心を育てるものは心

2018年09月26日 22時21分00秒 | 医科・歯科・介護
自分に負けない人が、最後に栄冠をつかむ。

心を育てるものは心である。

思いやりを形にする。

寝たきりの人の排泄を極力、おもつではなくトイレに誘導する。
すると、一人、二人と元気を取り戻し、車椅子での移動や歩ける人が増え、笑顔で過ごしてもらえるようになった。
まさに「人間性の尊厳を取り戻した」と確信できた。
福祉法人小田原福祉会時田純会長

ボランティア意識の広がりの意義

2018年09月26日 22時02分27秒 | 社会・文化・政治・経済
ボランティア活動が広がっている。
欧州は日常生活の一部に
<草の根>の自発性が重要に
今の地域社会では人と人とのつながりが希薄化している。
その隙間を埋め、人々の絆を深めていく対策が大事だ。
「助けてあげる」という<上から目線>ではなく、「人ごとではない、自分のこと」と受け止めるボランティア意識の広がりの意義は大きい。
神奈川県立保健福祉大学名誉教授・顧問の山崎美貴子さん

盲導犬の贈呈 夢みるこども基金

2018年09月26日 13時50分21秒 | 夢みるこども基金
社会福祉活動


盲導犬「はっくん3号」

夢みるこども基金が、九州盲導犬協会への盲導犬の寄贈を始めたのは、平成14年の春に開催された「こども会議」で福祉について話し合い、夏のイベントでは「バリアフリーの社会を作ろう」のテーマでシンポジウムを催し、九州盲導犬協会への盲導犬贈呈を決めたことにさかのぼります。
基金は、これまでに3頭の盲導犬を寄贈しています。「はっくん1号」(平成14年に寄贈)と「はっくん2号」(平成19年に寄贈)は引退して「はっくん3号」が福岡市内の河口まき子さんのパートナーとして活躍しています。
なお、「はっくん」は夢みるこども基金のイメージキャラクターです。こどもの「夢」と歯の型から生まれました。盲導犬の愛称もここから名付けられました。
環境保護活動
地球環境の悪化で地球の危機が指摘されています。
基金では地球を守るために様々な活動をしています。平成22年に林野庁から佐賀県脊振山系の国有林5.6ヘクタールを借りて「夢みるこども基金の森」を開設、基金以外のこどもたちも含めて多くの人たちに自然体験を楽しんでもらっています。

環境保護活動
夢みるこども基金の森

基金の森は、2010年にできました。
5・6haの森林内は、ほとんど人の手が入らずに、自然のままの植生が残っています。
今では、夏のイベントの目玉の一つです。イベントの前夜祭は必ずここであります。
イベントに参加したこどもたちが、夏休みなどで基金の森へ訪れたという話も、最近はよく聞くようになりました。
森の中で、こどもたちは秘密基地をつくったり、自然観測をしたりします。森にはこどもたちの笑い声が響きます。
森の中でこどもたちが夢中になって楽しんでいる姿をみていると自然に笑顔が広がります。
海外教育支援活動
平成12年にバングラデシュ・カラムディ村に「夢みるこども基金学校」を開設しました。
小学校からスタートしてその後、中学校と高校を増設して現在1,300人を超える児童・生徒が学んでいます。
バングラデシュ国内では学業、スポーツなども有力校に成長し、入学希望者が多いです。

海外教育支援活動
夢みるこども基金学校

基金の資金援助によって建設・開校したバングラデシュ「夢みるこども基金学校」は設立から15年がたちました。
児童、生徒数も増加し、現在1,300人余りのこどもたちが学んでいます。学業成績もすばらしく、スポーツや文化的なコンクール(歌や踊り、弁論大会など)でも多くの賞を獲得しています。
県内だけでなく県外からも注目を浴び、入学希望者が殺到しています。
この学校からバングラデシュの新しい国づくりの人材が生まれることが期待されています。

夢みるこども基金とは

2018年09月26日 13時48分39秒 | 夢みるこども基金
歯科医院などから提供される歯の金属冠を財源に次世代を担うこどもたちの夢を育み、実現を支援することを目的に1995年に設立されました。
第1回「夢みるこどもキャンペーン」では阪神・淡路大震災で両親を亡くしたこどもたちを熊本県阿蘇に招いて励ましました。その後の「夢みるこどもキャンペーン」を通して、バングラデシュでの「夢みるこども基金学校」の建設と運営、バリアフリーの社会を作ろうシンポジウムの開催、盲導犬の贈呈、「夢みるこども基金の森(佐賀)」の開設などの様々な活動を展開しています 。

夢みるこどもキャンペーン

毎年、秋から冬にかけて全国の小、中学生を対象に「わたしのかなえたい夢」をテーマに作文と絵を募集します。
審査を経て春休みに、上位入賞者が福岡に集い、「こども会議」を開きます。
「こども会議」では、こども達がそれぞれの「夢」を交換した上で、早期に実現したい共通の「夢」を形づくります。
夏休み、全員が一同に再会してその「夢の実現イベント」を開きます。
これらの体験を踏まえ、夢みる子どもたちはその後、各自それぞれの夢を肉づけしていきます。

