沖縄で夏といえば海、そして祭り。祭りといえばエイサー。 勇壮なエイサーの盛り上げ役に「チョンダラー」(「京太郎」、「サナジャー」)と言われる道化役のような人たちがいます。そう、あのバカ殿様みたいな白塗りに長~いチョンマゲ?、赤ふんどし、手には芭蕉うちわの姿で観客を鼓舞し、飲み物を配るなど踊り手をサポートしている人たちです。
沖縄超初心者の私は、仲良くしていただいているウチナンチュバスガイドの方に「チョンダラー」と「京太郎」はどう違うんだろう?と、実に頓珍漢な質問を投げかけてしまいました 。全く恥ずかしい限りですが、丁寧に教えてくださいました。このバスガイドさん、4人も子持ちの若いお母さんなのにいつも笑顔でエネルギッシュ。本業の沖縄の観光ガイド知識はよく勉強されていて豊かで深いし、唄三線にも熱心に取り組まれて上手だし、それでいて私なんてまだまだととっても謙虚、末は社長か知事になっていただきたいお方です。蛇足ながらエライさんにはなりたい方よりなってほしい方を!
さて、そんなきっかけでちょっと勉強した「チョンダラー」うんちくを少々 。 「チョンダラー」は実は「京太郎」の方言読み(ウチナーグチ)で、「京太郎」とは「京都からやってきた!芸人の男たち」のことをそう呼んでいたそうです。今でこそ「チョンダラー」はエイサーを盛り上げる道化役として大方認識され、沖縄県民でもそう思っている(勘違いしてる?)人たちが多いようです。 実際、沖縄のある三線店の「チョンダラー」解説でも下記のように書かれていました。ま、分かってはおられても、三線店としてはとにかく三線が売れないことには話にならない。歴史的背景から説明するのも面倒だし、どうせ読んでくれないだろうし面倒くさくて販売ページから逃げられても困る、という諦めもあるのかもしれませんが 。 ーーーー<津波三線店HPより>ーーー 京太郎(チョンダラー又は、チャンダラー)はエイサーを盛り上げる演者の事いわゆる沖縄版道化師(ピエロ)的な役割です。 そのチョンダラーの衣装のバサーの着物、ちょんまげ、くば扇子、クバ笠、欠かせない白塗り化粧、フンドシ、ステテコ、荒縄などエイサーを盛り上げるチョンダラー道具が全て揃います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 現代の祭り的要素の強くなった「エイサー」においては「チョンダラー=エイサー踊りの道化役」という理解も全く間違いというわけではないのですが、これが定着したのは戦後のことで、実は歴史的に本来の芸能集団としての「京太郎」を継承するちゃんとした伝統芸能が今も存在することを知り、「チョンダラー=京太郎」の歴史と文化を正しく理解、継承しなければなりません。
ガイドさんから教えていただいたYouTubeの講座、「【がらまん文化講座】チョンダラー(京太郎)の歴史と文化 久万田 晋(沖縄県立芸術大学教授) ①~④」が大変勉強になります。ぜひご覧ください。VIDEO VIDEO VIDEO VIDEO 以下、この講座で勉強したことを中心にまとめてみました。
【がらまん文化講座】チョンダラー(京太郎)の歴史と文化 久万田 晋(沖縄県立芸術大学教授) ① 袋中上人が浄土宗布教目的で琉球に滞在(1602-1604)時、教えを芸能化してその手助けをしたテーラシカマグチという人物がいたと伝わる。ただし、袋中上人の胸に秘めた本来の目的は琉球を介しての中国への仏教留学であったとも考えられている。というのは、当時本土の武家社会では、浄土宗系の一向宗の反乱などで禁教扱いされていた浄土宗門徒の、本土からの中国留学はとてもムリであったから。 テーラシカマグチの生まれについては以下の伝説がある。「仮死状態で埋葬された女性が産んだ子で、女性は産後死亡したが子供を心配のあまり幽霊になって近くの駄菓子屋に飴を買い求め赤子に与えていた」という。 ーーーーーーー 筆者注 ーーーーーーーー 京都市にも「仮死状態で埋葬され出産後亡くなった母が幽霊となって赤子のために飴を買いに来る」という、まったく同じ伝承話がある。東山区の六波羅蜜寺近くに伝承に由来する「みなとや幽霊子育飴本舗」があり伝承を伝える飴が売られている。伝説の起源も同じ慶長年間の出来事としており、袋中上人の琉球滞在期間と重なり興味深い。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
