2日(日)。昨日の日経朝刊 最終面のコラム「交遊抄」に東京藝大の澤和樹学長が宗次徳二氏との交遊を書いています 宗次徳二氏はカレーチェーン「壱番屋」の創業者で、名古屋市にある「宗次ホール」を私財を投じて作った人です。彼は高校生の時、初めてテレビで聴いたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲に感動し、以来何度も音楽に励まされ、その経験から今は才能ある演奏家の支援活動に熱心に取り組んでいます
東京藝大もホールの改修工事や学生の海外派遣、奨学金制度などで支援を受けているとのことです
面白いのは二人の出会いです
2007年の宗次ホールの開館にあたり、澤氏がヴァイオリンコンクールの審査員を務めた際に、事前の打ち合わせでホールを訪ねた時、玄関を掃いていた男性に「宗次様とお約束で」と用向きを告げると、振り返った男性がひと言。「私が宗次です」。宗次氏は掃除をしていたのです
ということで、わが家に来てから1703日目を迎え、米国最大の経済団体である全米商工会議所は31日、トランプ米政権が表明したメキシコ製品への関税発動に反発し、差し止めを請求するためホワイトハウスを提訴する検討に入った というニュースを見て感想を述べるモコタロです
アメリカ・ファーストのはずが 内部告発でアメリカ・ラストになってんじゃね?
昨日、初台の新国立劇場「オペラパレス」で新国立オペラ、プッチーニの歌劇「蝶々夫人」を観ました 出演は、蝶々夫人=佐藤康子、ピンカートン=スティーヴン・コステロ、シャープレス=須藤慎吾、スズキ=山下牧子、ゴロー=晴雅彦、ボンゾ=島村武男、ヤマドリ=星野淳、ケート=佐藤路子。管弦楽=東京フィル、合唱=新国立劇場合唱団、指揮=ドナート・レンツェッティ、演出=栗山民也です
オペラ「蝶々夫人」はジャコモ・プッチーニ(1858-1924)が、J.L.ロングの小説から取材したデヴィッド・べラスコの「蝶々夫人」の原作に基づき、ルイージ・イリッカとジュゼッペ・ジャコーザの台本により1901年から1903年にかけて作曲し、1904年2月17日にミラノ・スカラ座で初演されました
舞台は明治初期の長崎の海を望む丘。アメリカ海軍士官のピンカートンは、結婚斡旋人のゴローの仲介で15歳の芸者、蝶々さんを身請けし、アメリカ領事シャープレスの忠告を無視して軽い気持ちで結婚式を挙げる その後ピンカートンは帰国してしまう。ピンカートンの愛を信じて疑わない蝶々さんは音信不通の夫の帰りを3歳の息子と女中のスズキとともに待つ
やがてアメリカで正式に結婚したピンカートンが妻ケートを連れて長崎にやってくる
彼女の姿を見た蝶々さんは全てを悟り、わが子をケートに託し、父の形見の短刀で命を絶つ
舞台の左右には日本語と英語の字幕スーパーが出ます 最近、外人客の姿をよく見かけるようになり、またイタリア語のオペラなので英語も出すことにしたのでしょう
栗山昌良演出による新国立オペラ「蝶々夫人」は1998年の初上演から今回が10度目の上演となりますが、20年以上も続けてこられているのはシンプルかつ普遍的な演出・舞台作りが聴衆を飽きさせないからでしょう 私は2005年、2007年、2009年、2011年、2014年、2017年に次いで今回が7度目です
これまでで一番強く印象に残っているのは前回=2017年に安藤赴美子が蝶々夫人を歌った公演です
蝶々夫人を歌った佐藤康子は東京藝大首席卒業後、同大学大学院を修了し、いくつかの国際コンクールで優勝し、「蝶々夫人」のタイトルロールはパルマ王立歌劇場、フィレンツェ歌劇場などで歌っているとのことです 最初に登場した時の歌声を聴いて、素直な歌唱だなと思いました
