WESTWOOD -手作りビンボー暮らし-

持続可能な社会とは、必要なものはできる限り自分(達)で作る社会のことだ。衣食住なんでも自分で作れる人が偉いのだ。

民藝運動と河井寛次郎

2008年07月01日 | おもしろ博物館

 大正から昭和にかけて「民藝運動」というムーブメントがあった。「名も無い職人達が作る、日常生活で使われる民具にこそ美がある」との考えのもと、そうした作品を蒐集したり自ら創作したりして、展覧会や会誌などで新しい芸術思潮として広めようとした。
 「民藝運動」を創始した中心メンバーは柳宗悦、浜田庄司、そして河井寛次郎であった。

 島根県の大工の家に生まれた寛次郎は、東京高等工業学校(現東京工業大学)で窯業を学び、京都市立陶磁器試験場に入所し釉薬の研究に従事する。ほどなく時の陶匠清水六兵衛に請われて陶磁器試験場を辞し、六兵衛の釉薬顧問となり、3年後には京都清水にあった六兵衛の登り窯を譲り受け、以後膨大な量の作陶を精力的に行い、「釉薬の寛次郎」としての名声を確固たるものとして行く。

 しかし、陶磁器作家として高まる名声とは裏腹に、自身の作陶に対する漠然とした疑問が膨らんでいく。そんな折、東京高等工業学校から陶磁器試験場を通しての後輩浜田庄司を通じて柳宗悦と知り合う。3人で木喰上人の足跡を追う旅の途中、「民衆の暮らしと遊離した“芸術”よりもむしろ、生活に根ざした、永く使われる民具の中にこそ“美”がある」と意気投合、そうした芸術思潮を象徴するものとして「民藝」という言葉を作り出す。以後、3人を中心に産業界などからも賛同者を得て「民藝運動」として推進され、「日本民藝美術館」創設など、一大芸術運動として発展することになる。
 この頃から寛次郎自身の作風も、初期の時代がかった作風から簡素で実用面を重視した作風、民衆の日々の暮らしに身を寄せた作風へと変化していく。晩年には作陶だけでは飽き足らず、木彫、石彫、ブロンズ造形までもものするようになっていく。
 彼の言葉を借りれば、「(芸術のための芸術は)美を追いかけて美に到達し得ないのに対し、民藝では美が後から追いかけてくる」、すなわち、永く使われ続けてきたものにこそ美が宿るようになってくる、ということになる。こうした思想は、欧州などのいわゆる“アンティーク”作品や、先日紹介した“フォークアート”にも通ずるものがあるだろう。さらには、良いものを永く大切に使い続けること、またそうした作品、製品を作ることは、いわゆる“エコ”の面からも今最も求められている大切なことではないだろうか。

私は、寛次郎の陶芸よりむしろ木彫に衝撃と感動を受けた。
以下の作品はその一部。京都東山の「河井寛次郎記念館」で見ることができる。
ダースベイダーを思わせる女の子像。

自身の娘をモデルにしたこの女の子像は、実は裏表二面像になっていて、

反対側はこうなっている。


さらにこの像は四面。


こんな像も。


猫。同じモチーフの石像もある。


独特の“面”もたくさん製作している。


ブロンズ。 舞妓?、七色仮面?、??(同じ物の木彫もある)


どこかで見たような?。トモダチ(「21世紀少年」)?
手のモチーフも好きだったようだ。


自宅の真ん中は吹き抜けになっていて、大きな荷物の搬入出用の滑車まである。
自宅自体が「民藝作品」となっている。

清水六兵衛から譲り受けた巨大な登り窯。市街地の家にこんなものが!


