▼人類の変革と発展という壮大なビジョンを掲げる。
▼民衆に英知と希望の光を送る。
▼民衆へのたゆまぬ貢献。
▼たゆまぬ正義のための戦いによって、献身的で倦むことを知らぬ闘争によって、世界を造りかえることが可能だ―ブラジルの教育学者・パウロ・フレイ
▼教育は知識の詰め込みではなく、この世界を人々と共に見つめ「他者と手をたずさえ」、そして「希望と共に闘う」ことによって、「人間としての尊厳」を勝ち光らせていく営みにある。
▼青年のエンパワーメント(内発的な力の開花)は、民衆への奉仕の実践のなかで、深くなし遂げられる。
▼多様性の尊重から生まれる価値創造力-多様性なくして、多様な視点もない。
多様な視点なくしては、卓越した発展もない。
▼対話によって共に学ぶ喜びがある。
対話は人間の存在の根幹にある希求である。
▼教育は、一方な知識の伝達ではなく、対話によって学び合う知恵の啓発である。
▼人間教育の神髄の喜びは、互いに尊厳なる生命を敬い、共に語らい、学び合う中にこそある。
▼信念を貫き、そして高みを目指すのだ!
忽那賢志感染症専門医
12/8(水) 9:03
新型コロナウイルス感染症の流行が始まって2年が経過しようとしています。
見つかったきっかけは2019年12月末に中国・武漢市の海鮮市場での集団感染事例でしたが、2019年12月上旬にはすでに感染者が発生していたことが分かっています。
この新型コロナウイルスはいつ、どこから広がっていったのか、現時点で分かっていることについてまとめました。
武漢では海鮮市場での流行前に感染者が発生していた
武漢市での新型コロナウイルス流行初期の対応(doi: 10.1056/NEJMoa2001316.)
新型コロナウイルスは2019年12月に武漢市で見つかり、世界に広がっていきました。原因不明とされた肺炎の最初の罹患者が発症したのは、2019年12月8日とされています。
武漢で流行が認知された当初は海鮮市場に関連する症例が多かったということで、ここで売られていた野生動物が感染源であり、それを介してヒトに感染するようになったのではないかという推測もありました。
しかし、この海鮮市場とは全く関連がない症例が2019年12月上旬の時点で複数報告されており、この海鮮市場から新型コロナウイルスが発生したというわけではなく、現在はいわゆる「海鮮市場クラスター」だったのだろうと考えられています。
では、世界最初の新型コロナウイルス感染事例はいつ、どこで発生していたのでしょうか?
新型コロナウイルスは患者の便中からも検出されることが分かっており、排水からウイルスを検出することで地域における流行を早期に検知できるのではないかと考えられています。
イタリアでは、2019年12月にミラノとトリノから収集された排水から新型コロナウイルスが検出されたと報告されており、この時期にすでにイタリア国内で新型コロナウイルスの感染者がいたことが示唆されます。
また、フランスでも2019年12月当時に原因不明だった肺炎症例の保存してあった鼻咽頭拭い液の検体を調べたところ新型コロナウイルスが検出されたという症例報告が出ています。
また、2019年12月から2020年1月までの間にアメリカで献血をした人の血液を調べたところ、1.4%の血液検体で新型コロナウイルスの抗体が陽性であり、最も早い時期で2019年12月13日から12月16日までに採取された人の血液からも見つかったという報告もあります。
こうした研究結果からは、アメリカやヨーロッパでは2019年の時点で新型コロナウイルスの感染者が存在した可能性があると言えそうです。
新型コロナウイルスの起源は?
