年齢がでてくる歌をうたいながら、発達の話をしたいと思ったときがあった。
「ギザギザハートの子守歌」で「15で不良と呼ばれたよ」とチェッカーズは歌う。15歳や17歳はよく出てくる・・・その中に藤圭子の「夢は夜ひらく」がある。
それをしらべたいとおもって、iphoneのSiriで検索しようとして、思わぬ会話となった。
「ヘイ、Siri 15,16,17と私の人生暗かった」
Siri「10、50、60、・・(とわたしの人生暗かった)」(じゅう ごじゅう ろくじゅう ・・と、音の区切りを違って認識する)
(そういえば、60すぎてから人生暗いなあ・・・でも、おまえ、藤圭子知らんのかとおもわず)「藤圭子」
Siri「藤圭子の連絡先は登録されていません」
(歌の歌詞をつければホームページで検索してくれるか)「藤圭子 私の人生暗かった」
Siri「わかりません」
(じゃあ、藤圭子の娘の名前はあるやろ!)「宇多田ヒカル ホームページ」
Siri「以下のホームページがありました。ひらきますか・・・?」
「ひらきますか」か、「私の人生くらいよなあ・・・夢は夜ひらくをしりたいのに」 ちなみに、「圭子の夢は夜ひらく」は、「15,16,17とわたしの人生暗かった。過去はどんなに暗くとも、夢は夜ひらく」と続く。この「夜」は、水商売のことなのだが、しかし、「夜に想像することで、いろいろなことを耐えることが出来るのかもしれない!」「人生、不確かなことを耐えなければならないのやな」ともおもう。理不尽な社会である。脱線すると、最近、注目されているもの「ネガティブ・ケイパビリティ」(不確かなものを、保留しておく力、白黒ハッキリさせない、あいまいを受容する力)ということも、この歌から思うところである。