降って来るもの

写真と散文とぽえむ

一万歩.百分に

2017-12-06 05:40:07 | 随想

           ~~~ヾ(^∇^)おはよー♪ございます!!

 今朝は何時もの四時台じゃなくて珍しく五時を回っての目覚めとなりました。空にはきっと満月様の月が寒空を煌煌と照らしているのでしょうが、まだ寝起きの温もりに縋り付いている身では、怖くてとても外の寒暖計を確認に行く勇気は湧いてきません。ですが、きっと気温は零度近くで夜明け前の空は濃いブルーに違いなくて、中二階の窓の仄かな白み具合から想像すると、きっと月は中天にある。何日か前の何処も彼処もただ暗いという夜明け前の風情とは随分と異なる感覚にはなっています。

 ブログを”goo”に移籍してこの記事でtitleがちょうど「六百」というNOを記録します。まさに光陰は矢の如しですが、僕には月日はその矢を悠々と凌駕してまるで”鉄砲玉”のように過去へと素っ飛んでゆくように感じられます。そんな風に感じてしまう程、残された月日や時間は膨大ではないという証なのかも知れませんね。さすれば余計に過ぎてゆく移ろいの”トキの間に間”を愛おしみ、睦み、せめてその蜜月の時間を記憶と記録にと・・

 長々と余談を書いて時間と行を稼いでしまいましたが、もしかしたら読み手にとっては迷惑千万だったかも知れません。さてそれでは改めてタイトルに沿った記事を書いてゆくことにしましょう

 十一月中の目標は一日「八千歩」でしたが、先日その集計が出て”三十万歩”を悠々と越えていて達成そこで師走は「一万歩を」と決めてスタートしました。昨日までの五日間は思惑通り軽やかにその数字を越えて、この調子で行けば大丈夫そうだと自分に自信を持ち始めたところです

 何時でも一万歩百分のwalkingの間に、一体何に出合えるのか?一体何と触れ合えるのか?一体何が降って来て何が僕の身体を過ってゆくのか、それは殆ど百%の期待と愉しみで(まるで夢見る乙女のように)時間移動するんです。それは顔を隠した虚無僧のように厳粛なものじゃなくて、少しは健康に留意してという必要不可欠の要素は加味しつつも、ほぼ九割方は個人的なそんな愉しみのための歩きなんです

 僕はその間に幾つもの新しいphraseを発見し、斬新な表現に出合い、思いがけずの順列に遭遇しては原稿用紙を埋めるに足るエキスを得る。幸運に恵まれれば二枚や三枚を埋めてしまうような。

 それが途切れた時は、タイトルや仕様や内容を彼是と練り込む。その最中であっても、瞬間に掠めてゆくものの気配を捉えたらすぐさま僕はwriterに変身し、常備のメモ帳を取り出し四色ボールペンを握り、訪れに応えるべく集中するのだ。決して聞き洩らしや書き洩らしの無いように緊張を纏って五情を欹てる。

 大仰な物言いかも知れないけれど、僕に曲がりなりにも”書く書ければ書け”のライターの三要素が備わっていたこと(自分では勝手にそう思っている)は、正に天啓の贈り物に違いなくて、その事実にただただありがとう!を連呼するしかない。もしそういう空気穴が無くて、虚無や倦怠に陥ったときに、其処から新鮮なオゾンの供給を受けていなかったとしたら、僕は遠の昔に窒息して現在の僕とは別人になっていただろうと思う。

 様様な曲折を熟成し、いろいろな出来事を発酵させ、兎に角僕は人生を僕のままに生きてもう直ぐ節目の”古来希”に到達するのだが、今この時が若しかしたら”我が人生”を語り、その集大成を記録する適期なのかも知れないと、昨朝の八千歩八十分を思索しながら思ったものだ。

 TOKIは瞬く間に儚く移ろう。それ故その虚しさを穿って”モーゼの石板”のように一個の形あるものを残したい!と、移ろう一万歩百分に切に願うのだ。何時でも僕は。

2017 12/06 06:55 まんぼ

コメント (2)
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