教職大学院の授業が始まる。今日は、通級指導教室の担当の先生をゲスト講師として招いてその実践について報告していただいた。いろいろな子どもを支える実践をされていて、パワーとともに、いろんな面で気配りをされているなぁと感じた。ありがとうございました。
1日~3日までやすんで肩こりはすこしやわらいでいたが、やはりこの間の研修・講義などはしんどかった。肩がこって、首が回りづらいので、ちょっとつらいです。
松本先生の余録は、桃山分校の開校のところとなった。
-その3-
4.桃山分校開校
(1)あわただしかった分校開校
72年3月21日今後5時ごろ、私は与謝の海で、22日、23日に実施する本格開校2年次の3学期総括研の諸準備に研究部担当として当たっていた。小松校長から「明日午前10時に府教委の横山学校教育課長の所へ出頭するように」と伝えられた。「明日総括研で手が離しにくいが何ですか」と聞くと、「多分、分校設置にかかわることかと思うが、ともかく行って来て」とのこと。
あくる日の時刻通りに学校教育課の扉を開けるや、「あっ、来た来た、着いて来い」と課長が二階への階段を上がられる。正庁と呼ばれていた部屋の扉は開いていて、両脇にずらりと部長・課長が立って並ばれている中に立たされた。大八木教育長が読まれて渡されたのは、「京都府立与謝の海養護学校分校開設準備事務に従事させる」というものだった。
終わって学校教育課に帰り、課長に、「分校といえども新設開校準備、スタッフjが一人とは。しかも、事前の予告も内示もなしの有無を言わさぬ人事とはどういうころですか」と詰問すると、「山城地域の知恵遅れ養護学校の開設準備を含めての分校設置を府議会に出していたんだが、府議会で議事日程のゴタゴタが続いて、昨日の閉会直前にようやく通過したんだ。それまで表立って動けなかったんだ。併設の桃山学園のことは、君はみな承知のことだしうまくやってくれ。新しい養護学校準備は、府教委と連絡しながら、第二の与謝の海をつくるつもりで思うとおりやってくれ」という、私にとってはまったく一方的な通告であった。当時も府は財政難が続いていた。「金が仕事をするのではなく、人が仕事をするのだ」などといわれながら、人使いは荒かったというのが私の印象である。
(2)実践、記録、検討、分析の力量の蓄積・深化をめざして
手元に、①『京都府立与謝の海養護学校桃山分校の教育』(桃山分校発行、1972年5月3日)の謄写版刷り手作り製本のもの(78頁の冊子)、②『全面発達をめざす障害児教育の実践(昭和47年度の中間まとめ)』(与謝の海養護学校桃山分校、1972年11月、謄写版刷り手作り製本63頁)、③『47年度年報 桃山の教育1号(全面発達をめざす障害児教育の実践)』(桃山分校、印刷所印刷製本100頁)、④青木・松本・藤井著『育ちあう子ども達 京都・与謝の海の理論と実践』(ミネルヴァ書房、1973年4月5日)がある。
①は開校にあたっての理念・方針の討議の中で、開校挨拶をかねて、4月の実践を、5月当初の連休中に実践記録としてまとめ、手作り製本して関係機関に配布することとしたもの。「子ども達と一日とりくめば、一日の実践がある。われわれ実践者は実践でモノをいう」の新たな教職員集団の意思統一を、ひそかにこめたものであった。②については、一年次の実践の中間総括を冊子にして、京都の教育研究集会等にもレポートとして配布したもの。③については、年間を通じての実践事例その検討、その中における集団と個の関係、小学部の3人の最重度児の極微の変化のとらえ方など、初年度にして年間の実践総括誌としてはかなりのレベルのものと自負できるもの。④については、桃山分校1年次の実践事例もいくつか載せている。発達援助者としての教師達と子ども達全体の集団と、その中における個々の子どもや重度児のどこの何に視点をあてながら取り組むのかの綿密な検討をした内容について記した記録もある。
なお、もう一つ。『講座日本の教育 8 障害者教育』(新日本出版社、1976年2月10日)に、近江学園・与謝の海養護、桃山分校・桃山養護学校の教育実践の解説が載せられている。
