「ハーバービューホテルの決闘」第八章を編集・加筆したものです。

 

知事室を訪問した上原氏と屋宜具志頭村長ら一行が、知事から沖縄メモリアルは県独自でやるから、上原氏は蝋人形資料館でも作れと言われて、憤然と知事室を後にした。

その後の上原氏らの行動を氏の著書から引用する。

屋宜村長は顔を高潮させて言った。「上原さん知事抜きで事を進めましょう」 4月16日、ぼくは記者会見で具志頭村に沖縄戦メモリアルを建立することを発表した。 メディアは大々的に取り上げた。 だが、敵は太田だけではなかった。 やがて知事が新聞とテレビでしゃあしゃと、「沖縄戦メモリアルは私の夢だった。 ぜひ、実現したい」と発表しはじめると、朝日新聞、沖縄タイムス、琉球新報などのメディアは太田の太鼓持ちを始めた。 5月末にには件の「平和の壁懇話会」が設置されたが、そのメンバーには1フィート運動でぼくが選んだ委員が入っていた。 さらには、沖縄戦メモリアルの委員である船越義彰も入っていた。 比屋根照夫はメモリアルの委員を止め、中立を宣言し、今では大田の御用学者になっている。 これではアイディアも中身も完全に盗作だ。 ぼくは91年、秋の県議会に知事の剽窃行為を止めさせよ、との陳情書を提出した。 10月29日、文教厚生委員会で2時間の聴聞会が開かれ、ぼくは1フィート運動の醜い内幕から今度の知事の盗作まで、怒りにまかせて暴露した。 最後に委員の一人から「太田知事を今、どう思うか」と質問があり、ぼくは率直に言った。 「太田知事は人間失格であり、ぼくは腹の底から軽蔑する」 知事就任1年足らず、知事の正体を知らない全委員は目を丸くした。 県議会でいかなる知事も1市民からこのような侮蔑の言葉を投げかけられたことはない。 ぼくは歴史的発表をしたわけだが、裸の王様の行列を見て、あっ、王様は裸だ」と言ったに過ぎない。 メディアは全て、この聴聞会を黙殺した。 その後、メディアに護られた県は盗作したメモリアルの名を、平和の壁→平和の石→平和モニュメント→平和の礎と、石ころのようコロコロ名を変え、92年9月13日の冒頭で述べた事件になったのである。 ぼくは又しても、沖縄戦メモリアル構想を乗っ取られてしまった。

ここで言う「92年9月13日の事件」と言うのが『沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史』(佐野眞一)で紹介され、当エントリーのタイトルにもなっている「ハーバービューホテルの決闘」のことである。

著者の佐野氏は「1フィート運動」にからむ太田氏の別の顔を「小文字言葉」で紹介しているが、マスコミの隠蔽工作の結果なのか、毀誉褒貶の多い太田氏でも「平和の礎」の建立に関しては太田氏の功績と評価する向きは多い。

■ハーバービューホテルの決闘■

舞台を沖縄ハーバービューホテルに巻き戻す。

事件の詳細を上原氏はこう書いている。

事件は1992年9月13日、起きた。

戦後、戦犯容疑者東条英機の尋問を行い、その後、琉球政府の民政官を就めたフィアリー氏を歓迎するパーティがハーバービューホテルで催された。 もちろん、面識はなかったが、歴史の生き証人であるフィアリー元民政官に挨拶さえすればよかったのだ。 会場にはアメリカ総領事ら、多数の沖縄の「文化人」が集まっていた。 太田恵子夫人もいる。 恵子夫人はぽつんともの悲しげに立っていた。 苦労しているんだな、と思った。 沖縄の「文化人」は皆、ぼくと目をあわせるのを避けるように、ぼくから遠ざかる。 ぼくはフィアリー氏に挨拶するだけでよいのだが、皆が氏の周辺に集まっているので、その機会が来ない。
アメリカ公文書館で顔を合わせていた袖井教授とゾルゲ事件の宮城与徳の話をした。与徳が警察に全面自供したのは、情にほだされる沖縄人の弱さが原因だった。 恵子夫人と入れ違いに太田昌秀県知事が登場した。 上機嫌にフィアリー氏や総領事と話し、酒に手をつけた。 ぼくの存在に気がついた太田の秘書官桑高は顔色を変えて会場から出て行った。 何か、危険を察知したらしい

