- Mark R. Chassin (Joint Commission) CEOに聞く ◆Vol. 1
■認定コスト、200-500床病院で4万ドル
m3.com 2015年8月18日 医療維新
医療安全などに向けた世界的な病院機能評価であるJCI(Joint Commission International)。日本においては現在、13の医療機関が取得している。認定に向けたハードルやコストの高さがある中で、日本におけるJCIの広がりの見通しや、JCIの特徴について、6月の日本病院学会総会に合わせて来日したJC(Joint Commission)のCEOで、医師のMark R. Chassin氏に聞いた(6月19日にインタビュー。計2回の連載)。(聞き手:池田宏之m3.com編集部)
――JCIは、2015年の時点で、日本で十分に理解が広がってないと思いますが、いかがでしょうか。
主な理由としては、日本は現在、JCIが広がる始まりの段階にあることでしょう。日本の医療機関は、現状をより良くするシステムを探して、海外に目を受け始めた段階だと考えます。多くの国でも同様のプロセスをたどっています。広がり方が早いか、遅いかの違いはあると思いますが。
世界中の病院でも、薬剤部門、看護部門などの各部門がが、まるでサイロのように別々に確立していて、部門間でコミュニケーションが取れないような状態になっていることがよくあります。JCIの認証を取ることで、サイロを壊すことがプロセスとして起きます。認証を受けて、JCIの基準に沿って活動を始めると、「部署の関係なく、一緒に働けるようになった」というコメントをもらいます。
※JCのCEO、Mark R. Chassin氏は、JCI認定のメリットとして、世界の病院を見た調査員のノウハウが入手できる点を指摘する。
――JCIの主な狙いは、コミュニケーションの円滑化でしょうか。
JCI認定の主目的は、組織内での最も重大なリスクの特定の手助けです。例えば、ある病院で、感染症のリスクを下げることを考えます。手洗いの重要性は皆が分かっていますが、手を洗うタスクは、医師、看護師、清掃員、全員がしないといけません。そのルールが実際に機能するためには、全員がゴール達成のために話し合わないといけません。転倒や処方、手術室における感染予防も同様です。JCIにおいては、コミュニケ―ションの重要性を強調しますが、コミュニケーションの円滑化が自己目的になってはいけません。
JCIの「国際的な患者安全性目標」としてリストアップされている例としては、治療や投薬など病院におけるどんな活動であっても、必ず異なる2つのIDで確認することです。簡単なことですが、往々にして実施されていません。IDの種類は、医療機関が選べるようになっています。
――日本におけるJCIの広がりのスピードをどう考えますか。早いですか、遅いですか。
中間ではないかと思います。ただ、(千葉県鴨川市の亀田総合病院が初めて取得した)6年前に比べると、スピードが速くなっていると思います。日本病院学会総会のイベントに今回初めて出席しましたが、約300人が話を聞いて、長時間にわたり、質問も出ました。認知が広まってきていると感じます。また、安倍晋三首相も、ヘルスケアの国際化に言及しています、(2020年の)東京オリンピックをにらんで、国際化を加速させる機が熟しているのではないかと思います。また、既に認証を獲得した病院でも良い結果が出ていて、更新をしない病院がないのも、価値が認められているためだと思います。
――日本では、中小病院が少なくありません。JCIは認定のコストがかかりますし、認定まで大変な過程があります。中小病院にも必要でしょうか。
JCIとしての活動はさまざまで、誰でも参加できる、安全や質を学ぶ教育プログラムがあります。また、小さな病院でも、一度認証を受ければ利点はあり、コストも大病院と比較して、はるかに安い価格です。
JCIの認定に必要な立入調査のコストは、病院規模や、診療活動の複雑性が関係していて、派遣する調査員の数の問題もあり、計算が複雑です。機能が多いほど、さまざまなタイプの調査員を送らないといけません。2014年の調査コストの平均値では、200床から500床の総合病院において4万ドル程度でした。
もう1つ、病院が心配するのは、認証を受けるための準備のコストです。ただ、これも病院の規模が小さかったり、提供する医療サービスが少ないほど、容易になります。
――日本に、現在調査員はいるのでしょうか。いないと、調査コストがまた上がりそうですが。
調査員はいますが、海外から調査員を呼ぶことになり、その分、コストが上乗せされるのは事実です。ただ、派遣の利点としては、国際的な病院をチェックしている調査員が、調査対象病院の基準や要件を調べるだけでなく、彼らが見てきたプラクティスや問題解決策を聞くことができる点があります。
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入院期間短縮に役立つJCI
- Mark R. Chassinに聞く ◆Vol. 2
■医師は、世界的に他職を見下しがち
m3.com 2015年8月20日 医療維新
――日本の医療制度において、JCI認定のネックになるような問題を認識していますか。
全ての国に固有の文化や特徴がある中で、医療の安全や質についての要求は同じで、日本特有の文化の問題にはならないと思います。また、私自身、日本に関わる仕事始めたばかりで、日本の特徴を良く知っているとは言えません。
