ちゃ~すが・タマ(冷や汗日記)

冷や汗かきかきの挨拶などを順次掲載

南郷太郎に踊らされて・・・別の南郷太郎

2018年12月02日 19時19分33秒 | 田村一二

南郷太郎をキーワードに、国会図書館の検索をしてみると、いくつかの『仔鹿と少年』の情報と『野球界』19巻6号に掲載された「關西に勃興した實業團ラグビー戰」という文章がでてきた。『仔鹿と少年』も『野球界』もデジタル化されているので、国会図書館・関西館に行けば読める。ということで、足を運んだのだった。

まずは、『野球界』の「關西に勃興した實業團ラグビー戰」をみてみた。目次には、南郷太郎の上に、「大毎」とある。大阪毎日進軍のことであろう。とすると、「大阪毎日新聞」の記者で南郷太郎を名乗っている者が書いたものかもしれないと、ふと悩む。内容を見ていると、「関西学生ラグビー戦」の話であり、田村がラグビー好きということはきいたことがないし、内容をざっと読んでみてもどうも文体も田村のものではないようだ。とはいえ、田村の著作に『バックネット』(ユニコン社、1951年)というのがあったので、「野球つながり」があるのではないかと頭をひねってみる。また、田村は、戦前の時代に、京都の日出新聞や大阪朝日新聞社会事業団などともつながりがある。後者は、知的障害児の教育の展覧会の開催などで深いつながりがあるのだが、これは大阪朝日新聞だし・・と悩む。結論として、大阪毎日関係の南郷太郎がいて、同一筆名の別人ではないかと推定した。ただ、もしもということもあるので、一応、国会図書館でプリントアウトしてもらったのだった。

『野球界』に登場した「南郷太郎は誰か」とずっとおもって調べてみるのだが・・・そうこうしているうちに、再度、国会図書館の検索をする機会があった。不覚であった・・・この『野球界』19巻6号は、1929年5月に発行されたものであり、まだ、田村は「代用教員」時代で、教員養成所に通っていた頃だった。そんなときに、このような記事を書くわけないじゃない。「南郷太郎」は、1946年に近江学園が南郷の地に設立された時に筆名としたものであるからである。「南郷太郎」の名前に踊らされた自身を恥じるのである。


南郷太郎を調べに

2018年12月01日 21時50分45秒 | 田村一二

南郷太郎の『仔鹿と少年』を読んでみたいとおもったが、しかし、一碧文庫にあるものはきれいなもので、それをコピーなどしてしまうと、当時の紙の質の問題もあるので、本が台無しになってしまうことが危惧された。

一碧文庫に本の保管をお願いして、帰ってから検索で調べると、所蔵している大学があったので、借りようと手続きをした。しかし、貸し出しは断られたのだった。国会図書館にはデジタル化されたものがあるので、閲覧と必要な箇所のプリントアウトで対応しようと思った。時間がとれずにいたが、ようやく12月に入った今日(土曜日)、行くことが出来た。今日の国会図書館での作業では、考えなければならないことがでてきた。まだ、整理が出来ていないので、別に書いてみたい。

ちょうど、国会図書館では、「開館70周年記念展示 本の玉手箱」(国立国会図書館70年の歴史と蔵書)が開催されていたので、のぞいてみた。夏目や樋口の帝国図書館についての言及や、保管している美装本、「君たちはどう生きるか」「アトム」「アンパンマン」などの初版本などが展示されていて、興味深かった。学生さん達もいってほしいものだと思った。


戸村逸二に続いて・・・南郷太郎?

2018年12月01日 20時21分20秒 | 田村一二

「両刃斬撃」のドタバタがあって、11月10日には次の青山塾の講義があった。その準備のために担当のTさんとやりとりをしていたときのことである。ショートメールで突然・・・・。

「ところで、南郷太郎は田村一二のペンネームですか?」との問いが・・・「南郷太郎著で『仔鹿と少年』という本が一碧文庫なるんですが、大雅堂からの出版です」と続く。

「田村一二の年譜に『子鹿物語』というのがあって、見たことはないです。もしかしたら、それ? でも、南郷太郎ですか? 俊樹さんが写真を雑誌に発表されたいたときは南郷俊樹という名前をつかっていたことはありましたが、南郷太郎は知りませんね。出版年は?」