夢や希望があるからこそ人は頑張れる

2018年09月26日 13時47分16秒 | 夢みるこども基金
夢みるこども基金理事 長尾 怜美 夢みるこども基金OB・OG会会長 歯科医師

 『1995年に始まった夢みるこども基金は、皆様方のご支援のおかげで、2015年に20周年を迎えることができました。
この間、たくさんのこどもたちの夢が生まれ、絆が生まれました。私も基金に夢をもらった一人です。

 第一回の作文の部で最優秀賞を頂き、私が作文に託した夢を夏のイベントにて実現して頂いたときの感動は今でも覚えています。
そして、後にこのイベントが全国の歯科医師の皆様の御支援によって支えられていたことを知って感銘を受け、私が歯科医師を目指すきっかけとなりました。

 この基金は春に「私がかなえたい夢」の絵・作文の入賞者が集まり、皆で夏のイベントの内容を決めて、夏にイベントを行います。春に初めて会ったこどもたちは互いに緊張した面持ちですが、「こども会議」で夏のイベントを決める時は皆キラキラした笑顔でたくさんの提案を出してくれます。「自分の夢が現実になるかも」という期待感で溢れているこどもたちの顔は本当に生き生きとしています。そして、帰り際にはすっかり仲良くなったり、また夏での再会を約束し、夏のイベントの2日間は仲間と「夢」を作るというどんなものにも代えがたい貴重な体験をし、強い絆を生み出します。日本にはたくさんの絵・作文のコンクールがありますが、こうして2回も同じメンバーが同じ場所に集い、互いに作文や絵に描いた夢を語り合う---他ではない醍醐味でしょう。そしてこの経験がこども達の可能性をもっと広げ、また新たな未来へと進んで行く原動力になっていると実感します。

 今年は阿蘇を震源地とする熊本大地震が起きました。
こども基金の第一回イベントは阿蘇で開催されて、私たちにとって阿蘇は心の故郷ともいうべき大切な場所です。ショックを受けている最中、すぐさま連絡が入りました。第一回イベントで出会い、一緒に阿蘇にホームスティをした阪神・淡路大震災の遺児の方からでした。九州地方に住む私たちへの気遣いと、阿蘇でホームスティをしたご家族の安否を気遣う連絡でした。遺児の方が「私たちも21年前、温かく迎え入れてもらった。自分にできることをしたい」とおっしゃってくれました。その後、阿蘇のご家族とも無事連絡が取れ、互いに物資支援などを行いました。他の基金のOB・OGからも連絡が来るなど、基金が生み出した人とのつながりの温かさや有り難みを感じました。復興にはまだまだ時間がかかりますが、またあの素晴らしい阿蘇の地を取り戻せるよう私たちも全力で支援していきたいと思っています。

 夢みる心はこどもだけのものではありません。夢や希望があるからこそ人は頑張れるのです。
震災からも這い上がれるのです。明るい未来への希望が私たちを奮い立たせてくれます。
私も歯科医師として自分の新たな夢の実現のため精進する毎日です。今は歯科を通じてこどもたちの夢を応援したいという気持ちから小児歯科専門医を目指して奮闘しています。
夢みるこども基金は20年という節目を迎え、新たなスタートをきりました。

 この夢みるこども基金を通して、こどもたちが夢を諦めない力を育てて欲しいと願っています。
そしてこれからもずっとこどもたちの夢を応援していきたいと思います。全国の歯科医師の皆様を始め、教育関係の皆様など基金へのご理解とご協力をよろしくお願い致します。そして是非一度イベントへ足を御運び頂ければ光栄です。

歯の治療の際に取り外された金属冠を再生

2018年09月26日 13時45分37秒 | 夢みるこども基金
夢みるこども基金理事長 八尋 晋策 元読売新聞西部本社論説委員 経済部長

子どもの夢を応援して下さい!

 『夢みるこども基金』は、こどもたちに夢を見る事の楽しさと、それが実現した時の喜びを味わってもらうためのボランティア団体です。

 1995年(平成7年)に福岡市に事務局を置き、歯科医師を中心に多くの人たちの賛同を得てスタートし、今年で22年になります。
こどもたちの夢は無限で、そして様々です。基金が毎年実施している「私のかなえたい夢」と題する作文・絵の募集には全国の小、中学校から多い年は4,000点を超える募集があります。
これらの夢を形にして夏休みにイベントを実施しています。毎年、趣向を変えて国内ばかりではなく、海外も視野に入れて取り組んで参りました。
第1回目は阪神淡路大震災の翌年でしたので、震災で両親を亡くしたこどもたちを熊本県阿蘇高原に招いて交流、励ましました。

 2回目以降は、バングラデシュに学校(初めは小学校だけでスタートし、のちに中学、高校も増設)を建てたり、盲導犬を贈呈したり、佐賀県・背振山系に国有林を借りて「夢みるこども基金の森」を開設したり、さらには東日本大震災被災地のこどもたちを支援したりしてきました。

 このキャンペーンの財源は、歯科医院や歯科大学などから提供される、歯の治療の際に取り外された金属冠を再生したものです。
歯科医師のご協力がなければ基金は成り立ちません。基金設立時から毎年欠かさず、金属冠を送って頂く方が多数いらっしゃいます。
こどもたちはそのような方々に見守られてキャンペーンの中で成長し、現在、社会の第一線で活躍している人が増えてきました。
基金の運営・管理に当たる理事会メンバーも16人中4人がそうした"元夢みるこどもたち"です。
この基金の最終目標である「こどもたちのための、こどもたちによる基金」に向けて発展して行くために皆様の一層のご協力をお願い致します

