3月の小町市でお客さんに教えてもらった「長浜曳山まつり 子供歌舞伎」を観に行ってきました。
山は全部で13基あるのですが、今回子供歌舞伎が上演されていたのは常盤山、孔雀山、翁山、萬歳楼の4基。上演は年ごとの持ち回りなのか、上演する山はこれら4基と決まっているのかはよく分かりません。
上演時間と場所も異なっていて、私が観たのは翁山の「『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)熊谷陣屋(の段)」。
源平の戦に破れた平氏討伐を源頼朝に命ぜられた源義経は、平敦盛討伐を家臣熊谷直実に命じる。しかし、敦盛は朝廷(天皇家)の血をひく皇統であったことから悲劇が...。
義経は考えた。源氏が権力を掌握するにあたって朝廷との関係を良好に保つためには、たとえ頼朝の命とはいえ皇統である敦盛を討つのはマズイ。さりとて頼朝の命には逆らえない。そこで悪魔の一計を案じた。
このような「制札」を熊谷に下したのである。その意味するところは「その昔、紅葉の枝を折って罰せられた者の逸話にならい、一枝を伐るには一指を切ることで罰せよ」。しかし、その陰意は「一子を切るには一子を切れ」、すなわち「敦盛を生かすため、身代わりとして熊谷の子、小次郎の首を討て」というものであった。
熊谷に息子の敵と切りつける、敦盛の母、藤の方。藤の方は、わが子敦盛が熊谷に討たれたものと思い込んでいる。
熊谷が討った敦盛(実は小次郎)の首検分をする義経。左の女御は事実を知って嘆き悲しむ熊谷の妻=小次郎の母、相模。
歌舞伎なので役者は全員男の子。
熊谷の妻、相模役の男の子、いわゆる女形。小学3年生にしてこの色っぽさ!「惚れてまうがな」。
台詞回し、女御としての立ち居振る舞いも実に上手で、梨園に生まれていれば玉三郎並みの役者になったかも。
義経がまだ幼いころの命の恩人弥陀六。「あの時義経を助けなければこのような悲劇を生まなかったものを」と、制札を手に嘆く。
わが息子を討たざるを得なかった熊谷は、世の無常をはかなみ出家するのであった。
楽屋。
とても小学生とは思えない演技、台詞回し、声の張り。いやはや驚きました。相当厳しい稽古を積んできたんでしょうね。しかしそこは現代っ子、上演後、長時間の正座に立ち上がれなかったり、両脇を支えられて階段を下りる子がいたのはご愛嬌。ゼッタイ一見の価値ありです。