tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

グッド・ウィル・ハンティング

2007-05-16 19:56:51 | cinema

差別。アメリカに限らず階級や差別の無い国や制度は無い。
金の有無、生まれ、育ち、環境、人種、宗教、性別、容貌、年齢・・・・・・そして教育。ジョン・レノンは、「イマジン」という曲で「すべての人々が、等分にすべてを分かち合える世界を思い浮かべてごらん」と歌った。差別や偏見のない世界。そんなものは想像の産物でしかない。人間はそういういうものと付き合わざるを得ないのだ。

サウスボストンで暮す若者たちは、ほとんどが無学で貧しい下層階級の労働者だ。彼らにとって進学はそう簡単なことではなく、それは限りなく不可能に近い。一方、ケンブリッジでの教師や学生は上流階級の家庭で育ち、特権意識を享受している(特権とはそういう世界に出入りできるというだけのものなのだが)。
下層階級の若者の中に、MIT(マサチューセッツ工科大学)の教授より頭の良い数学の天才ウィルがいた。

この映画、主題は友情、そして人と人のつながり。得てして天才は精神的に欠陥を持つ・・・・・・ように描かれることが多い。放射能に対する恐怖が高まった1950年代,核物理学の“マッドサイエンティスト”たちが傲慢で無思慮な野望を抱いているのではないかと人々が危惧をつのらせた時の印象が強いのだろうか。映画「ビューティフル・マインド」でも、実在の天才数学者ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアをモデルにした、統合失調症の数学者を描いているが、人智を超えるには精神的な異常さが不可欠ということなのだろうか。精神に異常をきたしていても、本当の実力さえあれば差別を超えて人は助けてもらえるのかもしれない・・・・・・。

ウィルの友だちチャッキー(ベン・アフレック)が、終盤でウィルに言った言葉。
http://www.un-official.com/GWH/GoodWillS.html より)

Fuck you. You owe it to me.
Tomorrow I'm gonna wake up and I'll be fifty and I'll still be doin' this.
And that's all right 'cause I'm gonna make a run at it.
But you, you're sittin' on a winning lottery ticket and you're too much of a pussy to cash it in.
And that's bullshit 'cause I'd do anything to have what you got! And so would any of these guys.
It'd be a fuckin' insult to us if you're still here in twenty years.
ーYou don't know that.
Let me tell you what I do know.
Every day I come by to pick you up, and we go out drinkin' or whatever and we have a few laughs.
But you know what the best part of my day is?
The ten seconds before I knock on the door 'cause I let myself think I might get there, and you'd be gone.
親友だから言うけどな。20年後に、まだここにいて、こんなところで働いていたら、ぶっ殺してやる・・・・・・。
お前は当たりくじを持ってんのにここに居座るのは、おれたちへの侮辱だ。
毎日、お前を迎えに行き、それなりに楽しくやっているが、一番楽しみなのはドアをノックする前の10秒間だ。
今日こそは、いないかもしれない。
別れも言わず旅立ったかもと、これが本心さ。

また、セラピストのシーンがウィルにこんなことも言っている。
And you can fail, as long as you're trying hard. But there's nothing worse than regret.
懸命に試している限り、失敗しても良い。でも、後悔するのは最低だ。

シーンとウィルは、最初は険悪だった。心を開こうとしないウィルに欠点を持つことの重要さを語る。 
She's been dead two years and that's the shit I remember.
Wonderful stuff, you know, little things like that.
Ah, but, those are the things I miss the most.
The little idiosyncrasies that only I knew about.  
That's what made her my wife.  
Oh and she had the goods on me, too, she knew all my little peccadillos.
People call these things imperfections,   
but they're not, aw that's the good stuff.  
And then we get to choose who we let in to our weird little worlds.
You're not perfect, sport. And let me save you the suspense. 
This girl you met, she isn't perfect either.
But the question is: whether or not you're perfect for each other. 
That's the whole deal.
That's what intimacy is all about.
Now you can know everything in the world, sport, but the only way you're findin' out that one is by givin' it a shot. 
妻が死んで2年。ひどい思い出だな。
そういう小さなことが今では一番懐しい。
僕だけが知っている癖、それが愛しかった。
僕の癖も彼女は皆知ってた。 
癖を欠点と考える人間もいるが、とんでもない
愛していれば恥ずかしさなど吹っ飛ぶ。
君だって完璧から程遠い。 
彼女だって完璧じゃない。
だが問題は君らが互いにとって完璧かそこが大事なんだ。 
君は何でも知ることができるが、それを確かめるには飛び込んでみるほかない。