振り込め詐欺に通じるもとがある

2018年09月26日 13時28分53秒 | 社会・文化・政治・経済
社会に違和感を覚えた若者が、精神的な価値を求めてオウム真理教に集まったとされている。
今日、「ネット掲示板にあふれる憂さ晴らしのような書き込み」。
オウム教団の野田成人元幹部(51)は、サイバー空間で吹き荒れる無差別的攻撃に「不気味さを感じる」という。
「教団の事件当時より満たされない思いを抱いている人は多いのかもしれない」と危惧している。
サイバー攻撃は、「振り込め詐欺に通じるもとがあるのを感じた。相手の顔は見えない。無差別攻撃なら加害者という感覚も薄められる」セックハック365の北村拓也さん(26)は危機感を抱く。


2018年4月1日 - 国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)は2017年にナショナルサイバートレーニングセンターを立ち上げ、「SecHack365(セックハック 365: 若手セキュリティイノベーター育成プログラム)」の実施を発表した。

創作欄 真田と千代 4)

2018年09月26日 11時51分58秒 | 創作欄
2013年12 月 6日 (金曜日)

千代は母が亡くなった時、遺品を整理した。
その中に桐の箱に入った金杯を見つけた。
「戦没者叙勲記念」と書かれていた。
千代の父親はアジアの南方で戦死していて、それが唯一の生きた証であった。
母と父の結婚生活はわずか2年。
その金杯を貴金属店で鑑定したみたら、ほとんど価値のないものであった。
母が誇りにしていた「お国にから頂い金杯」はそのようなものであったのだ。
終戦後まだ若かった母は再婚できたが、独身を貫き一人娘の千代を育てた。
真田は千代からそのようなことを聞かされ、切ない気持ちになる。
「お国のために・・・」 満蒙開拓団満蒙開拓移民は、満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された。
中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。
日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。
満蒙開拓青少年義勇軍は15歳~19歳の若者で編成された。
千代の母親の弟も15歳で満州に渡って命を落としている。
母親の長兄は教師の立場から教え子たちを送り込む立場にいた。
生き残って日本へ戻ってきた教え子は誰も居なかった。
長兄は罪悪感にとらわれ、戦後は教師を辞め農業に身を転じた。
真田と母親の長兄が偶然、同じ師範学校出身学校であった。
真田も戦後、教師に戻ることはなく闇市で無頼の徒に身を落とした。
教え子たちに言っていた「お国のために」が不遜であったのだ。
戦場では「天皇陛下万歳」と叫んで、「万歳突撃」で戦友のほとんどが無為な死を遂げた。 「戦争は、無謀だったのね」千代は真田から「万歳突撃」の実態を聞かされた。
「戦後、何度も戦場が夢に出てきて、うなされた。それを紛らわすため酒を無茶飲みし、賭博にものめり込んだ。ヒロポンもやった」
「ヒロポン?」
「ヒロポンは覚せい剤なんだ。一時的に疲労や倦怠感を除き、活力が増大に錯覚させられた。それで中毒になった奴もいた」
もはや戦後とは言えないが、戦争の傷が完全に癒えたわけではなかった。
1970年安保に多くの国民は距離を置いたが、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。
1970年安保は1960年安保に比べると反対運動はあまり盛り上がらず、世論も、安保延長は妥当という見方が強まっていたため、大規模な闘争にはならず収束した。
還暦を迎え真田の戦後も終わったのである。
「60歳になったのね。お祝いをしなけば」と千代は言った。
「そんなものよしてくれ」と真田は苦笑した。
60歳まで生きてこられたことが奇跡のようにも思われた。
千代はバーの経営を続けていた。
「私には水商売が合っているの」
「そうかい。好きなようにしればいい」真田は千代を束縛するつもりはない。
女子大生であった竹内雅美は都市銀行に就職した。
時どき同僚たちと飲みに来て、店でカラオケを歌っているそうだ。
真田は千代と一緒に暮らし初めてから、店へ顔を出していない。

http://www.youtube.com/watch?v=m0u0yzJ5y-g  

http://www.youtube.com/watch?v=8OjDIq5uyi8

2013年12 月 3日 (火曜日)
創作欄 真田と千代 3)
「恋や愛に理屈はない―と誰かが言っていたけど、私が真田さんに、男として惹かれたのは理屈じゃないの」千代が言う。
「一緒に暮らそうか?」真田はホテルのベッドから身を起こしながら手枕をしている千代を見詰めた。
千代は左手を出して、「起こして」というので、真田はその手を握り引き寄せた。
「そうね。考えておくわ」 千代は女子大生の竹内雅美と自由が丘の一軒屋に暮らしていたので即答を避けた。
真田は原宿の分譲マンションで暮らしていた。
これまでずっと一人で暮らしてきた真田であったが、家で待ってくれる人がいることを欲する気持ちになっていた。
「俺も家庭の温もりや安堵を求めていたのか?」自分の気持ちの変化にむしろ驚いた。
真田は何時も誰かを好きになっていたい、という質の男であったが、好きになった女と暮らそうとは思っていなかった。
「会いたければ会いにいけばいい」と割り切っていた。
また、去って行く女を追いかける気持ちもなかった。
もし、戦争がなかったら、妻子と平凡に暮らしていただろう。
真田は何時の間にか、東京大空襲で失った妻子の夢を見なくなっていた。
それなのに、父母や兄弟たちの夢は見ていた。
夢の中の自分は旧制の中学生の姿のままである。
夢の中には初恋の人も出て来た。
相手はお寺の女の子で内気であった。
当時の女の子は着物姿であり、いかにも立ち居振る舞いがおっとりとしていた。
可憐で繊細であり大和撫子というイメージである。
初恋の子の姫木園子は出会うとうつむいて顔を赤らめていた。
真田が長い髪の女に好意を寄せるのは、初恋の女の子の思い出が原型になっていたと思われる。
里山の一本の田舎道にたたずみ、真田を帰りを待っていた少女の姿が夢に何度も出てきた。 「最近、真田さんの夢を見る」と千代は言っていたが、真田の夢は不思議と日本の戦前の原風景のなかで展開された。

