WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

里地里山シンポジウム

2008年03月04日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 行ってきました、里山シンポ。
 参加者はざっとみて130人くらい、その95%は団塊世代以上の熟年世代と、まあこの日時設定ではさもありなんというか。まつたけ十字軍からは、代表はじめ実に10名近くが参加し盛り上げに貢献した。

 司会は環境省自然環境計画課長 渡邊氏。冒頭、司会者からの問いかけで挙手した、実際に里山保全活動に関わっている人は参加者の約1/4。
 司会者より環境省の里地里山政策の紹介とシンポジウム開催に至った経緯の説明があり、続いて「芸術の視点」から北川フラム氏、「循環型社会の視点」から内藤正明氏、「美しさ・景観の視点」から森本幸裕氏の講演、休憩を挟んでアイトワ主宰の森孝之氏、アミタ(株)の熊野英介氏、サントリー次世代研の佐藤友美子氏、環境省里地里山専門官の青木氏を加えた7名でのパネルディスカッション。


 パネラーの発言には、実質引退名誉職と現役の、あるいは学者、官僚、事業家、民間のと、現在のお立場がよく出ていて興味深かった。「存在が意識を規定する」唯物論の原理は確かに存在していた。
 里地里山の保全については、問題の捉え方や解決に向けての視点・方法論が百家騒乱(あえて百花繚乱とは言わない)状態であることは昨日書いた。前半の3つの視点からの講演と後半のパネルディスカッションでそのあたりをどう整理していくか、何らかの方向性の提示を期待したが、それぞれの立場からの報告がなされただけで残念ながらそうした問題意識はなかったようだ。
 北川氏の報告は、新潟県の田舎町でのフィールドアートによる住民意識改革の実践例が中心であった。例えば、畑に洗剤のコマーシャルのようにシャツを並べ吊るしたり、林の中にビーズで作った造花をちりばめる、といったもの。その地にないものや石油製品を持ち込んでそのときは確かに「アート」かもしれないが、その後どうするのか、ゴミにならなかったのかと老婆心ながら心配させられるものであった。実際、丹後のリゾート公園破綻地で、環境テーマに芸大の方々が作ったらしい鉄骨とビニールテントの造形物が、時を経て汚らしいゴミとなった醜い姿をさらけ出していたのを見てしまったことがあった。なにも都会的「アート」を持ち込まなくても、地域にある芸術、芸能を広く発信する方がよいのでは、と感じた。その発想は、「ひこにゃん」の向こうを張って童子(大仏?)に角付けて奈良のシンボルキャラクターとしたゲイジュツ家と同レベルだ。

 内藤氏は、国立環境研究所を経て京大地球環境学堂の初代学堂長を務められ、現在は琵琶湖環境科学研究センター長、NPO理事長、佛大教授とながく環境関連・循環共生型社会研究に関わってこられた経験から、「国や大企業が変わらない現状ではすでに手遅れ、各家庭で努力すれば変わるというものではない」と、ちょっと過激?な発言(ショック療法のおつもりか)も挟んで嘆いておられたが同感であった。
 ゴミ分別・減量・リサイクルだの、CO2を出すな、無駄な電気を消せの、省エネ製品を買えのと、一般庶民にばかり環境「教育(洗脳?)」し行動を強要する環境政策では根本的解決からは程遠い。環境学者というのは、破綻に向かって驀進する資本主義社会を担う現政府の目くらまし環境洗脳政策への国民動員のお先棒を担いでいるものと思っていたが、中にはそうでもない人もいるようだ。まあ、国と資本家に遠慮がないのは実質引退組の強みか。

 森本氏のお話は、まあ独法になったとはいえ国などから金をもらう立場は変わらない現役研究者の弱みが現れた、当たり障りのない教科書的「生物多様性論」で特に印象に残るものはなかった。終了間際に客席からお騒がせオバサンのようなお方が、「これがお抱え学者と官僚の実態だ」と八つ当たりしていたが、気持ちは分からないでもない。

 パネルディスカッションも、パネラーの方々の旧論を披露する取りとめのないものでコメントするのもめんどくさい。

 やはりミニシンポのやり方のほうが、地域限定的で話としては小さいかもしれないが、「手遅れ的現状でも何かしなければ、しないよりはまし」と頑張る一線の実践者には役に立つだろう。次回に期待。ん~、環境省に期待するよりは市民レベルでそういう場を作った方がよいのかもしれない。

 個人的には、小難しい理屈をこね回さなくても、要は必要以上に資産を所有し金を持つことこそが諸悪の根源と考えている。1億円は1億円分の環境負荷なくしては得られないと知るべきだ。土地の個人所有は300坪以下(森氏は300坪で循環・自給自足できるとの持論)、年収は1千万円以下に限定、それだけあれば十分、それ以上は没収し社会や地域の共同財産とする。あまり肩肘張らずソフトを充実させてビンボー生活を楽しんでいきたい。


「里地里山シンポジウム」“京都公演?”