国家安康の鐘

2008年06月19日 | おもしろ博物館

 神も仏も全く信じておりませんが、実は私、結構お寺は好きです。それもちょっとマイナーだけれど実は..、といったような。で、今日は中でも好きなお寺の一つ方広寺というお寺のお話。

 このお寺は、京都でも“お寺銀座”と言ってもいい京都駅周辺地区に位置し、近辺には清水寺、知恩院、三十三間堂、東本願寺、西本願寺、東福寺、泉湧寺、東寺..、などなどそうそうたる寺群が徒歩圏内にあります。
 そのため普段は立ち寄る人も少なく知る人ぞ知る小寺ですが、その素性は由緒正しく生い立ちは波乱万丈そのものだったのです。

 創建はかの太閤秀吉!。金箔好きだった太閤さんのこと、当初本尊の大仏は高さ20m近く、漆塗りの金箔張り、これを収めた大仏殿は高さナント50mもあったんだそうな。
 その大仏と大仏殿も慶長の大地震で倒壊、太閤亡き後、徳川家康の後押しで息子秀頼により秀吉公供養のため再建されましたが、またまた地震で倒壊、木造で再々建されたがそれも火災で焼失し、現在は高さ約3mのご本尊をまつった本堂と大黒天、大鐘楼を残すのみとなっています。

 実はこの大鐘楼、ご存知の方も多いと思いますが、これこそ豊臣家滅亡のきっかけとなった歴史的いわくの鐘なのです。そう、あの鐘楼に刻まれた「..国家安康 君臣豊楽..」の銘が家康の逆鱗に触れ、豊臣家“お取り潰し”となったのでした。この鐘は高さ4mあまりもあり、大晦日だけは除夜の鐘を撞きに来る人たちでごったがえすのです。その音はまさに荘厳そのものです。

 少し前置きが長くなりましたが、なぜこのお寺が好きなのかと言いますと、これだけのいわれがありながら実に開放的、庶民的というか、適当というか、とにかく想定外のハチャメチャなお寺なのです。
① 拝観料が激安。大人たったの200円!
② 本尊、大黒さんはじめ寺内のものは触り放題、写真撮り放題。頼めば鐘楼の中も見学OK
もちろん、ムチャクチャしていいわけではありませんが、こんなお寺まずありませんね。どんなしょうもない寺でも、大抵薄っぺらな威厳を保つために、写真撮影NGはもちろん、仏さんの“お触り”なんかもってのほかじゃないですか。
③ 文化財指定品もあるのに鍵が掛けてなく、戸締りはなんとつっかい棒!

 住職さんがおおらかなのか、ヤル気ないのか、まあ、拝観させていただく方にとってはありがたいといえばありがたいのですが、かなり傷みの見られる堂内や、あまりに無造作すぎる文化財の保管状態を見るにつけ、少し拝観料を値上げしてもよいからもうちょっと宣伝し拝観者を増やして収入を増やし、建物の修復や文化財保管、防犯にお金をかけては、とついつい心配になってしまうほどです。ま、ある意味パラダイス

ご本尊

大黒天

不動明王。個人的にはこれが凄いと思う。

龍。左甚五郎の作と言われているが、座敷に無造作に置いてある。

店番兼案内のおばちゃん(案内ぶりにいい味あり)と「国家安康」のレプリカ、机の上に無造作に“展示”?されている倒壊した大仏の台座の一部。

大鐘楼。人と比べればその大きさが分かる。

大晦日には誰でも鐘撞き体験ができる、行列のできる大鐘楼。

こんな重い鐘楼を、昔の人はどうやって持ち上げ、吊るしたのだろうか?


フォークアート

2008年06月09日 | おもしろ博物館

 私の目指すチェンソーアートの参考に、機会があったらぜひ一度行って見たいと思っていた、木彫展示館。古民家を改造した館内には、面白い木彫作品がいっぱいで、世の中斜めにしか視ない私にとっては久しぶりに文句なし、期待通りのものであった。

 ここのコンセプトは、“フォークアート”。“芸術(家?)のための芸術”としての彫刻、あるいは現在のチェンソーアートにありがちな定型ものではなく、庶民の暮らし感覚で、日常の「うん、あるある」的な共感を呼ぶふとした瞬間や面白い発想の木彫作品を展示している。私の目指す方向の再確認とともに、大いに新しい刺激を受けることができた。

 こんな田舎(失礼)にこんないいものをプロデュースされた旧養父町の担当者の方に大喝采を送りたい。くだらない箱物作りやイベントばやりの昨今、前回の「ほたるまつり」と並んで村興しのよいお手本だ。ただ一つ、営業・宣伝下手のせいか来館者が少ないのが残念。絶対お薦め。ぜひ皆さん(特に村興しのチエにお悩みのお方)も行ってみて下さい。入館料も大人200円と安い。



宮武外骨を知っていますか?

