がんで見つけた「ほんとうに大切なもの」

2018年09月03日 16時32分36秒 | 社会・文化・政治・経済
山口 ミルコさん
東京都生まれ。
専修大学文学部英米文学科卒業後、外資系企業を経て、角川書店雑誌編集部へ。
1994年2月1日から2009年3月末まで幻冬舎。
プロデューサー、編集者として、文芸から芸能まで幅広いジャンルの書籍を ...
角川書店、幻冬舎の編集長時代は都心に住み高級外車に乗ってGI値の高い食事を好みハイブランドのスーツを着ていたとか~。
山口さんは函館にも縁のある作家・谷村志穂さんから、後に幻冬舎社長となる見城徹氏を紹介されて角川書店に入社、5年後に見城氏が独立すると同時に幻冬舎に移り、トータル20年にわたり編集者として第一線で活躍。
五木寛之氏の「大河の一滴」など数々のベストセラーを手掛けた。
2009年会社を辞めて間もなく乳癌の告知を受け突然の闘病生活に。

「バブル世代」と呼ばれる自分の、会社人生そのものが「バブル」だったと思えた。

~山口ミルコさんがたどり着いた場所~
山口ミルコさんは、夢を大事にしている。
将来の夢ではない。
眠るときに見る夢である。
たくさん見るようにしている。
平成がはじまる頃、社会に出た。
会社と一体化していたが、正気に戻る。
会社にいた20年が異常事態であり、いっときの熱狂であり、会社人生を終了したいまの状態、こっちの本来の人生なのではないかと。
いったん失ってみると、会社はぶんと遠のいた。
そのぶん会社が見えてくる。
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2009年、すでに体調が悪かったこともあり、大好きだった会社を辞めることになります。
退社と同時に乳がんであることが発覚、闘病生活に入ります。
手術・抗がん剤・放射線と乳がん治療のフルセットを行い、3週間で髪の毛もすべて抜けてしまいます。
しかし3週間で抜けたものは、また3週間で生えてくる、そして体の方が「何とかしなくてはいけない!」と危機を感じ、前よりも強い毛が生えてきたといいます(病気のことは闘病記『毛のない生活』(ミシマ社2012年)に詳しい)。

会社を辞め、治療も終わると東京にいる必要がなくなり、千葉の実家に戻ります。
父親が大阪外国語大学(現在は大阪大学)でロシア語を勉強され、旧ソ連から木材を輸入する商社マンだったため、実家にはロシアやシベリアに関する本があふれていました。
そして「ミルコ」という本名も、ロシア語の“мир=世界・平和”から名付けられたこともあり、父親のロシア土産に囲まれて育った子ども時代を思い出します。
「そうだ、私はロシアだった!」。
そこから山口さんのロシアへの旅が始まります。
ロシア関連の書物に高級毛皮となる小動物・クロテンが多出していることを知り、抗がん剤で自らが毛を失った経験からも強い興味を持ちます。
走るダイヤモンド、やわらかい金とも称され、莫大な富をもたらすクロテンを求め、帝政ロシアは東へ東と進出し、そのためにシベリアまで領土を広げたと言われています。
山口さんはシベリアに追われ、絶滅の危機に瀕しているクロテンに会うため、日本人がほとんど訪れることのないハバロフスク地方の町・ビキンへ旅をし、それまでの様子をノンフィクション『毛の力 ロシア・ファーロードをゆく』(小学館2014年)にまとめます。
病気発覚から8年経った最近、ようやく「がん克服」と言えるようになったそうで、その後もバイカル湖のオリホン島を取材するなど、現在も精力的に執筆活動をするほか、大学の非常勤講師として「編集の現場」の講義を担当しているそうです。
病気を克服し、様々な興味を広げ、パワーあふれる活動をしている山口さんの姿は、多くの人々に勇気を与えることでしょう。


講演会の主催
函館校は、極東国立総合大学の分校として1994年に開校し、2014年に20周年を迎えました。
ロシア語はもちろんロシアの歴史・文化・政治・経済などロシアのスペシャリストの育成を目標に教育を行っています。