ただ、日本の制度を見た時、入院期間の長さが1つの問題として存在していて、政府などが、入院期間の短縮に向けて、病院にプレッシャーをかけていると理解しています。
入院期間の短縮は、他の国でも努力してきたことです。その意味で、JCIに関われば、他の国で成功した国際的な事例にアクセスでき、自国に取り込んでいけます。それが、JCIと関わる1つの利点です。
とは言っても、JCIが認定を出している病院は世界64カ国にある中で、文化の違いに注意すべき点があるのは理解しています。JCIの指示や提案、細部に対して1つのやり方を押し付けるのでなく、「転倒を防止しないといけない」という程度で、やり方は組織に考えてもらう方法です。
※Mark R. Chassin氏は、日本における外国人患者の受け入れついて、「難しいかもしれない」と話した。
――JCIとして取り組んだ入院期間を短くする取り組みの実例を教えてください。
例えば入院機関を減らす一つの方法は、入院の日から、いつ退院するかのプランニングを始めることです。特に、高齢者の場合は、退院後に行く先が決まっているのが大事だと思います。削減がうまくいった別の事例は、診断を注意深く実施して、できるだけ入院させずに、外来で診ることでした。他にも、手術をした後、なるべく早く立たせるようにすることや、入院してから検査するのではなく、入院前に検査を済ませることなどが考えられます。
出来高払いとの関係を指摘する声もあるようですが、米国においてはDRG-PPSを導入する前から、入院期間は減少を続けていて、導入後も同様の傾向で減っています。
――総会の講演の中で、「医師は薬剤師や看護師を見下しがち」との指摘がありました。意味を教えてください。
残念ながら、医師が見下しがちな態度を取る傾向は、世界的にあります。ただ、問題は、医師に限った話ではありません。見下しがちな行動というは、相手に対する尊敬を欠いたり、萎縮させるような態度も含まれ、非常に重要なコミュニケーションの機会が失われます。
大事なのは、どの職種の問題であっても、どのような態度が、「見下しがちな態度」なのか特定することです。その上で、どのような行動が望ましいかを規定することが大事になります。
――日本においては、組織のトップのガバナンスの欠如がよく指摘されます。JCIとして、トップのガバナンスについて、どう考えますか。
とても大事で、JCIのマニュアルでは1章を割いて、リーダシップについて言及しています。トップや医師、看護師が全員で共同作業し、組織としてのミッション、実現のための戦略を決めますが、実行のためにはプランを持たないといけません。そのためにトップの果たす役割は大きいです。
――日本における認証機関の数の目標はありますか。
多ければ、多いほど良いと思います。私たちには、認証を希望する全ての病院を、手伝う準備があります。
――世界にとって、日本の医療や医療機関は、受診をしたい魅力的なものでしょうか。
米国以外の病院で、世界から患者が集まるようになった病院のパターンは、主に2つあります。1つは、非常にカスタマーフレンドリーでありながら、低コストで医療を提供するタイプです。日本は低コストのモデルはふさわしくないと思います。
もう1つは、カスタマリーフレンドリーであり、かつ複合癌など非常に専門性の高いケース扱う医療機関で、シンガポールに同様の例がありました。専門性の高さがある一方で、カスタマーフレンドリーであることを考えると、日本においては、文化などを含め、さまざまなバックグラウンドの人が、快適に過ごせる病院を実現する必要がありますが、日本にとっては難しいかもしれません。
――日本の医師にメッセージがありますか。
日本の医師に限った話ではありませんが、認証というプロセスを恐れないでほしいです。JCIは、医師が患者を診るのをより良くするためのものです。認証を受けた医療機関で働く多くの医師が気付くのは、結果として、多くのリソースが、安全や質のために注がれるようになり、仕事が楽になるということです。
現場から考える 安全保障法制
イラク派遣
朝日新聞 2015年8月20日
自衛隊車両を囲んで石を投げる群衆=2005年12月4日、イラク南部ルメイサ、朝日新聞のイラク人助手撮影
■銃声、群衆が陸自包囲
自衛隊初の「戦地派遣」となったイラクで、隊員たちは危険と隣り合わせの活動を強いられた。政府は当時、「一人の犠牲者も出さなかった」と安全性を強調したが、実際は隊員が銃を撃つ判断を迫られるなどの事態が起きていた。
陸上自衛隊が2008年に作った内部文書「イラク復興支援活動行動史」や関係者の証言で明らかになった。新たな安全保障関連法案では活動範囲がより拡大し、危険はさらに高まる。
突然、銃撃音と怒声が響いた。自衛隊が駐留したイラク南部サマワから約30キロ離れた街ルメイサ。活動開始から2年近くになる2005年12月4日、復興支援群長の立花尊顕(たかあき)1佐ら幹部たちはムサンナ県知事らと、修復した養護施設の祝賀式典に参列していた。
発端は、会場のそばで起きた反米指導者サドル師派と、自衛隊を警護していた豪州軍の銃撃戦だった。サドル師派は頻繁に多国籍軍を襲撃し、自衛隊も「占領軍」と敵視した。会場内の陸自幹部たちは「ただ事ではすまない」と青ざめた。