桑高秘書官が会場を逃げ出す前、上原氏が話をしていた袖井教授とは、戦後日米関係史を研究していた袖井袖井林二郎法政大学教授のことで、その年(92年)にUCLA日本研究所客員研究員になっている。 同教授は1975年には『マッカーサーの二千日』(1975年)で大宅壮一ノンフィクション賞及び毎日出版文化賞を受賞しているノンフィクションライターでもあるので上原氏とは同業のよしみで顔を合わす機会が多かったのだろう。
 
袖井教授はソ連のスパイだったゾルゲの子分で沖縄出身の画家宮城与徳に興味があったのか、与徳の絵を与徳の故郷名護市寄贈している。

袖井法政大名誉教授、宮城与徳の絵を名護博物館へ寄贈 2002年12月4日

 

■秘書も逃げ出す乱闘の予感■

 前回、上原氏が沖縄戦メモリアルの建立に県の協力を得るため知事室を訪問した様子を書いた。 

そのとき事前に屋宜村長ら同行者を外して「上原氏一人だけで会いたい」と上原氏に伝えたのは知事秘書官の桑高氏だが、

今回はパーティ会場に現れた上原氏の姿を見た瞬間「危険を察知した」のかいち早く顔色を変えて会場を出てしまう。

桑高氏が「危険を察知した」のは、何も上原氏が太田知事に危害を加えると感じたからではない。 

もしそうなら、知事に身の危険を感じながら逃亡したことになり、秘書官として職務怠慢の誹りを受けても仕方がない。

実は桑原秘書官は逆のことを恐れて逃亡したのだ。

日頃太田知事に接していて知事が酒乱の気があることを承知の桑高秘書は、太田知事が酒に手をつけたのを確認した後、そこへ上原氏が現れたのを見て、太田知事が酒乱で騒動を起こすだろうと察知し敵前逃亡したのだ。

そして桑高氏が察知したとおりの醜態を太田知事は演じるわけだから、さすがは秘書官、知事の行動は手に取るように想定済みだったわけだ。

それにしても太田氏は酒に手をつけた後は、いつも分かりやすい行動をしていたのだろう。

太田知事の取り巻きには琉球大学関係の子分が多くいるが、秘書の桑高氏はこれら琉球大学とは縁のない出版業界から抜擢された秘書官だった。

桑高氏は、その名前からも分かるとおり本土出身(静岡県)で東京の美術出版社に働いていたが、たまたま読んだ大田の論文に感動し手紙を書き、本土復帰翌年の73年、沖縄へ移住したという。

そこで大田氏の紹介で那覇出版社に入り、同社での初仕事が琉球新報に連載された『これが沖縄戦だ』の出版だった。

沖縄で文筆で生活する者は地元二紙に擦り寄った論調でなければ、生きていけないし、地元出版社も二紙の息の掛からない会社はほとんどない。

太田氏著の出版物の中でも最大のベストセラーである『これが沖縄戦』も琉球新報に連載した記事でも、単行本にする場合は、発売元は那覇出版社にするくらいだから出版社も新聞社には逆らえない。

1990年、大田氏が知事選に立候補したとき、数多くの出版で太田氏に儲けさせてもらった那覇出版社は、選挙違反ギリギリの作戦で太田氏にこれまでの恩返しをした。 

那覇出版社長の多和田真重氏は、太田昌秀著『これが沖縄戦だ』を地元紙に広告を出したのだが、目的は本の拡販というより太田氏の名を告知することだった。

書名よりずっと大きな文字で大田氏の名前を広告したのだ。

「選挙応援だ」とクレームがついたが、社長は儲けさせてもたった恩返しのつもりだったという。

桑高氏は太田氏の子分として県知事秘書から国会議員秘書とかわるが、その辺りの経緯を朝日新聞記事から引用する。

 <大田知事が誕生して、桑高も県庁に入る。2期8年つとめた大田が98年の選挙に負けたあと、閑職に回された。01年、大田が参院議員になると、その秘書になる。昨年、大田の政界引退とともに那覇出版社にもどってきた。