バベル

2007-05-15 20:51:24 | cinema

それは一発の銃声から始まった。銃社会のアメリカで日常茶飯事的に起こりそうなその事件は、実は銃の所持を許されていない日本の東京・赤坂にその火種が在り、モロッコで現実となったのだ。そしてその影響はメキシコシティにも及ぶ。各国の其々のシーンが全て一つの猟銃につながっていく。テーマはコミュニケーション。ミスコミュニケーションばかりか、言葉自体の不自由さが招いてしまう出来事の数々が描かれている。
脚本を担当した作家ギレルモ・アリアガ(Guillermo Arriaga、1958年 - )はメキシコ出身。メキシコ・シティでも最も治安の悪い地区に育ち、喧嘩の傷が元で13歳の時に嗅覚を失ったという。映画に銃が出てきて、聴覚障害者のチエコが出てくるのもうなづける。だけど、どうして東京・赤坂なのだろう?Winchester M70 in .270 Caliberは一発ずつボルトを引いて撃つ、ボルトアクション・ライフルとして、とても有名な銃だが、日本では狩猟用ライフル銃の所持は散弾銃を継続して10年間所持している実績が必要のはず。チエコの父親の奥さんは、その銃で自殺したという設定なのだろうね。モロッコではこの銃が原因でアメリカの女性が撃たれ、男の子の命が失われる。銃弾の到達距離についてのミスコミュニケーションが原因だった。

モロッコでは、2003年5月にカサブランカにおいて実行犯12人を含む45人の死者を出した自爆テロが発生した。その後、治安当局の取締り強化により1,000人以上のイスラム過激派が逮捕されている。だから、モロッコでは銃器所持に対して厳しい(ただし猟銃は免許を取得すれば所持できるらしい)。モロッコの衛生状況は、基本的に水道水は飲用できる水準だが、市販のミネラルウォーターの利用が一般的だ。ウィルス性肝炎や食中毒に罹ることもあるため、屋台での食事や氷の入った飲み物も避けるのが賢明だ。だから、ケイト・ブランシェットが演じるスーザンが昼食に選択したのは、スパイシーなチキンが入ったモロッコの定番料理。ヘルシーさを追求するアメリカ人女性。文化の違いだけじゃなく、同じアメリカの家庭内でも食の好みや衛生観念の違いがそこにあった。
その昔、かの地では観光地のホテル前でハッシシを売りつけられた。日本人とみるとやたらに声を掛けてくる。ミスコミュニケーションが恐い。(モロッコ語のトリビアだが、”はい:イィエ”、”いいえ:ラー(Lah)”。・・・・・・イィエ、混乱する(´д`))。モロッコの人たちは英語を話す人は少ないが、やさしい人が多く困った時は助けてもらえる。お礼が欲しいのではなく、言葉を超えて人と人は助け合えるのだ。

映画の中で、日本でのバレーボールの大会のシーンは文化の違いの象徴だろう。女子高生の独特の掛け声とブルマー姿は、他の国の文化とは完全に異質だ。そして、菊池凛子さん。コミュニケーションに問題を抱える彼女の行動が、この映画で一番心に残るシーンとなる。大音量のクラブにいる場面で、突然音が消えたり戻ったりという手法は、やはり聴覚障害者が主人公のフランス映画「リード・マイリップス」に習ったのだろうか。観客もミスコミュニケーションの世界に巻き込まれてしまう。外国人が思い描く東京の街の印象は、渋谷交差点や、新宿のネオンやら、秋葉原とか、ゲームセンター、夜のクラブ、ミニスカートの挑発的な女子高生達なのだろう。人とエロが充満する街。大いなるミスアンダースタンディング・・・・・・。
救いは、FOMA の TVケータイ。ハイテクが障害を持つ人にとって、手話でのコミュニケーションに役立っているのは素直に嬉しい。
チエコが渡した手紙には、ぎっしりと細かい文字で文章が綴られていたのだが、中にはなにが書かれていたのだろう。人生のつらいことを、その障害から一人で背負わざるを得なかった彼女が、偏見があった健常者に対してはじめて心を開いたのだろうか。映画ではようやく人と人のコミュニケーションがとれていくと確信される場面だ。