SARS、MERS、新型コロナウイルス感染症の宿主動物、感染者数、致死率の比較(筆者作成)
新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は名前の通りコロナウイルス科に属するウイルスであり、ベータ・コロナウイルスという仲間になります。
2003年に中国から世界へと広がったSARS(重症急性呼吸器症候群)の原因ウイルスであるSARSコロナウイルス(SARS-CoV)、そして2012年にサウジアラビアで見つかったMERS(中東呼吸器症候群)の原因ウイルスであるMERSコロナウイルス(MERS-CoV)も同じベータ・コロナウイルスの仲間であり、この2つはどちらもコウモリが持っているウイルスであることが分かっています。
SARSが流行する前は、コウモリがコロナウイルスの宿主であることは知られていませんでしたが、その後、この15年間で少なくとも30種類以上のコロナウイルスがコウモリを宿主としていることが判明しています。
コウモリは持続的な飛行が可能な唯一の哺乳類と言われており、このため保有するウイルスを拡散しやすいとされます。
活動性の高い動物であるコウモリから、中間宿主となる他の動物(SARSでのハクビシン、MERSでのヒトコブラクダ)にウイルスが伝播したり、あるいは偶発的に直接ヒトに感染することもあります(洞窟探検などでコウモリに曝露して狂犬病に感染する事例など)。
新型コロナウイルスに最も近いウイルスとその特徴(国家情報会議「Updated Assessment on COVID-19 Origins」より)
現時点で、新型コロナウイルスを保有するコウモリは見つかっていませんが、新型コロナウイルスに最も近いウイルス「RaTG13」は見つかっています。
RaTG13は、武漢ウイルス研究所の石正麗 Zheng-Li Shi氏らがNature誌で報告したウイルスであり、中国雲南省のコウモリから見つかったものであると書かれています。
このRaTG13は、2013年に雲南省の鉱山のコウモリから見つかったものであり、興味深いことに2012年にはこの鉱山で6人が原因不明の肺炎に感染し3人が亡くなったという事例がありますが、この6名の肺炎の症状が新型コロナに似ていると指摘する報告があります。
この武漢ウイルス研究所はコウモリの持つコロナウイルスとSARSコロナウイルスとの合成ウイルスを作ってヒトの細胞への感染性を評価する、といった機能獲得研究と呼ばれる研究もしており、さらには、武漢ウイルス研究所はバイオセーフティーレベル(BSL)4の基準をクリアした中国で初めての研究機関でしたが、安全性や管理に問題があることがアメリカから指摘されていたとも言われています。
これらを関連付けて、今回の新型コロナウイルスの起源は武漢ウイルス研究所ではないかとする説は、今もなお根強く残っています。
こうした疑念は、SARSの流行時に中国政府が重要な公衆衛生データを隠蔽していたこともあり、なかなか振り払われていません。
では、アメリカが疑っている武漢ウイルス研究所から新型コロナウイルスが漏れ出たという説はどれくらい信憑性があるのでしょうか。
つまり、武漢ウイルス研究所の研究者が新型コロナウイルスに感染し、他の人に広めてしまったことがパンデミックのきっかけとなった可能性はあるのでしょうか?
アメリカの国家情報会議の調査によると、現時点では新型コロナウイルスが研究室などから漏れ出たと断定する根拠はなく、コウモリなどの動物から人に自然感染したという説と同様に仮説の一つである、とされています(ちなみにこの調査では新型コロナウイルスがバイオテロのために開発されたウイルスである可能性はないという結論に達しています)。
流行開始から2年が経過しましたが、新型コロナウイルスの起源がいつ明らかになるのか(あるいは永遠にならないのか)、調査の行方を見守りたいと思います。
求められる研究機関の厳格な管理
日本における病原微生物のリスクグループ分類(筆者作成)