原因は国民の無関心にあった

2018年09月03日 15時51分29秒 | 社会・文化・政治・経済
パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels 1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツの文学者、小説家、政治家。
「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握と、政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。
政権下では第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣を務めた。
「宣伝の秘訣は、いかに宣伝らしくなく、相手にそう気づかれないうちに宣伝にどっぷり浸からせてしむことだ」
ユダヤ人大量虐殺。
「すべてを可能にした原因は国民の無関心にあった」
ゲッベルんpタイピスト兼秘書ブルンヒルデ・ポムゼルの回想。
諸君はこの瞬間外国に対して国民を代表しているのだ。私は諸君に10の質問をしたい。

イギリス人は、ドイツ国民は勝利への信念を失ったと主張している。私は諸君に尋ねる。諸君は総統とともに我々とともに、ドイツの武力の最終的な全面的な勝利を信じているか?
聴衆(ヤー!(=イエス))
第二に、イギリス人はドイツ国民が戦いに疲れたと主張している。私は諸君に尋ねる。諸君は総統とともに、勝利が我々の手中に帰するまで、激しい決意をもって、そして迷うことなく、この戦いを続ける用意があるか?
聴衆(ヤー!)
第三にイギリス人は、ドイツ国民がますます増大する戦時労働を引き受ける気はもうないと主張している。私は諸君に尋ねる。諸君とドイツ国民は、もし総統に非常時にそれを命じるならば、10時間、12時間、必要なら日に14時間働く決意を固めているか?
聴衆(ヤー!)
第四にイギリス人は、ドイツ国民は政府の全面的な戦時処置に逆らっていると主張している。ドイツ国民は総力戦を望んではおらず、降伏を欲していると主張している。私は諸君にたずねる。諸君は総力戦を欲するか?諸君は必要ならば我々が今日想像できる以上にラジカルになることを欲するか?
聴衆(ヤー!)
(略)
さて今、私は最後の第十を尋ねる。諸君は、国家社会主義の綱領が規定しているように、他ならぬ戦時においてこそ同じ権利と同じ義務が支配することを、戦争の重荷が貴賎の別なく、貧富の差なく、平等に与えられることを望むか?
聴衆(ヤー!)
私は諸君に10の質問を尋ねた。そして諸君は私に答えをくれた。諸君は国民の一部だ。諸君を通じて国民の意思決定が世界の前に宣言されたのだ!

1943年2月18日、ベルリンのスポーツ宮殿での総力戦演説この演説にはサクラや演出手法等が駆使され、ゲッベルス自身は「自分の演説活動全体の最高成果になるだろう」と考えており、演説後は「巨大な反響」、「全世界に最大の共感」と自画自賛した。演説は1時間以上におよび、演説前から体重が3kgも減少したという[203]。

大戦後期から末期にドイツ軍が

第二次世界大戦の敗戦の直前、ヒトラーの遺書(英語版)によってドイツ国首相に任命されるが、自らの意志でそれに背き、ヒトラーの後を追って家族とともに自殺した。

ゲッベルスは、4歳の時に右下腿部に小児麻痺を患い、手術することとなった。
そのためゲッベルスの発育は著しく遅れ、左右で足の長さが異なり、歩行がやや不自由な身体障害者となった。
ゲッベルスは生涯にわたって整形医療具に萎えた足を包み、それを後ろに引きずるように歩くことを余儀なくされた。
他の子供らが興じていたダンス・スポーツ・遊びにも少年ゲッベルスは一切参加できなかった。
このことは、ゲッベルスの決定的なコンプレックスとなり、彼の人格形成に大きな影響を与えた。
後にゲッベルスは自作の小説『ミヒャエル』の中で自らを投影した主人公ミヒャエル・フォーアマンを通じてこの時の心情をこう告白している。
「他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとする自分の母を嘲笑した」。

