WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

ペレットボイラーの皮肉

2010年11月24日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

新聞報道によると、「京都市が8月から始めた「木質ペレット」を使うボイラー設置に対する民間助成に、3カ月たっても応募がない」という。
「エコ」ポーズをとりたかった京都市と「エコ」で儲けようと考えたボイラー関連企業の思惑も、「エコ」も儲けの手段としか考えない同類企業にはすでに見透かされていた、という何とも皮肉な事実の証明ではあった。

ペレットボイラー設置にかかる費用は3~4000万円にもなるという。
3年ほど前、とある環境NPOが間伐材を使った木質燃料ボイラーの実証実験を行った。しかし、熱効率も悪く投下した費用に見合うほどのCO2削減効果は見られなかった上、故障が多く維持管理にも多額の経費がかかることが判明したのだった(当然ながらこのような環境運動家にとって都合の悪いデータは公表されていない)。

だいたい、3~4000万円もの初期費用や導入後の多額の維持管理費を稼ぎ出すための経済活動が、いったいどれほど多大な環境負荷を生み出すことになってしまっているのかが(意図的に)全く考慮されていない。CO2フリーと喧伝されている原発も同様だ。

最近の「エコ」には環境コマーシャリズムのこの手の“だましのテクニック”が氾濫しすぎている。“善良な”「環境」市民はこんなエセ「エコ」にコロッとだまされる。


京都環境フェスティバル

2009年11月22日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

初めての椅子展に出品したので京都環境フェスティバルを見に行ってきた。

思ったほど応募がなかったようで出品は15点ほど。ちょっとショボかった。
私のはこのピカチュウ。杉丸太ムク材から彫り出したので少し割れがきてしまっていた。

他の作品で良いなと思ったのはこれ。

 角が無く丸みを基調としたデザイン。幼児用は何よりもまず安全第一を考慮してデザインしないといけない。集製材を使っているので割れもない。
 他の作品は、動物をあしらったりしてかわいく作ってはあるが、角があったり幼児がつかまると不安定そうなデザインが多かった。

丹後のいくちゃん。とっても元気なオバちゃん。だんなさんは漁師。

特産アカモク(海草)の普及販売中。久しぶりに会って懐かしかった。

京北町にある北桑高校森林リサーチ科のマツタケ山再生活動紹介。
マツノザイセンチュウ耐性アカマツ苗の植林活動中だとか。

成果のほどはこれからだろうが注目していきたい。
ほかにも木工やログハウス作り実習などなかなか楽しそうな高校だ。

重量わずか1.5kgのロードレーサー。

1.5リットルのペットボトルとほぼ同じ重さ。片手で担いで山にも登れそう。
材質はカーボンFRBが中心。価格は15万円。ブランド物のマウンテンバイクよりは安いか。

電気自動車。三菱のMiEV。

試乗させてもらえた。とにかく静か。思いのほか加速はスムーズでガソリン車と変わらない。
満タン充電での航続距離は約100km。価格は460万円!ウ~ン。まだまだか。
確かに車自体はCO2を出さないが、電気を作る部分ではどうなのか?

下水処理場の最終処理残渣を焼成して作ったレンガ。

タダで配っていたのでついつい貧乏人根性でもらってしまったが、先のカーボン自転車よりはるかに重く、バスと地下鉄で持って帰るのが大変だった。

エコクイズショーに“辻ちゃん”が出演。ものすごい人だかりだった。さすがにかわいかったが撮影禁止、残念。

昨年見た、琵琶湖環境ビジネスメッセに比べると、NPOなど主体で市民目線の親しみやすい展示が多かったが、半面「別に敢えて環境にこじつけなくても」「“環境”って何でもありなんかいな?」と思えてしまうほど内容は雑多で、まあ、“フェスティバル”=お祭りではあった。


(二酸化)炭素の固定化に貢献しているもの?

2009年06月15日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

今日はヒマだったので久しぶりに庭の草刈りをやった。
 私は、雑草も生えない庭なんて不気味この上ないので、基本、雑草は生やすようにしている。と言えば聞こえはいいが、まあ、ものぐさなだけともいえる。ただし、生え放題にしておくと狭い庭のささやかな作物にも影響があるので、生えそろった頃合を見はからって刈り取っては、ミニ菜園や果樹の根元に与えて保水材兼有機肥料に活用している。雑草は案外良い有機肥料になる。ドクダミ草なんかは虫除けにもなっているような気がするので適量残しておく。

 二酸化炭素が地球温暖化の原因の一つかどうか?まだはっきりとは確定していないが「限りなくらしい」というデータは出ていると言われている。話題の裁判員制度ではないが、環境裁判では「疑わしきは罰する」ということになっているようで“二酸化炭素”は今ではすっかり“悪者”になっている。少しでも疑義を挟もうものなら鼻で笑われるか袋叩きに合いそうな風潮ではある。で、その“悪者”を捕まえて放さないようにしているのが「森林」というわけで「森林を守ろう」というのが今では世間の合言葉になっている。