新型コロナウイルスの起源がどこであったとしても、今回の調査を通じてラボリーク(研究室からのウイルスの漏出)が原因で世界的なパンデミックが起こり得る可能性があることが広く認識されるようになり、こうした研究機関におけるウイルスの取り扱いに関して注目が集まっています。
実際に、過去には北京のウイルス研究所でSARSコロナウイルスを取り扱っていた研究者の間で感染が広がったという事例もあります。
感染症に関する研究を行う施設では、扱うことのできる病原微生物の種類に応じて「バイオセーフティーレベル(BSL)」が指定されています。
例えば、リスクグループ3の病原体を取り扱うことができるのは、BSL3以上の施設だけとなっています。
特に危険なウイルスを扱う研究機関については、BSL4として厳しい基準が設けられていますが、世界でもBSL4に指定されている施設は先進国を中心に数えられるほどしかなく、日本では国立感染症研究所・村山庁舎と理化学研究所・筑波研究所の2つが指定されています(加えて長崎大学感染症共同研究拠点が建設中)。
しかし、前述の武漢ウイルス研究所におけるコロナウイルスの研究はBSL4でもBSL3でもなくBSL2の研究室で行われていたと言われています。
現時点では、各国の研究施設の監視についてはそれぞれの国に任されていますが、ラボリークから世界規模のパンデミックが起こり得るということを考えれば、こうした研究機関の監査についてはその国だけに任せるのではなく、国からも独立した国際的な公的機関が行い結果を公表するような新たな仕組み作りが必要になるのではないでしょうか。
今回の新型コロナウイルスのパンデミックを機に、こうした研究機関における病原体の取り扱いのあり方についても議論が行われることを期待します。
また、私たちにできることとしては、こうした議論が密室で行われることなく、オープンな場で行われていることを見守り続けることではないかと思います。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】
参考文献
1. Maxmen A, Mallapaty S. The COVID lab-leak hypothesis: what scientists do and don't know. Nature. 2021;594(7863):313-315. doi:10.1038/d41586-021-01529-3
2. Thacker PD. The covid-19 lab leak hypothesis: did the media fall victim to a misinformation campaign?BMJ. 2021;374:n1656. Published 2021 Jul 8. doi:10.1136/bmj.n1656
3. The Office of the Director of National Intelligence (ODNI). Declassified Assessment on COVID-19 Origins.
忽那賢志
感染症専門医
感染症専門医。国立国際医療研究センターを経て、2021年7月より大阪大学医学部 感染制御学。感染症全般を専門とするが、特に新興感染症や新型コロナウイルス感染症に関連した臨床・研究に携わっている。『専門医が教える 新型コロナ・感染症の本当の話』発売中ッ!
※記事は個人としての発信であり、組織の意見を代表するものではありません。本ブログに関する問い合わせ先:kutsuna@hp-infect.med.osaka-u.ac.jp
昨日は、霞ケ浦の知人が自家製のレンコンを宅急便で送ってくれた。
毎年のことで、気遣いがありがたい。
天ぷらで食べるのもよし!
取手ウェルネスプラザで午前10時30分から開かれる「カラオケ大会」に知人から誘われたが、パスする。
とことが、「午後2時から地元の歌手も出るから、来ない?」と誘われる。
3時からは、歌手の北川裕二がゲストで出演すると言う。
雨が降っているが、結局、行くことにした。
太平洋戦争の開戦から80年を迎えた。旧日本軍による米ハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で戦端が開かれ、4年後、米軍による広島と長崎への原爆投下で終戦に至った。