創作欄 徹の青春 1

2018年09月26日 11時23分26秒 | 創作欄
2012年3 月 7日 (水曜日)

高校生の徹は、ある大学の芸術学部を目指していた。
映画界や芸能界にその大学の出身者が多く名を連ねていた。
また、その大学の芸術学部の出身者には、いわゆるマスコミ関係者も多い。
徹が住む材木町の近所に住んでいた先輩の一人がその大学に合格し、帰郷した時に大学の話を誇らしげにしたのを徹は羨望の目で聞いた。
徹は群馬県の沼田の高校生であった。
高校生の徹は将来に夢を抱き、映画や絵画に興味をもち多感だった。
沼田城址で度々、1年後輩の彼女とデートを重ねながら、未来に夢を馳せていた。
その日、秋の夕陽は徐々に傾き子持山に隠れようとしていた。
紅葉した桜の葉が風に舞っていたのを、徹が見詰めていた。
沼田城の石垣だけが、いにしえの名残を留めていた。
「私のこと将来、お嫁さにしてくれる?」
握りしめていた加奈子の手に力がこもった。
徹は加奈子の体を再三求めていたが、それまで拒絶されていた。
徹は同級生たちから性の体験を聞かされていたので、実体験を欲していたのだ。
だが、人生には何が起きるか分からないものだ。
このことは、徹に実に暗い影を落としたが、後で徹の美登里宛の手紙の形式で記す予定だ。
17歳の徹には、14歳の妹が居た。
昭和20年、父が硫黄島で戦死して、母は戦後に父の弟と再婚した。
そして妹の君江が生まれた。
妹は徹のことを子どもの頃からとても慕っていた。
徹が嫌がっていたが、妹が一緒に風呂に入りたがっていたし、寝床にも潜り込んできた。
それは、妹が初潮を迎えてからも続いていた。
「お前は、女の子なんだ。もう、一緒に風呂へ入るのはよそうな」
ある日、囲炉裏傍で徹は、炭を足しながら言った。
突き放された君江は、悲しそうに徹を見つめていた。
鍋の煮物から香ばしい匂いが漂っていた。
当時、母は僅かな田で米を収穫したり、畑に色々野菜を栽培いた。
また、蚕も育ており、それが我が家の収入源となっていた。
2012年3 月 8日 (木曜日)
創作欄 徹の青春 2
徹は義父から尾瀬沼のことを聞かされていた。
明治23年(1890年) 平野長蔵が、沼尻に小屋を設置した、これが尾瀬開山の年とされる。
そして、 昭和13年(1938年)日光国立公園特別地域に指定された。
昭和31年(1956年 )国指定天然記念物になり、ブームが起こったが、尾瀬沼は、徹の父の世代は観光地ではなかった。
「お前の親父さんと、俺と沼田中学の先輩と3人で、尾瀬沼へ行ったことがあるんだ。バスなんか当時はないから、尾瀬沼まで沼田から歩いていった」義父は囲炉裏端で煙草のキセルを吹かしながら誇らしげに語った。
「印象に残っているんだが、ともかく熊笹が多かったな」
義父の話に妹の君江が目を輝かせた。
「私、尾瀬沼へ行ってみたいな。兄ちゃん行こう」
君江は何時も囲炉裏端で、兄の徹に寄り添っていた。
そして甘えるように膝を密着させてきた。
徹はその膝の感触に戸惑う。
義父の話で初めて分かったのであるは、沼田中学の先輩は偶然にも加奈子の父親であった。
徹の父は硫黄で戦死し、加奈子の父親はガダルカナル島で戦死していた。
二人は旧制沼田中学の同期生であったのだ。
加奈子は父親が戦死した翌年の昭和20年3月に生まれた。
徹の同級生たちには、父親が戦死し母子家庭に育った生徒たちが少なくなく、それぞれが憂いを秘めたように寡黙であった。
徹が加奈子に心が惹かれたのは、その寡黙さと下向きな感情であった。
徹が高校生の2年の6月、加奈子と妹の君江と3人で尾瀬沼へ行く。
中学生の時、授業で「日本の植物学の父」といわれた牧野 富太郎の存在を知った。
牧野は多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。