➁ 古来のチョンダラーは仏教の教えや念仏の布教伝道役だったようで。おそらく庶民にも分かりやすく伝わるように教義を物語風にアレンジして踊りと共にエイサーの原型として語り歩いていた。
それが現代のエイサーに伝承されてきたけれど、エイサーコンクールが行われるようになって制限時間内に演じなければならなくなった。そのため物語全てを語る時間がなくほんのさわりだけで済ませるようになって物語の全体が伝わらなくなり、本来の教義伝承の目的が消えて形式化してしまった。
現代エイサーのチョンダラーは、姿形だけが残って役目もエイサー行事の盛り上げ役というふうに変化した。 と考えられる。 泡瀬のチョンダラー保存会では本来の教義伝道目的の物語が、多少変化はあるけれど、全体として残されていて芸能として演じられていると推測(私見)。
③ 宮良当壮 著「沖縄の人形芝居」(1925)に見るチョンダラーに関する調査。 1924年、アンニャ村にわずかに残存していたチョンダラー一家3世帯から聞き取り調査などが記録されている。日本の民俗学の重鎮、柳田邦男が中心となって刊行された全国民俗調査シリーズの一巻として刊行された。 それによると首里アンニャ村のチョンダラーには伝承されている念仏や漫歳他の詞曲が収録されている。
しかし、この論考に対し「おもろさうし」の研究者、比嘉盛章が異論を唱えている。 チョンダラーはもともと万歳講者であって、人形劇や念仏は後から演目に加えられた可能性がある、と。 念仏は最初からチョンダラーが持ち込んだものなのか、あるいは後からやってきた袋中上人がチョンダラー達に伝えたものなのかは今も有力な資料が無くはっきりしない。
一方、沖縄音楽研究家の山内盛彬(「ヒヤミカチ節」作曲者)はチョンダラーの念仏を楽譜として残している! 一例として、八重山のアンガマ行事で謡われている「親の御恩」の楽譜や「盆踊り」楽譜を紹介。
現在芸能として継承されているチョンダラーは、「念仏」の有無で大きく2つに分類できる。 ③では念仏歌謡を伴うチョンダラーを紹介。 1.八重山のアンガマ ちょっと滑稽話的なユーモアのある内容。 2.那覇市国場の念仏エイサー 地域の若者が先祖供養として「はなぐらん」という念仏を家ごとに歌い歩く。これは死者の立場から死後の世界と移り変わりを表現。次に「サフエン節」という手踊りを伴う歌で念仏のお礼に酒をねだり、こうして集めた酒でムラヤー(集会所)で酒盛りをするのである。 3.読谷村楚辺の庭念仏 「イリベーシ」という、神の降臨で家を清める意の舞の後「庭念仏」という念仏歌謡を歌う。
④沖縄各地に伝えられているチョンダラー 念仏歌謡の無いチョンダラー 1.沖縄市泡瀬 「泡瀬チョンダラー保存会」(1958設立)の演目には念仏は無く、万歳や人形芝居、鳥刺し舞の詞曲(万歳芸)のみが残されている。 2.宜野座村宜野座 明治の終わりから大正初め(1910~1920頃)新渡久地のタンメーが那覇の寒川芝居で習ったチョンダラー芸を伝えたとされている。踊りが中心。 3.読谷村長浜 100年ほど前に那覇の仲毛芝居を習った人たちが伝えたとされる。芝居仕立てになっており、3人の道楽者がチョンダラー芸のマネをして金を稼ごうとしているところへ本物のチョンダラー芸人の親方(やんざい頭)が現れてドタバタする喜劇仕立てになっている。面や芝居小屋の模型などの小道具を使うところが特徴。 4.読谷村伊良皆 大正初期、首里久場川の玉城金三が伝えられる。伊良皆芸能保存会(1984年設立)が継承し、演者は地元高校生が中心。主にムラアシビなどの祝いの席で演じられる。獅子舞とその先導をする猩々の芸や人形劇が伝えられているのが他にない特徴。 玉城金三は北部の他の地域にもチョンダラー芸を伝えた人物といわれている。 5.現代の沖縄芸能への影響 組踊「万歳敵討」「義臣物語」(18世紀ころ田里朝直作)や歌劇「奥山の牡丹」などに影響が見られる。 今日、一般的にエイサーとして親しまれている芸能もチョンダラー芸が変化・伝承されたものである。