戦火はアジア全体に広がり、犠牲者は日本人310万人、アジアでは2000万人を超えた。
開戦前夜、日米の国力の差は明らかで持久戦には耐えられないとの分析がいくつもあったという。
なぜ無謀な戦争に走ったのか。軍部の暴走、政治の機能不全、外交の失敗、メディアの扇動。さまざまな要因が重なって負の連鎖に陥ったのが実相だろう。敗戦の教訓を今に生かす必要がある。
「一撃講和論」という陥穽
2017.08.15 現代ビジネス
「独白録」「実録」から聖断を再考する
栗原 俊雄 プロフィール
一撃講和論 天皇はこれを退けた。すなわち、
〈今一度戦果を挙げなければ粛軍の実現は困難である旨の御感想を漏らされる。〉
この部分には『実録』の編集意図がすけてみえる。
そのまま読めば、天皇は単に陸軍の人事断行を拒否した、ととれる。しかし『独白録』には「近衛は極端な悲観論で、戦を直ぐ止めた方が良いと云ふ意見を述べた。私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当でないと答へた」とある。
確認しておくべきは、天皇が近衛による提案・即時停戦を拒否した、ということである。
天皇が言うのはいわゆる「一撃講和論」だ。劣勢は承知しながら、どこかで連合国軍に打撃を与えて、その戦果を持って和平に持ち込む、という構想だ。
この構想に従って沖縄戦が行われた。
一撃どころか、沖縄では県民を巻き込んだ地上戦となり被害を拡散させてしまったことは、歴史が証明している。その後米軍に占領され今日に至るまでの基地問題を内包させてしまったことも、「一撃講和論」による負の遺産だ。
貴族政治家が何を言おうが言うまいが、マリアナが落ちた時点で敗戦は必至だった。この時点で戦争の終結に進むべきだったのだ。
「聖断」を下した本当の意図
さて前述のごとく8月10日、日本政府は「聖断」によって「ポツダム宣言」受諾を決めた。これを受けて12日、昭和天皇は皇族を招いて受諾を伝えた。『実録』をみよう。
〈午後三時二十分、御文庫附属室に宣仁親王・崇仁親王・恒憲王・邦壽王・朝融王・守正王・春仁王・鳩彦王・稔彦王・盛厚王・恒德王・李王垠・李鍵公をお召しになり、現下の情況、並びに去る十日の御前会議の最後に自らポツダム宣言受諾の決心を下したこと、及びその理由につき御説明になる。守正王は皇族を代表し、一致協力して聖旨を補翼し奉るべき旨を奉答する。終わって、一同と茶菓を共にされ、種々御会話になる〉
『実録』には、この席で交わされた肉声が記されていない。しかし『独白録』にはある。
「十二日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた」
戦争を続けたら被害はさらに拡大する。天皇はその可能性を理解していた。だからこそ、「宣言」の受諾を決断したのだ。それでも「国体護持」が保障されない限り戦争を続けるという。『独白録』を信じる限り、それが天皇の意思表示だった。
天皇としてはもはや停戦の意志は固かったが、あくまで強硬派の皇族をなだめ停戦への流れを加速させるために「国体護持」優先を語った可能性もある。どう解釈するかはみる者の歴史観と知識次第ではあるが、いずれにしてもこの発言を記憶した上で、「聖断」の意味を考えるべきではある。
1945年8月の「聖断」によって、最悪の事態を回避できた。他方で「聖断」に至るまでに被害をもっと少なくできたのではないか、という疑問も残る。
「結果が分かった現在の立場で、当時の為政者たちの判断を云々すべきではない」というむきもあるだろう。しかし筆者はそう思わない。そういう我々も、我々が選挙で選んだ為政者がミスをして国益を大きく損なったとしたら、後世の人たちから、「あの時代の有権者はダメだったな」と批判されるだろう。
歴史は常に「後出しじゃんけん」で判断されるものだ。そうすることによって、現代人は過去から学ぶことができるのだから。
二度にわたる御前会議
仲介役をしてくれるはずのソ連が強盗だったことが分かった日本の為政者たちは、ようやく終戦に向けて本格的に動き出した。