 森林が確かに二酸化炭素固定化の有力な一員ではあるだろうことに異論はない。しかし普段気づかずに見過ごされているものに実はもっと有力な固定化貢献者があるのではないだろうか?その一つが雑草である。森林と違って年がら年中、とりわけ夏場には様々な雑草が精力的に炭素の固定化を行っている。ものすごい繁殖力で町でも森でも嫌われ者の“クズ”などはその際たるものだ。

 人間とは身勝手なもので、ゼニになる森林は炭素固定の優等生扱いだが、ゼニにならない雑草は無条件に悪者扱いだ。なんだか今の学校や社会のようだ。私もデータを調べたわけではないから断定はできないが、感覚的に実は雑草、雑木の類こそがもっとも優秀な炭素固定化源なのではないのかと思っている。その他にも「海洋の植物性プランクトンこそが最大の炭素固定化源だ」という説もある。

 最近の家庭では、庭にバラスを敷いたり芝生化したりして雑草が生えないようにしている。今や町はアスファルトとコンクリートで覆い尽くされ雑草の活躍する余地はほとんどない。自分達で緑を消しておきながら、わざわざ環境負荷をかけることによってしか得られないお金をかけて公園緑化だ、屋上緑化だなどとバカバカしいことをやっている。

 本気で炭素の固定化を考えるならもっと雑草を大切にしてもいいのではありませんか。


エコで儲ける?木質バイオマスビジネス

2009年05月30日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 さる木曜日、NHK「クローズアップ現代」のテーマは「木質バイオマス」。5ヶ月もかかって大量の木質バイオマスを“生産”してきたばかりの私にとっては大変興味深いテーマであった。

 今、発電エネルギー源として木質バイオマスが奪い合い状態なんだそうな。木質バイオマスで発電した電気を電力会社に売って儲けるという、抜け目のない人たちも現れているらしい。何でそんなものが商売になるのかというと、温室効果ガスと“言われている”二酸化炭素の発生が、木質バイオマスを使った場合は、石炭・石油と違って発生“0”とみなされる上にエコ減税とやらの対象にもなる、つまり近頃うるさい“環境コスト”が大幅に節約できるからというわけだ。

 なんで木質バイオマスを使うと二酸化炭素の発生が0とみなされるのか?周知のとおり、伐られた木を燃やしても、伐った跡にまた生えてくる木が二酸化炭素を吸収するから“プラマイ0”とみなされるということだ。しかし、これって詭弁ではないの?石炭・石油だって元々は太古の動植物が固定した炭素なわけで、最近山で伐ってきた木とはその更新のスパンが数億・数百万年なのかあるいは数十・数百年かという、固定更新の時間差だけの問題であって、どちらも燃やせば二酸化炭素を排出することに変わりはないのに。どうしてこんな単純なことにみんな気が付かないのだろう?

 なぜこんな論理がまかり通るのか?それは、“エコ”を飯の種にしている三流学者・「知識人」と、“エコ”まで銭儲けのネタにしようというあさましい企業家連中とのコラボ、“エセエコキャンペーン”、“一億総エコ洗脳”の成果ではあるだろう。

 本気で二酸化炭素の発生を減らしたいなら、(cop風に言うなら1990年比で50%に半減させたいなら)、GNPを減らし、消費を減らし、エコカー・エコ家電などといった愚にもつかない物への買い替え奨励でさらに無駄な生産コストを発生させる(企業は儲かるだろうが)というバカげたことをやっていてはいけないのだ。

 一時、エコと聞くと「江戸時代の生活に戻れということか」などという反論が聞こえたことがあった。「より良い(=より便利で優越感を満足させるような物に囲まれた)生活をしたい」と醸成された国民的価値観のもとでは、「本当にエコを実現させるために必要なのは暮らしの質を“低下”させることだ」とあえて言う勇気のあるリーダーはこの国にはいない。(あ、一人いたな。トッテンさん) まして一般国民の意識をしておやである。
 もちろん、その“低下”対象は年収ウン千万以上の“反エコな”方々の話である。流行の派遣切りなどで明日の糧とねぐらにも事欠くような方々についてはむしろ「生活の質を“向上”させねばならない」ことは言うまでもない。

 今、品薄で“奪い合い”状態の木質バイオマスは建築廃材なんだそうだ。これは調達コストがトン当たり3千円くらいだとか。これに比して、山に大量に捨て置かれている間伐材は、調達コストがトン当たり1万円にもなるという。3千円までなら「エコビジネス」として儲かるというわけだ。私の出した木質バイオマス引き取り価格はトン当たり千円だった!。なるほど喜んで買い上げてくれたわけだ。この番組、もう1ヶ月早くオンエアしてくれていたらなぁ。