アメリカからメキシコへの越境、そして帰還。メキシコティファナへ出るのはこの映画のようにごく簡単だ。しかし、国境を一歩踏み出すとそこはリゾート地サンディエゴとまるで違う世界が広がっている。そして帰還するときの入国審査。審査官の発するあの独特の威圧的な態度は、だれでもイライラせずにはいられないだろう。警官の威圧的な態度に事態が思いもかけない方向に進展していくのは、同じ脚本家による映画「クラッシュ」や、「アモーレス・ペロス」でも描かれている。ギレルモ・アリアガは、警官に特別な思いがあるのかもしれない。ここでも、警官とのミスコミュニケーションが強く印象に残る。

モロッコ、トキョー、メキシコ。そこで生まれた3種類の愛はつながっている。

さて、バベルは『旧約聖書』の『創世記』に出てくる伝説上の巨大な塔から来ている。古代メソポタミアの中心都市であったバビロン(アッカド語で「神の門」の意味)にその塔はあったといわれ、古代メソポタミアに多くみられたジッグラトという階段状の建造物だったらしい。その目的は、シェム(ヘブライ語、慣習で名と訳されている)を塔にかかげ、あちこちに散るのを防ぐためである。神は天に届こうとするこの塔を見て怒り、人間がこのような塔を作るのは言葉が同じことに起因すると考え、こらしめに人々に違う言葉を話させるようにした。このため、人間は混乱し、世界各地へ散っていったのだ。
だから、日本語で発音すれば「バベル」だが、アメリカ英語では、「ベイブル」か「バブル」、イギリス英語(British English)では、「ベイブル」 、一方、スペイン語圏では「バーベル」。・・・・・・世界中に愛をつなげるのは難しいが、それでも、もがきながらも進まなければならない。


母たちの村

2007-05-14 20:10:52 | cinema

こんな映画を母の日に見ちまった。2時間強の映像だが、全編苦痛にあふれて、映画がはやく終わるのを祈ったほど。
音に満ち溢れている映像は、最初は戸外の虫の声などが聞こえてくる。そして終盤から、子を亡くした母親の悲痛な叫び。そして割礼(それを割礼と呼ぶのであれば)に引き出される少女の恐怖の叫び。クエンティン・タランティーノのホステルで、スプラッタ映画の悲鳴にはかなり耐性を持ったと思っていたが、この心を引き裂くような心の叫びにはまいった。音だからこそ心に直接響くのかもしれない。真剣に、映画がはやく終わってくれることをただ望んでいた。
少女への割礼。それは、男性への割礼の由来が衛生上のためと考えられるのに対し、女性への割礼は、女性の性欲、性感覚の低減が目的らしい。完全に一方的な男性社会でのおきて。しかも、一夫多妻制を貫いており、女性は子供を生む道具でしかない。この作品のストーリーの中心にあるのが、この「女子割礼」を嫌がって逃げ出した少女たちを守ろうとする女性たちの物語だ。今現在も、アフリカの一部の地域では行われている悪習で、一部の国ではこの習慣を断とうとする運動も起こっているようだが、それを阻んでいるのは伝統に縛り付けられる無知蒙昧なる男たちの愚かな考えでしかない。

映画は、アフリカに教育をと悲痛なる叫びを歌にのせて終わる。

「自由な考えに満ち溢れた」ラジオが悪い、テレビが悪いなど、どこかの国でも聞こえてきそうな言葉だ。あげくのはて、ゲーム機やらパソコンやケータイを子供から取り上げる。
この映画を見て感じたやるせなさ、あるいは、まったく理解しない社会に対する憤り、怒りをぶつける先のない不条理に、自分の青春時代に感じていた焦りにも似た感覚を思い出した。進学競争が過熱して、成長期の子供の健全な学校生活や日常生活まで圧迫するようになった状況はまさに受験戦争だった。いまだに成長期の過剰な競争が、従順な人間を育成するのに役立つと社会は思っている。行き過ぎた「詰め込み教育」の弊害を取り除くために、「ゆとり教育」が提唱・実践されたが、今度は「学力低下」が問題になってもとの競争教育に戻った。かくして、少年少女たちは、受験戦争という過酷な生存競争の場へなにもわからないまま駆り出されて行く。心に悲痛な叫びを残したまま・・・・・・。一体何のための教育なんだろう。今、子供達にできることは、自閉という名の結界に閉じこもるか、仲間で群れてその中に閉じこもるしかないのだろうか?

