年をまたいで、大澤聡編『教養主義のリハビリテーション』をよんだ。編者は、近畿大学文芸学部で教鞭をとるメディア批評、現代思想史を専門とする、1978年生まれの若手。「教養」を主題にした対談は、鷲田清一、竹内洋、吉田俊哉とのもの。
鷲田との対談は、現代編:「現場的教養」の時代、竹内との対談は、歴史編:日本型教養主義の来歴、吉田とは、制度編:大学と新しい教養の3本で、教養の過去・現在・今後(大学という制度)の全体像の輪郭を紡ぎ出そうとする。対談なので、頭に入りにくいとことがあるが、時々おもしろい。
鷲田との対談の中で、『「待つ」ということ』等の中でいっていることを、大澤が引き合いに出して次のようにいう。
「近代産業社会で重視されたのは、「プロジェクト」であり、「プロフィット(利益)」であり、「プログレス(前進)」であり、「プロダクション(生産)」であって、いずれも「前に」「あらかじめ」という意味の接頭辞「プロ(pro-)」がついている。さきほどの年次計画もそうですが、未来のあるべきッ嬌態を前提にして、そこから逆算していまの行動が決定される。総じて近代社会は必死に前のめりの姿勢でがむしゃらにがんばってきた。近代の立身出世モードを下地に出発した教養主義もどこかこれと相即していたとおもう。人格形成という将来の目標があって、そこにたどり着くまでのプロセスが体系立っていた。けれど、もはや以前ほどの経済成長は見込めず、コミュニティのサイズも適正規模に修正しないとやっていけない時代。前傾姿勢で走りつづけるあり方に限界がきている。そのときどきの関係性のネットワークおなかで、「いま・ここ」をどう組み直すかを判断していかないといけない。ゴールが流動化した時代には、教養も別のモデルを用意しないと行けない。さらにそのとき「わくわく」がそこにあるといい。」
これにたいして、鷲田は「そう、たのしい、おもしろいうということは重要ですね」と応える。
竹内は、これまでの社会史、学歴貴族、教養主義などの歴史研究を基に語る。昨年、教養主義を体現した阿部次郎に関する著書を書いているが、それも読んでみたい。しかし、本が増えるものなあという気持ちもある。教養主義の最後のしっぽに位置する我々の本にたいする思いも揺らいでいる。
いろいろ考えるところもあった。本の読み方だとか、再読の意味とか、精読のすすめとか、しかし、ぼくたちの中にある前のめりの姿勢、「新しいもの」への飛びつき、そうやっているうちに中身が空洞化するという自身の反省もあった。しかし、対談集という形式は、わかりやすいようで、頭に残りにくい。話題と話についていく、そのテンポが合わないのかもしれない。