田村美枝子(語り)『みちの花 共に歩んだ茗荷村への道』大萩茗荷村、2003年
p.51-52
敗戦と伊丹万作さん
あれは昭和19(1944)年かそんなもんやったと思います。そのことの主人は開墾やらしていたのでいい体格でしたが、甲種合格になったのはびっくりしましたね。結局赤紙は来なかったんですが、県から「いつでも出征できるように、後任の人を探しとけ」って言われていたらしいんです。
〝その日〟は、石山小学校の運動場へ集まれってことやったんです。石山学園から主学校まではかなりの距離があるんです。そうですねぇ、歩いて30分くらいはかかったと思います。それでおジィちゃんが行くっていってくれました。そやけど帰ってこられて、
「気をつけ言われてみんな頭を垂れて聴かしてもろうたけど、なんやガーガー、ガーガーいうだけで、石山小学校のラジオはちょっとアカンで」とかなんかそんな言い方をされていましたね。だからそのときは日本が戦争が負けたことがわからなかったんです。
その日の主人は伊丹万作さんのお見舞いに京都へ出ていたんです。お宅は紫野あたりでした。伊丹万作さんは、主人の本(『手をつなぐ子等』1944)を読んで「映画化したい」と向こうから言われてきてからのおつき合いなんです。それで時々主人に話を聞きたいと言われていたんです。石山学園の園歌も作ってもらいました。だけどもちょうどご自分がその映画の監督をしようと思っておられるときに病気をされたんです。
「京都では野菜やそんなもんで不自由をしてはるやろうから」言うて、石山学園で出来た野菜を持ってお見舞いにうかがったりしていたんです。
それで主人は植物園のあたりでその玉音放送を聞いたらしいんです。主人が夕方に帰ってきて、私らは日本の敗戦をはじめて知ったんです。
「父ちゃん、もう今夜から電灯は暗くせんでもええんですね」というのがいちばんはじめに思ったことでしたね。子どもたちは何がどうなんや見当もつかんかったですが、寝ると時間になっても主人が、
「もう空襲はないのやから…」
と言って各部屋の灯火管制の布をはずしてまわったら、みんなが、
「うわぁ、明るいなぁ」
と喜んだことでした。
伊丹万作さんが亡くなられたのは敗戦直後の昭和21(1946)年でした。自分はこういう具合にしたいと言うことは、「ここはこーして、あーして」という本当に細かい指示を全部書いておられて、「もう映画ができ上がったのもおなじや」と、あとで映画化された監督の稲垣浩さんが言われたんです。
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