軍部は「宣言」を受け入れる条件として、
○「国体」護持
○連合国軍による占領の拒否
○撤兵と武装解除は自主的に行うこと
○戦争責任者の処分は日本側がすること
を挙げた。しかし東郷茂徳外相は、「国体護持」以外の条件を付けることに反対した。
9日午後2時半に閣議が始まり長々と続いたが、結論は出ない。午後10時、鈴木貫太郎首相は上奏するため休憩を宣言した。天皇に議論の現状を伝え、判断=「聖断」を仰ぐ、という判断だった。「聖断」実現のために鈴木は根回しをしていたとみられる。
このため8月11日午前零時3分、御文庫附属室で最高戦争指導会議が開かれ天皇が臨席した。「御前会議」だ。
出席者は最高戦争指導会議の6構成員である鈴木首相、米内光政海相、阿南陸相・東郷外相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長と幹事役の吉積正雄陸軍省軍務局長、保科善四郎海軍省軍務局長、池田純久綜合計画局長官、迫水久常内閣書記官長。また平沼騏一郎枢密院議長が参加し、さらに蓮沼蕃侍従武官長が陪席した。
東郷案と、三条件にこだわる阿南案が対立して結論がでなかった。そこで議長の鈴木首相が昭和天皇に判断を仰いだところ、天皇は東郷案を採用。1回目の「聖断」である。10日午前2時30分のことであった。
条件付き受諾の意向を連合国軍側に伝えたところ、回答があった。米国務長官の名前をとって「バーンズ回答」と呼ばれる。12日早朝、日本に伝わったそれは、
「最終的ノ日本国政府ノ形態ハ『ポツタム』宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルヘキモノトス」
という内容であった。
「宣言」に続いて「国体」護持の保障がなかったため、日本政府内部ではまたも停戦派と戦争継続派で意見が対立した。同日午後から翌13日午後まで閣議や最高戦争指導会議が続いたが、結論は出なかった。そこで鈴木首相は再び「聖断」を仰ぐことにした。
14日午前11時2分、皇居内の防空壕で始まった、最後の「御前会議」である。
出席者は先に見た最高戦争指導会議構成員の6構成員と幹事。さらに安倍源基内相、広瀬豊作大蔵相ら閣僚と平沼枢密院議長らも加わった。この席でも「すぐに受諾すべき」という鈴木首相、東郷外相、米内海相と連合国に再照会すべきとする阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が真っ向から対立した。
以下、『昭和天皇実録』(『実録』)によって経緯をみていきたい。議論が紛糾する中、天皇は発言した。
〈敵の保障占領には一抹の不安なしとしないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなること、これに反し、即時停戦すれば将来発展の根基は残ること、武装解除・戦争犯罪人の差し出しは堪え難きも、国家と国民の幸福のためには、三国干渉時の明治天皇の御決断に倣い、決心した旨を仰せられ、各員の賛成を求められる。
また、陸海軍の統制の困難を予想され、自らラジオにて放送すべきことを述べられた後、速やかに詔書の渙発により心持ちを伝えることをお命じになる〉
正午前、「御前会議」は終わった。
仮定に仮定を重ねた終戦構想
『実録』は2014年9月9日、宮内庁が公表した。24年余、2億3000万円の巨費(人件費を除く。1年平均26人の職員が作業)を投じて作られた、国家の正史だ。1万2000ページ超、和綴じ本で61冊の大長編で、波乱に富む天皇の生涯を記している。
大長編の『実録』の中でも、二度目の「聖断」はハイライトシーンの一つだ。御前会議の開始から終了までの1時間を描くために、実に47もの典拠を記している。
「聖断」史観、すなわち「昭和天皇の英断で戦争が終わった。天皇は日本をぎりぎりのところで救った」という解釈の源泉がここにある。この場面だけをみれば、正しい解釈と言えるだろう。ただ、現代史の理解を深めるためには、他にも知っておいた方がいいことがある。