ちょっと見直したNHK -林業復興2題-

2009年02月07日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 NHKでこの一週間に林業の現状と復興模索を扱った番組が2題続いた。一つは「プロフェッショナル」という番組で、①京都旧日吉町(現南丹市)森林組合の技術者Yさんを中心とした取り組み、もう一つは②大阪の老林業家Oさん(80歳)の取り組みであった。
 どちらも低価格外材に押されて苦境に立つ日本林業の中で、創意工夫で注目されており、そこから林業再生の方向のヒントを模索しようという内容であった。最近の民放番組は、下請け製作見え見えのくだらない録画バラエティー番組ばかりで、他人事ながら民放局の先行きが心配になるのに比べて、最近のNHKは不祥事の反省からか、「クローズアップ現代」はじめ見るべきものも多くはなってきている。楠井さんも頑張ってるし、ボツボツ受信料払ってやってもいいかな?(おっと口が滑ってしまった)。

 ①は全国放送でNHK本局の製作、②は関西特集でたぶん大阪地方局の製作で、放送時期や番組内容から両者はおそらく相互の連絡調整なく製作されたように思われる。しかし、期せずして両者の主張と実践には共通点があった。それは、「いかにして長持ちする林道を作るか」ということであった。

 Yさん、Oさん両者とも日本林業再生のために必要なことはいろいろあるが、最も重要なことは「長持ちする林道をつくること」「長持ちする林道を作るにはコース選びが肝要で、崩落の可能性が高い危険箇所を見抜き避けてコース取りする技術が大切」と言っていた。
 お二人が話されていた、危険箇所としての地下水脈や過去の崩落跡などをその場所の植生によって見極める技術などは大変参考になった。

 私も、マツタケ山作りやログ材の伐採搬出を体験して同じことを感じていた。明るく生き生きとしたマツタケ山を作るには、ザイセンチュウにやられた枯損松や林を暗くしている雑木、腐植層の除去が必要だが、最大の難題は除間伐や地掻きよりもむしろ出た除間伐材・腐植の森からの搬出なのであった。
 山間傾斜地の多い日本林業のネックが、木材の搬出コストにあることもすでに多くから指摘されているところだ。

 担い手が減少一途の山作り、林業では省力化、機械化、低コスト効率化が求められるのは、ある程度やむをえない部分もあるだろう。そこでまず求められるのは林道の整備であるが、せっかく作った林道が大雨などで崩れてその補修に多くの手間とコストがかかっているのが日本林業の大きな問題点である、というのが両者の共通認識であった。      
 そういえば、以前、海外(中国か東南アジアだったような?)の大規模林業の問題点として、皆伐したあと放置された林道が荒れて、結局山の再生もできなくなってしまっている問題が指摘されていた。

 老Oさんは山を愛する林業家として、近年のプロセッサーなどの大型機械導入や列状間伐など効率化のみを追い求めるやり方には疑問を呈しておられた。番組では重機械化をすすめている熊本の森林組合の「採算性のためには効率化を追求せざるを得ない」との声も紹介されていたが。

 ところで、日本林業再生のために「道作り」以上にもっと根本的な問題点としてYさんが指摘され、ご自身の森林組合で実践され成果を上げておられる重大施策がある。それは「現場林業労働者の正職員化」である。

 旧来より、そして現在も大半の林業現場労働は、一時雇いの出来高払いで、作業の支持は現場実務経験に乏しい森林組合職員(中には事務方の人が)が行っていている。熟練と特殊な技術を必要とするわりに能率の悪いワイヤーと滑車を使った旧式な搬出方法などがいまだに幅を利かせているらしい。傾斜その他の木材生産用地としての適不適の評価と山の実勢に応じた整備方法の立案・実施が十分行われていない、といった問題点も指摘されていた。
 その大きな要因は、今大きな問題になっている派遣業務と変わらない「林業労働者の一時雇い」にあるという指摘だ。不安定な雇用では士気も上がらず、もっとも現場経験をつんでいる現場労働者の声が業務に反映されず改善もない。
 Yさんの森林組合では、現場労働者を正職員化することで生活の安定と仕事への誇りを生み出し、現場の創意工夫で林業自体も活性化し成果を挙げておられ、全国から注目され各地へ改善指導に招かれたりもされているという。

 


たいした中学生に拍手

2008年08月19日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

今日の新聞投稿欄に中学生のこんな投稿が載っていた。

 投稿者が本当に中学生で、自分で考えて投稿したのだとしたら、なかなか大した中学生だ。日本人は、とかく世の大勢に流されて、自分で考えた自分なりの意見を持たないものが圧倒的に多い。
 昨今の水面下に隠れた部分に考え及ばない(あるいはあえて知らんぷりの)環境論議の欺瞞性に、この中学生は、しっかりと気づいて問題提起をしている。頼もしい限りだ。こんな健全で聡明な中学生がいてくれれば少しは将来にも希望が持てる。

 願わくば「地球に優しい」の欺瞞性にも気づいてくれれば言うことないのだが。CO2が増えて地球が灼熱地獄と化そうが、地球にとっては“優しい”も“厳しい”もない、ただあるがままなだけだ。困るのは人間、それも金と権力で自分達だけ助かるようなこともできない、大勢の一般庶民、貧乏な弱小国の人たちなのだということに。