 「大田さんのおかげで、予想もしなかった人生になりました」。ひさしぶりの古巣で何をするのか。「『沖縄戦事典』と『大田昌秀全集』を出すこと。これをやりきれば、私が沖縄に来て34年の意味もあるかな」

 大田はいま沖縄戦史の決定版とするべく、本を書いている。東京から出せば広く読まれるだろう。だが、地元から出したいという気持ちもつよい。

 「鉄の暴風」といわれた米軍の猛攻に追われ、人々が命を絶った摩文仁の丘は鎮魂の地である。「そこで『これが沖縄戦だ』を売っているおばあさんがいるんですよ。そういう人たちの暮らしを応援できるというのは、本を出す者の冥利なんです」

桑高氏が「大田さんのおかげで、予想もしなかった人生になりました」と述懐するように、太田氏の周辺には沖縄の「識者」と称する人々や、利益配分にあずかる出版関係者が集まる。

太田氏の出版で利益を受けた那覇出版社が扱った太田昌秀著の出版物を拾うとこのようになる。

那覇出版の太田昌秀著作本

・『写真記録 これが沖縄戦だ』 1,785円(本体価格1,700円)

・『This was The BATTLE of OKINAWA』1,575円(本体価格1,500円)

・「沖縄論集見える昭和と『見えない昭和』」3,864円(本体価格3,680円)

・「戦後沖縄写真集 0からの時代」1,998円(本体価格1,893円)

・「鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦 血であがなったもの」998円(本体価格950円)

・「戦争と子ども~父から戦争を知らない子どもたちへ~」1,575円(本体価格1,500円)

 

太田氏の秘書官に過ぎない桑原氏や那覇出版社の多和田社長をことさら本稿で取り上げたのは、沖縄で文筆で生きていこうと思う者は沖縄二紙や地元出版社と何らかの関係を保ち、なおかつ「タイムス史観」に恭順を示しておかなければ生きていけないし、彼等は相互に利益共有で繋がっているという例を示したかったからである。

随分回り道をした。

だが次回はいよいよこのシリーズのクライマックス。

太田氏と上原氏の沖縄ハーバービューホテルの宴会場での乱闘劇の詳細に話は及ぶ。

続く

 

沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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何時まで続く沖縄紙の黙殺

2009-08-01 07:53:59 | ★集団自決

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1974年英国で制作された秘録第二次世界大戦の第22話、一億玉砕・日本銃後の記録から沖縄戦の集団自決に関する証言部分を抜粋
 
■沖縄二紙が『うらそえ文藝』を黙殺する理由■

「集団自決訴訟」は、昨年の大阪地裁で被告側勝訴の判決が出て、現在原告が上告中であるが、今年に入ってから最高裁の動きは見られず、しばらくこう着状態が続くと思われていた。

ところが5月に入ってから沖縄を震源地にした激震が走り、その余波は一気に全国を駆け巡ることになる。

その激震の経緯を追うとこうなる。

①5月11日、『うらそえ文藝』で編集長の星雅彦氏とドキュメンタリー作家の上原正稔氏が、その集団自決特集の中で、「集団自決に隊長命令はなかった」「沖縄タイムスは謝罪せよ」と告発した。

②6月9日、沖縄マスコミの黙殺に対抗して、星、上原両氏は沖縄県庁で記者会見を開く。

③県内マスコミが黙殺を続けるも、産経新聞と世界日報が「うらそえ文藝」の告発を報道する。

④6月中旬から下旬にかけて琉球新報と沖縄タイムスが、夫々宮城晴美氏と平敷武蕉氏を使って「うらそえ文藝」に反論を試みるが、そのピントはずれの論旨に良識ある読者の失笑を買う。

当日記でも宮城氏、平敷氏の両論に反論しておいたので、御一読を乞う。

世にも不思議な宮城晴美の論文 自著で論破される!