銃撃戦に続き「ノー・ジャパン」などと抗議しながら押し寄せた群衆の渦は、100人前後に膨らんだ。幹部らは建物に閉じ込められ、外で警備にあたっていた十数人の隊員は群衆に包囲された。車両に石を投げつける男、ボンネットに飛び乗って騒ぐ男、銃床で車の窓をたたき割ろうとする男までいた。
「どうすべきかわからず、みんな右往左往していた」と当時の隊員は話す。
群衆の中には銃器をもつ男たちもいた。もし銃口が自分たちに向けられたら――。政府が認めた武器使用基準では、まず警告し、従わなければ射撃も可能だ。
「ここで1発撃てば自衛隊は全滅する」。どの隊員も、1発の警告が全面的な銃撃戦につながる恐怖を覚えた。「撃つより撃たれよう」と覚悟した隊員もいた。結局、地元のイラク人に逃げ道を作ってもらい窮地を脱することができた。
事件は首相官邸にも報告された。当時、官房副長官補だった柳沢協二氏は「もしあそこで撃っていたら銃撃戦になっていた。一番やばい事件だった」と話す。別の官邸幹部も「自衛隊員が引き金に指をあてるところまで行った事件だったと聞いた」。ルメイサ事件は「行動史」にも繰り返し登場する。当時、陸上幕僚長だった森勉氏は「それだけ危険だったからだ」と認める。
こんな記述がある。
「適確に現場の状況を把握しながら冷静に行動した。背景として、類似した状況を反復して訓練した実績があった」
しかし、発端の銃撃戦には触れず、実情とも開きがある。現場にいた隊員は「生の迫力は違う。自分が殺されるかも知れないという緊張感だった」と言う。
陸自は2年半の活動中、ほかにも13回に及ぶロケット弾などの宿営地攻撃、仕掛け爆弾による車両被害などの危険に遭遇した。
■イラク派遣 「非戦闘地域」すら危険
当時の小泉政権は「非戦闘地域の中で、安全な場所に自衛隊を派遣する」と説明していた。だが、一見安全と見える派遣先は、瞬時に惨事の現場となる怖さを秘めていた。
当時の小泉政権は、イラク復興支援特措法で、派遣期間を通じて戦闘が起こる可能性がない「非戦闘地域」という概念を作った。政府は「非戦闘地域の中で安全な場所に派遣する」と説明していた。しかし、陸自は自らの安全確保のため、強力な武器を携行し高度な射撃術を身につけて、最悪の事態に備えていた。
陸自の内部文書「イラク復興支援活動行動史」には、「至近距離射撃と制圧射撃を重点的に練成して、射撃に対する自信を付与した」という記述がある。
自衛隊の射撃に詳しい元幹部によると、至近距離射撃は間近であった不意の襲撃への対処を、制圧射撃は敵対勢力を制止するための組織的な対処を意味するという。いずれもテロリストや暴徒の襲撃を想定した撃ち方だ。北海道で制圧射撃を訓練した警備担当は「襲撃を受けて窮地に陥った時、小銃や機関銃を使って相手の攻撃を制止させ、現場から離脱するのが目的だった」と話す。
自衛隊がとりわけ力を入れたのが至近距離射撃の訓練だ。多国籍軍への襲撃事例を分析し、間近からのテロ襲撃が最も危険と判断したからだ。
ところが派遣が決まった2003年当時、陸自には至近距離射撃と定義された撃ち方はまだなかった。射撃といえば約300メートル先の目標を狙うのが一般的で、10メートルを切るような射撃は射場規則で禁じられていた。指導できる要員も乏しく、特殊部隊の創設準備のため米軍で射撃術を学んだ一部の隊員たちが教官役として駆り出された。精密な照準装置、小銃を素早く操作するための改造など様々な工夫が取り入れられた。
テロリストが相手だと、一瞬の判断の遅れが命取りになる。口頭でまず警告。従わなければ足元に威嚇射撃。次は相手にダメージを与える危害射撃と手順を踏む。一連の動作に要するのはわずか4~5秒だ。
だが大半の隊員が人をかたどった標的を撃つことをためらった。射撃の指導幹部は「迷ったら撃て」と強く促した。「行動史」にも「武器使用に関する部隊長の意識」の項に、「最終的には『危ないと思ったら撃て』との指導をした指揮官が多かった」と記されている。
派遣部隊が備えたのは射撃だけではない。朝日新聞が入手した隊員向けのマニュアル(全84ページ)には「不測事態対処」として、銃撃や自爆テロ、デモ・暴動など10のケース別に「行動原則」を定めていた。
例えば宿営地への自爆テロ攻撃は、最低15メートル以上の距離で「テロか否かを判断」し攻撃と判明した時点で武器使用を認めていた。
当時の武器使用基準の枠内では、自分や周囲にいる人が襲われた際の「自己保存」のためにしか武器を使えなかった。
それでも従来のPKOなどの海外派遣の際にはなかったもので、マニュアル作成に関わった幹部は「憲法9条が許すぎりぎりの限界内だった」としたうえで、こう語った。「政権が『非戦闘地域は安全』と言っても、最悪に備えるのが我々の本務だ」
(谷田邦一)
■安保法案、武器使用の可能性増す
行動史では当時の指揮官がイラク派遣を「本当の軍事作戦」と総括している。行動史や取材からは「非戦闘地域」が実態とかけ離れた虚構だったことがうかがえる。
サマワは、イラクを視察した外務、防衛両省庁の担当者が5カ所ほど挙げた候補地の一つだった。サマワはその中で最も地味だったという。「こんな田舎に行って国際社会に国際貢献をアピールできるのか」。小泉純一郎首相(当時)の秘書官だった小野次郎氏(現参院議員)が疑問を挟むと、小泉氏は「地味でいい。国際貢献ってのは何年間か行って、こちらが無事で相手を傷つけずに帰ってくれば、立派な国際貢献になるんだ」と言ったという。