2008年03月03日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 環境問題、とりわけ里地里山の保全に関わるようになって以来、強く感じていたことがある。それは、問題の捉え方や解決に向けての視点・方法論について、主宰団体や関係者がそれぞれが我田引水、てんでにいろいろなことを言ったり行ったりしており、中には全く相反するような主張や行動もあったりして、調整をする場が必要だということである。
 関連学会やお役所関係では交流の場もあるのだろうが、こうした活動の実戦部隊となるべき主人公は市民、地域住民でなければならない。そうでなければ、それぞれ特徴のある地域に根ざして、地道に数十年、数百年の長いスパンで継続していかねばならないこれらの活動は、いくら掛け声ばかりが高くても到底持続はできないだろう。

 そんな折、環境省の外郭団体=「(財)水と緑の惑星保全機構里地ネットワーク」が「里なび」というネット交流の場を作ったので、また天下り先作りかとの懸念をしつつも期待を寄せたいことは以前にも書いた。
 まだまだ交流、調整の場には程遠い情況が続いているが、チョットは期待できそうな全国縦断コンサートツアーのようなシンポジウムがただいま進行中である。その“京都公演?”=「里地里山シンポジウム」が明日予定されている。
 これまで環境関連のイベントには失望させられることが多かった。今回の“京都公演”も、地方都市開催分のミニシンポと違って、その道の権威を自認する方々ばかりからなるパネラーのおしゃべりを参加者が有難く拝聴しお勉強をさせていただくという、安直でありがちなシンポジウムで、市民、地域住民の関わりがない点で不満はある(大体、学者をはじめとしたヒマ人しか参加できない平日の昼間に計画する時点ですでに市民への配慮に欠けている)が、今後の展開への期待の可能性を探る意味で参加してこようと思っている。おヒマな方は行ってみてはいかがでしょう。なお、地方都市開催分のミニシンポは、なかなか充実した内容だっただろうことが終了分のレポートからもうかがえて大変参考になります
 あらためてその様子はレポートします。ま、私のことですから素直には見ません、かなりの色メガネで斜交いから眺めることにはなるでしょうが。(いろんなメガネを掛け替えて、いろんなはす方向から見て初めて真実が見えてくるものです)


ベトナムでは寒冷化?

2008年02月24日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 新聞によると、ベトナムでは近年にない寒波の影響で農作物に大きな被害が出ており、亡くなった人もいるらしい。京都もこの冬は近年になく雪の日が多い。巷では、「温暖化の証拠はたくさんあがっている」と言われているが、「平均気温の変動はロングタームで見れば通常変動の範囲内」という見方もある。
 学者を中心に将来の温暖化の影響が言われるが、あくまでコンピューターシミュレーション上の話でしかない。ミニ地球を作って実際の実験を行った結果、温室効果ガスの有る無しによって確かに有意に温度が上昇した、という話は聞いた事がない。やっぱり温暖化って一種の洗脳なのでは?みなが「地球は温暖化している」と思い込むことによって利益を得る連中はたくさんいる。大体が、温暖化対策としては最も効果的な「企業や経済活動を縮小しエネルギーや資源消費を最大限少なくしよう」ということを誰も言わず、それだけでも確実にエネルギーと資源を消費する省エネ・温暖化対策商品を買わせようとする最近の流れ自体からして胡散臭い。


里なび

2008年01月23日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 環境省が、里地里山保全再生活動ボランティアの交流、情報サイト「里なび」を開設した。私も以前から「そのようなサイトがあったらよいのに」と思っていたので大歓迎だ。早速のぞいて見たが、まだまだショボかった。団体登録申請も活動レポートも工事中だった。まあ、今後に期待したい。

 私も「まつたけ十字軍」や「田舎暮らし応援団」など関連する活動に参加させてもらっているが、最近、全国にはそのような団体・グループ・個人が、言葉は悪いが雨後の竹の子よろしく無数に発生している。「里地里山保全再生」あるいは「地域活性化」という掲げる目的はほぼ共通しているものの、個々の活動エリアは狭く、その立場や方法論は様々で混沌としていて、短命、自己満足的なきらいのものや、中には首を傾げざるを得ない活動もある。
 例えば、里山保全にしてもわが「まつたけ十字軍」のように「痩せたアカマツ林」再生を目指すところもあれば、「栄養豊かな?広葉樹林」を目指すところもある。里山の地勢によって保全・再生の方法論や目指すゴールも違って当然だとは思うが。
 森林がCO2吸収削減に「効果あり」とする主張がある一方で「効果なし」とする議論もある。「自然・環境を学ぶ施設」を「莫大な金を遣い、自然・環境を壊して作っている」ような?の付くところもある。

 「もう少し協議・協力・調整し合える場があればもっと大きな力になるだろうに」と思っていたところで、タイムリーではある。ただ一つ気になるのは、事務局となっている「(財)水と緑の惑星保全機構里地ネットワーク」。やっぱり環境省の天下り先?


「持続可能な循環型社会」と「共産主義」

2008年01月11日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

冒頭写真はホット飲料用PETボトルを分解したところ。なんと四層構造になっている。加温による破裂に耐えるようにするためなのだろうが、そこまでして必要な商品だろうか?
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 東京23区では、今年度(2008年度)からプラゴミは可燃ゴミカテゴリーに戻されて一括回収されることになるという。おそらく、<分別回収費用>対<環境負荷軽減効果>を考えてのあまりの税金と家計費の無駄遣いのバカバカしさに対する批判が、ゴミ利権関係者や御用環境論者の継続圧力に勝ったのだろう。京都では、市環境部局と民間のゴミ利権関係者、さらには関連圧力団体がゴミ事業を牛耳っているので転換はありえないだろうが。いやむしろ京都では、利権拡大のためのさらなる分別細分化や有料化などで余計な仕事が増やされていくことだろう。

 京都市環境局(利権その1)によって分別収集されたプラゴミ、PETゴミは、民間中間処理業者(利権その2)のところでさらに汚れなどで使いようのないものが分別され、なんとか金になるごく一部のプラゴミ、PETゴミが再生業者(利権その3)に回される。再生品ももとどおりの同じ包装容器にまで再生されるためには、回収品にも100%近い純度が要求されるから微々たるもので、大半は不純物が混入していてもなんとかなる下位のベンチだの園芸資材だの、それだけのコストをかける意味があるのかと思わざるを得ないどうでもいいようなものが作られるだけだ。
 プラゴミ、PETゴミ分別収集がいかに無意味なことかを示す一つが再生プラ包装、PET容器マークが存在しないことだ。紙ではこれ見よがしに再生紙マークが付けられているのに。まあ、「再生マークを付けた包装材では消費者に敬遠されるから」とでも言い訳するのだろう。