続・世にも不思議な宮城晴美の論文 木に竹を接ぐ目くらまし論

沖縄タイムスの反撃?「文化人」を使った姑息な個人攻撃

⑤7月に入るや、本土マスコミの週刊新潮、SAPIOが続々とご両人の告発を記事を掲載し、そしてチャンネル桜の映像取材により、「うらそえ文藝」の告発はネットを通じて一気に全国的に知られるようになる。

⑥その間、沖縄二紙が沈黙を守れば守るほど、沖縄マスコミの異常さが印象付けられる結果になった。

沖縄二紙があれほど致命的ともいえる告発を受けながら、まともに反論できないのには理由がある。

その理由とはご両人の告発は真実であり、沖縄二紙が主張してきた一連の主張が間違いであるからである。

「うらそえ文藝」の真実に対して捏造記事で真正面から立ち向かったら、新聞社の巨大組織といえども木っ端微塵に粉砕され、新聞社としての経営基盤さえ揺るがしかねない。

だとしたら、沖縄二紙が取りうる最良の手段は、ただひたすら沈黙を守る以外にない。

このように当日記が断定的に、『うらそえ文藝』の論調を肯定すると、きっとこのような疑念を持つ人が出てくるだろう。

「集団自決訴訟では、一審、二審とも原告敗訴ではないか」

「上告中とは言え、断定し過ぎではないか」と。

■高裁判決が認定したこと■

ここらで大阪高裁判決の意味と『うらそえ文藝』の主張を比較検証するとこうなる。

①大阪高裁判決では「集団自決で両隊長が命令を下した」という被告側の主張は、事実上否認された。 

より正確に記すと、両隊長が集団自決の命令を下したということは証明できなかった。 その意味では、両隊長の名誉は回復されたことになる。

②高裁で原告側が敗訴したのは、『沖縄ノート』などの出版停止と、大江健三郎、岩波書店の原告への謝罪等が棄却されたことである。

■教科書検定が認定したこと■

「集団自決訴訟」とほぼ平行して行われた「教科書検定意見撤回を求める」一連の運動が沖縄マスコミの扇動の下に全県的に行われ、

2007年9月29日に行われた「9.29教科書検定意見撤回を求める県民大会」は、実数は多く見積もっても2万前後であるのに、11万人という数字の底上げまでして政府に圧力を加えるという恥ずべき行為に及んだ。

11万人という捏造された数に政府首脳も一時は動揺したが、数で歴史の記述を決める愚かさを察した文部省は、結局「11万人集会」の不当な要求を拒否した。

そして教科書から「軍命令」は削除されるとiうことで決着した。

こうしてみると、司法である大阪高裁の「隊長命令」の判決と、行政サイドの「教科書検定意見」の「隊長命令」への判断は一致しており、両隊長の命令を事実上否定した結果になっている。

だとしたら、高裁では原告(両隊長)が敗訴したにも関わらず、『うらそえ文藝』で星、上原両氏が主張する「隊長命令はなかった」、「沖縄タイムスは謝罪せよ」という論旨は、司法によっても、文部省検定意見によっても正当であると認知されたことになる。

「うらそえ文藝」の主たる主張は大江・岩波に出版差し止めと謝罪を要求しているのではない。

『鉄の暴風』以来現在も続いている沖縄二紙の「隊長命令はあった」という論調に異議を唱えているわけであり、

県民を騙し続けたことも含めて沖縄紙に「謝罪せよ」というその主張は、大阪高裁も文部省検定も認めたことなのである。

では、ごく当然の主張をしているはずの『うらそえ文藝』が何ゆえ衝撃的なのか。

それは沖縄二紙を中心にしたマスコミが、『うらそえ文藝』の主張が、あたかも大阪高裁や教科書検定意見で否定されたような印象操作をして、県民は「隊長命令はなかった」という真実を知らされていないからである。

