AKB48 チームBのファンより

鈴木紫帆里さんを中心にAKB48 チームB について語るサイトです。

SKE48のライブが映画になっている (ナッキー)

2011-03-10 22:55:36 | SKE48/NMB48/HKT48
SKE48のライブが映画になっている (ナッキー)

昨日は、会社を休みました。
確定申告に行きました。
e-taxの登録ができていれば、自宅で入力して、プリントして送ればすむので、会社を休む必要はありません。
しかし、私の家には、パソコンはあるけど、プリンターがないので、自宅からの申告はできません。

確定申告は午前中で終わるので、何か、アイドルがでる映画でもやっていないかと、yahooを検索しました。
SKE48のライブを映画館でやっていることを発見。それも今週で終わり。

youtube映像  http://www.youtube.com/watch?v=xbpLbvv5uHQ
http://movie-enter.com/movie/detail/156112

映画館では、午前か夜しかやっていなかったので、昨日は見ることができず。(寝坊したのと、夜は家事があったので)
今日は仕事が遅くなってみることはできませんでしたが、最終日の明日は、何とか見たいものです。

ナッキー
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アイドルの定義 桑田真澄 広義アイドル アイドルと教養 (KC)

2011-03-10 00:00:08 | アイドル論
アイドルの定義 桑田真澄 広義アイドル アイドルと教養 (KC)

桑田真澄著「心の野球」という本に、アイドルという言葉が出ていた。

quote
社会全体から見ると、スポーツ選手は何だか軽いイメージで見られている気がする。
たくさんの人に知られているという「アイドル性」ではなくて、もう少し人間として尊敬されるような選手像を作り上げたいと思っている。 191ページ

小説を読んだり、絵を観たり、歌舞伎を観たり、何か野球以外のことをすることによって、速いボールが投げられるわけでも、打てるようになるわけでもない。
それでも、どんなことでも本物に触れてみる、経験する、自分の目で見ることが、人生を豊かにしてくれる。
それは必ず、野球にも影響してくると考えている。 223ページ
unquote

桑田氏によると、アイドルは、たくさんの人に知られている(=知名度がある)人物という定義になる。
清原・桑田と、高校一年生から、PL学園の選手として甲子園で活躍した二人は、まさに、たくさんの人に知られている「アイドル」であった。

これは、広義アイドル。
私たちが、AKB48はアイドルグループと言う場合、「アイドル」とは、日本の伝統芸能としてのアイドル歌手。狭義アイドル。

アイドル女優(たとえば、宮崎あおい・蒼井優は若い頃、アイドル女優と呼ばれていた)
アイドル声優
アイドル女子アナ
アイドル女子スポーツ選手

は、みんな、広義アイドル。

狭義アイドル(アイドル歌手)と、広義アイドルの中間に存在するのが、CMで活躍しているアイドルである。
広末涼子・上戸彩 歌手になったとたんに狭義アイドルに昇格。 その前は、中間アイドルだった。

桑田氏の文章で、後半の部分、「野球選手も、本物を体験して、人生を豊かにすることで、野球も向上する。」
これを、読んで、私は、女優にはあてはまるけど、狭義アイドルにはあてはまらない、まして、野球選手にはあてはまらない、という感想を持った。

女優は、演技力が必要。
演技力を向上するには、本物の文化を鑑賞する経験も必要だし、恋愛経験も必要、セックスもした方がよい。

でも、アイドルは、恋愛経験がなくてもできるし、セックスしない方がよいし、本物の文化に全く触れなくても、アイドルという仕事はできるし、むしろ教養などない方が魅力的なアイドルもいる。
野球選手だって、教養があるからといって、野球の技術や実力に、全く関係がない。

しかし、秦佐和子のブログを読んでいると、教養のあるアイドルというのは、それだけで魅力的だと知らされた。
同様に、教養のある方が魅力的な野球選手も、いるかもしれない。
野球選手のブログを、読んだことはないが、秦佐和子に対抗できるレベルの高い文章のブログがあるのか、桑田氏の本を読んで、そういう興味を持った。
参考まで、秦佐和子ブログ 対 桑田真澄「心の野球」 を対戦させると、10対3で、秦佐和子の勝ち (桑田氏も、野球選手としては、教養があるけど、かないません。主観的評価。)

昨日の私の記事に対して、「秦佐和子の文章の、どこに教養を感じるのか」という質問がきた。
SKE48の公式ブログは、最新の記事しか読めず、新しい記事がアップされると、一つ前が消されてしまう。
そこで、私は、感銘を受けたフレーズを、コピペしている。そこから選んで、引用する。
いずれもブログ記事冒頭の書き出し、季節の風景。毎日毎日よく、違う文章を書けるものだと感心している部分である。  
KC 



昼間と夜の寒暖の差はくっついては離れてを繰り返し、一段と離れた今日。
太陽が昇る間は春装いの仮面を被り、闇が支配し始めるとそっとそれを外して。
暦も教えてくれない本当の姿を、探しては見失い。


売れ残った商品を抱えながら、閉店が間際に迫ったことを伝える店員の焦る声。
値が下げられたそれらにちらと横目を走らせては視線を戻す人に、店に足を誘われる人
普段は通り過ぎるその場所に、ふと立ち寄ってみたくなるそんな日、何かあったというわけではないのだけれど。


すっかり春気分の暖か過ぎる太陽の光線に当てられて、眉間に皺を寄せ。
薄ぼんやりと溶け合った景色は、初夏の色さえ漂わせていて。
けれど日陰に入って眺めたそれは、まだまだ冬の様相を拭いきれてはおらず。


弥生三月、数日降り続く雨が忘れかけていた寒さを呼び戻し、暦上だけの春の初日。
静かに落ちるその雨は、旅立つ者達との別れを癒すように。
交錯する抱えきれない想いを溶け込ませ、下へ下へと流れていく先は優しく広大な海。

以上


コメント (1)
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