「昭和23年5月5日です・・・」

「とにかく次の講義の時に見せて下さい」。そう言うと、僕の頭はぐるぐる回り、それにつれて目も回りそうになった・・・「南郷太郎!」

11月10日、講座の前に、とにかく『仔鹿と少年』の本を見せてもらった。「あとがき」をみると、伊丹万作の家にあったマジョリー・キンナン(新居格訳)『ザ・イアリング』を貸してもらって読んだところおもしろく、児童読み物にしたいとうことで訳者に断りを入れて製作したとあった。戦後初期の1948年に大雅堂から出版されていた。これは、田村一二の手によるものであることは明らかだった。そのとき居合わせていた、田村俊樹さんは「僕は知ってたよ。南郷太郎の話は、おやじから聞いていた」とぽつりといった。



「両刃斬撃」(京都日出新聞、1941年2月9日~2月20日 全10回連載)

2018年12月01日 10時51分13秒 | 田村一二

日出新聞に連載された「両刃斬撃」は10回。日時と表題は以下の通り。

 昭和1629日(日) 両刃斬撃1  社員は旅行する/昭和16210日(月) 両刃斬撃2  家庭は涼しい昭和16211日(火) 両刃斬撃3  人間は煙る昭和16214日(金) 両刃斬撃4 先生と言はれる程の馬鹿でなし昭和16215日(土) 両刃斬撃5 息子の會/昭和16216日(日) 両刃斬撃6 子供を着る昭和16217日(月) 両刃斬撃7 地獄の門は狭い昭和16218日(火) 両刃斬撃8 先生は逃げる/昭和16219日(水) 両刃斬撃9 代用教員昭和16220日(木) 両刃斬撃10 子供部隊

これらの翻刻には苦労した。目がしょぼしょぼになった。いろんな方にお世話になった。『障害児教育史研究―史料と論究』第2号に掲載したい。



戸村逸二だと! 田村のやろう!

2018年11月30日 23時07分29秒 | 田村一二

一刻も早く・・・・。再度、日出新聞のマイクロフィルムをかり出し、リーダーでみる。昭和16年29日(日)からはじまっていた。「両刃斬撃」の枕には、執筆は「青年教員戸村逸二」とある。

「とむらいつじ」だと! 「たむらいちじ」の姓の一文字、名前の一文字をかえた筆名である。その紹介文は次のようなものだ。

固く温和しいばかりが能ぢゃない、時代の潮流は今や激しい奔流となって、表面平静かに見えた教育界にも物凄い渦を巻き起し、底に沈殿せる雑殻、老廃物を押し流して、生氣に満ちた新しい教育が国民錬成の名において確立されんとしてゐる。殊に小学校教育は国民学校に生まれ替わり教育新体制の第一歩を踏みださんとしてゐる時-初等教育界に渦巻く暖流と寒流の交流は世人の関心を高めずにはおかない。両刃斬撃文字通り教育界に容赦なき一刀を浴びせかけたのは現在市内某小学校に奉職する一青年教員戸村逸二氏である。公正な筆先は両刃の如く縦横に払はれ必ずや教育刷新途上の教育界に大きな示唆を与へるであらう。

筆名「戸村逸二」に、血が頭に上って、一本とられたという気持ちとこのやろうという気持ちが交差して、読み進めることが出来ない。もちろん、マイクロフィルムの精度の問題、旧字体の漢字、複写の問題などがあり、判読不能の文字がたくさん出てくる。それを一つ一つ吟味しながら、フリーズしがちなところを、他の人たちも巻き込みながら翻刻を進めていった。


ああ、「両刃斬撃」 田村一二のこと

2018年11月30日 21時33分07秒 | 田村一二

実は、「日出新聞」のマイクロフィルムを調べているときに、同じ時期に違う欄に同じタッチの版画と文章があったのは気になってはいた。署名はなかったし、マイクロフィルムで読みにくいこともあって、まさに「見た」ということだけで、吟味することはなかった。