真実の前には沖縄二紙がいかに反論しようとも勝ち目はない。

しかもネットの普及により、賢明な読者は今までのように、沖縄二紙の歪曲報道に騙されることはない。

従って、沖縄二紙が現在取りうる最良の手段は、黙殺する以外にないのである。

沖縄二紙は,自らは社説などで反論することなく、数多くいるはずの沖縄戦研究家や大学教授などを使っての正面からの反論を敢えて避けた。

そして「女性史研究家」とか「詩人」という、いささかピントの外れた論者に、幻惑的文章で反論させたことは、出来るだけ議論を避けたいその焦りが垣間見れる。

いくら修辞や幻想に満ちた文章も、その恣意的修辞部分を取り除けば何の論理も残らない。

そこにあるのは無残な強弁のみの抜け殻である。

■最後の手段は?■

佐藤優氏が小林よしのり氏と「戦争」を始めたとき、佐藤氏は小林氏と正面から戦うことを避け、出版社に圧力をかけるという卑劣な手段で小林氏の攻撃を避けた。 事実上の敵前逃亡である。

小林よしのり氏は佐藤氏の卑怯な行為を指して「言論封殺魔」と命名した。

沖縄二紙も「佐藤vs小林」論争に見倣って『うらそ文藝』との正面からの論争を避け、「沖縄版・言論封殺魔」に変身するつもりなのか。

いや、他に取る手段は目下のところ、見出し得ないのかも知れない。

【付記】

当日記が「うらそえ文藝」の「隊長命令はなかった」という主張を真実だと断定する根拠は、大阪高裁判決と検定意見だけではない。

非常に明快かつ単純な根拠による。

集団自決の証言者は多数いるが、「隊長命令があった」と客観的検証に耐える証言者は一人も存在せず、一つの証拠も出ていないというのがその根拠である。

                  ◆

「11万人集会」のテーマである「教科書検定意見撤回」が否定された悔しさを琉球新報、沖縄タイムスを夫々次のように報道している。

結局「11万人集会」は空騒ぎに終わったことになる。

「集団自決」の記述後退 06年版中学教科書(2009.7.31)
【東京】中学校の歴史教科書の沖縄戦の記述に関し、1997年版では多くの教科書が掲載していた「集団自決(強制集団死)」に関する記述について、現行の2006年版の大半の教科書では出版社側によって検定前の申請時点で削除するなど、沖縄戦の記述や表現が後退していたことが30日分かった。中学校教科書の06年版の検定実施は04年度。06年度に高校教科書検定で「集団自決」の軍強制の記述が削除される前から、出版社が自主規制で軍の強制によって「集団自決」が行われた事実をあいまいにする動きがあったことが明らかになった。
 「子どもと教科書全国ネット21」(俵義文事務局長)など5団体が30日、東京都の文京区民センターで行った会見で発表した。俵氏は「97年版の教科書は事実に基づいた記述が行われていた。『新しい歴史教科書をつくる会』が戦争を美化した教科書を執筆するなど沖縄戦の事実を改ざんしようという流れがある中で出版社の自主規制で記述が変えられた」と指摘した。
 中学の歴史教科書は新しい学習指導要領のもとで来年4月から新たな教科書検定が始まるため、現在は原稿の執筆段階に入っている。このため5団体は7月上旬、中学、高校の教科書で「日本軍の強制」の記述復活など沖縄戦記述の改善、充実を各出版社と執筆者に文書で求めた。現時点で返答はないという。5団体は各社の対応を確認した上で今後の運動を検討するという。
 教科書出版社5社6冊の中学教科書中、97年版にはすべて掲載されていた「集団自決」の記述が06年版では2冊で削除され、3冊は「集団自決」の記述自体は残ったものの、誰が「集団自決」を迫ったかという部分があいまいにされていた。1冊は97、06年版ともに「強制されて集団自決した」と同じ記述になっている。
 日本出版労働組合連合会が24日、文部科学省に対し、高校日本史教科書の検定意見の撤回を求め要請した。連合会によると、文科省の担当者は「検定意見は学術、専門的な観点で適切に行われた」とする見解を繰り返し、検定意見の撤回は否定したという。(琉球新報)

