高次脳機能障害研修会に参加して
高次脳機能障害の研修会に参加させていただいて、個人的なこと思い起こし、また考えさせられたことから感想を話してみたい。
私が生まれたのは、1956年-経済企画庁が経済白書で「もはや戦後ではない」と記した年だった。この頃から高度経済成長が進められていった。1960年には、池田勇人首相が「所得倍増計画」を提唱し、そのもとで、太平洋ベルト地帯という工業地帯の形成がなされていた。東京と大阪のちょうど真ん中の静岡に生まれた。1964年には、新幹線の開通と東京オリンピックの開催があった。幼少の頃のきおくは、祖母におぶわれた記憶と祖父と新幹線を見に行った記憶がうっすらとある。
高度経済成長の裏側では、その時代、様々な社会問題が生じてきていた。1955年、西日本一帯では森永ヒ素ミルク中毒事件が起こった。静岡の田舎でヤギの乳で育った私にとっては遠い存在であった。その後も、サリドマイド事件などの薬害、四日市ゼンソクや水俣病などの公害などが継続して起こって行った。私にとっては無縁だと思われたこの高度経済成長ではあるが、しかし、モータリゼーションと交通網の発達、自家用車の普及は私のまわりでも起こってきていた。自分では記憶がないが、3歳か、4歳頃、家の前の道に突然走り出て交通事故にあい、全身が内出血状態となった。母が必死の思いで車のしたに入っていた私を引きずり出したということだったが、幼かった自分にはその記憶はない。当時はまだ舗装もされていない道だったが、急激に車道が整備され、車が普及されて行き、交通戦争はその後激しくなっていく。
大学に入ったのは、オイルショックの後の1974年で、20歳になったのが1976年1月、その前の月-1975年12月に、国連は「障害者の権利宣言」を採択した。その頃、ようやく社会や障害のある人たちをうっすらとではあるが意識することにもなった。しかし、障害のある人たちに向き合うことになるのは、その後、5年ほどたった1981年の国際障害者年の年を待たなければならなかった。
国際障害者年の25年後、2006年12月国連で採択されたのが障害者権利条約であった。2014年1月20日、日本政府も、この条約を批准した。141ヵ国目の批准であった。すでに世界の多くの国は条約を批准しているので、日本の批准は早くはなかった。しかし、今回の条約の批准は、子どもの権利条約の批准とは異なって、日本障害フォーラムなどの障害者団体の自覚的な取り組みを背景として、障害者基本法の改定、障害者総合支援法と障害者差別解消法の制定など一定の障害者制度改革の手立てを行った後の批准であったことは重要である。
翻って、国連障害者権利条約は障害の社会的モデルを意識していた。このことは、障害が社会的に発生すること、個人がもつ機能障害と社会的障壁との関係で起こってくること、総合的な権利の実現に対して社会の役割が決定的に大きいことを意味している。振り返って1970年代以降の国連の障害者問題へのアプローチは,戦争や人権侵害、貧困などによって障害が社会的に発生していること、社会の有り様から生まれる障害の発生予防とリハビリテーション、そしてひとしく権利を実現していくことを求めてきたものであった。
「戦争」は、戦後70年になろうとしている日本には無関係なことであろうか?「交通戦争」「企業戦争」「情報戦争」「受験戦争」などのことばを添えれば日本においても現に「戦争」は存在している。子どもの世界でもその被害は顕著である。社会が高度に発達すればするほど、こうした被害は多様になっている。「高次脳機能障害」も、また、「安心」「安全」をないがしろにした社会によって作られ、従って、「安心」「安全」な社会を創ることを問題提起している存在なのであると考える。
私もまた、交通事故に遭っているものの一人として、研修会を通して高次脳機能障害と向き合う良い機会となったことを感謝申し上げたい。
奈良脳外傷友の会・会報『あすか』第16号、2014年4月27日発行、4頁
高次脳機能障害の研修会に参加させていただいて、個人的なこと思い起こし、また考えさせられたことから感想を話してみたい。
私が生まれたのは、1956年-経済企画庁が経済白書で「もはや戦後ではない」と記した年だった。この頃から高度経済成長が進められていった。1960年には、池田勇人首相が「所得倍増計画」を提唱し、そのもとで、太平洋ベルト地帯という工業地帯の形成がなされていた。東京と大阪のちょうど真ん中の静岡に生まれた。1964年には、新幹線の開通と東京オリンピックの開催があった。幼少の頃のきおくは、祖母におぶわれた記憶と祖父と新幹線を見に行った記憶がうっすらとある。
高度経済成長の裏側では、その時代、様々な社会問題が生じてきていた。1955年、西日本一帯では森永ヒ素ミルク中毒事件が起こった。静岡の田舎でヤギの乳で育った私にとっては遠い存在であった。その後も、サリドマイド事件などの薬害、四日市ゼンソクや水俣病などの公害などが継続して起こって行った。私にとっては無縁だと思われたこの高度経済成長ではあるが、しかし、モータリゼーションと交通網の発達、自家用車の普及は私のまわりでも起こってきていた。自分では記憶がないが、3歳か、4歳頃、家の前の道に突然走り出て交通事故にあい、全身が内出血状態となった。母が必死の思いで車のしたに入っていた私を引きずり出したということだったが、幼かった自分にはその記憶はない。当時はまだ舗装もされていない道だったが、急激に車道が整備され、車が普及されて行き、交通戦争はその後激しくなっていく。
大学に入ったのは、オイルショックの後の1974年で、20歳になったのが1976年1月、その前の月-1975年12月に、国連は「障害者の権利宣言」を採択した。その頃、ようやく社会や障害のある人たちをうっすらとではあるが意識することにもなった。しかし、障害のある人たちに向き合うことになるのは、その後、5年ほどたった1981年の国際障害者年の年を待たなければならなかった。
国際障害者年の25年後、2006年12月国連で採択されたのが障害者権利条約であった。2014年1月20日、日本政府も、この条約を批准した。141ヵ国目の批准であった。すでに世界の多くの国は条約を批准しているので、日本の批准は早くはなかった。しかし、今回の条約の批准は、子どもの権利条約の批准とは異なって、日本障害フォーラムなどの障害者団体の自覚的な取り組みを背景として、障害者基本法の改定、障害者総合支援法と障害者差別解消法の制定など一定の障害者制度改革の手立てを行った後の批准であったことは重要である。
翻って、国連障害者権利条約は障害の社会的モデルを意識していた。このことは、障害が社会的に発生すること、個人がもつ機能障害と社会的障壁との関係で起こってくること、総合的な権利の実現に対して社会の役割が決定的に大きいことを意味している。振り返って1970年代以降の国連の障害者問題へのアプローチは,戦争や人権侵害、貧困などによって障害が社会的に発生していること、社会の有り様から生まれる障害の発生予防とリハビリテーション、そしてひとしく権利を実現していくことを求めてきたものであった。
「戦争」は、戦後70年になろうとしている日本には無関係なことであろうか?「交通戦争」「企業戦争」「情報戦争」「受験戦争」などのことばを添えれば日本においても現に「戦争」は存在している。子どもの世界でもその被害は顕著である。社会が高度に発達すればするほど、こうした被害は多様になっている。「高次脳機能障害」も、また、「安心」「安全」をないがしろにした社会によって作られ、従って、「安心」「安全」な社会を創ることを問題提起している存在なのであると考える。
私もまた、交通事故に遭っているものの一人として、研修会を通して高次脳機能障害と向き合う良い機会となったことを感謝申し上げたい。
奈良脳外傷友の会・会報『あすか』第16号、2014年4月27日発行、4頁
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