「革命には二つの方法がある。機関銃を持つ者には勝てないと敵が認めるまで、敵を掃射し続けるのが一つ。これは安易な方法である。残る一つは精神革命による国家の改造である。この方法なら敵を破壊することなく味方に組み入れることができる。最高の勝利は敵の殲滅ではなく、敵に勝者たる我々の賛歌を歌わせることなのだ」。
ゲッベルスは「19世紀は新聞であったが、20世紀はラジオである」と公言した。
ゲッベルスはラジオによる民衆扇動の重要性を的確に認識していた。
各ラジオメーカーにラジオのフル生産を指示し、外国放送は聞けない「国民ラジオ」を全国28の工場で大量生産させ、安価な76マルクで購入できるようにした。
ゲッベルスは「願わくば我々の情熱の炎が永遠に燃え続けるように。この炎のみが現代の政治的プロパガンダの創造性に富む芸術に光と温もりを与えるのだ。この芸術は国民の心の底より発し、その活力源である国民のもとに常に還元されなければならない。武力による権力も結構だが、国民の心をつかみ、引き付ける方が一層望ましくもあり効果的である」と演説している。
ゲッベルスは「宣伝は精神的認識を伝える必要もなければ、おだやかだったり上品だったりする必要もない。成功に導くのがよい宣伝で、望んだ成功を外してしまうのが悪い宣伝である」
「重要なのは宣伝水準ではなく、それが目的を達することである」とし、その目的は「大衆の獲得」であり、「その目的に役立つなら、どんな手段でもよいのだ」と語っている。
彼は「日々の経験から効果的な手法を学んだ」としているが、彼が述べる宣伝概念にはヒトラーの『我が闘争』からの踏襲が見られる。

よき<出会い>を重ねていく

2018年09月03日 14時28分04秒 | 社会・文化・政治・経済
負けても、「この次は勝利するぞ」「次の機会には一歩成長するぞ」
「倒れてもふたたび立ち上がって進むぞ」との、強き一念を忘れずに進んでいく。
この一念せあれば、決して人生のレースに敗北することはない。
かならず勝利と栄光の人生を飾ることはができる。
よき<出会い>を重ねていく人こそ、最高の人生の輝きを獲得できる幸福者。

ある母親は子どもが生後間もなく強いひきつけを起こし、重度の脳性まひに。
成長しても寝たきりのまま。
豊かな感情表現はできない。
わが子の障害を受け入れるまでに時間がかかった。
価値観を変えてくれたのは、同じ障害児を育てる人々との出会いだった。
喜怒哀楽の感情を、ありのまま表わす子どもたち。
愛情を持って接した分、率直な反応を返してくれる。
そのな障害児と向き合う親たちは、献身を惜しまない<助け合いの精神>にあふれていた。
それまで、かわいそうだと決めつけていた障害者たちが取り巻く環境が<純粋な心>に包まれ素晴らしい世界だと気付かされた。
現在、障害児を持つ親たちとボランティア団体を立ちあげ<心のバリアフリー>を広げる活動を広げる活動をしいている。

関東大震災「朝鮮人殺せ」暴動

2018年09月03日 11時51分10秒 | 社会・文化・政治・経済
関東大震災朝鮮人虐殺事件 とは、大正12年(1923年)の関東大地震によりもたらされた関東大震災の混乱の中で、官憲や民間の自警団などによって多数の朝鮮系日本人及び朝鮮人と誤認された人々が殺害された事件である。
犠牲者の正確な数は不明だが、震災全体の犠牲者の1~数パーセントが殺害によるものと推定されている(すなわち、一千~数千人)。
大正12年(1923年)の関東地方は地震によって壊滅的な被害を受けて民心と社会秩序が酷く混乱に陥った状況下において内務省は戒厳令を宣告し、各地の警察署に治安維持に最善を尽くすことを指示した。
しかし、そのときに内務省が各地の警察署に下達した内容の中で「混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」という内容があった。
この内容は行政機関や新聞、民衆を通して広まり、朝鮮人や、間違われた中国人、内地人であるところの日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した。

なぜ朝鮮人大虐殺へ激化したのか。
東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。
「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。
市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」 下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。
「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。
治安当局は「朝鮮人暴動」の可能性を危惧していたため、混乱の収拾と秩序回復の理由として自警団の殺人行為を袖手傍観し、一部は加担したり助長したりした。
自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉神奈川警察署鶴見分署長のように暴徒への取り締まりならびに死傷者を伴う暴徒との衝突や、横浜の朝鮮人226名を9月23日不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きもあった 。
その後、自警団の行為が公権力を脅威するほどになって治安当局は介入し始めたが、もう多くの朝鮮人や内地人、外国人が殺された後だった。
自警団は朝鮮人を殺害し、密葬した。
日本政府は最終的に噂を公式的に確認したが、加害者の数を縮小したり、一部の自警団員に証拠不十分で無罪を宣告した。
この噂による殺害事件で司法的な責任、または道義的な責任などを負った人や機構は全くなかった。
当時の日本は地震発生以前の朝鮮での三・一運動や、台湾での大規模デモを流血鎮圧した経験から、これら地域の独立運動を行う一部の民衆の抵抗について警戒感を抱いていた。当時植民地として支配していた朝鮮人への無理解と民族的な差別意識も背景として考えられる。
また国内では大正デモクラシーによって労働運動、民権運動、女性運動など、支配権力に対する社会主義者らの抵抗・権利拡大運動の活性化と、それに対抗する保守的勢力の急伸、首相暗殺や恐慌による政治経済への不安から、社会体制が揺らいでいた。