全員就学を貫徹しえる実践の内実の力量を、こうして時の教職員集団の自覚の上に、自らに課した任務として培い深めていったのである。
(つづく)
1日~3日までやすんで肩こりはすこしやわらいでいたが、やはりこの間の研修・講義などはしんどかった。肩がこって、首が回りづらいので、ちょっとつらいです。
松本先生の余録は、桃山分校の開校のところとなった。
-その3-
4.桃山分校開校
(1)あわただしかった分校開校
72年3月21日今後5時ごろ、私は与謝の海で、22日、23日に実施する本格開校2年次の3学期総括研の諸準備に研究部担当として当たっていた。小松校長から「明日午前10時に府教委の横山学校教育課長の所へ出頭するように」と伝えられた。「明日総括研で手が離しにくいが何ですか」と聞くと、「多分、分校設置にかかわることかと思うが、ともかく行って来て」とのこと。
あくる日の時刻通りに学校教育課の扉を開けるや、「あっ、来た来た、着いて来い」と課長が二階への階段を上がられる。正庁と呼ばれていた部屋の扉は開いていて、両脇にずらりと部長・課長が立って並ばれている中に立たされた。大八木教育長が読まれて渡されたのは、「京都府立与謝の海養護学校分校開設準備事務に従事させる」というものだった。
終わって学校教育課に帰り、課長に、「分校といえども新設開校準備、スタッフjが一人とは。しかも、事前の予告も内示もなしの有無を言わさぬ人事とはどういうころですか」と詰問すると、「山城地域の知恵遅れ養護学校の開設準備を含めての分校設置を府議会に出していたんだが、府議会で議事日程のゴタゴタが続いて、昨日の閉会直前にようやく通過したんだ。それまで表立って動けなかったんだ。併設の桃山学園のことは、君はみな承知のことだしうまくやってくれ。新しい養護学校準備は、府教委と連絡しながら、第二の与謝の海をつくるつもりで思うとおりやってくれ」という、私にとってはまったく一方的な通告であった。当時も府は財政難が続いていた。「金が仕事をするのではなく、人が仕事をするのだ」などといわれながら、人使いは荒かったというのが私の印象である。
(2)実践、記録、検討、分析の力量の蓄積・深化をめざして
手元に、①『京都府立与謝の海養護学校桃山分校の教育』(桃山分校発行、1972年5月3日)の謄写版刷り手作り製本のもの(78頁の冊子)、②『全面発達をめざす障害児教育の実践(昭和47年度の中間まとめ)』(与謝の海養護学校桃山分校、1972年11月、謄写版刷り手作り製本63頁)、③『47年度年報 桃山の教育1号(全面発達をめざす障害児教育の実践)』(桃山分校、印刷所印刷製本100頁)、④青木・松本・藤井著『育ちあう子ども達 京都・与謝の海の理論と実践』(ミネルヴァ書房、1973年4月5日)がある。
①は開校にあたっての理念・方針の討議の中で、開校挨拶をかねて、4月の実践を、5月当初の連休中に実践記録としてまとめ、手作り製本して関係機関に配布することとしたもの。「子ども達と一日とりくめば、一日の実践がある。われわれ実践者は実践でモノをいう」の新たな教職員集団の意思統一を、ひそかにこめたものであった。②については、一年次の実践の中間総括を冊子にして、京都の教育研究集会等にもレポートとして配布したもの。③については、年間を通じての実践事例その検討、その中における集団と個の関係、小学部の3人の最重度児の極微の変化のとらえ方など、初年度にして年間の実践総括誌としてはかなりのレベルのものと自負できるもの。④については、桃山分校1年次の実践事例もいくつか載せている。発達援助者としての教師達と子ども達全体の集団と、その中における個々の子どもや重度児のどこの何に視点をあてながら取り組むのかの綿密な検討をした内容について記した記録もある。
なお、もう一つ。『講座日本の教育 8 障害者教育』(新日本出版社、1976年2月10日)に、近江学園・与謝の海養護、桃山分校・桃山養護学校の教育実践の解説が載せられている。
全員就学を貫徹しえる実践の内実の力量を、こうして時の教職員集団の自覚の上に、自らに課した任務として培い深めていったのである。
(つづく)