 中間処理業者のところで箸にも棒にもかからない汚れ物として排除されたプラゴミの行方はどこか?答えは、再び市の焼却場に戻ってくるのだ。プラゴミを排除された一般家庭ゴミ(いわゆる燃えるゴミ)は大半が生ゴミだ。生ゴミは燃えにくい。従って焼却には石油製品を助燃材として加える必要がある。再生不可能として業者から突返されてきた大半のプラゴミは、また市が引き取って家庭ゴミの助燃材代わりとなって焼却炉に放り込まれるのだ。まったく馬鹿げている。なぜこんなことがまかり通るのだろう?もうこんなバカバカしい分別はやめようと思っている。うちだけではアリの小便にもならないささやかな抵抗でしかないが。

 さて、「なぜ、たかがゴミ分別程度のことにそんなに噛みつくのか?」という向きもあるだろう。それは、私にはこの例が日本の環境に関係した運動や行政、研究、ひいてはサブプライムローンから石油高騰、「地球温暖化?」などなど噴出している世界的体制矛盾すべての象徴のように思えてならないからなのだ。
 「環境問題」と「環境ビジネス」が表裏一体の流行となるくらい、いまや「環境」は金儲けの具となってしまった。さらにそれだけではない。環境問題から派生して、その解決のためには「持続可能な循環型社会」に移行しなければならないなどと、本来、現代資本主義社会の抱える体制矛盾から生じている様々な問題から目をそらさせ、「持続可能な循環型社会」などという体制枠内での改革幻想で糊塗しようとする、古くて新しい姑息な体制延命策に反体制、体制懐疑派も含めて乗せられている、まさに環境大政翼賛会といった現状に危惧を抱かざるを得ない。

 そもそも環境、エネルギー、食糧、貧困・格差など、噴出する問題点の根源はあくなき金儲けを是とする現代資本主義体制にある。そこをつかずして何の解決もない。エセ環境論者を告発した「環境問題はなぜウソがまかり通るのか2」という書がある。基本的スタンス自体は体制派の著者には、自身が「データ運用や論旨が政治的、利己的」と批判するエセ環境論者の流儀に著者自身もハマっていることに気づいていないというきらいはあるが、「環境問題の解決策は簡単なこと、経済を縮小し、皆が年収減を受け入れ金を使わない生活をすればいいだけのことだ」という一点で本書を支持する。


 そもそも、「金を稼ぐ」ということは「地球環境への負荷手形をとりつけている」ということであり、「金を遣う」ということは「地球環境への負荷手形を行使する」ということに他ならない。金を遣って買う「何か」はその生産のために必ず何らかの資源・エネルギーを消費している。無から有は生まれない。それが経済的商品価値というものだ。「そこに人間の手(労働)が加えられることによって新たな価値が付加される(労働価値説)」と説いたのはマルクスであった。すなわち、「金持ちか貧乏か」は「環境に与える負荷が大きいか小さいか」の差だ。金を遣えば遣うほど環境に負荷をかけているということで、環境への過度の負荷が罪であるとするならば、金を遣うものは犯罪者なのだ。
 実はそのことを自覚していながら、いや自覚しているからこそ自分達だけが湯水のように金を遣い、享楽の限りを尽くすことで相対的優越感、幸福感を得ようという者たちが体制維持対策上持ち出してきたしたのが、他ならない「持続可能な循環型社会」などという欺瞞の産物なのだ。過去、資本主義国家は様々な問題を抱えながらも、「始末の悪い自称社会主義・共産主義国家」の存在のおかげで、よりましな体制として見逃されてきた。それらが自滅して隠れ蓑がなくなると、今度は「福祉国家」だの「実力(成果)主義」だの「独立起業時代」だの「物から心の豊かさへ」などとあの手この手で誤魔化して延命を図ってきた。そしてここにいたっての世界をまたにかけた究極の延命策が「持続可能な循環型社会」というわけだ。もしかしたら「田舎暮らしのススメ」もその一環かもしれない。

 カバン持ちの「環境屋」はいざ知らず、善意の「環境家」もこの単純な原理に気づいていない、気づこうともしないし気づいても認めようとしない、みな釈迦の手の内の孫悟空なのだ。そしてエネルギーも資源も経済も安全も教育も何もかもが、本来企業、行政、国家レベルで行わなければ解決不可能な問題なのに、庶民一人ひとりの個人レベルで行うべきこととして、資源を無駄に使うな、省エネしろ、ゴミは分別しろのと、無意味な空回りを次々と押し付けてきて、世を洞察し隠された真実を見抜く暇を与えないようにしてしまう。
 「勤勉で真面目?」な日本人は何の疑問も持たず、お上や偉い人の言うことだからと、無意味な分別をし、物心付くかつかないかの幼少時から競争に駆り立てられ、体制の下僕となっていくのだ。そんな「持続可能な循環型社会」に踊らされるのは、私は真っ平だ。本当の解決策があるはずだ。
 唐突だが、「共産主義」ってそんなに悪いものなのだろうか?ひと時のうたかたのように浮かんで消えていった「東側世界」は本当に「共産主義」だったのだろうか?いつの時代にもどこの国でも、体制派が庶民に最も目を向けさせたくない、隠しておきたいところに実は真実が隠されていることが多い。トッテンさんも言っているように、実は「共産主義」も悪くない選択なのかもしれない。