色メガネ?で見てきたエコ(^^)

2008年08月19日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

久しぶりのまとめ書き。暑さのせいかブログもお疲れ気味ではある。

少し前のことだが、京都市の環境モニターで、太陽電池施設と食品トレー再生工場を見学してきた。

まずは、岐阜羽島IC付近にある「SANYOソーラーアーク」。

デカっ!工場前にある超巨大太陽電池パネル。

 「ノアの箱舟」をイメージして作られたそうだ。全長315m、高さ37.1m、重さ3,000t。ソーラーパネルの総数5,046枚、最大出力630kw。

発電した電力は、DA(直流-交流)変換後、後の半導体工場で使われているそうだ。
パンフレットには、「石油換算で年間12万310ℓ、167tのCO2削減量に相当する」と誇らしげに書いてある。

で、ナビゲーターのお姉さんに質問してみた。<>内は私のココロの中でのツッコミ。

Q:総工費はいくらくらいかかってるんですか?
A:ちょっと分かりません。
 <まあ、少なくとも数十億円はかかってそうだな。ちゃんとそのコストも含めてCO2削減効果を評価したの?>

Q:工場の電気全てまかなえてるんですか?
A:いえ、必要量の3%くらいです。
 <お姉さん、声小さいよ。てことは、この工場は石油換算で年間約400万ℓ、5,570tのCO2!を出してるってことになりますな>

最大出力630kwはあくまで最大値。見学時の実際の発電量はと、モニターで見ると下のように240kwであった。

Q:最大値は分かったけど、平均するとどのくらい?
A:300kwくらいです。ソーラーアークは、皆さんに太陽電池の有用性を理解していただくための施設ですので、全体を見やすいように角度が直角に近くなっています。なので、太陽が真上近くにある夏はむしろ最大発電量は少なくなり、冬場に多くなります。
 <ふつう、各季節とも最大効率が得られるように、季節の太陽高度に合わせてパネル角度が動くようにするでしょう。まして市民向け啓蒙施設ならなおさらのこと。要するにデカ過ぎて動かせるようにできなかっただけのことでしょ。>

館内には、今は昔、忘れられた「愛・地球博」のパビリオンのような子供だましのアトラクション。

唯一、この展示だけは興味を惹かれた(クリックで拡大)。

 このまま地球温暖化が進んで、南極やグリーンランドの氷が全て融けると日本は半分くらいが海の底に沈む。(さすがに非科学的と批判を浴びた「北極の氷も融けて海面が上昇する」とは書いてなかった)
京都も京都市を含め大半が沈没しそうだ。やっぱり八ヶ岳の高原に避難しておくしかないなあ。大江あたりはかろうじて助かりそう。100年後には大江の海岸で海釣り?

 それにしても、白物家電不振やお家騒動で火の車の三洋電機、経営再建で大変なときにこんなものに金かけていて大丈夫?、と老婆心ながら思ってしまう。環境ブームに便乗してソーラーパネル事業で一山当てようとの思惑だろうけど、誰しも考えることは同じ、すでにドイツのメーカーや京セラはじめ日本のメーカーも乗り出している。まあ、頑張って。

お次は、いじめられっ子=プラスチックゴミの救世主?、食品トレー再生工場。

玄関ホールのショーケースには、おなじみの各種食品トレー見本が並ぶ。

 係の方の説明によると、「当社は食品トレーのトップメーカー、皆さんが日常スーパーなどで買われる食品のトレーはほとんどわが社の製品。帰ったらトレーのウラを見てください」と胸を張られる。
 で、家に帰って、生協で買ったお肉のトレーを見てみた。確かに!。

この工場では、原材料の一部に(当然のことながら、全部ではない)、中部地域一円から回収された食品トレーを再生原料として使っているそうだ。

各自治体で回収されて工場に送られてきた(トレー入り)“ゴミ”の山。資源として再生できないものも多く含まれているので、まずは人海戦術での分別が必要。

 この分別場、くそ暑い夏の盛りなのに冷房はない!(これもエコのため!?)従業員の方は扇風機の風だけで黙々と作業をしておられた。おそらくパートか、はやりの派遣なのだろう。現業以外の社員とお偉方は、エアコンの効いた別社屋で快適に仕事をしている。

 食品トレーのリサイクルエコに貢献しているのは、口だけの学者・環境屋でも、ヒマな主婦でも、ええカッコシイのスーパーでも、格好だけの自治体でも、ブームに乗っかったリサイクル企業でもない。
 暑い中ゴミを回収して回っている“真面目な”労働者(京都市は質が悪いが)と、黙々と分別に励むこの方々あってのエコであることは間違いない。