養護学校の歴史などを考える場合、京都全体の府政の動きや府教委の動きを充分分析されることなくその分野だけで考える傾向があるが、与謝の海養護学校の設立と関わっても府教委に大きな変革を迫った事件があったことの一つを書かせていただきたい。
1965(昭和40)年11月18日京都府立ろう学校高等部で「授業拒否事件」がおきた。この動きは、当時のろう学校やろう教育への生徒たちの要求行動であったし、生徒が拒否権を示して行動することでも歴史的な事件であった。今日では、当時の京都府ろうあ協会が出した3月3日の声明、いわゆる3・3声明は手話関係者の中でろう学校で手話による教育をすすめてほしいという生徒による授業拒否事件であったとされているが、事実はそれだけではない。
ろう学校高等部で、まともな教育をしてほしい、というのが生徒たちの基本要求だったのである。(このことの詳細は、2009年11月改訂版冊子
未完成現代手話通訳論序説- 京都の歴史的教訓からの提起 -に書かれているので省略する。)
「授業拒否事件」が起きた時、府教委は、「授業拒否事件」は、ろう学校の生徒の自主的な動きでなくし、生徒を扇動した教師だと断定し調査を始めるが、京都府ろうあ協会・ろう学校同窓会をはじめさまざまな団体や人々の府教委への要求の中で従来の障害児教育への根本的見直しを迫られたのである。
その結果、京都府と京都府教育委員会は京都府ろうあ協会・ろう学校同窓会をはじめさまざまな団体や人々の府教委への要求の正当さを認めたのである。そして、京都府と府教委はそれまでの「特殊教育」とされた盲聾教育をはじめ京都全体の障害児教育を根本から見直そうという態度を示しはじめて行く。
その切っ掛けを創ったのが、京都ろう学校高等部で起きた「授業拒否事件」であったことを知る人々は極めて少ないが、この事件は京都の障害児教育全体に大きな影響を及ぼしたことは間違いがない。しかし、府教委の幹部の中には同和教育の延長線上の「差別論」として捉えていいく問題があった。
京都府立与謝の海養護学校分校準備開設にあたり、府教委の課長(たぶん学校教育課課長)の言った「併設の桃山学園のことは、君はみな承知のことだしうまくやってくれ。新しい養護学校準備は、府教委と連絡しながら、第二の与謝の海をつくるつもりで思うとおりやってくれ」という話そのものに、第二の与謝の海をつくる気持ちは明白である。
課長の話からは、府議会の会期と議決が遅れたにせよ併設される桃山学園との話はすでに出来上がってる、と読み取れる。行政間のことばのやりとりを読み取ることや行政文を読み取ることは教職員の学習不足で、しばしば誤って理解していることが多い。
私は、府教委の課長のいった意味は、「与謝の海養護学校と同じものをつくるわけではない。民生労働部管轄の児童福祉施設である桃山学園と併設することで共存関係をつくるつもりで思うとおりやってくれ。」という制限されただめ押しの言葉であったのである。
すなわち、府立桃山学園の運営と養護学校の運営を「両立」させることで、「財政の効率化」「予算の削減」を計ろうとするもので、課長の言葉には、養護学校+児童福祉施設という形態で養護学校をつくる。寄宿舎などははつくらない、という府教委と府民生労働部の基本方向を示したのである。
松本先生は、「第二の与謝の海をつくるつもりで思うとおりやってくれ」という課長の言葉を主として受け取っているが、「併設の桃山学園のことは、君はみな承知のこと」の重大な意味を受け取っていないと考えられる。
事実。府教委は養護学校に寄宿舎を設置することは財政上、教育上必要ないとして既成事実の上から主張するようになる。「第二の与謝の海をつくる」気持ちは、府教委にはないという態度表明であった、と私は理解する。
口丹波養護学校設立運動では、寄宿舎設置には真っ向から反対し大激論、大運動、大交渉を必要とし寄宿舎がつくられたが、それ以降南山城養護学校などでは、絶対寄宿舎をつくろうとはしなかった。(当時は口丹波と言っていたが、後に建設が決まったとき、府教委は口丹波は京都を中心とした考えだから丹波養護学校とすると強引に決めた。しかし、丹波となると兵庫県も含んだ地域になるという反対意見を聞こうともしなかった。)