「環境」と「持続可能...」の「グローバリズム」

2007年11月12日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 私も参加している「まつたけ十字軍」は、足の踏み場もないほどマツタケが生えた昭和30年代のアカマツ林を再生することが里山の再生につながる、として活動している。京都市では、古都らしい景観を保つ観点から「松枯れ」「ナラ枯れ」を防ぐ必要性が叫ばれ、その観点から活動している市民団体もいくつかある。
 一方で、貧栄養の山に成立するアカマツ林は病虫害によって荒廃しやすく、土砂の流出などの被害を招きやすいため、植生豊かな林相に変えるほうがよい、という考え方もある。温室効果ガスのCO2を森林に吸収させるために広葉樹林を増やすべき、と唱える向きもある。
 杉林を守れ、原生林を守れ、熱帯雨林を守れ、...森と山を守ろうという根っこのところだけは共通しているのだろう。まあ、「平和はだめだ、戦争をしよう」なんて表立っていう人間はまずいない(心の底はいざ知らず)のと同様、「森を壊せ、山を壊せ」などと言う人間もまずいない。考えてみるとみんなそれなりに一理あるのだ。そして大義名分の行き着くところはおしなべて「地球温暖化」であり「環境」であり「持続可能な...」だ。アジア各国の会合でも1500万haの森林を復活再生させようと話し合われたらしい。
 最近の地球規模での世をあげてのこうした傾向になんとなく「?」を感じるこのごろである。どうも本質的な問題を糊塗するために「持続可能な社会」などという実体のはっきりしないお題目に誘導がなされているような気がしてならない。
 中南米で起きつつある新しいムーブメントには「地球温暖化」だの「持続可能な社会」だの「テロとの戦い」だのといった裏で糸引かれているような胡散臭いスローガンは無い。単刀直入、反米、反貧困、反富の集中だ。どうもそっちに目を向けさせたくない勢力の情報操作にみんなうまく乗せられているのではないのだろうか。
 先日、戦後の日本に対するCIAの情報操作と自民党支配へのテコ入れ策動の資料が米議会で公開されたことが小さく報道されていたが、不思議なことにそんな重大な問題も日本ではマスコミはじめまったく問題にしていない。


2007びわこ環境ビジネスメッセ

2007年10月25日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

10月24-26日開催中の「2007びわこ環境ビジネスメッセ」という環境産業総合見本市を見て来た。
会場は滋賀県北部、長浜市の長浜ドーム。


会場周辺の芝生には温暖化の影響か?タンポポが咲いていた。愛知万博(愛地球博)の払い下げ?ベロタクシーも。駅との送迎はお約束のBDFバス。


出展をパンフレットで数えると268もあるから相当な数だ。NTT、ナショナル、キャノン、大阪ガスといった大企業から、中小企業、ベンチャー、自治体・公共団体、大学、NPO、海外と実に多彩だ。

内容件数では多い順に、省エネ・新エネルギー関連、リサイクル関連、廃棄物処理・浄化システム、ソリューション・コンサルティング・支援事業、啓発事業、その他といったところ。以下、個人的に興味を引いたものを紹介します。その他は「2007びわこ環境ビジネスメッセ」のHPを参照ください。

バイオマス発電

木質、家畜排泄物、食品廃棄物から熱・電気エネルギーを得るシステム。天候に左右されないが、初期投資低減と効率アップが課題か。家庭用ではない、小地域共同利用には有望かもしれない。

風力発電
 
展示は2社のみだった。太陽光発電と併用して電池に蓄電し、無風・夜間でも継続使用可能なシステムとしていた。1社は風速12.5m、300Wで60万円(風力のみ)、1,500Wシステムもある。もう1社は電力200W程度で太陽光併用システム価格120万円。発電量的に外灯など小電力機器専用でしか使えないだろう。

小水力発電
 これも意外に少なく1社のみだった。効率不明。まだまだ研究段階で実用レベルではないということか。

太陽光発電
最多、といっても風力との併用含めて3社のみ。すでに普及しているのであえて展示宣伝するところもないのだろう。太陽光専用システムの1社は3kwと一般家庭なら実用レベルでシステム価格200万円程度とのこと。やはり現状では太陽光発電がコストパフォーマンス的にも最も実用レベルか。

ガス発電

ご存知、エコウィルだ。 うちの学区周辺でも2、3見かけた。設置している人の話では以前に比べてガス代が倍、電気代が1/3くらいになったそうだが。エコキュートに対抗できるか。快調の余裕か電力会社系では、エコキュートは展示の一部で前面に押し出してはいなかった。

地中熱利用システム

井戸水でよく知られているように、地下数10mでは年中温度が15℃くらいで一定している。この地熱をヒートポンプで熱交換して空調などに利用しようというもの。アイデアとしては面白いと思った。ただ、ヒートポンプを動かすのにやはり電力がいるのでどうだろうか。

地域熱供給事業

べつに応対のお姉さんがきれいだったからというわけではないが、エネルギー有効利用対策として最も現実的かつ効率的だと思われた。一定の小地域ごとに太陽光、風力、水力、廃熱、各種廃棄物処理熱などを総合的に管理し利用するシステム。「地域総合エネルギー利用協同組合」といったところだ。遠くへの送電や運搬による損失を抑えられるし災害などの場合でも被害を小地域に限定できる。地域間格差を生じやすいだろうから、そこをどう少なくするかが課題だろう。

エコかどうかアヤシイが、個人的にはツボにはまったオモシロ「環境」グッズ達

エコ将軍
ペットボトル減容機 リング・ラベル切取り装置付(特許出願中)!