長蔵小屋の名で知れる平野長蔵は、日本最高の植物学者である牧野富太郎が駒草の花を大量に採ってきたとき怒鳴り叱ったとされる。
あの日、徹たち3人は、長蔵小屋に泊まった。
2012年3 月 9日 (金曜日)
創作欄 徹の青春 3
バスが老神温泉を過ぎたころ、「あ、順子だ」と声を発して加奈子が立ち上がって、左側の前の席へ向かった。
声を掛けられて、お下げ髪を結った少女が振り向いた。
顔立ちが加奈子に似ていた。
「今日、帰ってきたん?」
つり革につかまりながら、加奈子が笑顔で問いかけた。
少女はうなずくが、笑顔を見せなかった。
「お母さん、もう、ダメだって・・・」
少女は深く頭を垂れた。
「おばさんが?」
少女は顔を上げずにうなずいた。
つり革から手を離した加奈子は、口に右手をあてがい涙ぐんだ。
そして、加奈子は席へ戻ってきて、「私、次のバス亭で降りていい」と徹に聞く。
「何故?」徹は驚いて聞く。
「おばさんが、死にそうなの」
徹は言葉を失った。
妹の君江は座席にもたれて寝ていた。
加奈子は少女の席へ向かった。
だが、意外な反応が起きた。
「ダメ! おかさんは、誰にも会いたくないて言っているの!」
少女の声は甲高くなった。
加奈子は絶句した。
死を迎えた人が、「誰にも会いたくない」ということがあるのだろうか?
だが、少女の母親は骨肉腫の手術で顔面を大きく損傷していたのだ。
少女は次のバス亭でボストンバックを抱えて降りていった。
バス停には、少女の4人の妹や弟が待っていた。
「あの人は、誰なの?」徹は背後を振り返って聞いた。
左右に田圃が広がる1本道であり、バスの窓から少女たちの姿がいつまでも見えた。
「私の従妹なの。中学を卒業して、東京の大田区の町工場で働いているの」
加奈子に聞くとこころによると少女の父親も戦死し、母親に育てられていた。
その母親も、徹の母のように再婚していた。
3人の楽しいはずの尾瀬沼行きに暗い影を落とした。
2012年3 月10日 (土曜日)
創作欄 徹の青春 4
バスは沼田から老神温泉~鎌田~戸倉を経て鳩待峠に到着した。
鳩待峠(はとまちとうげ)は、群馬県利根郡片品村にある峠である。
尾瀬ケ原や尾瀬沼に行くには山を超えて向かう道程がある。
旧制沼田中学の学生であった徹の父と加奈子父のたちが、熊笹を分け入って行ったとされる登山道を辿るのである。
「父たちも昔、この道を行ったのね。胸がとても高鳴る」
加奈子は足をとめて群生した熊笹を見つめた。
脇を歩いていた徹の妹の君江は、「加奈子さんは、鳩胸だね」と言った。
14歳の君江は、自分の薄い胸を意識しながら、16歳の加奈子の豊かな胸に眼をやった。
セーラー服ではそれほど目立たなかったが、黄色のセーターを着た加奈子の胸に徹は改めて目を留めた。
君江と加奈子は同じようなポニーテールであり、ニットの帽子をかぶっていた。
君江の帽子は水色で、加奈子の帽子は紺色であった。
啄木鳥がブナ林の中で鳴いていた。
3人は自然を満喫し、深呼吸をしながら一歩また一歩と山道に足を運んだ。
原生林には、立ち枯れの木もあり、自然の姿に圧倒され、癒され、穏やかな血流が体にしみわたっていくようであった。
太古の昔からの自然の営みを想った。
自然に朽ちていく樹木もあれば、雷に打たれた木もあるだろう。
「戦死した父たちの分をも生きたい」
徹が鳥の声に耳を傾けていると、加奈子が独り言のよう呟いた。
バスの中で偶然出会った加奈子の従妹も父を戦争で亡くしていた。
「僕らは、特別の世代かもしれないね」
17歳の徹を含め、父親を戦争で失った世代がまさに青春を迎えているのだ。
君江は母が徹の父の弟と再婚して、戦後に生まれたのであった。
鳩待峠から山の鼻に至る山道ではミズナラの木が見られた。
どれくらい歩いたのだろうか?
3人はあいにく腕時計を持っていなかった。
尾瀬ヶ原の入口・山ノ鼻に到着した。
6月の尾瀬は水芭蕉などが咲き誇って、凄くキレイであった。

