この日が近づくと年中行事のように「悲惨な戦争体験」が語られる。戦争が一般民衆には何も良いことをもたらさないことは、歴史からも明らかである。「戦争をしたい」とは誰も言わない。「平和が大事」とは誰もが言う。なのになぜ日本は戦争をしたのだろう?今も世界のどこかで戦争が絶えないのはなぜなのだろう?
ひとたび戦争へ向かおうとする「空気」が醸成されてしまうと、次第に、やがて急速に「同調圧力」が強まっていく。
かつての本音は資源と領土拡大を目的とした「大東亜共栄圏構想」しかり、中東の「宗教戦争」、アフリカの「民族戦争」、そして「米ソ冷戦」からのー「米中冷戦?」、風船に「空気」が吹き込まれ膨れ上がっていく。そしてある日突然...、はじけてしまう。
画像は今日の京都新聞社説と記事、「日本は今後、戦争をする可能性はあるか」世論調査結果では、「ある」41%、「ない」58%だったそうだ。
30~40代以下の情報源はネットやSNSが中心、テレビがその補完的役割くらいで、新聞はもちろん活字媒体の利用は少ない。
活字を読む場合、その内容を理解するためには言葉の意味するところを考え、理解するためには脳の知的活動が求められるし、誤って受け取ってしまっても再読再考するチャンスも残されている。
一方、ネットやSNSの情報に対しては、深く考えることもなく瞬間的・短絡的に対応して事足りる場合が多く、深く考えないまま盲従させられてしまう傾向が強い。
かつて私が少年だった戦後間もない昭和30年代、労働運動や平和運動が高まる一方で、愛読した少年漫画にはやはり「少年ジェット」、「月光仮面」「七色仮面」など「正義の味方が悪者をやっつける」類の物や、「戦艦〇〇」「紫電改の鷹」「ゼロ戦隼人」といった皇国戦士が敵のグラマンやB29を痛快にやっつけまくる類の戦争マンガも多かった。私も一時は単純に「カッコイイ」と思わされたものだった。戦前ならそのまま軍国少年に出来上がっていたかもしれない。
「民主主義」の時代と言われる現代でさえ、青少年や若者たちが好むスマホやネットゲーム、アニメやマンガには「戦い」が溢れかえっている。
ひとたび「空気」の気圧が強まれば、一気に膨れ上がる恐れはむしろ強くなっているかもしれない。
だいたい「終戦記念日」という言葉自体、「戦争は終わったけれど負けたわけではない。我々は「大東亜共栄圏」をめざしてアジアの友国のために戦ったが、残念ながら物量に勝る欧米に抑え込まれてしまった。無念ではあるが、いったん矛を収めることにせざるを得なかったのだ」という「空気」が反映されている。
だからいつまでたっても、ぞろ「押しつけ憲法改正」だの「自衛のための軍隊」だのといった声が絶えない。「いずれまた欧米に対抗して再決起を期すが、今のところは便宜上、対中国自衛を口実に再軍備を急がねばならない」との思惑が見え隠れする。
戦争体験、戦争の悲惨さを語るだけでは戦争抑止には必要ではあるが十分ではない気がする。「なぜ戦争が起きるのか?」、いや戦争を起こすのは人間である、勝手に起きるのではない、「なぜ戦争をするのか?」を考え、その解決策を追求しなければ永久に戦争は無くならず世界のどこかで起き続けるだろう。
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