陸軍病院南風原壕群20号
虚妄の「大東亜共栄圏」を旗印に、資源と労働力収奪を目的に侵攻した中国大陸、朝鮮半島、東南アジア、グァム・サイパン、ミッドウェーなどの太平洋諸島、ミクロネシア諸島を次々と奪還され本土決戦寸前まで追い込まれていた日本皇国軍。
本土決戦準備のための時間稼ぎの捨て石とされた沖縄戦。沖縄に配備された第32軍は、アメリカの大群上陸にもちこたえられず、住民を盾に犠牲にしながら南へ南へと敗退を繰り返し南端の地摩文仁で自らが鼓舞してきたはずの玉砕さえも果たすことなく、身勝手な自決で雲散霧消してしまうことになる。
陸軍病院南風原壕も首里から遁走してきた皇国軍が南風原住民を強制動員して手掘りで掘らせた病院豪群であった。そのほとんどは米軍の爆撃などで崩壊、現在その第20号豪だけが観覧可能な跡地として公開されている。
国が遺族懐柔とアリバイ作りのために作った国策「平和祈念」公園なんかよりよほど訪れる価値がある。
朴訥と語る戦後生まれのおかあさん案内員さん。
父親は酒に溺れ、だらしない父と軽蔑感も抱いていた。その後、生き別れたが何年かたって偶然再会。後に父親を知る人から「一人生き残ったのが辛かったのだろう」と聞き、父親から沖縄戦の話を聞かされたことはなかったが、父の辛さを漸く理解でき後々まで悲劇をひきずる戦争を2度と起こしてほしくないと案内員を買って出て続けているのだという。
父親は酒に溺れ、だらしない父と軽蔑感も抱いていた。その後、生き別れたが何年かたって偶然再会。後に父親を知る人から「一人生き残ったのが辛かったのだろう」と聞き、父親から沖縄戦の話を聞かされたことはなかったが、父の辛さを漸く理解でき後々まで悲劇をひきずる戦争を2度と起こしてほしくないと案内員を買って出て続けているのだという。
沖縄戦終盤、劣勢の日本軍は軍病院を南風原村(当時)へ移した。
村民を動員し手掘りで病院壕を掘らせた。
女子学徒隊も動員され看護にあたった。負傷兵が亡くなると初期には埋葬もしたが、末期には麻酔薬もなく押さえつけて手術したり、亡くなると爆撃でできた穴に切断した手脚と一緒にゴミ捨て場のように放り込まれた。
いよいよ戦況悪化しこの地も放棄し摩文仁へと死の行軍撤退。動けない者には青酸カリ入りのミルクが渡された。
豪内に残されていた医薬品。
手掘りで壕を掘った時に使われたツルハシ。
憲法9条の碑。町民各世帯500円ずつ出し合って建立されたそうだ。町民の平和への強い決意がうかがわれる。
左は犠牲者慰霊(組まれた祈りの手)と平和への願い(上部が平和の象徴ハトの翼をモチーフ)を込めたモニュメント。
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