2012年3 月11日 (日曜日)
創作欄 徹の青春 5
徹は、詩人・小説家の室生犀星の抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩句に出会って、室生犀星に興味を持った。
そして、『性に目覚める頃』も本屋で買って読んだ。
その小説は、寺の子として育った青少年の「性」の目覚めと葛藤を描いた作品である。
作家の実体験をもとに書かれていた。
そして犀星が幼少の頃に過ごしたとされる雨宝院が登場する。
徹は犀星と同じような「性」の目覚めと葛藤を覚えていた。
たぎるほどの性への衝動とそれを抑制するために、常に葛藤もしていた。
小説には作家・室生犀星の赤裸々な実体験が書かれており、その体験の赤裸々さはそのまま徹にも色濃く投影されたのだ。
だから、妹の君江と加奈子の3人で尾瀬へハイキングに行くことにした。
加奈子と二人きりになったら、徹は性の衝動を自制することが出来ないと自分を怪しんだのだ。
思春期の男の子のように、女の子も「性」に目覚め、葛藤することがあるのだろうか?
徹は度々想ってみた。
話は前後するが、1956年に売春防止法が制定され、1958年4月1日から完全施行された。
それは徹が中学校3年になった14歳の時であり、近隣の高校生までが、いわゆる売春宿が廃業する前に、駆け込み的に性の体験を求めて売春婦を求めて沼田にもあった色街へ行ったのだ。
そして、19歳の徹の従兄の浩までが売春宿へ足を運んで、性の体験談を自慢話として徹たち中学生に聞かせていた。
みんなが固唾を呑んで、その体験談を聞いていた。
「お前たち、まだ中学生で残念なことをしたな」
従兄の浩はタバコを吹かしながら、みんなの顔をニヤニヤしながら見回した。
17歳になった徹は、16歳の加奈子の体を求めたが拒絶されていた。
「結婚前は、ダメ」
その時の加奈子の表情は、言い知れぬ悲しい表情をしながらポニーテールの頭を振った。
それが1960年(昭和35年)ころの高校生の女の子の普通の貞操観念であった。
貞操観念とは、異性関係について純潔を守ろうという考えのことを指す表現。
2012年3 月12日 (月曜日)
創作欄 徹の青春 6
尾瀬は果てしなく広がる湿原地帯だった。
そこから3人の尾瀬沼一周ハイキングのコースが始まった。
尾瀬を訪れる観光客や登山客たち全員湿原の草の上を歩いたら貴重な植物は失われてしまうだろう。
環境保全のため、歩いて良いのは湿原の上に作られた木の板の歩道のみであった。
木道を歩みながら加奈子と君江が「夏の思い出」を歌った。
「加奈子さん、歌がうまい」
先頭を歩く君江が感嘆して振りかえった。
徹は加奈子が歌うのを始めて聞いた。
徹はラジオ世代で育ったので、声にはとても敏感である。
1952年(昭和27年)、NHK連続ラジオドラマ『君の名は』が放送開始された。
徹が9歳の頃であったが、番組の冒頭で「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」という来宮良子のナレーションが流れ、「忘却とは忘れ去ることなり」は流行語にもなった。
そして、主人公の氏家真知子役の阿里道子の美しく可憐な声は今も徹の耳に残っている。
徹は改めて加奈子の甘美な声に魅せられた。
徹の母親は、戦死した夫の思い出を重ねるようにして、ラジオドラマに耳を傾けながら、涙を流していた。
戦争の最中空襲で男女が偶然に出会い、その後は運命に翻弄されるドラマは、戦後まだ7年が経過した歳月の中であり、国民の多くの人たちの心を揺さぶるドラマとなった。
思えばラジオから流れる声が人々の想像を駆り立てるように、加奈子の美しい歌声は徹の胸に深く響いた。
水芭蕉は満開で丁度見頃であり、尾瀬は気持のよい至福の時間であった。
「きれいね」と君江がかがんで水芭蕉を眺めた。
澄んだ水を湛える尾瀬沼に至仏山が映じていた。
あるいは、時々小川のせせらぎの音がかすかに聞こえてきたので、加奈子は耳を傾けるように立ちどまった。
悠久の歴史を秘める尾瀬は、特有の貴重な植物群落が見られ昭和31年に天然記念物に、徹たちが尾瀬を訪れた昭和35年には特別天然記念物に指定された。
尾瀬沼が見える手前に分岐があった。
この分岐で右回りか左回りかを決定する。
ここから沼の折り返しとされる沼尻休憩所まで、右回りの場合約3kmで1時間要し、左回りは約4kmで1時間20分。
この分岐で左に行く人が多かったのでそれに付いて、3人は長蔵小屋のある方向へ行った。
尾瀬ヶ原には、相対するように二つの山が有る。
至仏山(2,228m)と燧ケ岳(2、346m)だ。
両山とも深田久弥の日本百名山に選定されている。
歩き始めてから1時間ほどで3人は長蔵小屋のある休憩所に到着した。
長蔵小屋は昭和9年に建築されたが、こば板葺きの屋根や黒光りする木の廊下など、落ち着いた風情が漂っていた。
徹が確認したら収容人員は約300人であった。
3人は長蔵小屋に泊まることにした。
2012年3 月13日 (火曜日)
創作欄 徹の青春 7
「私たちの罪ね」
加奈子は肩を激しく震わせて、徹の腕の中で豊かな胸を当てて泣いた。
沼田城址の桜の木立で競うように蝉が鳴いていた。
陽は子持山に隠れようとしており、時折遠雷が聞こえ風は激しく木立を揺らした。
徹は人影を感じていたが、加奈子を強く抱き寄せて加奈子の唇を吸った。
加奈子はポニーテールの頭を振るようにして、徹の口を避けた。
徹は欲情を抑えらないので、激しい息遣いのなかで再び加奈子の頭を両手で押さえて顔を強引に引き寄せた。
「ヤメテ、今日はダメ!」加奈子は激しく身を捩った。
徹は加奈子の女心を理解していなかった。
話は前後するが、尾瀬のハイキングで長蔵小屋に泊った日、徹は加奈子の豊かな胸を弄った。
妹の君江が隣で寝息を立てていた。
加奈子は、しばらく徹の手をそのままにしていたが、「もう、ヤメテ」と強く手を払った。
「おばさんが、死にそうなの。それを考えると私寝られないの」
加奈子は徹に背を向けて、咽び泣いた。
徹は身を起して、「悪かったね」と加奈子の背向かって声をかけた。
人生には、何が起こるかわからないものだ。
尾瀬のハイキングから、2か月が過ぎていた。
沼田の祇園祭は全国各地の祇園祭の例に見られるように、京都の八坂神社祇園祭に端を発している。
沼田祇園祭を「おぎょん」と呼んでいた。
加奈子と君江を誘って徹は「おぎょん」へ行く。
加奈子の浴衣姿は豊かな胸を一層際立たせていて、徹は欲情を駆り立てられた。