ただ、その中に「代用教員」という表題のものがあったので、そこだけはプリントアウトしておいた。昭和16年の国民学校への改変にともなって、「代用教員」の名称が「助教」にかわるというものだった。糸賀一雄も代用教員の経験がある。京都帝国大学を卒業してから「代用教員」を経験した人たちのことを調べていた関係もあり、気になり、プリントアウトしたのだった。

家に帰って、大木会の青山塾での講義の準備をしようとして、再度見直そうと『ちえおくれと歩く男』を開いたところ、パラリと1枚のメモ用紙が落ちた、ひろってみてみると「両刃斬撃―忘れられた子ら」のメモだった。「両刃斬撃」は見たことも無いものと思っていたが、以前、そのメモを自分でつくっていたのだった―不覚だった、このことを知って、資料館にいっていれば、「忘れられた子等」と「両刃斬撃」の両方を探し出して、講義に反映できたのに! 「両刃斬撃」を確かめることができないで、青山塾の第一回目の講義にのぞまなければならなかった。

再度いく時間はない、もやもやしたものをかかえて、生煮えの話をしなければならないので、イーッとなってしまっていた。とにかくそれで、10月6日の青山塾の田村一二を終えたのだった。一刻も早くと思い、次の日曜日に京都府立資料館にとんでいったのだった。


田村一二「両刃斬撃」 ?

2018年11月29日 21時30分27秒 | 田村一二
 田村一二が特別学級の教師になったことについては自らも語り、『忘れられた子等』において主人公の谷村清吉として登場して、その経過を記しているのは、よく知られているところである。
 直接『忘れられた子等』の執筆の経過について語ることはあまりなかったのではないかと思われる。田村にとっては、いつも前を向いていくということになるので、あまり過去のことについて述べることはしないのかもしれない。そうではあるが、1974年に、田村が語った内容をもとに制作された『ちえおくれと歩く男』(柏樹社、1974年10月)で、少しだけ触れられている。その表題が「両刃斬撃―忘れられた子ら」としてまとめられた部分である(pp.65-68)。
 
 そこではおおむね次のようなことが語られている。
 特別学級を担任して10年がたった頃(注:8年前後がたった昭和15年か16年の頃と思われる)、京都新聞(注:京都日出新聞)の東辻記者がきて、「この子等のことを連載しませんか」と言われた。東辻の人柄が気にいったので書くこととなった。それも絵と添えて毎日(?)連載となる。
(ここからが問題)・・・その見出しが「両刃斬撃」というのである。
 
「『両刃斬撃』というのはね。相手も斬るけどこっちも斬るという意味に使うたんです。
つまり読者、社会も斬るけど、同時にこっちもうかうかはしておれん、同じ刃で斬られているのやというんですね。
ほんまは誰も斬られてませんな。向こうさんも一向平気でしょうし、こkっちも至極のんびりと書いているんですから。
 こんな題をつけて、力み返っておったんやなあ、自分の若さが笑えてきますね。」
 
つづけて、これらの連載をみた教育図書の飯田君というのがやってきて、「先生、これを本にさしてもらえませんか」と言われ、田村は「僕はいっぺんに承知しました」といっている。田村の記録も薄れて、混乱しているようで、「とにかくこの『両刃斬撃』がもとになって、僕の第一作の『忘れられた子ら』が生まれた」というのである。そして、次のように続ける。
 
「『忘れられた子ら』が導火線になって、『手をつなぐ子ら』『石に咲く花』『百二十三本目の草』『特異工場』『バックネット』などが次々と出ました。
 まあ、何しろ十年間、黙ってこつこつと書き溜めた記録がありましたから、堰を切ったように流れ出たんでしょうな。
 滋賀に行ってから『開墾』『はなたれぼとけ』『茗荷村見聞記』を書きました。
 そのうち映画になったのは『忘れられた子ら』と『手をつなぐ子ら』どちらも脚本は伊丹万作さん(前者の脚本は稲垣浩)、監督は稲垣浩さんでした。(後略)」
 
