LⅢ「amebaのように」
いつでもその時DOKIに
百%の自分を抽出してしまうので
暫くはKUUになる
自分というものが
蛻の殻になるのだ
次々に自分を絞り出していれば
いつか
自分が無くなってしまうのではないかと
本当に心配してしまう
書ける自分が
百%もどってくるまで
はっきりとそれを確認するまで
百%のUTAは創れない
沢山TACUSAN自分物語を書いて
繰り返し再生してきたけれど
何時でもその都度に
百%の自分に戻れるのか慄いてきたけれど
今のところamebaのように
次々に形を変えながら
強かに次の自分に出会えているので
その間はまだ百でも百一でもの
自分物語を綴れると
先行きは楽観しているのだが・・
*
「夜を継ぎ足して」
寝不足が続くと
流石に頭がかすれて来るので
正常に作動する範囲では
眠りを補給しなければと算段する
それは人それぞれの基準だが
僕はどうもまだ夜を移動中に
自分の夜明けを迎えてしまうので
かすれに気づいたときは
その残りの夜を継ぎ足して必要量を充填する
けれどなかなか
何時もいつも満足という訳にはいかないのだ
例えば
三時から五時までだったり
五時から六時四十五分だったり・・
何れにしても
冬の真ん中の今は
ただ夜から夜へと移動しているだけだが
*
「書くと読む」
書かないで読みたいと思うことがよくある
書くことは
イノチの一部のようなものだから
なかなか林檎を切る様な訳にはいかないけれど
書くことの半分は
読んだり観たり聴いたりのエキスで支持されているので
その割合を増やせば
書くことに立ち止まることなど
未経験のまま過ぎると思うのに
費やす物理的な条件と
持ち運ぶ己が心情の堅牢さにも
彼方此方に綻びが現れるこの頃は
僕が願う程には
読了の書物が積み上がっていかない
あの青春の時代には
煌めく哀楽の移ろいだけが目に留まり
あの壮年の頃には
圧し掛かる荷重に翻弄されて
読むことなどは何時でも意識外にあった
理を知るのが遅かったのだ
もっと読み込んでいれば
もっと聴き込みもっと鑑賞していれば
きっと今書く一編の意味も内容も
研磨と凝縮と洗礼を受けて
更に重厚な滋味を内包できたかも知れない
近頃ときどき
一年の三百日ぐらいは
書かないで読みたいと想うのだ
残る六十日余は
その経過報告に宛てる算段にして・・
*
「涙の滴より汗の匂いに」
同じところを堂々巡りしても
同じ場所でどれだけ足踏みを続けても
同じ空気をどれ程の勢いで吸い込んだとしても
それぞれの時間や期間や
長さや可能性や希望やは
軈て例外なくその身に起きる終焉に向かう
periodのひと呼吸に収束されてゆくのだ
この世でたった一つ違わぬ
最初で最後の約束に
されば
滞って悲嘆の涙にくれるより
自らの意志で辿り着く場所であるように
己の全てをフル稼働して前へと向かうのだ
”涙の滴より汗の匂い”に
イノチの覚悟を託して
それが
依り良く自分を生きることに繋がる
*12/26 06:53 万甫