映画監督の黒澤明の自伝『蝦蟇の油―自伝のようなもの』の中では、当時中学二年生であった黒澤の関東大震災時の体験が語られている。
その中に黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸に毒を入れたという目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある。

作家の芥川龍之介はこの自警団に参加し活動をしていた事が分かっているが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。
また、芥川の「大震雑記」(『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の殺害事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている。





誰もが小説らしきものが書けるようになったけれど

2018年09月03日 07時57分50秒 | 社会・文化・政治・経済
小説や詩の表現にはプラスアルファーがある

文学の世界でも以前ならこんな表現をしたら編集者に即はねられるという文章がまかり通って、文学賞の候補作として出てくるようになりました。
言葉が正しく世界を言い当てられる時代が終わったんだと思います。
そこで起きてくるのは、レベルの低下です。
たとえばカラオケで練習すると誰でもそこそこうまく歌えるようになる。
しかし彼らとプロの歌手は違う。
何が違うかは数値化できるものではなく、芸事に対する姿勢であったり、覚悟であったりして、そういうものが声の出し方あるいは情緒とかを作り出し、初めて一人の演歌歌手が誕生するのだと思う。
小説でも、誰でも発言者になれる環境が整い、誰もが小説らしきものが書けるようになったけれど、それと文才や表現能力とは別の話です。
別の話だったはずだけれど、今では職業作家と素人の境目が消えてしまったんです。
なぜなら読者にその境目が分からなくなったから。
つまり、マーケットの側が、プロでも素人でも書いたものが面白ければよくなり、全体のレベルが顕著に下がってきたのが今の時代だと思います。
言葉は物事を言い表わす道具ですが、小説や詩の表現にはプラスアルファーがある。
その行間や雰囲気から、いわく言い難いものを読み取る感性が日本人にはありません。
ダイレクトに言葉が伝える情報だけが受け取られるようになった。
だから、大事なのは何が書かれているか、どんな面白いストーリーがあるかなんですよ。
日本人は感性を失い、ストリー以外のプラスアルファーを読み取れない。
そこは、今のいろんな言語とリンクしている。
数値化できない世界があって、そこに私たちは生きているわけです。
作家 高村薫さん

「しかし・・・」 山内豊徳環境庁長官の自殺

2018年09月03日 07時07分20秒 | 社会・文化・政治・経済
「しかし・・・―ある福祉高級官僚 死への軌跡」是枝裕和映画監督
ドキュメンタリー出身の映画監督として知られ、国内外で高い評価を受ける日本人監督の一人である
しかし... 福祉切り捨ての時代に.水俣病和解訴訟の国側の責任者であった一人の官僚の自殺から、 弱者切り捨ての ...
1990年12月5日、環境庁次期事務次官候補が自ら命を絶った。
彼は水俣病訴訟の国側の責任者として批判の矢面に立たされていた。
厚生省入省以来30年、福祉・環境行政一筋に歩んで来た高級官僚が「福祉切り捨て」の時代に押しつぶされていく―。
ギャラクシー賞作品、渾身のドキュメント。
平成2年12月。環境庁の1人の官僚が自ら命を絶った。
山内豊徳、53歳。
水俣病裁判の国側の責任者として和解拒否の弁明を続けていた企画調整局の局長であった。

作品の中では記憶と想像と観察力のバランスを重視し、「誰かを悪者として描くことをしない」というスタンスを一貫している。
「しかし・・・」の後にの後に山内さんが言いたかったことは何だったのだろうか。
毎日新聞 論説医院 野沢和弘さん

