田村一二の滋野小学校への赴任の年、1933(昭和8)年4月である。滋野小に着任して「特別学級」を担当するが、昭和8年は不機嫌な毎日を送っていた。
同時期、京都帝国大学では滝川事件が起こる。1933年4月、内務省は瀧川の著書『刑法講義』『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として発売禁止処分を下した。翌5月には、齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月25日に文官高等分限委員会に休職に付する件を諮問し、その決定に基づいて翌26日、文部省は文官分限令により瀧川の休職処分を強行。小西重直は、京都帝国大学文学部哲学科で教育学教授法の教授。1933年3月22日に京都帝国大学の総長に就任したところで、この滝川事件に直面することとなる。
田村は、不機嫌な毎日を過ごしながら、滝川事件などをどうみていたのだろうか?
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