たとえば、そもそも天皇を初めとする為政者たちはどうやって戦争を終わらせるつもりだったのか、ということだ。
開戦1カ月半前の1941年11月15日、大本営政府連絡会議で戦争終結構想が決まった。
主な内容は、
⑴南方作戦で戦略的自給圏を確保する
⑵中国の蒋介石政権への圧力を強める
⑶独伊と連携しイギリスを屈服させる
⑷それによってアメリカの戦意を失わせ、講和にもちこむ
というものだった。
注目すべきは⑶と⑷だ。ドイツとイタリアがイギリスを屈服させる保障はなかった。かりにそれが実現したとしても、アメリカが戦意を失う保障もなかった。つまり大日本帝国は、仮定の上に空想を載せた蜃気楼のような終戦構想で、戦争を始めたのである。
ちなみに、同日付の『実録』には、この終戦構想の記載はない。実録は、膨大な費用と労力をかけているだけに、歴史研究の基礎史料となるものだ。しかし客観的な記述を心がけたせいか、天皇のナマな感情を伝える発言をそぎ落としている。また上記の蜃気楼的戦争終結構想のように極めて重要な事実を記さない、などの問題点もある。
「国史」としての『実録』のこうした性格は、稿を改めて考えたいと思う。
敗戦を悟りながら、止められなかった
さて、天皇はいつ終戦を意識したのだろうか。『実録』にはない記述が、『昭和天皇独白録』(文春文庫)にある。もとは天皇の側近、寺崎英成が残した記録だ。1990年に存在が分かり、発表された。
天皇の肉声を生々しく伝える史料である。それによると、天皇は1943年9月の時点で、すでに勝てないことを悟り、講和を意識していたことが分かる。すなわち、
〈私に[は]ニューギニアのスタンレー山脉を突破されてから[十八年九月]勝利の見込みを失った。一度何所かで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思つた〉
どうしてこの時点で停戦協定を始めなかったのか。その後の原爆投下やシベリア抑留などによる被害拡大を知る私たちとしては、それを知りたいところだ。以下の独白は、そうした疑問に対する答えになるだろうか。
〈独乙との単独不講和の確約があるので国際信義上、独乙より先きには和を議し度くない。それで独乙が敗れてくれゝばいゝと思つた程である〉
実際の敗戦より2年近くも前、昭和天皇が勝てないことを悟り、「講和」の必要性を認識していたことを、確認しておこう。同盟国のドイツが「国際信義」などおかまいなしに、日本に先んじて降伏したこととあわせて。
このころ日本政府は停戦どころか、反転攻勢に力を入れていた。しかし連合軍に押しまくられ、1944年7月には「絶対国防圏」の一角であるマリアナ諸島、サイパンなどを米軍に占領された。米軍がここに戦略爆撃機B29を展開したことで、日本本土爆撃が必至になった。空襲によって敗戦までにおよそ50万人が殺されたとされる。
年が明けて1945年2月14日、近衛文麿元首相が天皇に上奏した。『実録』でみてみよう。
〈戦局ノ見透シニツキ考フルニ、最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリト存ゼラル。以下前提ノ下ニ申上グ。最悪ナル事態ニ立至ルコトハ我国体ノ一大瑕瑾タルベキモ、英米ノ輿論ハ今日迄ノ所未ダ国体ノ変更ト迄ハ進ミ居ラズ(勿論一部ニハ過激論アリ。又、将来如何ニ変化スルヤハ測断シ難シ。)
随ッテ最悪ナル事態丈ナレバ国体上ハサマデ憂フル要ナシト存ズ。国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態ヨリモ之ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ。
ツラツラ思フニ我国内外ノ情勢ハ今ヤ共産革命ニ向ッテ急速ニ進行シツツアリト存ズ〉
貴族政治家の上奏は長々と続くが、ここでは割愛する。
もっとも重要なのは、
「最悪なる事態」=敗戦は避けられない。「国体」を守るために停戦の手を打つべき、という提案である。そのために陸軍内部の人事刷新(「粛軍」)が必要と訴えた。
「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか?