 以前からいまいち効果を疑わしく思っていたプラゴミの分別だが、今回の見学で再生できないトレーの方が多いということが再確認できた。比較的再生しやすい食品トレーにしても、まず低発泡スチロールのものを選んで、紙ラベル剥がして、きれいに洗ってようやくリサイクル可能になるのだ。再生できるように分別をちゃんとやるには、コストもさることながら、精神的にも肉体的にも、ものすごいエネルギーが要るということだ。
 そもそも再生しなきゃならないようなものを作らない、売らない、使わないこと、エコには3つのRより3つのNoが大切なんだと、今さらながらあらためて再認識させられた。

 ちなみに、本見学ツアーでは参加者にPETボトル入りのお茶が配られ、「環境モニターなのにPETボトルなんか持って行っていいの?」とか言っていた主婦の方々も、タダでもらえるものはしっかりとお持ち帰りになったのであった。


田舎指数(2)

2008年08月07日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 以前、「コイン精米機の数はその地方の田舎度を示している」と書いたが、今日の新聞記事に、「地球温暖化防止策の一環としての『コンビニ深夜営業自粛』に対する各自治体首長へのアンケート結果」が載っていた。

(◎○は「規制検討中、あるいは規制もありうる」、△は「規制は難しい」、×は「規制は必要ない」という回答)

「コンビニの深夜営業が環境に悪い」かどうかは、金儲け行為の環境に与える負荷や、企業のCO2たれ流しや、軍備の無駄遣いに比べればどっちでもいいようなことだが(個人的にはむしろ、コンビには昼閉店して夜開店するのが良いと思っている)、京都の自治体で、伊根町、南山城村にはコンビニが..、無い!
伊根町にはコイン精米機があった。正真正銘の「ド田舎」だ。南山城村は調べたことがないが、たぶん間違いなくコイン精米機はあるだろう。コンビニが無くてコイン精米機もない田舎は、おそらく岩手か北海道の原野くらいではないだろうか?

もう一つ、興味深いのが「大山崎町」の回答。-△「営業の自由がある」-。
「営業の自由」に言及しているのはここだけ。周知のとおり、大山崎町長は共産党の町長だ。

ということで、[田舎度]=[コイン精米機の数]÷[コンビニの数]

(この方程式で行くと、コンビニが無ければ([コンビニの数]=0)限りなく、無限大に「田舎」ということになってしまう。この辺は一考の余地ありか。鬼さんのおっしゃるように、[作付け面積]や[人口]も考慮する必要はあるだろう。)

岩倉の[田舎度](推定値)=1÷7≒0.14

「田舎暮らし応援団」の本拠、旧大江町(現福知山市)についこの間、初めてのコンビニ(FM)ができた!(つぶれないことを祈ってます

大江町の[田舎度](推定値)=3÷1=3

旧大江町は岩倉の約20倍田舎ということだ。別の見方をすれば、[田舎度]=[未開度]=[自然環境良好度]と言えないこともないだろうけど。ま、[田舎度]指数については、他の要素も含めてもう少し研究してみたいと思います

ところで、「田舎」って何だろう?


子供の論理

2008年07月09日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

「Aちゃんたちだけオイシイもんばっか食べてズル~イ」
「Cちゃんたちがやんないんならボクもやんないもーん」
まるで子供のケンカだ。
洞爺湖サミットは予想通りの展開で終わった。いったいこの無意味な寄り合いとその関連騒動(マスコミやNGO)にどれだけのジェット燃料とガソリンと食料と電気、その他がムダに使われたことか。

 近々、M自動車から「環境にやさしい?」電気自動車が発売されるらしい。車の製造コスト+走らせるための電気エネルギーのトータルCO2換算量は、ガソリン車の1/4だそうな。
 しかしそこには、まだまだ使えるガソリン車をわざわざ電気自動車に買い換えるための金を稼ぐ行為や電気自動車のためのインフラ整備によって発生する、またゴミとなるガソリン車の処分によって発生する膨大な量のCO2については全く考慮されていない。これは例の地デジも同様だが、「環境によい」などとウソをついている分電気自動車のほうが罪は重い。
 「買う(買わせる)」という行為自体がすでに環境に負荷をかける行為であることを、私達は知らなければならない。


“種”は戦略物資

2008年06月01日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 田舎で農業実践中のゆゆさんから黒豆の苗をいただいた。とりあえず「まつたけ十字軍」の循環畑の隅っこの空きスペース(タイトル写真)とわが家の庭の超ミニミニ菜園にも植えつけた。順調に行けばちょうどビールのウマイ季節によいおつまみとなってくれるだろう。昨年、ゆゆさんがテストで作られたのを少しいただいて食べたが、ふっくらと充実した豆でとてもおいしかった。