                                               ◇

 

沖縄タイムス 2009年07月31日 社会 

軍の強制記述求める 「集団自決」/東京で5団体 教科書会社に【社会】

 《要請書を送付したのは「大江・岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会」「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」「沖縄戦の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」「子どもと教科書全国ネット21」と出版労連の5団体。》

                 ◇

「軍の強制を記述する要請書を送付した団体がこのようなイデオロギー塗れの団体であるとは実に恐ろしいことではある。

歴史教科書の記述は、歴史専門家の検証・研究の結果に拠るべきであり、

左翼新聞に扇動された「世論」で決めるべきではないことは論を待たないと思うのだが、

このような見出しの記事を平気で書く新聞の厚顔無恥には今さらながらあきれ返る。

「世論で記述復活を」 歴史教科書めぐりシンポ(2009.3.16)

世論で歴史教科書を書くって?

恥ずかしい!

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怪人・上原正稔 平和の礎

2009-08-01 06:22:45 | ★米兵事件

 

 






 

 

 

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以下は「ハーバービューホテルの決闘」第七章 メディアの驕りが雲仙・普賢岳災害をもたらしたを編集・加筆したものです。

                  ◆

 

■「ハーバービューホテルの決闘」第七章■

那覇市内の最高級ホテルで行われた沖縄の「識者」たちが集う大宴会場で大乱闘を演じた二人の怪人がいた。 

そのうちの一人、それも先制攻撃をかけた側の人物が、元琉球大学教授の現役県知事であり、そして後には参議院議員となる沖縄の「識者」だったことに驚き、そして同時に大爆笑してしまった。

その乱闘の原因を追っていたら、止め処もなく話は脱線していく。

さて、乱闘の原因の最大の理由である沖縄メモリアル構想に話を戻そう。

世界各国に戦没者を顕彰する慰霊の碑があるが、例えばベトナム・メモリアルはベトナム戦で戦死したアメリカ兵だけを刻んだ碑であり、ベトナム戦の生き残りが建立したもの。 

そこには米兵の戦没者より多いはずのベトナム兵やベトナム住民の戦没者の名は刻まれていない。

ところが、上原氏が構想する沖縄戦メモリアルは、敵も味方ない「すべての戦没者」、つまり沖縄戦でなくなった沖縄住民、日本兵、アメリカ兵、そのすべてを集め、1995年の沖縄戦五十周年の年に巨大な碑にその名を刻むという前代未聞のものである。

問題は沖縄の住民の戦没者数であった。

上原氏は、沖縄県が発表している12万2000人という数字や太田昌秀氏が自著で発表している17万8000人という数字が、統計的にデタラメであることを自著『沖縄トップシークレット』(沖縄タイムス刊)で発表した。

上原氏は、実際の住民の戦没者数の調査は、各字単位で中学、高校、大学生など若者たちを中心に改めて調査する予定だった。 この調査を機会に沖縄の若者たちが戦争を知るようになるという副次的効果も期待した。

建立する場所には1990年秋、激戦地であった具志頭村(現・八重瀬町)が村有地を提供すると名乗り出てきた。

実は具志頭村の上原文一氏は「平和の壁」構想を既に県に提出していたのだが、戦没者の名を刻むという構想にかけていた。 しかも上原氏の構想は、戦没者と言っても、敵味方に関係なくすべての戦没者名を刻名するという世界でも類を見ない壮大なもの。