自衛隊はサマワで、イラク特措法に基づいて、壊れた学校を補修し、住民に水を配った。小野氏は「民間の運送会社や建設会社がやる仕事を、ちょっと危険な場所だから自衛隊に頼む程度だった」と振りかえる。そんなサマワでも宿営地にロケット弾が撃ち込まれることが何度もあった。「ルメイサ事件」では銃撃戦に巻き込まれかけた。
今回の安保法案では、自衛隊が後方支援や平和維持活動ができる地域がイラクに比べ格段に広がる。非戦闘地域という考え方をなくし、法律上「現に戦闘行為が行われている現場」以外ならば活動できるからだ。ただ、活動範囲を非戦闘地域に限ったイラクでさえ、一見安全な場所が突然、惨事の現場に変わりかけた。
さらに他国軍への弾薬の提供が可能になり、海外での武器の使用基準も拡大する。例えば、現在自衛隊がPKOで派遣されている南スーダンでは、幹線道路の整備や大学の敷地造成など土木工事を担っている。安保法案が成立すれば、他国の部隊や民間の非政府組織(NGO)が危険にさらされたとき、武器を持って助けに行く「駆けつけ警護」や、武器を持ってのパトロールや検問も可能になる。「自己保存」のためだけに武器を使ったイラクの場合と比べ、武器を使うおそれは高まる。
安保法案の国会審議では、野党は自衛隊の活動範囲が広がることで「隊員のリスクが増える」と指摘した。これに対し、安倍首相は「装備も整え、訓練を積んでいくことで、自らの努力でリスクは減らせる」と強調している。ただ、過去にPKOを経験した陸自幹部の一人は言う。「どんなに訓練を重ねてもそれだけでリスクを減らせるほど海外派遣は単純ではない。隊員のリスクが拡大することを前提に、政治には真剣に向き合って欲しい」
(今野忍)
◆<自衛隊のイラク派遣> イラク復興支援特別措置法に基づき、2003年12月から09年2月にかけ、陸上自衛官延べ約5600人、航空自衛官延べ約3600人などを派遣した。陸自はイラク南部サマワに宿営地を設け、学校や道路の修復、医療支援などをした。空自はクウェートに拠点を設け、イラクの首都バグダッドなどへ多国籍軍兵士らを空輸する活動を担った。
(谷田邦一)
マイナス成長が明確に示す
経済政策の根本的誤り
DIAMOND online 2015年8月20日 より
野口悠紀雄「新しい経済秩序を求めて」第25回より
全文 http://diamond.jp/articles/-/77030
抄録(最終部分)
■金融緩和と円安に依存する
経済政策を根本から見直すべきだ
?8月14日の閣議に提出された2015年度の経済財政白書は、副題を「四半世紀ぶりの成果と再生する日本経済」とした。
?第1章のタイトルは「景気動向と好循環の進展」だ。ここで、「企業の収益改善が雇用の増加や賃金上昇につながり、それが消費や投資の増加に結び付く『経済の好循環』が着実に回り始めている」と述べている。
?その論拠として、(1)名目総雇用者所得が2013年3月以降、前年比でプラスが続いていること、(2)15年4月以降、実質総雇用者所得が前年比プラスとなっていることを挙げている。
?しかし、(1)について見ると、GDP統計における名目雇用者報酬の対前年比がプラスなのは、10年4~6月期から12年7~9月期においても見られることである。13年1~3月期だけがマイナスになったのだ。
?また、(2)について見ると、GDP統計における実質雇用者報酬の対前年同期比は、10年1~3月期から13年4~6月期まで、プラスである(13年1~12月期にもプラスだ)。これがマイナスになったのは、13年7~9月期と14年1~3月期以降のことである。この中には消費税増税前の期間も含まれていることに注意が必要だ。つまり、実質賃金の対前年比マイナスという現象は、安倍内閣になってから生じている現象なのである。そして、先に見たように、対前期比では、実質雇用者報酬伸び率は15年4~6月期においてマイナスになっている。
?これらを考えれば、「企業の収益改善が……賃金上昇につながり、それが消費の増加に結び付く『経済の好循環』が着実に回り始めている」という白書の主張は、「詭弁だ」としか言いようがない。ましてや、マイナス成長に陥っている現在の日本経済の状態をなぜ「四半世紀ぶりの成果」と言えるのか、理解に苦しむ。
?本来、経済財政白書には、内閣の方針に左右されない客観的で冷静な分析が求められる。近年の白書は、そうした本来の責務を放擲し、内閣の方針の正当化を最優先の目的にしている印象を与える。
老後の医療プラン狂わす
医療保障の「180日ルール」
日経新聞社 2015年8月19日 日経マネー:男の家計改善
塚原 哲
枝葉の節約もいいが、男なら太い幹の「構造」を知り、改善を考えるべし――。労働組合シンクタンクの生活経済研究所長野の事務局長を務める塚原哲氏が、アッパーミドル層の男性を対象に「骨太」の家計改善法を伝授する。15回目は、医療保障で見落としがちな入院期間の「180日ルール」について解説する。
前回は医療保障(保険・共済)を選ぶ際の確認事項として(1)いくら掛け金を払うのか(掛け金総額)(2)いくら受け取れるのか(給付総額)──について解説したが、もう一つ、重要な注意点がある。給付総額を正しく算出する上でも、厳しいルールが存在するのだ。
■同じ入院日数でも給付金額が変わる
同一の原因により再入院する場合、退院の翌日から180日以内の再入院は1入院と見なされてしまう。これを「180日ルール」という。
例えば、同じ病気で4月から60日、9月から50日、1月から40日と短期入院を繰り返した場合を考えてみる(図1)。