「両刃斬撃」・・・それはこれまで聞いたこともない表題だった。

田村一二『忘れられた子等』のこと

2018年11月27日 15時42分48秒 | 田村一二

日出新聞連載の「忘れられた子等」は『鋏は切れる』を経て、田村のはじめての著書『忘れられた子等』(教育図書、1942(昭和17)年)に、他のエピソードもいれられて、「子供の巻」がつくられる。もう一つの柱が「先生の巻」であり、「ペテン」からはじまって自ら「特別学級」の教師になっていく姿を記したものである。この『忘れられた子等』も、書誌情報をたどっていくのはなかなかのものがある。1942年に教育図書から出され、何版が出されたのか?、戦後、 1949年に 冬芽書房から再版されている。また、1950年に大阪教育図書から、「忘れられた子ら」「手をつなぐ子ら」その他を含めて再刊されている。その後、北大路書房から、再度、発行され、何度か版をあらためられて出されている。

清水寛は「滋野小学校の特別学級と田村一二先生」『京都障害者歴史散歩』(1994年、文理閣、pp.163-181)の中で、その魅力を語っている。『忘れられた子等』の書かれた時代背景との関係で、後の版との相違を次のように書いている。

「時代は日中戦争から太平洋戦争への”戦争と軍国主義の嵐”が吹きつのっていくときである。田村の著作にも、そうした時代の風潮は影を落としている。例えば、一九四一(昭和一六)年の一月末から二月の半ば頃にかけて京都の日出新聞に自らの挿し絵を添えて連輝していた教育小説『忘れられた子等』の第五・六話には「兵隊ごっこ」、第一二話には「徴兵検査」と題する物語がくりひろげられている(田村一二著『鋏は切れる』京都市教育部学務課発行、一九四一年、所収。ただし、戦後版の『忘れられた子等』では削除)。しかし、それらの物語も含めて、田村の作品の基底には常にこの子らに寄せる深い愛と良心的な教師としての教師としてのヒューマニズムの精神が貫かれている」

とはいえ、この「削除」問題については、正確ではないので指摘しておきたい。すなわち、1950年に大阪教育図書から出されたものでは削除されていたが、北大路書房版にはこの3話は掲載されているのである(冬芽書房版については未確認のため、確認必要)。なぜ、北大路書房版では復活されているのか―これも謎と言えば謎である。

敗戦後のGHQの検閲方針との関係は、もう一つの著書『手をつなぐ子ら』の場合のほうが明確である。このことは『児童文学の中の障害者』に詳しい。


田村一二 『鋏は切れる』の中の「忘れられたる子等」

2018年11月26日 20時35分29秒 | 田村一二

日出新聞に掲載された「忘れられた子等」は、その年に京都市教育部学務課から刊行された『鋏は切れる』(1941(昭和16)年)に再掲された。中扉には、「忘れられたる子等」とあるが、あとは「忘れられた子等」である。目次とともに、はじめが書かれている。次のようなものである(pp.104-124)。

「忘れられた子等」
 まじなひ
 脳味噌
 金光さん
 視学さん
 悔み状
 兵隊ごつこ1
 兵隊ごつこ2
 子守唄
 狸
 切手
 交通信号
 髭
 お焼香・菓子
 病気
 
 「忘れられた子等」と云ふのは、私がこの一月末からニ月の中頃にかけて、京都の日出新聞社に絵と共に出した文である。ここには文だけ転載することにした。
 これは、忙しい世の中から忘れられた彼等についての世人の認識を少しでも深めたいために書いたものである。彼等の持つ純真性を、無邪気な人間味を少しでも知つて貰ひたいのが目的である。勿論所謂大衆相手であるから、教訓めいた事はなるべく書かず、唯事実をそこへ出して、その裏にひそむ私のねらひどころを掴んで貰ふために、調子をくだいた。そのために、表面的に読めば単なる馬鹿馬鹿しい話として夕食の笑ひ話の糧になるに過ぎなくなると思ふが、心して読んでくださればいくらかの示唆はあると思ふ。
 新聞のことが出たからついでに書いて置くが、大阪朝日新聞には非常にこの教育については後援して下さる。特に会社の社会事業団主事の濱田さんが甚だ理解があつて。始終吾々を後援したり激励して下さるが、ついこの間も濱田さんの肝いりで全国の中に関西精神薄弱児教育研究会の事務所を作つて下さつた。関西のこの種教育に従事する者が集まつて大いに努力しようと誓ひ合つてゐる。今後同社の後援を願うこと切である。
 尚、日出新聞の東辻さんも教育に理解深く、いろいろと骨折つてくれて、新聞と教育者とが手を握つて社会人をもつともつと啓蒙しなければならなんと意気込んでゐられる。
 従来の特別学級担任は余りにもおとなし過ぎた。教壇を忘れてはいけないけれども、もつと活発に社会に働きかけてもいいと思ふ。結局それらがこの教育を盛んにする側面運動であるのだ。幸ひに新聞社が理解をもつて後援し始めてくれたのだ。大いに頑張って社会に働きかけるのに絶好のチャンスである。全国三十萬の忘れられた子等の為である。

