福田和也著『死ぬことを学ぶ』にある、アンドレ・マルローの書く死に際に衝撃
もう嫌になるくらいに猛暑が続いている。そんな中でも昔は夕立というものがあり、それなりに涼が求められた。加えて、その夕立により畑や庭などの水やりが免れた。
ところがこのところ県北では夜になると毎日のように「大雨警報」が出されているのに、県南では全く降らない。それ故に今では毎朝5時過ぎから、1時間近くも水やりを余儀なくされている。できれば二日に一度くらいは夕立があることを願うのだが。世の中、思うよいにはいかない。
さて、そんな猛暑日が続く中では、人間が熱中症で倒れてはいけないと理由を付けて、草抜きもほったらかしだ。しているのは、冷房を効かした部屋&カフェでの読書。
そんな読書三昧の中で、最近読んだのは福田和也著『死ぬことを学ぶ』(新潮社刊)だ。福田流「死に方読本」とあり、著名人などの「死にざま」、「死の置き土産(墓)」、「自殺の死生観」等について書かれている。常日頃「死にざま」を考えている私であり、とても興味深く読んだ。
この『死ぬことを学ぶ』の中で紹介されている、アンドレ・マルローの「アルテンブルグのくるみの木」という小説について、私は心惹かれ興味深く読んだ。
小説の中で、マルローの叔父が不治の病にかかる。その叔父は、「自殺を決断し、周到に準備をしたうえで、毒薬を呑む算段をした。枕元に『宗教的儀式、手続きなしに埋葬すること』と記した紙を置いて」。ところが、親族が遺体を発見した時には、その遺書は書き換えられていた。「なしに」が線引きで消され、「の下で」と書き加えられていたという。
私は常日頃から「葬式&戒名不要」を公言して、家族だけで見送ってもらうことを心に決めている。そして、死後3ヵ月くらいが経過したら、自分で書いておく予定の「永久の旅立ちにあたって」を、家族から送ってもらう予定としている。
ところが、アンドレ・マルローの小説のように、「その時」になったら心変わりをするのだろうかと思い衝撃を受けた。そんなことを思いつつも、今のところでは「葬式&戒名不要」という考えに変わりはない。
「服を脱ぐことを強要」することは、決してセクハラではなく確実に犯罪だ
「生き地獄」と言っていじめに苦しむ子どもたち、そんな子どもたちは今全国にどれくらいいるのだろう。いじめの根絶は無理なのか、忸怩たる思いでいる。そんないじめられている子どもたちは、いじめで自殺した大津市の中学2年生の在籍した学校や市教委の対応を始め、全国でのいじめで自殺したりした子どもたちへの学校や警察の対応を、まさに固唾を呑んで見つめていることだろう。
先の大津市の学校では、生徒が自殺した直後に学校側が全教職員を対象にしたアンケートを公表していないことが、またまた報道されている。まさに学校・市教委の責任逃れ、隠蔽体質は極まれりという感じだ。そろそろ、先生たちの中から、真実を語る人が出てきても良いと思うのだが…。真剣にアンケートに応じた生徒たちや、いじめを先生に訴えた生徒たちは、そうした学校や先生、そして市教委の対応をどのように見ているだろうか。
そんな学校や教師たちに、子どもたちは何かを教えてもらいたいと思うだろうか。「教えるとは、ともに希望を語ること」と教わっている。自殺した生徒が在籍した学校の教師たちは、生徒たちとともに「希望を語る」ことができるだろうか。
そんなことを思っていたら、今度は神奈川県警大和署に勤務していた男性警察官4人が、後輩の女性警察官に対し「服を脱ぐよう強要」するなどした事件が発覚した。、マスコミは、そうした行為を「セクハラ」として報道している。また、神奈川県警は、世論の厳しさの前で撤回したが、当初は「立件できない」という立場だった。何と言うことだろう。
「女性に対して、人前で服を脱がせる」という行為は、「セクハラ」という範疇では決してなく、確実に犯罪だ。また、それを立件できないとした神奈川県警も、何と言うことだろう。加えて、当初は4人の内二人は何もしていないとして責任を問わないという姿勢だった。目の前で、「女性に服を脱げ」という同じ警察官に対して、それを止めなかった者は同罪であるのは当然だ。まさに「沈黙は加担」だ。
こうした学校や市教委、そして警察などの態度を、報道で知る度に怒りが湧いてくる。何とかして欲しい、そんな思いで今いる。