無知蒙昧な男たちを見ていて、暴力的な怒りさえ覚える。しかし、暴力に対して暴力で応えるのはむろん愚かな行為でしかない。映画のヒロインは、モーラーデというあたかも結界をつくるかのようにして割礼から逃げ出した少女達をかくまう。
原題にもなっている「モーラーデ(moolaade)」は公式HPによれば、
「西アフリカの広い地域で話されているフルベ語の語彙である。語根のモール(mool‐)には「避ける、逃げる」といった意味と並んで「避難する」、「(~のもとに)保護を求める」という意味がある。モーラーデという語には中世ヨーロッパにおいて、そこに逃げ込めば何人(なんぴと)の力も、法の力も及ばない避難所という意味があるフランス語のアジール(asile)と同様、聖域とか避難場所といった意味を持つと考えられる。」とある。
この結界を解かせる為、公衆の面前でヒロインは鞭打たれる。その音が重く何度も響く。尊厳を守るための鞭打ちは、逆に鞭打つ側の心をくだいた。女性たちが”非暴力”を武器として戦う強さがせめてもの救いだ。


ヘイフラワーとキルトシュー

2007-05-13 15:22:23 | cinema

児童映画は、子供や若年者の成長への感化を念頭に置いた、教育的な意図、配慮がその根底にあるものが多い。この作品も、2人の姉妹のがんばり屋の7歳のヘイフラワーと5歳の小さな猛獣キルトショーの夏の終わりの数日を描いている。まったく実在感のない大人たちの描き方が、この映画が児童向けの映画であるの証であり、ヘイフラワーに共感することで子供の感性を育てることを狙っているのだろう。ところが、脚本家の意図しない部分で、心に訴えてくるところの多い映画だ。

全編にあふれる生活の音、自然の音。音を通してやさしさが溢れてくる。そして、部屋の調度の色合い。ナチュラルな白木の家具に、指し色で鮮やかな原色を用い、大柄のファブリックや小物を使ったスタイリングは、映画を見た人に爽やかな印象を与える。日本では、数年前から北欧スタイルブームだが、冬の間寒く暗い日が続く北欧だからこのような色調が選ばれるのだろう。同じヨーロッパでも、光あふれるイタリアの家具とは対極をなす。家の中が、色彩にあふれた夢のような空間であるが、家の外側に目を転じれば、古い窓枠に白のペンキを何度も塗り重ねたであろう建物の歴史が目に入る。古きものとの調和。かの地の人たちの生活がしのばれる瞬間だ。
この映画に舗装された道路がひとつも出てこない。広大な庭には緑があふれ、庭のリンゴの木には真っ赤なリンゴが色づいている。
これまた正体不明のお隣は、森の小道を抜けてようやく着く。数十年前の日本の田舎もこんな感じだった。雨の日にはぬかるんでどうしようもない砂利道だったけど、そこにはやさしさが満ち溢れていた。

国を超えて、小さな子供達の好物は、パスタなのだろう。フィンランドでお握りやさんを開いた「かもめ食堂」では、トナカイの肉をどうにかアレンジしようとしていた。学生のころ北欧を訪れた時は貧乏旅行だったので、パンと牛乳とじゃがいもばかりを食べていた気がする。トナカイどころかニシンですら、物価の高い北欧では口にできなかった。フィンランドのパンは健康志向が高く、それゆえ全粒小麦のパン。素材の味が味わえる、噛み応えのあるパンで、かめばかむほどって感じ。イギリスで売られているものにはない、独特の風味や食感のあるものだった。