 さて、食糧供給をいつまで持続できるかが危ぶまれる昨今の日本、自分で作物を作れるようにしておくのは自衛の意味からも意義のあることであるが、気になることが一つある。「まつたけ十字軍」の循環畑やわが家の超ミニミニ菜園はもちろんのこと、農家でさえ作物の苗や種子の大半は、実は自給できていない、というか自給できない!と言っても過言ではないのだ。
 周知のとおり、スーパーなんかで売っているような品種改良されたできのいい作物は、山菜のようにそこらへんで採集してくるというわけにはいかない。種や苗は、農協や種苗店、ホームセンターなどで買って来ざるをえない。さらにホームセンターや農協の先をたどって行けば“種屋=種苗会社”に行き着く。つまり、わずか40%の「自給」率農業と言えど詰まるところ“種屋”に依存しているのである。これでは真の自給とは言えず、実質自給率はほぼ0%に近い。“種屋”に「もう種を売ってやらん」と言われてしまえば一巻の終わりなのだ。

 では作物の一部を採種用に回して種をとって置けばよいではないか、と考えるのは当然だ。確かに自家用だけならそれも可能である。最も改良品種の遺伝子というのは劣性も多く、代を継ぐに従って改良形質が発現しなくなったりする場合が多いのだが。
 ちなみに、ご存知とは思うが農産物にも工業特許や著作権と似たような新品種作出者の権利保護策があって、日本では種苗法で品種登録された種苗を自家用以外に他人に譲ってはいけないことになっている。もし、くだんの黒豆が品種登録されているものだとすれば、ゆゆさんはそれを私に譲ったりしたら、本来ならお縄になっても文句は言えないのである。法律はそうなっている。
 野生種など品種登録されていないものは栽培も流通も自由だが、生業としての近代農業では、品種改良されて品種登録された作物でないとほとんど売り物にはならない。

 10年ほど前、そこにビジネスチャンスありと目をつけたモンサントは、「発芽抑制遺伝子=ターミネータージーン」を開発したバイオベンチャーを買収し、その技術を使って大儲けを企み、実際に薬剤耐性ワタや大豆や菜種などの種子を作り上げた。
 その仕組みは、厳密ではないが大雑把に言えば、例えばコシヒカリの種の半分に『発芽を妨げる毒性遺伝子と、その毒性遺伝子の発現抑制遺伝子』を組み込んでおく。もう半分には『“毒性遺伝子の発現抑制遺伝子”を壊す遺伝子』を組み込んでおく。最初の栽培では毒性遺伝子は発現してこないので作物は正常に実る。しかし、できた種は先の2つの遺伝子が交配しているため、二代目の種を播いても、交配によってもたらされた『“毒性遺伝子の発現抑制遺伝子”を壊す遺伝子』によって『毒性遺伝子の発現抑制遺伝子』が破壊されるため、抑制の効かなくなった毒性遺伝子が発現して二代目種子は発芽しなくなる、というわけだ。少しややこしいがよく考えたものである。
 このような、儲け至上の資本主義下においてさえもあまりにエゲツなかったモンサントの野望は、世間からブーイングを浴びてそのときは頓挫したが、やろうと思えばいつでも可能なのだ。

 モンサントは自社の“ラウンドアップ”という除草剤と、それに対する耐性遺伝子を組み込んだ種子とをセットで販売して大儲けをした。ひところ遺伝子組換え大豆として日本でも「表示するのしないの」と大騒ぎになった、遺伝子組換え大豆とはまさにこれだった。
 ゆゆさんも遺伝子組換え作物について書いておられるが、今後、地球温暖化が進むのを見越して、高温耐性遺伝子組換え作物とか、乾燥地耐性遺伝子組換え作物とかも準備しているだろう。表向きは「アフリカなどの高温乾燥飢餓地域を救うため」とか「来るべき食糧危機に備えて」などときれいごとをのたまうだろうが。
 先日も、マイクロソフトのゲイツ財団が北洋の極寒地で様々な植物種の種子の保存を行っていることが報じられていた。表向きは「生物多様性の保護」だが、考え方一つでいつでも「種の独占」に転化しうるプロジェクトだ。

 ことほどさように、食糧と“種”、とりわけ人間や家畜のエネルギー源となる穀物をめぐる世界はまさに戦争状態なのだ。日本でものんきに「きゅうり」だの「水菜」だの「大根」だの「フキ」だの、その気になれば誰でもどこでも作れてエネルギー的には足しにもならない野菜ばかり作って「食糧自給」などと言ってる場合ではない。減反などまさに売国奴的政策だ。何はさておき穀物の自給を急がなければ大変なことになる。


実をとるのか景色をとるのか -里山の勢力図の変化-

2008年05月19日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 最近、やけに山が黄色いなあと思っていたら、一昨日の京都新聞に東山などでシイが増えていると報じていた。黄色のモコモコはシイの開花のようだ。シイにはツブラジイ、スダジイの実のように渋みが無く食べてもウマイものはあるのだが。
 松枯れで松が減り、ナラの仲間などの落葉樹もナラ枯れで減少し、シイやカシも燃料などに利用しなくなった結果、シイやカシといった常緑広葉樹がどんどん勢力を拡大しているのだろう。常緑広葉樹が増えると、山は針葉樹林のように年中緑が濃くなり、四季の変化が見られなくなる。四季の景観の移り変わりを観光の一つの売りにしている京都にとっては困ったことではあるのだろう。年毎に葉っぱが入れ替わる落葉樹の方が二酸化炭素固定の量は常緑樹より大きいかもしれない。また落葉樹の多い山では、夏は繁った葉が日陰を作ってくれ、冬には葉が落ちて森に日が差しこんで暖められるという利点もあるかもしれない。