「1入院60日、通算最高1000日」という終身医療保障であれば、どの月の入院も1入院60日以内、通算も1000日に到達していないので、全て給付されると考えるのが自然だろう。しかし合計3回の入院は180日ルールにより1入院として見なされてしまう。つまり、給付を受けられるのは初回の60日だけで、2回目、3回目は受け取れなくなるのだ[注1]。
「1入院180日、通算1000日」の終身医療保障も同じルールだが、図1の場合だと1入院は60+50+40=150日なので全てが給付の対象となる。それどころか、もう一度入院してもあと30日分の給付が受けられる。つまり、1入院につき60日型の保障と180日型の保障ではこれほどの差がつくわけだが、残念ながら多くの人は180日ルールを知らないのが実態だ。
[注1]近年は、図中2回目の入院で給付金の支払いがなかった場合、3回目の入院に対する給付を認める医療保障が増えている(1回目の退院翌日から3回目の入院初日まで180日以上空いているため)
■なぜ180日ルールが必要か
180日ルールは嫌がらせのように感じられるかもしれないが、保険でも共済でも理論的には必要なルールと言えよう。なぜなら、「1入院60日、通算1000日」という終身医療保険の加入者が長期にわたって入院する場合、60日を目前に一度退院し、すぐに再入院する行為に対し、何の制限もつけなければ、その都度給付せざるを得ないからだ。このようなカムフラージュが頻発すれば、「1入院当たりの限度日数」という契約自体が意味をなさなくなってしまう。
そこで、一時帰宅によるカムフラージュへの給付を排除するために、同じ病気で再入院する場合の180日ルールが必要になってくる。同じ病気というのは完全に同じ病名に限定されるのではなく、医学上重要な関係があるものも同じ病気と見なされる(表1)。
■異なる病気でも適用される
2回以上入院しても、その原因が別の病気であれば180日ルールは適用されないのが原則だが、残念なことに別の病気でも180日ルールが適用される厳しい商品が登場してきている。具体的には、ライフネット生命保険の終身医療保険「新じぶんへの保険」、メディケア生命保険の「メディフィットA(エース)」、アフラックの「ちゃんと応える医療保険EVER」だ。
180日ルールを必要とする本来の背景とはまるで関係なく、より給付が少なくなる仕組みを導入したにもかかわらず、パンフレットやウェブサイトに目立つように書かれることは少ないのが現状だ。
将来発売される終身医療保険に加入する場合も、契約のしおりや約款できちんと確認しておきたい。「同じ病気による入院は駄目」という趣旨は通常の180日ルール(図2)、「異なる病気でも駄目」という趣旨ならさらに厳しい180日ルールだ(図3、図4)。
誰しも年を重ねると身体機能は低下し、複数の疾病と向き合う高齢者も増えていく。終身医療保障はこれらの加齢に伴う疾病に備えるために加入するのだから、給付の構造を体系立てて理解し、いささかの思い違いもないようにすることが大切だ。
塚原哲(つかはら・さとし)
労働組合シンクタンク「生活経済研究所長野」事務局長、CFP。全国の労働組合を対象に日本中を飛び回り、年200回もの講演を行うほか、「家計の見直しセミナー」もウェブ配信する。趣味はライブ観賞、ピアノ演奏など。
[日経マネー2015年9月号の記事を基に再構成]
本歌取りと著作権侵害は違う!
同列にしてはいけない「天声人語」
2015年8月19日
朝日新聞「天声人語」
「模倣小僧」という芳(かんば)しからぬ呼ばれ方をしたのは、若き十代の寺山修司だった。みずみずしい感性でうたった短歌の数々が脚光を浴びた。多くの目に触れるうちに盗作を非難する声があがった「事件」は、文学史上よく知られる▼〈向日葵(ひまわり)の下に饒舌(じょうぜつ)高きかな人を訪(と)わずば自己なき男〉。これには俳人の中村草田男に〈ひとを訪はずば自己なき男月見草〉の先行作があった。ほかにも多々指摘された。たとえば〈わが天使なるやも知れぬ小雀(こすずめ)を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る〉▼これは西東三鬼(さいとうさんき)の〈わが天使なりやおののく寒雀(かんすずめ)〉に似ていると。批判を浴びて歌人寺山は消えてもおかしくなかったが、そうはならず、歌は今も愛誦(あいしょう)されている。この種の騒ぎの収まり方には実に微妙なものがある▼東京五輪のエンブレム問題はどう収まるのか。盗用との指摘に対してデザイナーの佐野研二郎氏は「事実無根」だと反論する。騒ぎの中で、佐野氏が監修した景品用のバッグにも指摘があり、スタッフが他者の作品を写したことを認めた▼大切なのは、今後エンブレムに「国民の愛着」という生命が吹き込まれるかどうかだろう。著作権などの専門的な判断はともかく、国民が興ざめしてしまっては存在感は薄くなる▼ついでながら、子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏(いちょう)ちるなり建長寺〉を発展させて詠まれたという。触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。
(以上、引用)
ここからが、投稿者の本論。