田村一二 京都日出新聞連載の「忘れられた子等」のこと

2018年11月22日 17時42分40秒 | 田村一二

田村の本格的な著作の出発となったのが、『忘れられた子等』(1942(昭和17)年、教育図書)である。その内容の一部は、京都日出新聞に、田村が連載した「忘れられた子等」(昭和16年1月~2月)を組み込んだものであった。もうすこし、その来歴を正確にすると、日出新聞への連載「忘れられた子等」は、その後、昭和16年に京都市学務課によって発行された田村の『鋏は切れる』に所収され、それにエピソードを追加して、「子供の巻」を構成し、「先生の巻」と合わせて『忘れられた子等』がつくられたのである。

『鋏は切れる』では、「忘れられた子等」として連載されたとして15のエピソードが所収されている。ちなみに、その見出しは「忘れられたる子等」となっており、日出新聞の表題と若干の相違があった。これまで、「忘れられた子等」の連載、『鋏は切れる』に所収された「忘れられたる子等」、そして『忘れられた子等』のそれぞれの内容について、吟味をする必要があると思った。

これは単純なことで、京都日出新聞から、連載を見いだすという初歩的な作業である。京都府資料館、現在は歴彩館と名称をあらためているが、そこにマイクロフィルムで保存されている。ちなみに、戦前の京都の新聞は、この京都日出新聞と京都日日新聞があり、戦中に統合されて京都新聞となった。「忘れられた子等」は、京都日出新聞マイクロフィルムでは、「子どもと家庭」の欄に1946年1月28日から2月18日まで連載されていたが、14のエピソードを確認することができた。なお、連載にあたっては次のような紹介があった。

「これは忙しい世の中から忘れられた精神薄弱児童と毎日暮らしている⼀小学教師の手記である。人的資源云々の言葉が何かにつけ用いられる今日、これら特別児童に対する世人の関心はあまりにも疎いのではなかろうか…全国で数万京都市内でのみでも二千を[数]する、この種児童の存在は決してこの際看過さるべき問題ではなかろう。忘れられた世界に住む子等に対する理解と同情がやがて国家的関心事として世⼈の認識に深く刻まれんことを期待しつつ…」

『鋏は切れる』と対照させてみると、その最後のエピソード「病気」を見いだすことが出来なかった。これは見落としかもしれないが・・・何度も確認したのではあるが???


田村一二の謎 第一の心境の変化

2018年11月20日 13時16分25秒 | 田村一二

田村は、子どもたちとの直接的なふれあいの中で、頑なで癇癪を起こす心を、徐々に溶かし、契約の二年に至るまでに心境を変化させていく。田村は、担任となってから一年半の頃、「精神薄弱児の図画」(昭和9年9月15日)という手稿に、解けかかっていく心の様子を実に率直に書いている。

 

「(前略)根本は「彼等を知る」ことだ。こう云えば「ふん又古臭い事を云つてゐるそんな事はあたり前だ」と云ふだろう。だがそのあたり前の事が一番大切なんだ。これは僕が本当に受け持ってみて沁々感じた事実なのだ。…

僕は初めて受持った当時毎日癇癪が立った。一方で可哀さうだと云ふ気があるのだがそれでゐて癇癪玉が破裂してしまふ。その次に失望落膽した。あゝどうせどんなにやつたって駄目だと半分自棄になった。

