降って来るもの

写真と散文とぽえむ

聴心記.LⅢ

2017-12-26 06:53:44 | 聴心記

               LⅢ「amebaのように」

 

いつでもその時DOKIに

百%の自分を抽出してしまうので

暫くはKUUになる

自分というものが

 蛻の殻になるのだ

 

次々に自分を絞り出していれば

いつか

自分が無くなってしまうのではないかと

本当に心配してしまう

 

書ける自分が

百%もどってくるまで

はっきりとそれを確認するまで

百%のUTAは創れない

 

沢山TACUSAN自分物語を書いて

繰り返し再生してきたけれど

何時でもその都度に

百%の自分に戻れるのか慄いてきたけれど

今のところamebaのように

次々に形を変えながら

強かに次の自分に出会えているので

その間はまだ百でも百一でもの

自分物語を綴れると

先行きは楽観しているのだが・・

                  「夜を継ぎ足して」

 

寝不足が続くと

流石に頭がかすれて来るので

正常に作動する範囲では

眠りを補給しなければと算段する

それは人それぞれの基準だが

僕はどうもまだ夜を移動中に

自分の夜明けを迎えてしまうので

かすれに気づいたときは

その残りの夜を継ぎ足して必要量を充填する

けれどなかなか

何時もいつも満足という訳にはいかないのだ

例えば

三時から五時までだったり

五時から六時四十五分だったり・・

何れにしても

冬の真ん中の今は

ただ夜から夜へと移動しているだけだが

                  「書くと読む」

 

書かないで読みたいと思うことがよくある

書くことは

イノチの一部のようなものだから

なかなか林檎を切る様な訳にはいかないけれど

書くことの半分は

読んだり観たり聴いたりのエキスで支持されているので

その割合を増やせば

書くことに立ち止まることなど

未経験のまま過ぎると思うのに

費やす物理的な条件と

持ち運ぶ己が心情の堅牢さにも

彼方此方に綻びが現れるこの頃は

僕が願う程には

読了の書物が積み上がっていかない

 

あの青春の時代には

煌めく哀楽の移ろいだけが目に留まり

あの壮年の頃には

圧し掛かる荷重に翻弄されて

読むことなどは何時でも意識外にあった

 

理を知るのが遅かったのだ

もっと読み込んでいれば

もっと聴き込みもっと鑑賞していれば

きっと今書く一編の意味も内容も

研磨と凝縮と洗礼を受けて

更に重厚な滋味を内包できたかも知れない

 

近頃ときどき

一年の三百日ぐらいは

書かないで読みたいと想うのだ

残る六十日余は

その経過報告に宛てる算段にして・・

                   「涙の滴より汗の匂いに」

 

同じところを堂々巡りしても

同じ場所でどれだけ足踏みを続けても

同じ空気をどれ程の勢いで吸い込んだとしても

それぞれの時間や期間や

 長さや可能性や希望やは

軈て例外なくその身に起きる終焉に向かう

periodのひと呼吸に収束されてゆくのだ

この世でたった一つ違わぬ

最初で最後の約束に

 されば

滞って悲嘆の涙にくれるより

自らの意志で辿り着く場所であるように

己の全てをフル稼働して前へと向かうのだ

”涙の滴より汗の匂い”に

イノチの覚悟を託して

 それが

依り良く自分を生きることに繋がる

*12/26 06:53 万甫 

 

 

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