天声人語は上記のように言っていますが、佐野研二郎氏の盗作が噂されている物をつぶさに見ると、とてもそう呑気には言えない。トレースとか模倣とか言っているが、他者のデザイン(財産)を無断で利用して、自分が大きな利益を得るというのは、著作権法では犯罪である。著作権侵害は財産権の侵害で、親告罪ではあるが刑法で罰せられる。例で挙げている短歌の本歌取りとは同列に扱えないし、パロディーとかいわれるものとは責任の度合いが違う。
そのことが、この著者、おそらく短歌などを愛好していると思われる人には、頭に入っていないようだ。
創作やデザインに関わる人間は、賞や大きな金銭が動くものでは、より慎重であるのが常識です。
事はオリンピック関係のデザインなのだから、中国の遊園地などの著作権侵害の問題を非難したり、笑ったりしている以上に重大な問題となる。
新浪剛史・サントリーHD社長×野中郁次郎
ローソンプロジェクト成功の影に
「失敗の本質」を共有した仲間がいた
DIAMOND online 2015年8月12日
「野中郁次郎のリーダーシップ論 ― 史上最大の決断」第15回
日本軍を組織論から分析した『失敗の本質』の愛読者として知られる新浪剛史・サントリーホールディングス社長。同書から「リーダーは曖昧模糊とした判断をするべきではない」ことを学び、実践してきたという。最近読み直して痛感したのは「旧日本軍的発想が今の日本の企業社会にも残っている」こと。類い稀なるリーダーシップ、その実践力を高く評価する野中氏が、新浪氏の「戦史の読み方、学び方」について聞く特別対談を3回にわたってお届けする。
■ローソンプロジェクトのメンバーは
『成功の本質』を熟読していた
野中?新浪さんは様々なメディアで、『失敗の本質』を座右の書にあげておられ、著者の一人として大変光栄に思っておりました。出版されたのは1984年で、それから31年が経ちましたが、最初にお読みになったのはいつでしょうか。
新浪剛史 サントリーホールディングス社長
新浪?三菱商事に入って3、4年経った頃、出版されてすぐに読みました。当時、食糧・食品本部という部署の若手有志で勉強会をやっており、そのテキストだったんです。
野中?そうでしたか。当時はバブルに向かう時代で、景気は上向きでしたね。そんな時に失敗をテーマにした本書を手に取られたわけですね。
新浪?はい。扱っている題材は日本軍ですが、内容は企業経営に通じる戦略論だと思いました。何より読んでいて面白かった。「成功より失敗から学ぼう」という問題意識が僕らにはありました。
野中?座右の書というからには、それからも折に触れて目を通されたと。
新浪?その通りです。三菱商事は2000年にローソンの株を2割買い、2001年にはダイエーに代わって筆頭株主となります。その前の1999年に、株を買うか買わぬかを決める極秘ミーティングが連日、社内で行われていたのですが、リーダーを中心に多くの人たちが、『失敗の本質』を読んでいたと思います。
野中郁次郎 一橋大学名誉教授
野中?ほう。どんなメンバーだったのでしょうか。
新浪?トップは当時の常務で、その下に食品系の本部長クラス、そして、私を含め課長クラスが何人かいて、ちょうど大将、准将、若手将校といった感じでした。将来に向けたプロジェクトだったので、部長級は呼ばれていませんでした。上下おかまいなく、侃々諤々の議論をほぼ毎日、早朝や深夜に、3、4カ月続けました。私はまだ40歳にもなっておらず、一番年下でしたから、事務局を担当していました。私自身は、ローソンへの出資は大変な困難を伴うと思っていました。
野中?それは意外な話だ。なぜですか。
■戦略目的を曖昧にするな
反面教師としての日本軍
新浪?ローソンの組織文化が三菱商事と大きく異なるように感じられ、それはどうにも変えられないだろうと。それに対して、別のメンバーが「いや変えられる」と言う。そういう議論を延々とやっていました。それを可能にしたのがトップの腹の大きさでした。僕は副官の副官くらいでしたが、ミーティングのトップとも気を使わずに話ができる環境で、ずいぶん議論しました。
野中?最終的にはローソン株を買ったわけですね。
新浪?はい。投資額は、当時、三菱商事始まって以来の大きな金額でした。上が決断した後は、それまでの反対派も賛成派も関係なく、部門の垣根も超えて、ローソンの企業価値を上げようと一致団結しました。
?最初に議論を尽くす。その内容をもとにトップが明確な決断を下し、一糸乱れずに実行する。今考えても、すごい意思決定をしたんだなあと思います。後に僕をローソンに出したことも含め、当時、自分が同じ立場だったら、ああいう決断ができただろうか、できなかっただろうなあ、と考えることがあります。
野中?われわれは日本軍「失敗の本質」の一つに「曖昧な戦略目的」があったと書きました。取り上げた六つの作戦すべてにおいて、日本軍は作戦目的に関する意思統一を図ることができませんでした。ローソンの買収においては、その悪しき構図にはまらずに済んだわけですね。いわば日本軍が反面教師となったわけだ。
新浪?その通りです。私がこの本から学んだ教訓は、リーダーは曖昧模糊とした判断をするべきではない、ということです。その場、その場で明確な判断を下すとともに、その中身を部下にきちんと伝えなければならない。そうしないと、あらゆる組織を必ず襲うパラダイムシフトに対応できません。