蝶々夫人は、最弱音から最強音まで抜群のコントロールで歌いこなさなければならない難しい役柄ですが、彼女は自然にクリアしていました
今のままでも十分ですが、声にドラマ性が加わるともっと良くなると思いました
ピンカートンを歌ったスティーヴン・コステロはアメリカ生まれですが、明るい伸びのあるリリック・テノールで、歌唱に無理がありません ただ、外見上”真面目人間”そのもので、遊び半分で蝶々さんと結婚した”いい加減な”アメリカ人にしてはちょっと物足りなさを感じました。これは無いものねだりですが
シャープレスを歌った須藤慎吾は国立音楽大学大学院修了、第37回イタリア声楽コンコルソシエナ大賞受賞のバリトンですが、声が良く通り、演技力もあります
スズキを歌った山下牧子は広島大学卒業後 東京藝大大学院修了、第1回東京音楽コンクール第1位のメゾ・ソプラノですが、演技力を含めてこの役にピッタリで 第一人者と言っても良いかも知れません
ピッタリということで言えば、蝶々さんの佐藤康子にしてもスズキの山下牧子にしても、日本髪に着物のいで立ちは、やっぱり日本人が一番しっくりくるな、と思います いつか観た「蝶々夫人」はヨーロッパの国のソプラノでしたが、歌唱力は十分でしたが、その姿には相当の違和感がありました
しかし、冷静に考えてみると、日本人が「トスカ」や「ルチア」を歌う時、イタリア人をはじめとするヨーロッパ諸国の人たちは、同じように違和感を感じているのではないか、と思い直します
日本人がクラシックをやる意味はどこにあるのか? という根源的な問題に行き着きます
さて、演出の栗山昌良氏が「プロダクション・ノート」(2005年5月のインタビュー)で演出のコンセプトについて次のように語っています
「(前半省略)2幕は枯葉ではなく、花びらが積もっている 花の二重唱では上から絶え間なく花びらが降り注ぎ、その中で蝶々さんは自刃する
一番最後は子どもを中心に置きたいと思っています。舞台の真ん中にひとり残された混血の少年が、目の前で命を絶った母親、そして奥にはためく星条旗、そのどちらの方向を向くのか、そこで幕を切りたいと考えています
」
私の記憶に間違いがなければ、最初のうち(2000年代頃)は、少年は星条旗の方向を向いて(客席から見ると後ろ姿で)幕が切られていたと思います それが今回を含めて最近の演出では、少年は自刃して倒れた蝶々さんの方向を向いて(客席側に顔を見せて)幕が切られています。これはどのように解釈すれば良いのでしょうか
少年が星条旗の方向を向いて幕が落とされれば、「日本にいればイジメに遭うかも知れない境遇を避け、アメリカの新天地で新しい家族と共に過ごすことが出来るという希望が見られる」と解釈することが出来るような気がします 一方、少年が星条旗に背を向け、自刃した母親の方向を向いて幕が落とされれば、「名誉の死を選んだ母親と日本に残り、この地で生きたいという少年の心情が見られる」と解釈することが出来るように思います
栗山氏の演出の意図はどうなのか、ご本人にお聞きしたいところです
シャープレスから子どもの名前を訊かれた蝶々さんは、子どもに言います
「答えておあげ、今の名前は『悲しみ』ですが、パパが帰ってきたら『喜び』になります、と」
お父さま=ピンカートンは帰ってきました。しかし、子どもは「喜び」という名前にはなれませんでした プッチーニがラスト・シーンに与えた胸の張り裂けそうな音楽は、母の死によって 与えられるべき名前を失った子どもの運命を物語るように鳴り響きました
【追記・訂正】
「プロダクション・ノート」でインタビューに答えている演出家は栗山昌良氏ではなく栗山民也氏である旨のご指摘がありました。お詫びの上訂正いたします