山内 豊徳(やまのうち とよのり、1937年1月9日 ‐ 1990年12月5日)は日本の官僚、元環境庁企画調整局長。
陸軍軍人であった山内豊麿の子として福岡市に生まれる。
幼くして両親は離婚し、9歳の時に父は出征先の上海で戦病死したため、父方の祖父母に育てられた。
15歳の時に骨髄炎に罹り、片足がやや不自由となる。
西南学院中学校、福岡県立修猷館高等学校を経て、1959年、東京大学法学部を卒業し、上級国家公務員試験に99人中2番という成績で厚生省に入省。
厚生省では一貫して福祉畑を歩み、公害対策基本法の制定、日本てんかん協会の設立に関わっている。
その後、厚生省から環境庁へ転出。
1986年9月、官房長、1987年9月、自然保護局長、1990年7月、企画調整局長を歴任し、長良川河口堰問題、石垣島白保空港問題などに取り組んだ。
1990年、水俣病認定訴訟において、国側の担当者となり、被害者側との和解を拒否し続ける立場をとる。
人間としての良心と、求められた官僚としての職責の間で悩み、同年12月5日、自宅で自殺を遂げる。
1995年、村山内閣は水俣病未認定患者に対し、一時金一律260万円に団体加算金を上乗せした和解案を提示、原告側は和解を受け入れた。

心の奥の記憶を作品に

2018年09月03日 06時49分42秒 | 社会・文化・政治・経済
誰にでも、記憶がある。
その人の生きてきた年月の分、見聞きしてきたことの記憶が。
しかし、それはその人だけのものだ。
その人が亡くなってしまえば、その記憶も消えてしまう。
世の中からなくなってしまうのだ。
「むかしこっぷり」
【文化庁メディア芸術祭マンガ部門新人賞】受賞の気鋭が贈る、今昔物語集。
著者 おくやまゆか

気鋭の女流作家が、周囲の人々に取材した「今の昔」のお話を心を込めて描く、身近で遙か遠い、現代綺譚集。
前半はフツーの昔ばなしという感じだが、後半になるとだんだん「深いハナシ」に落ち込んでゆくようできょうみぶかい。
高野文子、こうの史代の系譜をつぐ作風。

個人の心の奥にしまわれていた些細な記憶は、おくやまゆかが聞くことによって記録になる。
ひとりひとりの人の、過ごしてきた膨大な時間の積み重ねによって、その人となった。
10本の短編が収められている。
漫画家 いしかわじゅんさんの評

阪神、拙攻での3連敗にファンが怒号 

2018年09月03日 01時46分21秒 | 社会・文化・政治・経済
3カ月連続の負け越し


警察が駆けつける騒ぎに2018年8月30日 デイリースポーツ
「阪神1-3ヤクルト」(30日、甲子園球場)

 阪神は反撃もあと一歩及ばず、今季5度目の同一カード3連敗。今季ワーストの借金9となった。
0-0で迎えた五回。先発の才木は1死から四球で走者を出すと、続く山中のバントは捕手・梅野の前へ。これを二塁へ送球したが、悪送球となりピンチは広がった。坂口に犠飛を放たれ無安打で先制点を失った。
7回途中、阪神ファンがジェット風船を掲げる中、マウンドを降りる阪神・才木浩人
さらには七回だ。
またしても四球で走者を出すと、2死二塁で、またしても山中だった。二遊間へのヒット性の打球を北條がダイビングキャッチで止めるが、これも送球がそれて失策がついた。
その後、満塁とされ、ここまで抑え込んでいた青木に左前へ適時打を許した。
打線はヤクルトの先発・山中の前に七回まで0行進。
八回、先頭・梅野の二塁打などで1死二塁から、糸原の右前打と右翼・雄平の失策でようやく1点をかえした。
なお、1死満塁と一打逆転のチャンスをつかみながらも、糸井、ナバーロが凡退に倒れた。
五回には1死満塁から、糸原が犠飛には十分の飛距離となるフライを中堅へと打ち上げた。三走・鳥谷はタッチアップし、楽々とホームを陥れたと思われたが、タッチアップで三塁を狙った梅野が中堅・青木からの送球で、鳥谷のホームインよりも早く刺されてタッチアウト。無得点に終わったのも響いた。