?コンビニを取り巻く環境においてもまさにパラダイムシフトが起こっていました。たとえば、女性がより社会に出て働くようになってきたことです。店頭での野菜の品ぞろえを充実させたのも、自然派食品主体の新業態の展開を始めたのも、そうしたパラダイムシフトへの対応策でした。
■企業価値を毀損することはするな
企業価値の最大化だけを考えよ
野中?そうした環境変化に対応できなかった日本軍の姿をわれわれは描いたわけです。陸軍はソ連との戦争だけを念頭に置き、零下30度の北部満州とシベリアで戦うことだけを考えていました。太平洋のジャングルでアメリカ軍と戦うことなど夢想だにしていなかった。片や海軍も、アメリカ軍のような、島を一つひとつ落としていくという長期的発想も持たず、巨艦同士の戦いによる短期決戦だけを考えていました。お互いの意思統一も不完全だった。これでは勝てるわけがありません。
新浪?最初からローソンプロジェクトは短期決戦ではなく長期決戦でいくと決めていました。先ほども言った通り、三菱商事全社の経営資源を利用して、ローソンの企業価値を最大限に上げようとしたのです。
?僕がローソンに移る時、本社のトップからこう言われたのを憶えています。「三菱商事だからといって気を使うな。同じもので安くなければ、他社から購買してもまったく構わない。ローソンの企業価値を毀損するようなことは絶対やるな。何かあったら遠慮なく相談してくれ」と。
野中?いい話だ。
■日本のITを強化するため
属人的統合からの脱却を
新浪?実は最近また『失敗の本質』を読み直しました。痛感しましたね。ここで描かれている旧日本軍的発想が今の日本の企業社会にも残っていると。
野中?ほう、具体的にはどんなことでしょう。
新浪?システムによる統合よりも属人的統合を重視することです。端的にいうと、それがITの弱さになって現われていると思います。日本企業はハードをつくらせたら抜群によいものをつくるけれど、ITになると弱くなる。業務の標準化が徹底せず属人的になり、最後は人に頼ってしまうからです。
?人に頼れば人を整理しづらくなる。人を整理する発想が経営者になくて、情緒的に判断しますから、ますます業務の標準化が進まない。結果、日本独自のITサービスはなかなか育たない。まさしく悪循環です。70年前に日本はアメリカに負けましたが、今またIT分野で敗北を喫しているのは、失敗から学んでその本質が変わっていないからだと思います。
■アメリカ軍が優っていたもの
衆知独裁と機動的人事
野中?太平洋戦争で日本軍がアメリカ軍に負けました。正確にいうと、負けた相手はアメリカ海軍と海兵隊なんです。陸ではなく、空も含めた海での戦いで負けたわけです。
?海軍・海兵隊は1920年代から日本を仮想敵国ととらえ、どう戦えば勝てるかを研究していました。それも当時の若手たちが、三菱商事のローソンプロジェクトのように、自由な議論を行っていました。そうやってまとまったのがオレンジプランです。
?彼らが何に着目したかというと、日本とアメリカを隔てる太平洋が生み出す不確実性でした。その不確実性にうまく対応し、味方につけるにはどうしたらいいか。彼らが出した結論が「水陸両用」という新しい戦い方です。もはや戦艦の時代ではないと見抜き、「動く基地」としての航空母艦の力を最大限に使って、海と空から太平洋の島々を一つひとつ取っていく。島々には飛行場をつくり、最終的にはサイパンから飛び立ったB-29が本土を爆撃する。これで勝負あったということです。
?そこにあったのは、海と陸と空を統合するオープンな議論と、結論が出たら絶対やり抜く姿勢でした。いわば衆知独裁です。ローソンプロジェクトの話と通底するものがありますね。
新浪?どんぴしゃりの話ですね。
野中?もう一つ、アメリカ軍が優れていたのは人事の機動性です。その代表例がテンポラリープロモーションと呼ばれる臨時昇進制度です。ハンモック・ナンバー(海軍兵学校の卒業席次)に象徴される年功序列が最後まで崩れなかった日本軍とは大違いでした。
新浪?私がローソンの社長を仰せつかった時も、人事で年次の逆転がありましたが、私より年次の古い社員一人ひとりとトップが話し、フォローしてくれました。当時、相当な危機感があったのだと思います。三菱商事ではまことに異例の人事でした。その時、ハンモック・ナンバーが維持されていたら、きっと企業価値向上は厳しかったと思います。パラダイムシフトをしていくには、年功序列は障害であったことは間違いありません。
■日本の営業は白兵戦から
機動戦に移行せよ
野中?三菱商事のような伝統的な企業からどうして新浪さんのような革新的な人材が生まれたのか、よくわからなかったのですが、今日のお話を聞いて、初めて腑に落ちました。
新浪?旧日本軍的発想といえば、陸軍の白兵戦思想もいまだ日本企業の間で根深く残っています。特に営業現場がそうです。兵卒と軍曹くらいまでは一糸乱れず強いわけです。そこで兵站は大丈夫か、というと、これが心もとないんです。新しい武器を用意するかといえば、それもありません。
?これだけインターネットが進化しているのに、びっくりするくらい、まだまだ使われていない。そんなものを使うんだったら、もうあと1回余計に、お客さんのところに足を運べと。それは重要ですが、新しい武器がなくては、まさに白兵戦です。これがなかなか改まりません。
野中?海兵隊は第二次世界大戦後、白兵戦から機動戦に移行しています。機動戦とは知恵を駆使して「賢く戦う」、ファイティング・スマートの戦法です。日本の営業もいたずらに靴底をすり減らす白兵戦から、ネットも駆使した知的機動戦に移行すべきなのでしょう。