PETボトルをつぶす機械。同時に口金とラベルも切り取ってくれる優れもの。「一家に1台どうぞ」ってか。ナイフで切った方が断然安上がりだし早いぞ。でもこういう発想大好き。

自然流炭焼き窯 炭焼き達人

 移動式炭焼き機。右下のが家庭用T105型、容量105L、定価378,000円。左奥の丸い五右衛門風呂みたいのは業務用?、405L。電気やガス、石油などは一切不要。要するに昔ながらの「炭焼き窯」と原理はいっしょ。移動式なのがミソ。また容量5L分のハンパがいかにも関西のり。メーカーは職人の町東大阪のとある小企業。あのNASA御用達、宇宙開発になくてはならない優れた技術を持った小企業がある町だが、一方で浪速の職人魂には常に遊び心がともなってうれしい。数ある展示品の中で唯一、即買いしたくなった逸品だ。

ソーラー和船
和船は櫓で漕ぐのが風情あるしエコでしょうが。

エコ花火

 花火大会用の大玉と並んで、ロケット花火が展示してあった。「ロケット花火は環境に良くないでしょう」とからむと「いや、プラスチックを使わず、生分解性の材料を使っているからどっかへ飛んでいってもいずれ自然に帰るので、環境にやさしいロケット花火なんです」ときたもんだ。笑いをこらえるのが大変だった。まさにエコ便乗商品の典型、商魂たくましい。

練習用和太鼓

なにがエコなのか?というと、タイコの胴が電線か何か巻いてあった紙管、皮がブルーシートの廃物利用。リサイクル、リサイクル。値段次第では買いたくなった。が、思い直した。自分でも作れそうだし。音は意外にタイコっぽかった。

滋賀県版 ペレットストーブ

 昨年11月、高取森の感謝祭でプロトタイプが展示されていたが、あれから1年、ついにベールを脱いで華々しく?登場。予価40万円はまあ、スウェーデン製に比べれば格安だ。今日、NHKの番組で、政府の補助金をもらって立ち上げた木質ペレット事業が、売れなくてどこもうまくいっていない、と。なんという皮肉。

不法投棄監視システム

べつにエコちゃうやん、アホらし。

マイカップ自販機

「マイ箸」と同じ発想、悪乗り。んなもん売れるかい。売れるようではエコは遠いね。
しかも「環境」をうたう会場は自販機だらけだしPETボトルだらけだし...。

災害対応型自動販売機

 コカ・コーラはじめ飲料業界は環境ブームではむしろ逆風企業、と思っていたらこんな手があったか。なかなかしぶとい。環境とは関係ないと思うけど、ま、災害時にタダで飲み物が出るようになるのは、よいわな。取り合いにならなきゃいいけど...。
この間テレビでもやってて、主婦風のオバサンに「それはありがたいですねえ、地震の時まず欲しいのは飲み物ですから」と言わせていた。展示ブースも出してリキ入ってた。

最後に、USAミシガン州、インドネシア、韓国などの外国ブースの中でひときわ異彩を放っていたのが中国湖南省ブース。

「中国湖南省は、環境に配慮して産業開発に力を入れており、経済活動も急進中です。魅力ある投資市場ですよ、日本の皆さんぜひ投資を」とヘンな中国版略漢字と日本語で呼びかけていた。中国はたくましい!

 全体の印象として、環境、エネルギー問題に対する危機感といったものが感じられなかった。やはり、環境ブームに乗っかって新しいビジネスを開拓し、環境問題さえも経済拡大の原動力にしてしまおうという、いささかマッチポンプ的な貪欲さばかりが目に付いてしまうのは「ビジネスメッセ」だから仕方ないことなのかもしれない。しかし、これでは本当の環境問題解決は遠のくばかりだ。
 実際、「余計なことをしてかえって環境負荷を増大させている」印象の展示も多かった。そもそもこのイベント自体、環境に余計な負荷をかけているとも言えるかもしれない。


「持続(使用)可能な」物

2007年10月16日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 3年ほど使っていたデジカメが故障した。某、大手写真メーカーF社の製品だ。液晶画面に変なノイズが入って画面の約三分の二が見えなくなってしまった。被写体をファインダーで見ながらなんとか撮影はできていのだが、電池を交換する際に時間設定がリセットされてしまった。再設定を勘で行っているうちにメニューのどこかで迷子になってしまったようなのだが、どこにいるのか分からない。ついに撮影自体もできなくなってしまった。

 320万画素で使い勝手もよく日常使用には十分で、このブログの写真撮影にも大活躍していた、お気に入りのデジカメだった。液晶が壊れても撮影はできていたから、そこだけ修理すればまだまだ使えるはずだ。
 購入したカメラ屋さんに修理を頼んだところ、1万円以上!はかかると言う。当時、特売で18,000円ほどで買ったカメラですよ。思わず「え~っ!」と心の中で叫んで、ひっくり返りそうになってしまった。さらにたたみかけるカメラやさんの一言にもう一度ひっくり返りそうになった。

 「このカメラの後継機種で600万画素のカメラが今特売で9,800円!です。修理するよりお得ですよ。」確かに「お得?」だ。釈然としないけれどカメラがないと困るのでしかたなく買うことにした。すかさず「今お使いのカメラのメモリーカードだと新しいカメラでは5枚しか撮れませんよ。」で、結局メモリーも買う羽目に