ところが人間は妙なものでこんな時期を過す中に次第に彼等と云ふものが判りかけて来た。判りかけてくると可愛くなってくる。

これは本当を云ふと諦めからきたのかもしれんし、他の普通児の事を忘れかけて来たのかもしれんし、又この子供達になれてしまつて余りそのあらが目につかなくなつた故かもしれん。

とに角僕ははじめから彼等に高尚な教育愛なんか持つて臨んだのではないのだ。実は厭で堪らなかつたのだ。他の普通学級を持つてゐる連中が羨ましくて堪らなかった。今だって時々羨ましくなる時がある位だ。…

で、とに角僕は毎日の煩悶の中から悟つたのだ。

これは三馬力の機械だ。それを十馬力の機械の様に働かさうとするかたら怒こつたり泣いたりしなければならない。そして結局その機械そのものをこわしてしまふような結果にならぬとも限らない。

三馬力の機械は三馬力の機械としていためず錆びさせず、三馬力としての全能力を発揮させる事が出来ればそれでとに角神様への義理はすむと思ったのだ。

三馬力を二馬力や一馬力でほつて置かない様に全能力を出させてやるやうにする事が今の僕の教育なのだと思つたのだ。

それから僕は気が楽になつた。子供達ものんびりして来た事も自慢ではないが事実だ。

彼等が可愛くなればもうしめたもので、指導法なんか僕がこゝで下手な文章でくどくどと云はなくても自然とわかつてくるものだ。(後略)」

 

 田村の「心境の変化」について、『忘れられた子等』が出される前年、京都市教育部より刊行された『鋏は切れる』(1941年5月)でそのことについてふれている。「八つ当式生活」をして、癇癪玉を破裂させながら、子どもたちと過ごしていくうちに、「子どもたちに対する憎い気持ちとすまんと云ふ気持ちが、段々に双方せり上がって来て、もうどうにもならなくなった」という。あるとき、漢字の指導をしていたところ、ある子どもには難しいだろうとひとりごとで「難しな」といったところ、その子がその文字を「難しいな」と読んだ-その瞬間はっとして何かがはじけたという。それ以後、田村は、よく笑うようになったし、子どもたちも明るくなり、互いに授業に精を出すようになったという。それが「第一の心境の変化」であった。

この手稿「精神薄弱児の図画」は何のために書かれたのか? はじめでの手稿として「図画」を選んだのは田村の経歴からわかるのだが?ところどころに、筆が入っているのは、田村自身の手になるものか、それとも、校長斎藤によるものなのか?? この手稿は、田村の著書の中にどのように入り込んでいるのか、そうでないのか?


田村一二の謎 その4

2018年11月19日 17時00分29秒 | 田村一二

田村一二の知的障害児教育の出発は、1933年滋野小学校への赴任の際、校長に特別学級担任を要請されたことにはじまる。本人は、優秀児の学級といさんで了承するのだが、それは本人の思い込みで、校長の「ペテン」と言い出したものの、校長の説得に2年の期限付きで渋々引き受けさせられた経過はあまりにも有名である。その後、担任につけた校長に反抗し、不良教師の役回りを演じたと、本人は常々語っていた。また、この経過は、田村の出発点となった著書『忘れられた子等』でも、「ペテン」と表題をつけて語っている。

滋野小学校への赴任には、実は伏線がある。一つは、田村が代用教員時代に通った教員養成所での田辺一郎(滋野小学校の教頭となる)との関わりである。もう一つは、滋野小学校での特別学級を設置した校長斉藤千栄治のはからいである。田村に「ペテン師」よばわりされたその校長であった。特別学級の担任の候補を京都師範学校に求めていた斉藤は、おそらく、田辺を経由して、田村の存在を知り、京都師範学校とも相談していたと思われる。『忘れられた子等』の中にも次のような場面がある。

「ペテンだ。普通学級を持たせてください」に対して、「ペテン? 馬鹿なことをいっちゃいかん。君が専攻科に居る間に、師範ともちゃんと交渉がしてある、君も、既に承知の筈だ、さっきも君は、特別学級結構ですと云ったではないですか」と校長がやり込めるのである。