 ただし、これが全国的な傾向かというとそうでもないようだ。
週末、姪の結婚式に参列するため名神~中央高速道を利用したのだが、沿線の里山で目立つのは京都のようなシイ等の常緑広葉樹の勢力増加ではなかった。先日、花を天ぷらにした北米原産の帰化植物ニセアカシアの白い花がやけに目立つのだ。ニセアカシアは、痩せ地でも繁殖力旺盛で、成長も早く数年で20mを越えるほどにもなるという。実際結構な大木が目立った。ただ、ミツバチがニセアカシアの花を好むといい、ハチミツ増産にはよいのかもしれない。環境への影響は不明である。このままニセアカシアが増え続けるとどうなるのだろう。今後、どのような森や山を作り残していくべきなのか、よくよく考えねばならない。


田舎の食糧事情

2008年05月08日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 いよいよ地球規模での食糧危機が現実のものとなりつつある。日本でも遅ればせながら、食糧自給率向上の大合唱が始まっている。
 それでも、「いざとなったら都会はダメでも田舎へ行けばまだ大丈夫」なんて思っている人もいるのではないだろうか。私もなんとなくそう思っていた。大変な事態になる前に、田舎へ移住するか田舎との二重生活で自給自足をすればナントカなる、と勝手に都合よく思っていた。

 先日、田舎でBBQをしたのだが、「田舎には野菜なんか腐るほどあるだろう、田舎暮らしの知人からおすそ分けしてもらおう」と肉類だけ買っていった。ところが見事に当てが外れた。野菜は、すでにとうが立って“えぐみ”の出てきたオバサン(オジサン)?タケノコしかなかったのだ。聞けば、「今は野菜の端境期で食べられるものはない」とのこと。
 もちろん、今や日本ではどんなド田舎でも、金さえあれば車を走らせてスーパーで野菜(ただし地物ではない)はじめあらゆる食料を調達できる環境にはなっている。しかしそれでは、いつ食糧が店頭から消えるか分からない危ない都会となんら変わらない。
 農協の「野菜カレンダー」を見ると、ゴールデンウィーク頃が収穫期の野菜はキャベツ、タマネギ、ホウレンソウ、インゲン、小松菜、サニーレタス、...、と結構あるはずなのだが、今回BBQをした田舎は米作中心で、野菜はあまり作っていないようなのだ。都会人が遊び半分でやっている家庭菜園と同じで、ネギなどの常備野菜以外は、少量なら大半の野菜は作るよりスーパーで買った方が手間もかからないし安い。
 以前、大江のスーパーで長崎の人参を売っているのを不合理に思ったものだが、米農家は米だけをつくり、野菜農家は野菜だけを作り、農業はあくまで副業で勤めに出て金を稼ぎその他の食糧はスーパーで買う、効率重視の工業社会的分業が農業の世界にもできあがっている。野菜専業農家がハウスで多くの石油燃料を消費して出荷調整しているおかげ?で、スーパーへ行けば年中野菜が手に入る。しかし、巷間言われているように石油燃料もいずれ逼迫してくるだろう。

 価格が高かったり必要度が低ければ買わなければよいという、市場任せにできる工業製品と違って、食糧は生きるために一定量は絶対に必要なものである。現在のような分業農業によって食糧供給を安定的に持続させるためには、政治的な生産者・消費者双方への価格保証制度は不可欠だ。しかし、「価格保証なんかすれば農家は制度に甘えるし、また新たな利権構造を生む」という声もあるだろう。それも一理ある。
 そこで、生活の最小単位である世帯ごとに市場と関係なく食糧自給できる制度として、「平成の農地改革」をしてはどうだろうか。せめて自分達の食べる分くらいは自給したいと考える人達がいても肝心の農地を持っていない一方で、多くの遊休地を抱えながら貸し出しこそすれ手放そうとしない不在地主がいる。不在地主のほとんどは、土地の奪い合い・私有化の歴史の過程でたまたま先祖が自分のものとした土地をタナボタで引き継いだ人たちだ。
 そんな土地私有者から、生活のために必要最小限の50~100坪程度の土地を残して余剰の土地を全て国が接収し、一人当たり100坪程度を日本全国各世帯に人数に応じて食糧自給生産用地として再配分し貸し出すのだ。10年ごとくらいに世帯人数の見直しと農地の再配分を行う。
 「何をバカみたいなことを」と思われるかもしれない。しかし、そのくらいの改革を敢行しなければ根本的な解決はできないだろう。「官僚、役人」に農政の責任を押し付けて逃げ切ろうとする姑息な政治家もいる。確かに腐りきった「官僚、役人」は多いかもしれない。がしかし、そんな連中が発生するのも土地の私有・相続制度によるウマミ・利権構造があればこそだ。


