荻上直子監督の前作「かもめ食堂」は、愛情がたっぷりこめられた「おにぎり」がアイテムだった。
これが、「うどん」だったり、「やきそば」だったり、あるいは、ファーストフードとしての「ちまき」や「だんご」だったら、これほど評価を集めなかったのかもしれない。
「かもめ食堂」の次作「めがね」を観て、改めて「かもめ食堂」の原作者「群ようこ」の非凡さを知った。
結局、タエコ(小林聡美)は、たそがれることができたのだろうか。「はまだ」にリピートするってことは、そうなのだろうが・・・・・・。
映画の前半で、なかなか「たそがれること」ができないタエコと、生活リズムの合わない島の居住者たちとの感覚のギャップでイライラさせられる。
「たそがれること」これが人生の目的とでも言いたげで、「たそがれること」ができない人はばっさりと切り捨てられる。だからお前は駄目なんだよと。
でも、「たそがれる」ってことは、元気だった心が悲しみの底に落ちてくこと。
決して、楽しかった思い出を回想することではない。大切なものをひとつずつ諦めていくこと。
夕暮れ時に、子供たちが楽しんでいた仲間との遊びとお別れしていくように。
人生のたそがれ。それは決してよい意味でなんかないのだ。
この映画の人たちは、一時的に社会を回避しているだけで、人生を諦めつつあるわけじゃない。
「かもめ食堂」では、紆余曲折あった人生を脱出し、並々ならぬ意気込みと愛情をフィンランドの和食の店に注ぎ、儲け主義ではないこだわりを持ち、日々を過ごしていくことがサチエの願いだった。そんなサチエのがんばりや、人柄、店の雰囲気惹かれ、人生に嫌気がさした人々も、そこに行けばいつの間にか癒されて自分の場所へ帰っていくことができた。だが、残念ながら「はまだの主人」には、そうした人間としての魅力が乏しい。
せめて、客が来ないことを良しとするのではなく、それにもめげずにがんばっていて、協力者がちまちま現れる構図がほしい。観ている方も応援してしまうような。
南の島での「梅干」も「カキ氷」も癒しのアイテムとしてはパワーが弱い。ましてや、イセエビ。
どうしても、前作と比べられてしまうこの作品は、たそがれる運命なのかもしれない。
映画に対する批判的なことを生まれてはじめて書いた。でも、これは、荻上直子の次作を見たいからだ。
たそがれ教の教祖になるんじゃなく、「かもめ食堂」で「地道にやってりゃ、なんとかなる」とサチエに言わせたように、独りよがりを止めてほしい。
ぼくらは、サチエの言葉に共感し、「いつかはきっと」と夢を共有したのだから。