 購入時は比較的安いと思っても修理代はバカ高い。プリンターなどのように消耗品がバカ高い。「売らんかな」、「いかにして金を使わせるか」の社会、こんなことを許していては、一方で「環境」だの「エコ」だのと言われてみても虚しくなる。「環境活動家」も含めて、どうして誰もこの不合理に何も言わないのだろう?そんな例はたくさんある。
 はやりの「エコバッグ」。環境関連のイベントなどでも売られていたり、中には無料配布などというバカなことをやっていたりする。これなどエコを騙る「偽エコ商品」の象徴だ。持参用買い物袋などどこの家庭にも3つや4つはある余りものの袋を使えばいいだけのことなのに。名前は「エコ」だがエコではないという皮肉。環境家ものせてしまう、売るための高等戦術としてはみごとだ。
 近くの生協では、利用者が寄付していった余り物の紙袋をマイバッグを忘れた人用に置いている。この方がよほど「エコ」だ。

 後4年後にはうちのテレビは全て使えなくなる。うちだけではない、日本の「ビンボー人」の家庭は全てそうなる。テレビを見たければ買い換えるか、子供の頃のように「お金持ち」のおうちに「もらいテレビ」に行くしかない。地デジなんていらないが、せめて今までのままでよいか地デジにするか、選べるようにして欲しい。「なんかヘンだな?」と思う人が多いと感じたのだろう。最近、「バラ色の地デジCM」が増えた気がする。

 省エネだの、二酸化炭素を出さないだの、でも高い、無くても困らない。そんなものも本当の「エコ商品」ではない。永く使えて修理代も安く、ランニングコストも安い、そんな商品こそ本当の「環境にやさしいエコ商品」だと思う。

 例えば車。ハイブリッド車でなくても一定の排出基準をクリアして永く使えれば、多くの資源とエネルギーを使って新しい「エコ自動車」など次々開発し、これまた多くの資源とエネルギーを使って得た金が無いと買えない高い「エコ車」を買わされるような無駄遣いをしなくて済む。それなのにまだ、エタノールだ、バイオフューエル(BF)だ、水素電池だと売りつけることばかり考えている。エタノールもBFもCO2は出すし、水素電池の燃料の水素を作るためにはどっちみち石油を燃やしてCO2を出すのだから。
 余計なことをしないで長持ちする車をガソリンで走らせればよい。いよいよ石油が無くなったら、どうしても必要な人はイヤでも「エコ自動車」を買うからそのとき売ればよい。

 私の愛車は頑丈なことでは定評のあったI社の車だ。14年落ちを中古で買い、荒れた山道もずいぶん走ったが、車にとって最も重要な動力系統と足回りは故障知らずだ。車としての本当の良さが理解されずに、今では絶版になってしまった。
 確かに「エコ車」よりガソリンは食うが、永く使うことで「エコ車」の無駄な開発資金やバカ高い購入資金には関わらずに済む。安くてメンテナンスフリーで30年は持つ車こそ名車だ。繰り返すが無用に金を使わないことこそ最大のエコだ。
 
 かつて「家電リサイクル法」施行時に、「『アンティーク音響機器』が古物店で取り扱えなくなるのは困る」という理屈で反対運動が起きたことがあった。理屈は多分に私利的だが、結果的には「使えるものは永く使う」という、ささやかだが「エコ」につながるシステムを守ることになった。

 「エコ」のためにかえって資源やエネルギーを使うようなバカなことは、もうやめよう。いや、そんな人たちは実はよく分かっていて、単に「エコブーム」に乗っかって、ビジネスチャンスと物を売ったり、自分の「政治的思惑」や「運動」や「研究」に利用しようとしているだけなのかもしれない。それならもはや救いようも無いが。

 真の意味でのエコ商品=永く使える「物とシステム」を売る企業 (衣類の会社なのに製品衣類の修理システムがあるパタゴニア社がよく引き合いに出されるが) を応援し、できる限り自らももの作りをして、必要最小限のものを永く使い続ける社会、ライフスタイル=「ビンボー暮らし」をめざしたい。ビンボーは貧乏ではない。


PETボトルゴミ

2007年10月12日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 これがビンボー技と言えるかどうかは疑問だが、他に適当なカテゴリを作っていないので。今年の夏はこれまでにも増して暑く、ログハウスや山の作業用についついスポーツ飲料を買ってしまい、空きPETボトルがたまっているので処分することにした。「そもそもPETボトルなんか買わなければいい」と言う声が聞こえてきそうだが(^_^;)?(もう一人の自分もそう言っている)、買ってしまったものは仕方が無い。
 
 PETボトルゴミはかさばる。そこでそのかさを減らす方法をいろいろ試行錯誤してたどり着いたのが、小型ナイフで頭、胴、底に3分割する方法だ。

1)上部口金部分を傾斜のすそあたりで切り取る。
  
2)底の部分を切り取り重ねてゴミ袋に入れる。
  
3)残った胴部分を縦に割り切り、数個分を巻き合わせる。
  

2Lビン17本と500mlビン12本を10Lの資源ゴミ袋に入れたところ。まだ5本分は入りそうだ。作業時間は約5分。
  

 コツ1)複数のPETボトルがある場合、同じ作業は続けていっぺんにやってしまう。一本ずつ分解していては時間がかかる。
 コツ2)丸く切る時、ナイフを持った右手は床などに固定してあまり動かさず、左手で持ったビンの方を回すようにして切ること。一般的にナイフを扱う場合、ナイフの方を動かす切り方は危険が増す。

 ここで紹介した方法は、今のところナイフ1本で簡単にできてベストではないかと思っている。以前、テレビでPETボトルをリンゴの皮むきのように帯状に切ってしまう道具を紹介していたが、店を探しても売っていない。あまり使い勝手が良くないか、値段が高すぎて普及しなかったのだろう。
 皆さんはどうされてますか?もっとよい方法があったら教えてください。


「ビジェット」って分かりますか?