(構成・文/荻野進介)
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『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』
(中公文庫/戸部良一ほか)
◆amazon読者投稿より
戸部良一、 野中 郁次郎ら6名の共著。
「大東亜戦争における詳作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、
これを現代の組織にとっての教訓、あるいは反面教師として活用すること」
本書の狙いは、ここにある。
日本軍の失敗の本質について、「ノモンハン事件」「ミッドウェー作戦」「ガダルカナル作戦」等、
6つの戦いを取り上げ、「組織としての日本軍が、環境の変化に合わせて、自らの戦略や組織を
主体的に変革することが出来なかった」こと、或いは、「組織内の融和と調和を重視し、
その維持に多大なエネルギーと時間を投入せざを得なかった」とし、
これらによって、組織としての自己革新能力を持つことが出来なかった」と指摘する。
また、自己革新能力について、「自己革新組織の本質は、自己と世界に関する新たな認識枠組みを
作り出すこと、すなわち概念の創造にある。」とし、
「自ら依って立つ概念についての自覚が希薄で、今、行っていることが何なのかということの意味が
分からないままに、失敗を繰り返し、戦略策定を誤った場合でもその誤りを的確に認識出来ず、
責任の所在が不明なままに、フィードバックと反省による知の積み上げが出来ないばかりか、
有害となってしまった知識の棄却さえ出来なくなった」と指摘している。
改めて見直すと、この指摘は多くの企業、団体に当てはまるのではないかと思う。
曖昧な戦略、目的と手段の取り違え、身の回りにもあることだ。
震災、原発、電力不安等、ますます将来が見通せない中で、戦略の重要性を
再認識させてくれた本であった。
◆読者投稿より
この書は、ミッドウェー戦やガダルカナル戦など大戦中の6つのケーススタディーを通して、
日本軍の組織的な敗北に迫るものであるが、本書を通して、読者は奇妙な既視感に陥るだろう。
「そうだ、あの頃と何も変わってはいないではないか」と。
読み進める毎に、吸い込まれつつも、極めて悲観的になってしまった。
読後感として、全体に通じる日本軍の問題は今日の日本全体を覆う問題に直結する。
日本軍の情緒的でまたプロセスを重視し、年功序列型の昇級から来る問題は、今日の日本企業の問題へ、
戦闘において自立性を極度に制限させられた現場と集権的中央の関係は、今日の地方と中央の関係へ、
また日本軍部エリート創出の教育過程における問題性は現在の日本教育の問題に通じている。
組織的には結局、何ら変わらずにここまで来たのかと疑いたくなる…。
例えば、当時日本陸軍の戦略文化としてあった「短期決戦」による「必勝の信念」を疑わない姿勢は、
それが万一失敗した場合のコンティンジェンシープランの作成を拒んだ。
それを作るように進言する声に対して、それは「必勝の信念」を疑う事であり、
消極的で士気を低下させる行為だと言う。ここにあるのは「神話」の絶対性で、それを疑う事を許さない文化だ。
この事は、現在でも形を変えて生じているのだ。最近の問題として、原発行政に同様の問題がある。
原子力安全委員会委員をやっていた武田邦彦氏(現中部大学教授)は、原発を作る際の地震指針の不完全性を
懸念し、念のために周辺住人にヨウ素剤とバイクを配布するように進言した。
しかし「原子力は安全」がタテマエだからそれをやると、「原子力は安全でない」と言う事になるから出来ない
と言われたという。 …同じものを感じるのは私だけだろうか?
本書で最も核心部は「大東亜戦争中一貫して日本軍は学習を怠った組織であった。」(p327)という
「革新的組織」になるべく学習のあり方に関するものだろう。
逆説的だが、日本軍は日清、日露戦争への適応を進めそれに特化してしまった結果、
組織内に多様性を生み出す「緊張」や「変更」を望まない、極めて安定志向の組織のまま
不確実性の高い戦争へ突入して行った事だ。
結果的に、現場からの声や作戦の失敗に対し得られた知識をフィードバッグし、既存の知識を否定し
自己革新が出来ないシステムになり、同じ失敗を何度も繰り返して行った。
この極度の特化から生じる問題は日本の携帯電話のガラパゴス化と同じ種類の問題だ。
日本市場のニーズを極度に追求した結果、世界の流れから取り残される……
日本市場が飽和した後は耐えられないかもしれない。
長期決戦を見越した国際標準化の必要性が叫ばれるところである。
20年以上前にかかれたが、全く古さを感じられないという事は、まさに『失敗の本質』という通り、
日本の閉塞に普遍的に横たわる本質的な「何か」に焦点を当てているからだろう。
近代戦について、本書は言う、「…概念を外国から取り入れること自体に問題があるわけではない。
問題は、そうした概念を十分に咀嚼し、自らのものとするように努めなかったことであり、
さらにそのなかから新しい概念の創造へ向かう方向性が欠けている点にある。」
これは近代戦だけでなく、日本が「輸入」した近代国家を支える民主主義と資本主義の概念にも通じ、
冷戦後の日本の長期停滞を招いている原因だと思う。
大震災以後緊急に、42刷として出版された本書の一読を勧める。