「おぎょん」と呼ばれた沼田祇園祭は、8月3・4・5日の3日間開かれていた。
“蚕すんだら沼田のまつりつれていくから辛抱おしよ”と唄われていた。
勇壮豪快な御輿が並んで街を練り歩くが、優美華麗な山車運行が祭りの主役でもある。
この山車のことを「まんどう」と呼ぶのも沼田の独特である。
その日も200軒を越える露店が集まっていた。
群馬県沼田の夏祭りは、この「沼田まつり・おぎょん」で終止符を打ち、『おぎょん』を境にして農家は農繁期に入るのである。




夢みるこども基金だより№23号

2018年09月26日 07時41分53秒 | 夢みるこども基金
☆夢みるこども基金事務局よりお知らせです☆
 夢みるこども基金だより№23号を平成30年9月14日付で発行しました。
今年の夏のイベント「耳の不自由な人のために聴導犬を育てたい」などを中心に、今年の活動状況をまとめています。
 多くの方々のご協力を得て、これからもこども達の夢のキャンペーンを広げていきたいと思います。
 基金だよりをご希望の方は、基金事務局へご連絡ください。

"競輪女子"が急増中!!

2018年09月26日 06時54分56秒 | 未来予測研究会の掲示板
今女性の間で密かにブームになっている競輪の魅力とは?
20代~40代の女性の間で密かなブームになっている"競輪"
競輪全盛期から比べ人気は低迷し、廃れたギャンブルという認識を持たれがちだが、意外や意外。
今競輪選手の応援や競輪場でのイベントに参加するべく足しげく通う"競輪女子"が急増中!!
今競輪界で何が起こっているのかを徹底解明しちゃいます!!

競輪選手の魅力


鍛え上げた自分自身の肉体で勝負できること. 競輪は、自転車に乗って競争する競技です。
そして、その自転車は自分の足でこぎます。
自分の肉体だけが原動力です。
鍛え上げた肉体を駆使して自転車をこぎ、その速さを競うところが、競輪の一番の魅力 でしょう。
実際、高校や大学の自転車競技部で活躍した選手はもちろん、種目は違っても、高校、大学でスポーツ選手として活躍した肉体自慢が、競輪選手になっています。
恵まれた肉体を鍛え、鍛え上げた肉体でお金を稼ぐことが、競輪選手にとっては大きな魅力になっ ...
競輪の魅力. 競輪は、協力しながら駆け引きするライン戦に注目. 風の抵抗、体力の消耗、さまざまな要因を考慮した高度な戦略がぶつかります。
前半が頭脳戦、後半が総力戦のレース展開. 位置取りによる読み合い、ラストスパートの全力疾走。
レースに潜む二面性に注目します。
独特な自転車とそのスピード性能. 競輪専用の自転車「 レーサー」の特徴を紹介します。 選手のランク分けにより、実力が伯仲してレースの興奮度がアップ. 6つのグレードに分けられた、同ランク同士のエキサイティングな戦いが見られます。

競輪って純粋に面白い!その魅力と楽しさに迫る - もぐもぐめんぼうの ...
あなたは、 競輪やったことありますか? 一昔前は、直接会場へ行ったり、サテライトへ行ったりしなければ買えませんでしたが(厳密には、電話投票があった)、最近ではネットが進化してやろうと思えば、誰でもどこででもできるようになりましたね。 こんなに身近になった競輪ですが、実は売上が落ちています。 1991年度は1兆9553億円売上がありましたが、2013年度には6063億円まで減少しているんですね。 しかし、競輪が嫌われ ...
ライン戦

鍛え抜かれた選手たちが乗る自転車のスピードは、時速70km/hを超えることもあります。
その分空気抵抗の影響が大きく、そのまま走っていては体力を消耗してしまいます。
そこで誰かの後ろに入って空気抵抗を抑えようとします。
でもただ個人で空気抵抗を抑えるだけだと、レースに勝てなくなってしまいます。
そこで考えられたのが数名の選手たちが隊列を組んで協力しながら走る方法がラインです。

同じ地元同士や仲の良い県同士などでラインを組んだりして、
他のラインの選手をブロックしたり、仲間の空気抵抗を減らしたりして走ります。
競輪選手

競輪は全力でペダルを踏み、物凄いスピードの中ぶつかり合う事が日常茶飯事です。
競輪選手たちは肉体を鍛え上げ、極限のスピードを追求して接触にも耐えなければなりません。
特に太ももの鍛え方は尋常ではなく、中には片方だけで74cmもの太ももを持つ選手がいるほどです。



競輪選手の精神力

競輪選手にケガはつきものと言われ、どうしても大怪我などのアクシデントやトラブルにあってしまいます。そのような逆境を乗り越えてバンクに帰ってくる選手たちの精神力は、鍛え上げられた肉体以上に凄いかもしれません。

