一介の素浪人行政書士&マンション管理士だが
世の 根本的な仕組・あり方にも 大きな関心がある
概して言うと どのような仕組が 世の真の発展にふさわしいものであるのか
ということ(たまには こういう硬いことも記します)
一時の(一番いい例がバブル期の世の在り方)世相のように
新手の消費財を開発し需要をうながし その連鎖でなんとか
GDPの数の連続拡大を追求し なんとかかんとか世の仕組みをつないでいくという
時代があった
当時 世界の中で 安穏と 主に供給側に居た日本が 狂乱とも言える熱狂の経済の中に
安んじていられたのも
本来は そこまでの消費財など生きていくうえで必須ではないのだが
でも あれば便利 とにかく なぜかウキウキ人生には無駄ではない というような
ある意味曖昧な浮き草のような価値観の波状攻撃にさらされた 生きざまの後ろ盾が
あったからのように理解できる
そうして そのような物量生産のしくみと それに踊らされているかのような
大量消費力の支えこそが 好い具合にマッチする
幸せ感醸成の有力な仕組なのだと 大方の いわゆる知識人・有識者・学識経験者・為政者
らが なんとなく?挙国一致体制の雰囲気で半信半疑の下で支持し 日本国の圧倒的繁栄?
とやらに酔っていた
が そういつまでも 他国の民が 日本の(あるいは いわゆる先進国の)思惑に
妥協するばかり とはいかなくなる
どこかで なにかを契機に
なぜに これほどまで 不平等的な生きざまを強いられるのか
なぜに日本やアメリカだけが虹の下の生活を過ごせる者が多いのだろう・・・
との疑問がわくわくと増殖し
各国家で 不合理不条理きわまりない先進国圧倒的有利の政治経済の仕組みの
変革を目指す行動が爆発的に進行していく
日本のまわりの あらゆる国が あるゆる方法と手腕で
一日一日 日本に追いつき 追いぬく体制の構築に励んでいたのだろう
そうしたこともあって・・
今日も これからの日本の(あるいは もっと広範囲での国家間での)行動指針となる
価値観の点検作業に追われている
といっても 大方の見方で おおよそ その点検作業の集約結果たるものが
ある点に結束されることを暗に認めている というか 認めざるを得ないとの事情を
そうして その事情を呑まざるを得ないことをも
ヒンヤリと肌で感じている
が 明確に そのことを表現する損な?役を引き受ける覚悟のものが姿をハッキリと
見せてくれない
すくなくとも バブル期のような世の有りようには
戻れない
ということを 経済至上主義を標榜する人たちの前で
確言することを ためらう
人さまの 希望・期待にまで 口をはさみたくない
そんなことを受け持って 何の得がある とでもいうように・・・
需要側が なんとか関心を持つべくものを いわば無理やり
研究開発し なんとか 供給段階まで持ちこたえ
とにもかくにも 生産性向上の数字に連動するような消費行動を
つくりあげるような仕組は もはや 無理
政府も・産業界も・学識経験者と言われる人たちも
そのあたりは わかっている はず
だが 声だかにはしない というか できないらしい
生活していくのに必要な財の量も 極力 減じる
生活していくのに必要な量をヤタラ超える生産も もちろん減じる
生活していくのに必須とはとてもいえないような財の開発は
もはや 冒険的すぎ そのような需要を造成していく手段をなんとかかんとか
工夫しながらの経済活動は 心もとなさすぎる
もはや 投資も 実利のある本来の投資の姿は無く
単に価値を転がす 価値に付着する偶然価値を遊ぶ投機
のなかの投機の親分衆の手の中で いいように転がされているようなもの
しかも それに対し アングリ 口をあけて見逃しているより
しょうもないような 情けないなどと表現するのも脱力感を覚えるような
そんな具合になり下がっている
高級学識も 高等経済理論も なんともこころもとない・・・
GDPよりも生活感覚
資源でなく人を使う
というスローガンが 単なるスローガンではなく経済理論の主な柱に位置するのだ
ということを認めざるを得ない世である以上
量に頼る生きざまでなく
生きる意味を イチイチ問うような生きざまをある部分で余儀無く問われるような日
を眺める場面が多くなる人生であるのだろうし
当然 今までの世では会えたかもしれない楽しいだけの平均寿命時間経過を安穏と
苦労無く見て過ごせる人生 というわけにはいかないことのほうが多いかも
ということの共通認識のようなものの空気がこの世には増えていくに違いない
というあたりを ハッキリと 言わなければならないことも
あるのだろうということを 為政者は意識せねばならない
それこそ 意識的に
≪物質的生産の量的拡大が行き詰っている時代
資源が枯渇するなど環境制約に直面している時代≫
それを ハッキリと言わなければならない
それとともに
≪量的な拡大は無いが
退屈ではない
新たな思想が生まれ 面白い創造的な社会になる≫
などと 安易に言ってはいけないのでは・・
いままでよりは 多少シンドイことになろう ということは言わねばならない
と思うのだ
≪人々の関心は自然やコミュニティーに向かう
企業は利潤最大化だけを目指すのではなく より相互扶助的に振る舞う
福祉も政府行政にまかせるばかりでなく まずはコミュニティー自身が自身が担う≫
というあたりにも 安易に このことが多用され
ますますの閉塞感をあおるようなことにならないよう注意が必要だ
繰り返しになるだろうが
つまり すくなくとも経済的な面での停滞は
程度の差はあれ いずれどの国でも避けられない
生活の質はどうであれ 量的には寂しさを実感せざるを得ない方向での歩みを
世界はしているのかもしれない
ということは 心のどこかで認めざるを得ない のでは・・・
そのことを 前提状況にして事を進めなければならない
明るい未来は無いんだよ などと 断言することを是とするための提言では
ケッシテない
が
いたずらに 量から質の生き方のスタイルチェンジが 何らのマイナス面もともなうもの
ではない と 断言するような風潮は
いかがなものか
おそらく チャブ台に並ぶ一汁四菜が 一品ほど減らされざるを得ないような
我慢をしいられるだろう という場面では 表現のごまかしで逃れるのではなく
率直に言わねばならない ということを思うのだ
そうして 徒に 勢いだけがヤタラ先行し 裏付けの無い景気のよい宣伝材料に
踊らされてしまい
いつのまにか 政治の仕組みの絶対に譲れないところまでをも
侵食されることなどの くれぐれも無いよう しっかりと見つめなければならない
と思うのだ
不景気が ドンドン ドンドン 進行しているような過程で
どうしても 想起されてしまうのが
ナチス思想の不気味さ
あれよ あれよ という間の 暗黒
考えすぎもいいところ と笑われそうなのは覚悟で
どうにも この言葉になってしまうのだ
というわけで
くどくどと記してしまったが
言いたいことは
[黒色は 黒色と
青色は 青色と]
表現は 客観的に
信ずるところにより
為政者としての信念を貫いて 言わねばならないのでは
ということ
国民への判断材料は そのまま 色に手を加えず
まな板に載せて欲しい
いや 載せなくてはいけない という
極く あたりまえのこと
そうでないと 選択の基準さえ霧に隠れてしまうからです
経済の仕組み 価値観のとらえかた 為政者の姿勢について
世界中の何処を眺めても
明らかに 決定的な変化を余儀なくされているのだから
その変化をジックリ見つめようと
一介の素浪人は思っている
大切な あらゆるもののために