 阪神はこれで8月の成績は11勝13敗となり、3カ月連続の負け越しとなった。

今季ワーストの借金「9」となった阪神に、試合終了後の甲子園球場に怒声が響き渡った。
拙攻で競り負け、甲子園に戻ってからヤクルトに3連敗を喫した阪神。
そんなふがいない戦いぶりに苛立ったのか、試合後の一塁側内野席では泥酔した男性が球場職員、警備員に怒鳴り声を浴びせた。

閉門時間で退去を呼びかけても、一向に立ち去らず。
最後は、甲子園署の署員が駆けつけるなど、騒然としていた。
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不甲斐ない阪神1点が遠い

得点圏にランナーを出せず、1点が遠い手痛い敗戦となってしまう。
回ごとにヒットは出ているのだが。
それにしても、投手陣もふがいないが打線もひどい。
野次ではなく怒号も飛び交った甲子園。
阪神2-4ヤクルト メッセ、乱調の2回に泣く。
昨日も野手の情けなさは然ることながら、梅野の積極走塁より、鳥谷の凡走だ。
あれだけ高校球児が素晴らしいプレイをした甲子園で、プロが情けない試合を続けている。
チーム全体を見ても内野ゴロで1塁へタラタラ走る等執念の欠片も、野球に真摯に取り組む姿勢も見えないプレイが非常に目立つように思える。
野手のエラー。
攻撃及び守備でどんだけ野手が才木の足を引っ張った。



「阪神12-3DeNA」

2018年09月03日 01時16分44秒 | 医科・歯科・介護
阪神・青柳、六回3失点も勝利投手の権利得て交代
2018年9月2日 デイリースポーツ

(2日、甲子園球場)
阪神が15安打12得点でDeNAに大勝し、5カードぶりの勝ち越しを決めた。2桁得点は8月4日・ヤクルト戦(京セラドーム)以来、今季8度目。
甲子園球場では今季初となった。
試合は三回、1死一、二塁から福留の適時二塁打で先制。陽川の中犠飛、俊介の3点三塁打で打者一巡、一挙5点を奪った。さらに五回にも俊介が右前適時打。

六回にも1死三塁から遊ゴロで1点を追加。
八回にも中前打を放ち、今季初の猛打賞。
1試合5打点は自己最多記録となった。
北條は8月26日の巨人戦以来、今季7度目の猛打賞。福留は前夜のヤクルト戦から2日連続、今季8度目の猛打賞で大勝に貢献した。

甲子園での連勝は6月7日・オリックス戦~同9日・ロッテ戦以来85日ぶり。
甲子園でのカード勝ち越しは、5月25~27日・巨人戦以来99日ぶりとなった。
3位・巨人に2ゲーム差、2位・ヤクルトには3ゲーム差。
4日からは広島に移動し、首位・広島と3連戦に挑む。
今季ここまで6勝11敗と、分が悪い王者相手に敵地で一矢報いたい。

今季初登板の阪神・青柳が、5回1/3を6安打3失点。勝利投手の権利を持って降板した。
初回、いきなり連打で1死一、三塁のピンチを招く。だが、続く筒香を直球で空振り三振に斬ると、ソトも三ゴロに抑えて波に乗った。
三回には味方が打者一巡の猛攻で5点を先制。
大量援護を背に四、五回と無失点で切り抜けた。

今季は春季キャンプ途中に2軍降格。なかなかチャンスが巡らない中、2軍戦では6連勝中で、8勝2敗と好成績を残し、先発を勝ち取った。
六回、先頭の宮崎に四球を与え、ソトに3ランを被弾。ここで交代が告げられたが、それでも3点のリードを守って降板。昨年8月19日・中日戦(ナゴヤドーム)以来、379日ぶりとなる勝利投手の権利を持って降板となった。
「今季初登板だったので立ち上がりは少し緊張はありましたが、初回のピンチを抑えてからは落ち着いて自分の投球ができました。点を取ってもらい、良いリズムで投げることができていただけに、イニング途中で降板してしまった6回の投球が悔やまれます」
青柳は六回途中で降板したが、以降を桑原、望月、岩崎と小刻みにつなぎ、安定感光るリリーフ陣でリードを守り抜いた。