自転車

競輪で使われる自転車は『レーサー』といい、ブレーキも変速機もありません。ギアが固定されていて空回りしないようになっています。
極限のスピードを追求するために余計なものはすべて取り払ってあります。
一般的な自転車が約18kgに対してレーサーは約7kgまで軽量化してあります。



、底辺で張りめぐらされていると自負している」(p.243)、と。しかし一方で「私は自分自身のことを人間失格だと思っている」(p.5)とも書いている。

親兄弟との縁が薄くなっているばかりか、社会の構成単位である家庭をすら満足に築くことができなかった。その原因の大半は、私の生活に依っているが、博打好きだったという点も、わずかばかり影響しているだろう。  (p.5)

かなり控えめに書かれているが、「わずかばかり」の影響では、なかっただろう。
色川武大の、弟との確執を描いた小説を思い出す。
ギャンブルから得た<人生観>とは、どのようなものだったのだろうか。白川は大学生の頃から、こじんまりとした人間にはなるまい、その輪を精一杯拡げて生きてみようとしていた。その限界で得られるもの・体験こそがその人物の値打ちであると思っていたのではないか。そんな体験を基にして作家になった。作家の価値観は<人間失格>の価値観を包み込む。そんな価値観の下に目いっぱい拡げられた、厚みのある<人生観>がある、ということだろう。白川の作品にはそんな安定感がある。

白川は競輪ファンの成長過程を4段階に分けている。
第1段階 選手も競輪の理屈もほとんどわからないのに、ただギャンブルとしての競輪をおもしろがっている。
第2段階 選手の名前や戦法、競輪の理屈などがわかってきて、自己流の車券戦術がたてられるようになる。
第3段階 競輪の奥深さを知ると同時に、怖さも知る。ファンを続けるか、キッパリ足を洗うかの正念場を迎える。
第4段階 感情の抑制もできるようになり、負けても翌日まで引きずることがなくなる。

第3段階はかなりの個人差があるのではないだろうか。ギャンブルで失敗して自殺した人や転落して自堕落になって消えた人も多い。第4段階までたどり着けていない。また深みにはまりこまないように自重して、浅瀬を迂回した人も多い。白川は、自分は今第4段階にいると書いているが、深みをしのいで渡り第4段階にまでたどり着けているのは、幸運と才能に恵まれていたからだろう。

第4段階は、別の言い方では、こんな風に書かれている。

つまるところ、私がギャンブルをやっているのは、自分自身の今、を確かめたくてやっているようなもの、と言えなくもない。  (p.244)

寺山修司もこのようなことを書いていたが、寺山(または寺山ワールドの登場人物)の場合には中心にギャンブルがあるわけではないことの反映である。しかし深みをしのいで渡って第4段階にたどり着いた人も、ギャンブルがもはや中心ではなくなっているのでは、ないだろうか。

白川はこの本の終わりで、競輪引退の決意を述べている。
その理由として、本業(*作家のこと)の都合上、経済的な理由、その他いろいろある、と。記憶力が落ち、体力の衰えがもっとも大きな理由だったのではないだろうか。衰えとともに見えてくる人生の終末。中心はそちらへ移っていったのではないだろうか。


阿佐田の勧める買い方をまとめると、つぎのようになるだろうか。
①レースパターンを抽出・分類し、配当の妙があるパターンを見つけること
②「見」が大事であること
③勝つときは大きく勝つこと

①は阿佐田自身の経験に基づいている。「一定の買い方をしていると、通算してプラスになる」レースパターンのことで、阿佐田はそんなパターンを18種類くらいもっていて、楽にプラスになっていた。
ただ、これは20年くらい前の話で(『競輪教科書』が平成元年に出版されているから、昭和40年代の半ば頃か)、当時もすでに「自力屋」が台頭してきていて、レースパターンを複雑にしていたが、現在ではさらに増加してきている。
したがってチャンスパターンはさらに少なくなっているか、信頼度が下がってきているのではないだろうか。

ただ問題は、そんなチャンスパターンを見つけ出そうと、レースをいろいろに分析し、分類してしまう傾向(あえて資質といわない)である。そこには勝つためにギャンブルをやる、ということが身にしみついていた。

対極にいるのが寺山修司で、彼の賭けは、自分の運勢を占うためであった(実際の競馬コラムでは、けっこう本命馬を押さえたりしているようだが)。
この言い方はかなり奥が深く、儲けようと思ってやっているうちに、負けがこむと、そうとしか思えなくなる、そんな相対化のトゲをもっていた。

②「見」は毎レース買って、しだいに資金を減らしていくギャンブル愛好家と真に勝つためにやる人とを分ける分水嶺というか溝のようなものである。また、③とも関係している。

『競輪教科書(バイブル)』に、弟子入りしてきた<プリ夫>に最初に教えたのが「見」であった。

「ただ、見ているだけですか」
「面白くないだろう。仕事が面白いというのが、まずいけない。面白くないことをしなくちゃ、仕事にならない」
「今まで、ずいぶん見てきましたが」
「生意気いっちゃいけない。まず、見(ケン)が第一歩。見はギャンブルの予備運動。力士が四股をふむようなものだ」  (『競輪教科書』p.10)

必勝本の類は世にたくさんあるが、この教科書がまさしくバイブルであるゆえんである。「見」は精神修養にもなっている。