2008年02月02日 | おもしろ博物館

 むかし、「リリー・マルレーンを知っていますか?」という本があった。タイトルはチョイとそれをパクった(そんなことはどうでもよい)。
 宮武外骨、そのまんま「ミヤタケ ガイコツ」と読む。本名である。1867年、香川県生まれ、1955年、東京都文京区の小宅にて没。
 回顧展?が伊丹市立美術館で開かれている。以下、案内ビラより抜粋、
「1901(明治34)年1月、大阪の出版業界にセンセーションを巻き起こした諷刺雑誌『滑稽新聞』が創刊される。その編集方針は、「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもせず、ハッタリもせず」。出版したのは宮武外骨。強烈な諷刺精神に満ちあふれ、メディアの創成期を縦横無尽に駆け巡った稀代のジャーナリストである。」
 
 彼が発禁、廃刊、不敬罪投獄を繰り返しながら懲りずに刊行し続けた新聞、雑誌は、「頓智協会雑誌」「滑稽新聞」「(日刊)不二」「面白半分」「スコブル」「猥褻研究会雑誌」「赤」...、他数十に及ぶと思われる風刺、反権力ジャーナリズムを刊行し、あるいは関わっている。
 展示されている「赤」には、「日本という国名は『日の本』の意であるが科学的根拠は何もない。世界ではエスキモーについでチビ、国土も台湾、朝鮮についで小さい日本人が大日本などと『大』を付けたがるは滑稽、『大』を付けたがるのは侵略の意の表れ。もっとふさわしい国名をつけよ」と喝破している。

 「選挙有権者同盟団」なるものを作って衆議院に立候補、当時の2大政党、立憲改進党と自由党を「投票乞食」と皮肉っている。当時はそれでも少数政党を含めて7政党が議席を分け合っていて昭和末期の政情に似ている。
 その後、明治後期から大正にかけて、名称は頻繁に変わるが現在の自民、民主2大政党制と似たような時代が続いた。そんな「安定」と腐敗の時代にガイコツ先生、第13回総選挙に「選挙違反告発候補者」を名乗って再度立候補。投票日が来る前から、雑誌「スコブル」に「落選報告会」を予告し、「憲政政治の根本たる選挙の意義を解せず、投票は頼まれてすべきこと、買う人に売るものと心得るが如き、盲目的没理的の選挙民が多く、また其の愚民に迎合する戸別訪問の叩頭手段を執る醜劣な候補者、及び其候補者を喰い物にする悪辣な運動者の多い現代では、我々の如き...理想的立脚の正義硬骨な候補者は、到底当選しうる見込みはない、...」と、現代の選挙情況にも通ずる慧眼ぶりである。

 こんな痛快・素敵な人物が日本に、しかもあの絶対天皇制の明治~昭和初期の時代にいたことに嬉しくなる。以前紹介した、「どこかに○いってしまった○ものたち(クラフト・エヴィング商會)」はじめ、糸井重里さんの「ヘンタイよい子新聞」、荒俣さんの奇想世界、水木さんの妖怪世界、VOWシリーズ、...、私の好きな世界ではある。しかし所詮、体制枠内でのお遊びでしかない。しかしこのガイコツさん、一味違う。一つ間違えば命を落としかねないあの時代に、時の権力、権威を徹底してからかっているのだ。ただ一つ残念なのは、からかいと皮肉に終始し、アジア侵略戦争前夜から太平洋戦争にいたる暗黒の時代には、天に唾する単なる奇人として埋没し忘れ去られていったことであるが、“不屈の反戦英雄”というようなキャラクターは彼には似合わないし、彼自身望んでもいなかったのだろう。