「お姉ちゃんでしょ」
今まで頑張って頑張って頑張り通したヘイフラワー。
かけっこでずるした妹のキルトシューに負けて、仏頂面のヘイフラワーはお母さんに言われる。
「皆楽しんでいるんだからそんな不機嫌な顔しないの」
不機嫌な時に不機嫌な顔して何が悪いの。そんなことも我慢しなくちゃならいの?
とうとう堪忍袋の緒が切れる。
部屋にこもってだんまりを決め込むが、最終的にはおねえちゃんが折れちゃう。
そうやって我慢していって成長していくと、ひがみっ子になるか人生に対して諦めるように長男・長女はなっていくのかもしれない。自分の主張なんか言ってももどうせ無駄、みたいな。一方、下の子はその辺には無頓着だ。
楽しかった夏の日が過ぎ、小学校に入学して登校がはじまる。長女のヘイフラワーは、一人で森を抜けて小学校へ通っていく。・・・・・・ちょっと待てよ。親はついていかねえんだ。北欧って、小さい頃から家事を含めてすべてを自分の責任でやらせるんだね。だから、国際学力調査(PISA)において、北欧の国は読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーで上位を占めるんだ。・・・・・・で、日本の教育の中身って何?


されどブログ

2007-05-12 21:08:52 | lesson

<ねえ、ブログって知ってる?>
仕事の合間にデスクの向こうの女性から聞かれた時、ドキっとした。
ぼくのつけているブログがばれたのかと。
<ブログってインターネットの?>
<そう。私書いてるんだ。>
なぜか知らないが、ぼくの職場では、パソコンを含めて、あらゆるOA機器に関する質問がぼくに来る。ぼく自身と言えば、いまだにカラーコピー機の暗証番号を覚えられず、いつも彼女達にコピーをお願いするしか手がないのだが・・・・・・。
この時の彼女の質問は、彼女が書いているブログに、嫌なコメントが毎日のようにつくので、なんとかしてというものだった。
<でも、それって、仕事と関係ないよね。>
といい加減な返事でごまかそうと思ったが、結構、深刻に悩んでいるようなので、相談に乗ってあげる。
帰宅してから、インターネットアドレスを打ち込んで、彼女のブログのページを開いてみる。女性らしいデザインのブログだった。彼女の書き込みの内容は、主に料理。料理のレシピに対して、コメントがたくさん付いていた。
確かに、彼女を誹謗するコメントも見受けられる。彼女の話では、ある時期から、彼女を中傷するようなコメントが付き始め、それがあまりにもひどいものだったので、片っ端から削除してたらしい。削除されていない最新のものを見ると、
<お前の子供の目に針を突き刺してやる>
というコメントが書かれてあった。
このようなコメントが付き始めたという頃の彼女の記事を探してみた。特に、問題となるような記事は見当たらない。子供に関する記事といえば、彼女の子供が「プチゼリーを凍らせたものを喜んで食べる」と言う内容の記事しかなかった。
どうやら、たったこれだけのことに反応して嫌がらせが続いているようだった。
嫌がらせを止めさせるには、ブログ上にコメントの主に対する意見を書いて真っ向から対決する方法と、コメントの主に書き込ませない、つまりアクセスを禁止する方法がある。
そいで、翌日、デスクの向こうの女性にこのことを伝えた。
「どうやら、君の子供のことを書いたたった一行の文章に反応しているようだ」
「でも、それって何故?」
「世の中には、いろんな人がいるからね。きっと、子供のことでヤなことがあった人なんじゃないの」
「・・・・・・」
「相手に心当たりはないんだよね」
そして、対処方法を教える。彼女の選択は嫌がらせのコメントのアクセスを禁止する方だった。
会社のパソコンから彼女のブログにauthorのIDでアクセスして、嫌がらせコメントのプロパティを調べる。嫌がらせコメントの主のアドレス(URL)を調べてコピーする。ブログの管理者のページに飛んで、「環境設定の変更」のページにある禁止IPリストに先ほどのURLを叩き込む。禁止IPリストを保存して終了・・・・・・。

その後、当然のことなのだが、嫌がらせの書き込みは途絶えたらしい。コメントの主、どんな事情があったか知らないが、一度、徹底的に相手の考えていること、その思いなどを聞いてみたかったような気がする。きっと、つらい過去があったのかもしれないのだ。だから、お互いに相手を気遣えば、関係が改善するかもしれない。・・・・・・第3者だからこんなことも言ってみる。当事者だったら、そうもいかないのだろうね。たかが、ブログ。いつでも終わりにできるはず。だけどauthorの思い出がたくさん詰まって、authorとともに成長する・・・・・・されどブログ。