具志頭村が上原氏の構想に渡りに船と村有地を提供したのも当然であった。

そこで具志頭村の屋宜村長が太田知事への協力要請を提案してきた。

太田知事の本性を知らない村長なら県の協力を仰ぐということは当然の提案であり、村有地を提供してもらうこともあって、上原氏が村長の提案を拒否する理由はない。

上原氏は自分さえ「1フィート運動」の轍を踏まないように気をつければよいと考えた。

そう判断した上原氏は、村長と同道で知事に面会すべく約束を取り付けた。

 

上原氏は村長と一緒に知事に面会することになるのだが、そこで再び太田氏の正体を知らされることになる。

その上、又しても結果的に煮え湯を飲まされることになる。

そのときの場面を上原氏自身の文章を引用して紹介する。

ぼくは自信満々だった。 だが、屋宜村長は「太田知事の協力を得たら、もっと順調に行くのではないか」と言ってきた。 ぼくは91年3月下旬、太田知事との面会を取り付けた。 4月5日、屋宜村長、上原文一、ぼくのアメリカの美人秘書の4人で知事室へ向かった。 桑高知事室長がでてきて、知事は屋宜村長らを外して、ぼくだけで会いたいと言ってきた。 様子がおかしい。 ぼくは構わず、屋宜村長らと一緒に知事室に入った。 ぼくが、沖縄戦メモリアル建立の趣意書を知事に手渡し、ピノー先生が送ってくれたアメリカ兵戦没者のリストを示しながら、知事に協力を要請した。 意外なことに、知事はこう言ったのだ。 
「沖縄戦メモリアルは私も昔から考えていて、これは県でやることになっている。 具志頭村は金がないからできないだろう。 具志頭村と君は蝋人形の戦争資料館をつくったらいいではないか」 これには一同、ぎょっとし、憤慨した。 ぼくはその時、太田昌秀の正体を見た。 何という偽善者だろう。 最後に知事は言った。 「具志頭村に沖縄戦メモリアルを建てることは新聞に発表しないでくれ」 ぼくらは憤然として知事室を出た。

勿論、上原氏と屋宜村長が太田氏の「提案」に同意するはずはなく、太田氏の協力は除いて当初の計画通り、上原氏と具志頭村だけで実行することになるが、結局名誉欲の塊の太田氏にトンビに油揚げで又しても盗作されてしまう。

現在「平和の礎」と名を変えた沖縄戦メモリアルの概要を、太田氏が「君は蝋人形資料館云々」した沖縄県平和祈念資料館のHPから抜粋し以下に引用する。

 

平和の礎概要

建設の趣旨
沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などでなくなられたすべての人々の氏名を刻んだ祈念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設する。

刻銘対象者
国籍問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々とする。この場合、沖縄戦の期間は、米軍が慶良間諸島に上陸した1945年3月26日から降状文書に調印した同年9月7日までとし、戦没場所は沖縄県の区域内とする。ただし、次に掲げる戦没者についても刻銘対象者とする。

○沖縄県出身の戦没者
・ア 満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者
・イ 1945年9月7日後、県内外において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者(ただし、被爆被害者については、その限りはない。)

○他都道府県及び外国出身の戦没者
・ア 沖縄守備軍第32軍が創設された1944年3月22日から1945年3月25日までの間に、南西諸島周辺において、沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した者
・イ 1945年3月26日から同年9月7日までの間に、沖縄県の区域を除く南西諸島周辺において、沖縄戦に関する作戦や戦闘が原因で死亡した者
・ウ 1945年9月7日後、沖縄戦の区域内において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者

基本理念
■戦没者の追悼と平和祈念 去る沖縄戦などで亡くなられた国内外の20万人余のすべての人々に追悼の意を表し、 御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。

 

このように「平和」の文言を数多くちりばめた趣旨や基本理念を読めば、これを建立した太田県知事の業績を評価するものは多いだろう。

だが、その「平和の礎」の裏に潜む名誉欲の塊と化した県知事、そして彼に擦り寄って名誉のおこぼれを頂こうとする沖縄の識者たちのドロドロとした権謀術策を知る県民は少ない。

すべてを知るはずのメディアがこれを報道しないからである。

続く

 

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