2007年10月09日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・
 ♪みーん、みーん ダイハツ ミジェットは~...。むかし、「ミジェット」という軽オート三輪があった。が、関係ない。
ビジェットとはビジネスジェット機(自家用ジェット機)のことである。

 新聞によると9月下旬、アメリカでビジネスジェット機の見本市が開催された。あの燃えまくった「ボンバル」も格安ビジェットを出してるらしい。日本からはホンダが自社製ビジェットを初出展した。日米中を先頭にした格差社会により富の集積した好景気業界での需要が増えると見込んで、トヨタ始め他の重機械メーカーも関心を示しているという。

 ホンダビジェット1機6億円だそうだ。300万円のハイブリッド車約200台分の「環境への配慮」がビジェット1機で吹っ飛んでしまうのだ。一方でハイブリッド車を出して環境問題に積極的な優良会社を演出しながら、もう一方でこのような資源食いの「ギャル曽根型環境破壊機」を出すなんて、なんかおかしくありません?

環境(エコ)ブーム

2007年10月03日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 90年前後から洪水のように環境関連の啓蒙書や環境危機を煽る本が続々と世に出ている。流れに乗ったほうが得、便乗すれば儲かると見てか、世はあげて地球環境ブームである。一部「抵抗勢力」や冷静公平に分析しようという動きはあってもその勢いに押されてか影は薄い。
 
 
 そんな中で珍しく注目を浴びた抵抗本が「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」(2007 武田邦彦)。「たかじんのそこまで言って委員会」でも取り上げられ、書店でも平積みになっていた。
 
 環境問題は物理、化学のように実験で検証することが難しい。それが百家争鳴たらしめている要因だろう。

 なぜ環境・エコブームなのか。これには「反テロリズム」と並んで体制維持を目論む深いウラがあるのではないかと思うのだが、その考察をしようと書き連ねていたところでExplorerがダウンして文章が飛んでしまった。プログラムにもそういう仕掛けがあるのかと思いたくなる。


プラゴミ収集日初日

2007年10月02日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 9月30日からため始めたプラゴミ3日分である。分別してみると、わが家の家庭ごみの半分弱くらいがプラゴミ、その大半は食品のパッケージであった。今さらながら消費者生活がいかにプラゴミに依存しているか、あらためて思い知らされる。次に多いのが紙ゴミで3番目が生ゴミだ。
 今日はいよいよプラゴミ収集日初日だ。ゴミ出し場を共有するわが隣組は6軒だが、今日出したのはうちともう1軒の2軒だけだった。他のご家庭では少ないのでまだためておられるのか、家庭ゴミに入れておられるのかは分からない。
 前にも書いたように、プラゴミ分別を真面目にきちんとやろうとすると家庭にものすごい負担を強いる。ほとんど嫌がらせといってもいいくらい気を使うし面倒だ。いずれ、半年もしないうちに「うまくいかない」との新聞報道がなされるだろうことは目に見えている。
 そもそもゴミになるようなプラスチックパッケージを使わなければ良いのだ。昔よく近くの商店がやっていたように古新聞の自家製袋とか、豆腐は持参の容器で持って帰るとかリサイクルや代用品のアイデアはいくらでもあるだろう。屋上屋のような容器の上からさらに帯やシールを貼るようなこともやめればいい。納豆は納豆だけでいい、カラシやタレはつけなくていい。プラスチックのパッケージは消費者が便利なように使われていると錯覚するが、実は製造・販売側の都合なのではないだろうか?


プラゴミ分別収集 10月1日スタート

2007年09月30日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・
今日は雨でチェンソーカービングの例会が中止になった。

 京都市では、10月1日からプラスチックゴミの分別収集が始まることになった。対象となるゴミには「プラ」マークというのが印刷されている。
 でヒマに任せて、一応正しいエコならやるべきと思っているわが家でも、今日からプラスチックゴミを分別し始めた。やり始めてだんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。

以下の画像は全て「プラ」マーク付きプラスチックゴミである。

我が家の食卓では定番の「おアゲさん」の袋。
 
市の分別マニュアルでは、プラゴミは「ある程度きれいにして出さないといけない」。「おアゲさん」の袋は油でぎっとりだ。洗って排水を油で汚すより、可燃ゴミとして油ごと燃やしてしまった方が合理的に思えるのだけど..。

モヤシの袋(上)と納豆のパッケージ(下)
安くて栄養があるけれど家庭菜園では作りにくいモヤシはしょうがないから買っている。うちは家族全員納豆好き関西人なので納豆は毎日のように食べる。  
 
モヤシの袋とトレイと帯はまあいい。右端の小袋、タレとカラシだ。タレは使うけれどカラシは入れない我が家では、カラシが入ったままでは出せないから洗わなければいけないことになるのだが、この小さいカラシ部分を洗うのはなかなか面倒だ。

これらのほかにも「プラ」マーク付きゴミは思いの他たくさんある。ほとんどと言ってもいいくらい。共働きで忙しい家庭なんかでは分別なんてやっていられないだろう。おそらくスーパーのレジ袋か何かに隠し入れて家庭ゴミで出すのが落ちだろう。と、思って分別マニュアルを見たらこんなことが書いてあった。

分別マニュアルである。
 
「!注意:汚れがひどい場合は家庭ごみとして出してください」
エ・エ・エーッ!?それじゃみんな、洗わずに家庭ごみに混ぜて出すに決まってる。いったい、なんなのさ!ま、その方が合理的と、個人的には思うけれど。
 汚れの洗い方も、マーガリンなどの容器と思われるものはティッシュかなにかで「軽く拭きとる」とあるが、かえって紙ゴミが増えるだけでないの?
 マヨネーズ容器などは「水で軽くすすぐ」のだが、汚水が増えるだけでは?。

こんな手間ひまかけて回収したプラゴミを、やおらまた資源とエネルギーを使って作った処理施設で、石油エネルギーを使って再生することにどれほどの意味があるのだろうか?市環境局と再生産業のための仕事作り  かな?

