ホテルに帰って、2階の客室へ続く吹き抜け廊下のソファーに座って文庫本を読んでいると、通りかかったツアーデスクの女の娘が、笑顔で「ワイン買えました?」と聞いてくれた。彼女は本当によく気がつくし、美人で有能だ。このバリの旅で最大の後悔は、彼女の写真を撮り損ねたこと。でも、彼女のやさしさは今でも心に焼き付いている。
夕方の5時ぐらいから、ホテルの入り口脇の小寺院で、奉納舞踏がはじまった。ガムランの音色と線香の香りがあたりにあふれ、ホテルの入り口前のロータリーには、30人ぐらいのインドネシア衣装に身を包んだホテル関係者たちが座って奉納舞踏を見守っている。その人の群れの中に、朝のレストランで顔見知りの女性スタッフや、写真を撮らせてくれた若い女性、そしてツアーデスクの日本人女性sachikoさんを見つけて手を振ると、それぞれが、こぼれるような笑顔を見せてくれた。並んで座っていたsachikoさんのそばに行って、この奉納舞踏の意味を聞くと、「今日がホテルの誕生日でそのお祝い」とのことだった。そして、朝から準備していた奉納舞踏もついに終わり、台の上に山盛りに積まれた果物などの大量のお供え物が参拝者に分配されていく。
奉納舞踏を見ているうちに、プナとの約束の7時なった。外は相変わらず雨が降ったり止んだり。夕闇が、ロビーから見える庭を包んでいた。7時を過ぎても、いつもは時間に正確なプナはまだ現れない。どうしたんだろう。奉納舞踏で込み合っていて、ホテルの入り口に車が入れないのだろうか。不安になってくる。
30分待ったが、まだ来ない。なにかの事情で遅れるのかもしれない。でも、そうなら、ホテルに連絡が来るはず。
この時、昨日の朝、彼が別の約束で確認の電話をくれたことを思い出した。ひょっとしたら、約束しても確認の電話をしなければ、約束は成立していないのでは・・・・・・。それがバリスタイルなのかもしれない。
ぼくはツアーデスクの女性が、こちらの言った事をすべて覚えていて希望をすべてかなえてくれていたので、バリの人々には一度言えば念を押す必要はないと勝手に思い込んでいた。やっぱり、彼女は特別なのだろう。
45分待って、彼が現れそうも無いので、教えて貰った彼の携帯へ電話する。
「何時の約束だったけ?」
「すまん。忘れていた。すぐに迎えに行く」
プナは、単純に約束を忘れていたようだった。
彼の自宅は、ホテルから車で10分ぐらいだった。細い石畳の道路わきでタクシーを降りると、さらに街灯のない細い路地を奥へずんずん入っていく。プナは松葉杖のぼくに、傘をさしかけてくれた。途中でずぶぬれの長男と出会う。彼の家族は、長男、長女、次男の5人家族。子供たちはみんな社会人だった。
家のドアを開けたところの居間の壁には、黒のガウンと角帽子の姿の長男の大学の卒業式の時の写真が飾ってあった。また、ウプの両親の写真も。部屋の奥には、27インチほどのインドネシア製のブラウン管式のカラーテレビとオーディオセットがバリ彫刻を施した木製ローチェストの上に並び、その横には、大きな金魚(らんちゅう)が泳いでいる水槽が置いてあった。白い漆喰の壁には、馬の絵をあしらったものと、風景をあしらったイカット壁掛け布が飾られていた。天井は、ヤシか何かの植物を編んだ材質のものだった。