3ヶ月分、93本なり

2008年03月26日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 今日は資源ゴミ回収の日。今年1月1日から20Lの指定ゴミ袋に溜めていたペットボトルがちょうど一杯になったので回収に出した。一家4人で溜めに溜めたり約3ヶ月分、けっこうペットボトルを買っているもんだ。

 ペットボトルはかさばらないようにナイフでバラしてパッキングしている。別に取っておいたフタの数は93個、つまりもう少し隙間を埋めるように詰め込めば、20Lの指定ゴミ袋に約100本くらいは入れられるということだ。バラさずそのまま資源ごみ袋に詰め込んだのではせいぜい10本も詰め込めればいい方だから、毎週出す10週分が1回で済むのでゴミ袋の節約にはなっている。
 でも、前にも書いたように、回収時には他の資源ごみ(缶、ビン)と一緒くたにパッカー車に放り込まれる運命なのだ。手間かけてバラしてかさを減らしてもメリットは資源ごみ袋が1袋で済んだことだけ。ひょっとしたら、集積場に集められた資源ごみからペットボトルを選り分けるのには、むしろバラしてないほうが選り分け易いかもしれない。実際、ご近所の大半の方々も、せっかく分けて出しても一緒くたに収集されてしまうバカバカしさからか、最近ではペットボトルも缶・ビンと一緒にゴミ袋に入れて出されている。それでも回収はされて行く。そりゃそうだろう、どうせ一緒なんだから。

 バラして溜めてから出せば回収の回数はグッと少なくて済むから、パッカー車の燃料代や人件費は節約できるはずだ。
 「缶・ビン」と「ペットボトル」を分けて出させるのなら、ペットボトルはバラして出すルールにし、ペットボトルだけを2~3ヶ月に一回収集すれば、より燃料や人件費の節約ができ、後でペットボトルを選別する手間も省けてリサイクル効率も上がると思うのだが?
 そんな知恵さえ働かせず、格好だけ環境に配慮しているようなポーズをとっているだけだからこんなことになってしまうのだ。


「景観」とその「価値」について考える

2008年03月13日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 昨日、京都府教育委員会が「毛原の棚田」ほか3地域を「文化的景観」に指定したことを書いた。では「景観」とは何なのか?「景観」の価値とは?「景観」は環境保全との関連で語られることも多いが、「景観」を保全することと「環境」を守ることとの関係は?
 とりあえずネットで調べてみても予想通りこのあたりのことごとに関してはあまり深められていないことが分かる。学会、行政、一般の雰囲気というか、はやりの“空気”で読んでみれば、なんとなく「自然と人工物の混在した一定範囲の景色」を「景観」と暗黙に了解しているようだ。

 そもそも「景観」自体があいまいなのに、その「価値」ということになると、これはもう経済的価値観という視点で論じられる場合がほとんどというのはいたし方のないところだ。昨年6月、「景観形成の経済的価値分析に関する検討報告書」なる ものが国土交通省から提示されているが、現時点での「景観の価値評価手法」に対する考え方の大勢をまとめたものと言えるだろう。

 昨年9月、京都市が「新景観条例」を制定した際にも、市街地の地主や不動産業者らからの「資産価値が下がる」といった反対論に対する反論の拠り所となっていた。ちなみに、京都府も昨年4月に「景観条例」を施行しているが、京都市の場合ほど反対論も出てこなかったというか、ほとんど話題にもならなかったのは興味深い。 

 京都府のそれが「平和を守りましょう」的な毒にも薬にもならない総論、スローガンのような内容であったのに対し、京都市のそれは、あの前市長にしては珍しく建築物の「高さ」「建ぺい率」や「広告規制」など、言ってみれば「平和を守るために、タルんだ海自の無駄な船と人員は半分に減らしましょう」的に具体的な基準にまで踏み込んだため、経済的利害の対立する勢力が騒いだということだ。

 つまり、ことほど左様に「景観の価値」、「景観保全」といっても具体的な部分に踏み込んでいくと、醜い利害争いが現れてきて結構泥臭いものなのだ。私は、その元凶は「景観」の基礎をなす「土地の私有制度」にあると考えている。土地の私有制度を撤廃すれば「景観」と「経済的資産価値」との対立は無くなる。経過措置として百歩譲っても、個人の生活に必要最小限の土地以外の「私有」は即時撤廃すべきだ。そこにメスをいれずに「平和を守ろう」的キレイごとをお題目のように唱えていても何の解決にもならない。
 これと似たようなことは、他の環境諸課題、CO2、エネルギー、食糧その他全てについて言えることだ。循環型社会などと耳障りの良いたわごとをふりまき、CO2まで排出権取引で投機の対象としてしまう資本主義のタブーに踏み込まない限り、根本的解決はありえない。そこに気づかないで今の市民レベルの環境への取り組みなど、所詮騙されているか自己満足のお遊びでしかない。