 そういえば、先日テレビで京都市環境局の収集車が朝10時頃出発したと思ったら10分もたたないうちに帰ってきて後はぶらぶらしている、中には勤務時間中に買い物に行ってる者もいると隠し撮り映像付きで告発していた。少し前には、ニセ病気休暇でほとんど仕事もせずに副業(本業?)をしていたり、遊んでる職員が問題にもなった。さすがに今は改善されているのだろうが、たぶん..。

 わざわざ買わないといけなくなった専用ゴミ袋に、資源ごみをせっせと缶、ビン、PETに分別して出しても、あいかわらず収集時にはパッカーに一緒くたに放り込んで回収していく。アホらしくて最近では分けずに一緒に出している。

 あ~、バカバカしい。でもだからといって他のゴミに隠して家庭ごみに出すようなことをしては、同じレベルになり下がってしまうから、なんとかも少し分別をがんばって改善されるか様子を見ることにしよう。

もっともエコの対極にあるもの

2007年09月28日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・

 ミャンマーで日本人フリージャーナリストが治安部隊の銃撃で殺された。反軍政デモを取材中の出来事だった。殺されたジャーナリストのご冥福を祈る。

 タイトル画像は今日の新聞一面トップの写真の一部である。写真には3人の治安部隊の兵士と思われる人物が写っている。左端に警棒で民衆を追う警官?、中央右で物陰から様子を窺う警官?、右端で銃を構える兵士だ。元の写真では左側に逃げ惑う民衆の姿が写し出されている。
 
 さて、なぜこんな画像を出したのかということである。
銃を構えた兵士の履いているのは軍靴ではなくゾウリだ!さらに警官が持っている楯らしき物は、日本の機動隊のような高価なジュラルミン製ではない、な、なんと籐かなにかを編んだものではないか!なんとまあ、環境に配慮された装備であることか。この画面に銃さえなければ、不謹慎だがほほえましささえ感じたかもしれない。ミャンマーの治安部隊がエコを考えて装備を揃えているとは思えない。承知の通り国自体のビンボーさがなさせる業ではあるだろう。しかし、「ビンボー=環境負荷が少ない」ということを、この写真ははからずも示してくれているように思えた。

 最も非生産的で、いかに効率的に環境を破壊することができるかということのみに機能を特化された物が戦争のための武器である。金持ちの先進国、あるいは先進国になろうとしている国々ほど、概して環境への負荷も高く武器・兵器の生産高も高く、経済の武器産業への依存度も高い。イラクでアフガンで一体どれだけ無意味で大量の二酸化炭素がばら撒かれたことだろう。何十億もする戦闘機を何百機も作るのにどれだけの資源とエネルギーが浪費され、二酸化炭素が排出されたのだろうか。

 エコ、環境保護の最も対極にあるものは戦争であることは誰も異論はないだろう。本来、環境保護を言うならまず兵器をなくすことを最大の課題とすべきではないのだろうか。しかし、環境問題の活動家や団体から「戦争を無くすこと=武器を無くすこと」に関して通り一遍のスローガン的表明はあっても、具体的な行動を見聞きすることはあまりない。「地球上から戦争をなくせ」というのは当たり前すぎてエコや環境運動の対象(エコビジネスの対象)にはならないからだろう。せめて「環境にやさしい武器を使おう」くらい言ってみてはどうだろうか。


市民共同発電所

2007年09月24日 | 環境・エコ・共生・持続・温暖化とか・・
 このごろ殺人(未遂)事件と環境やエコの話を聞かない日はない。今朝のフジテレビ「特ダネ」では「家庭でできるエコ特集」、ローカルFM放送でも総合地球環境学研究所とやらのエライ先生を招いての「地球温暖化特集」をやっていた。

 「家庭でできるエコ特集」では水や電気の節約、生ゴミ堆肥化などといった言い古された、まあやらないよりはまし程度の話。
 資源やエネルギーの大半は産業分野で消費されているのに取り上げられることはほとんどない。むしろ、環境ボランティアへの社員動員やわずかばかりの寄付でエコと称して企業イメージアップに利用するほどにしたたかである。

 エライ先生の方はといえば、いろんなシナリオを仮定した温暖化のコンピューターシミュレーションの当たる確率が年々良くなってきている、という当たり前の話。ただしシミュレーションはあくまでシミュレーションでしかない。

 「進歩がないなあ」と思っていたら、赤旗という共産党の新聞に、9月22-23日、大阪で開催された「市民共同発電所全国フォーラム2007」の記事が2日連続で報道されていた。
 市民が出資して太陽や風力などの「環境負荷の少ない」自然エネルギー発電所を普及させようという取り組みの報道であった。自然エネルギー発電所そのものを作るための資源・エネルギー消費とコストの問題が抜けているのが気にはなるが、少なくとも一般家庭にばかり3Rを求める一方的な議論や「当たるも八卦」の温暖化ネタよりは建設的だ。ところが、不思議なことに他のどの新聞もテレビもまったく報道していないのである。

 共産党系の集会などは、概して一般マスコミでは小さく扱われるか無視される傾向があるが、このフォーラムもそうなのだろうか。
 いずれにしろ、エコも環境も背景にある政治的、経済的思惑に注意を払っておく必要があることを改めて思い起こさせる出来事ではあった。