田辺一郎のその後、田村が滋野小学校から石山学園をつくる経過の中で再度、重要な役割を果たすことになるが、ここではおいておこう。「ペテン師」呼ばわりされた斉藤千栄治は、すでに前任校の成徳小学校において京都市内で初めて特別学級を設置した校長であり、京都の特別学級史を綴る上で欠かせない人物であるが、最近のその経歴、特に奈良女子高等師範附属小学校での特別学級の開設と初期の実践を担った経験が掘り起こされてきている。このことに関しては、障害児教育史研究会『障害児教育史研究-史料と論究』創刊号、2018年を参照してほしい。この斉藤千栄治の生涯について、特に奈良から京都への転任の経緯など謎が多いので、それもいつかは紹介してみたい。

とにかく、田村一二の「特別学級」担任の出発は、1933(昭和8)年4月ということになる。そこから、2年という期限で担任をはじめたのである。黒板に725日・・・と残りの日時を書きながら、校長に反抗し、毎日絵を描きながら過ごした。また、子どもたちにげんこつを食らわすなど手荒い「指導」をしていくのであるが・・・。この日々は、いつくらいまで続いたのであろうか??

田村の特別学級担任の決意を垣間見せるものが、ぼくが田村のことをはじめなければならなくなったきっかけとなった森脇功先生の手元に保管されていた「精神薄弱児の図画」という原稿である。その末尾に、昭和9年9月15日の日付が筆で書かれていた。


田村一二 その3(経過)

2018年11月13日 17時45分10秒 | 田村一二

 ひょんなことから、田村一二の史料を前にすることになったのだが、並行してしていた仕事(療育記録映画「夜明け前の子どもたち」)の関係で、田村さんの息子さんに聞き取りなどの協力をしていただいた縁で、田村一二についての話を社会福祉法人大木会が主催する青山塾ですることになってしまった。そんな関係で、田村一二とつきあうことになったのだが・・・。

 田村一二の著作、報告、随筆、講演、その他多様な文章、絵画等の作品、ラジオ放送やテレビ出演などの音声・映像等の目録や現物・複写など、系統的に集められているわけではなかった。田村の伝記のようなものは大空社から野上芳彦がだしている。田村の経歴は、おおよそ著作に再構成されているので、その経過をたどることが出来るといわれているが、しかし、漏れているもの、埋もれているものも多いのではないかとおもっている。田村の個性にもよるが、著作にはその実践が散文的に表現されており、実践の跡づけをおこないながら、文芸批評・教育批評のような手法をとっておこなわざるを得ない。本格的な研究をしようと思うと、教育学や教育史的研究の方法論にも関わる問題が横たわっているともおもわれた。なぜ、これまで放置されてきたのか、このことについて、田村の後一麦寮の寮長を務めた吉永太一は資料の収集について反省をしているのだが、実は、この問題は、日本の教育学の研究者の無力を示すことにもなっているのではないかとも思えてくる。

 そんなことから、これまでの田村の足跡をおいつつ、史料を収集することになったわけである。


田村一二 その2

2018年11月12日 22時56分27秒 | 田村一二

 田村一二は、1909年、京都府舞鶴市に生まれ、明治、大正、昭和、そして平成を生き、1995年11月8日没。84歳だった。
 1970年代から1980年代に、障害のある人と関わる人にとって、その名を知らない者はいないほどだった。1933年、京都師範学校専攻科を卒業した後、京都市立滋野尋常小学校に赴任。そこで、「特別学級」の担任になる。校長(斎藤千栄治)に「ペテン」にかけられた知的障害教育の出発はあまりにも有名。田村一二への憧憬から、障害者福祉の道に入った者も多かったものだ。しかし、障害者福祉や障害者教育を学ぶ若い人たちの間では、もはやその名前を知る人は少ない。


田村一二について語ることとなったきっかけについて、はじめに述べておこう。

 さかのぼれば大学院生時代のことになるのだが、京都の障害児教育史の史料をあつめていた。ちょうど、清水寛さんが内地留学で来られていて、ご一緒させていただいた。清水先生が古本屋で見つけたものが、田村一二の『精神薄弱児の生活指導』だった。それをコピーさせていただいていたのだが・・・。そのコピーが見開き1ページ抜けていたことに気づいたのは相当あとのこと。その1ページのために、いろいろ探したのだが、なかった。翻刻版はあるのだが、謄写版づりのものはなかった。ずっと、引っかかったままだった。それが、ひょんなことからそのコピーをみせていただくことができた。どこからコピーをとったのですかと伺うと、京都の総合支援学校の校長をされていた先生からとのこと、さっそく、連絡を取ってもらった。その後のことは、次のような文章にしている。


 2014年6月のことだった。京都市の仁和小学校で、1948年に特殊学級が設置されたときにひょんなことで担任になった森脇功先生のお話しを伺う機会があった。森脇先生が、戦前からの京都市特別児童教育研究会の史料や戦後初期の特殊学級の再興、そして、その後の実践についての史資料を持っておられるということで、そのいきさつを聞かせていただくためにお宅にお邪魔させていただいたのである。
 さっそくということで、口火をきると、「その前に話しておかないといけないことがある」とおっしゃって、大阪大空襲で命からがら京都に移り、敗戦を迎えたこと、それから、戦後すぐに京都の観光雑誌を発刊したがその事業にも失敗したこと、前後不覚で小学校に飛び込んで校長に頼んで教師をしはじめたこと・・・これまで歩まれた経過を、ゆっくりと話してはじめてくれた。森脇先生の教職の出発は、教育基本法と学校教育法が公布された1947年のことだった。
 その仁和小学校で、一人の教師の提案で特別学級がつくられることになったのだが、その教師は早々と教師を辞めてしまっていた。だれが担任になるかで一悶着、だれも引き受け手がいない。
「結局、一番気の弱いぼくがおしつけられて、担任になることになった。教師になるつもりもなかったぼくが…」-「子どもらをあつめても、なにをしたらよいのかわからん」。その前の年に特殊学級ができていた生祥小学校の熊谷さんのところに教えを請いに行ったら、「わたしはなんにもわかりません」とけんもほろろ、ようやく、近江学園の糸賀先生がいるから、そこへ行って聞いてみなさいとアドバイスをもらえたという。
 さっそく、1948年の夏、近江学園へ。「南郷の駅を降りて、瀬田川をあるいて、南郷の丘の上へ、でも糸賀先生いはらしません。そこで初めて会ったのが田村一二先生」「この人がどんな人かなんかなんにも知らんのです。教員になるつもりなんかまるっきりなかったですから…」。
「田村先生に、実は、こうこうこういうわけで、いろいろ勉強を教えてやろうと思って、いろいろやるんですが、とってもじゃないけどできしません、いうたら、その時、いわはったのが-「おまえはあほじゃ」-そうぼくにいわはった。いきなり…」「だいたい、人間の悪いところばかっりつかまえて、その悪いところをおまえはようしようとしとる。まちがえじゃ。人間ちゅうのは、どんな人間だって、いいところがあるもんや。いいとこを見つけて、それを伸ばすのが大事なんや。ああいう子どもでもいいとこがあるんやから-といわれましてね。ほんまにガツーンとやられまして、帰りに瀬田川のところを歩きまして、南郷の駅まで来るまでになんと言っていいのか…もう、その辺で、なんか気がおこってきて…」
 その後、森脇先生は、三木安正、滝之川学園、八幡学園、伊豆の藤倉学園まで訪問して、戦後自主的につくられた京都市精神遅滞児教育研究会の中心となり、京都市の知的障害の教育実践と研究に邁進することになる。人生には、そのような転機となる人との出会いがあり、知的障害のある子どもたちとの出会い、そしてそれに携わ る人と人の出会いのなかで、心が固まっていく契機があることを痛感させられるお話しだった。「おまえはあほじゃ」と言った田村一二自身が、森脇先生と同じ経験と思いをもち、その中から、知的障害の子どもたちと共に人生を歩むことになっていった経歴をもっていたのである。その人生の重なりが、「おまえはあほじゃ」の一言に凝縮しているように思えてならなかった。


より詳細に伺うことを約束したのだが、その後、森脇功先生は入院。夏に、「君の研究に協力したい」といわれ、入院先でお話しを少し伺うことができたが、とにかく「退院してから、ゆっくりと伺います」と約束したのだが、その一週間後にお亡くなりになり、詳細を伺う機会はなくなってしまった。