「一撃講和論」という陥穽
天皇はこれを退けた。すなわち、
〈今一度戦果を挙げなければ粛軍の実現は困難である旨の御感想を漏らされる。〉
この部分には『実録』の編集意図がすけてみえる。
そのまま読めば、天皇は単に陸軍の人事断行を拒否した、ととれる。しかし『独白録』には「近衛は極端な悲観論で、戦を直ぐ止めた方が良いと云ふ意見を述べた。私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当でないと答へた」とある。
確認しておくべきは、天皇が近衛による提案・即時停戦を拒否した、ということである。
天皇が言うのはいわゆる「一撃講和論」だ。劣勢は承知しながら、どこかで連合国軍に打撃を与えて、その戦果を持って和平に持ち込む、という構想だ。
この構想に従って沖縄戦が行われた。一撃どころか、沖縄では県民を巻き込んだ地上戦となり被害を拡散させてしまったことは、歴史が証明している。その後米軍に占領され今日に至るまでの基地問題を内包させてしまったことも、「一撃講和論」による負の遺産だ。
貴族政治家が何を言おうが言うまいが、マリアナが落ちた時点で敗戦は必至だった。この時点で戦争の終結に進むべきだったのだ。
「聖断」を下した本当の意図
さて前述のごとく8月10日、日本政府は「聖断」によって「ポツダム宣言」受諾を決めた。これを受けて12日、昭和天皇は皇族を招いて受諾を伝えた。『実録』をみよう。
〈午後三時二十分、御文庫附属室に宣仁親王・崇仁親王・恒憲王・邦壽王・朝融王・守正王・春仁王・鳩彦王・稔彦王・盛厚王・恒德王・李王垠・李鍵公をお召しになり、現下の情況、並びに去る十日の御前会議の最後に自らポツダム宣言受諾の決心を下したこと、及びその理由につき御説明になる。守正王は皇族を代表し、一致協力して聖旨を補翼し奉るべき旨を奉答する。終わって、一同と茶菓を共にされ、種々御会話になる〉
『実録』には、この席で交わされた肉声が記されていない。しかし『独白録』にはある。
「十二日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた」
戦争を続けたら被害はさらに拡大する。天皇はその可能性を理解していた。だからこそ、「宣言」の受諾を決断したのだ。それでも「国体護持」が保障されない限り戦争を続けるという。『独白録』を信じる限り、それが天皇の意思表示だった。
天皇としてはもはや停戦の意志は固かったが、あくまで強硬派の皇族をなだめ停戦への流れを加速させるために「国体護持」優先を語った可能性もある。どう解釈するかはみる者の歴史観と知識次第ではあるが、いずれにしてもこの発言を記憶した上で、「聖断」の意味を考えるべきではある。
1945年8月の「聖断」によって、最悪の事態を回避できた。他方で「聖断」に至るまでに被害をもっと少なくできたのではないか、という疑問も残る。
「結果が分かった現在の立場で、当時の為政者たちの判断を云々すべきではない」というむきもあるだろう。しかし筆者はそう思わない。そういう我々も、我々が選挙で選んだ為政者がミスをして国益を大きく損なったとしたら、後世の人たちから、「あの時代の有権者はダメだったな」と批判されるだろう。
歴史は常に「後出しじゃんけん」で判断されるものだ。そうすることによって、現代人は過去から学ぶことができるのだから。
聞き手 シニアエディター・尾沢智史
2019年8月13日 16時00分 朝日新聞
歴史学者、一橋大大学院特任教授、東京大空襲・戦災資料センター館長の吉田裕さん=山本和生撮影
歴史学者、一橋大大学院特任教授、東京大空襲・戦災資料センター館長の吉田裕さん=山本和生撮影
アジア・太平洋戦争の戦場の実態を克明に描き、20万部のベストセラーになった「日本軍兵士」。
その著者で、近現代の天皇制研究でも知られる吉田裕さんは「天皇の軍隊」の実像を読み解く数少ない研究者だ。大元帥たる昭和天皇は、あの戦争とどう関わり、どこまで兵士の窮状を知っていたのか。沖縄戦や特攻をどう考えていたのか。
――「日本軍兵士」には、食糧不足や劣悪な装備など、日本軍の過酷な実態が書かれています。
「軍隊の問題を自身に置き換えて考えられるように、『心と身体』に重きを置きました。体重の半分の装具を背負い、飢えや病気、心の病に苦しむ兵隊の姿から、戦争の現実を知ってほしかった」
――そうした戦場の現実を昭和天皇は知っていたのでしょうか。
「かなり把握していたと思います。1943年9月には侍従武官長に、将兵を飢餓に陥らせるのは耐えがたい、『補給につき遺憾なからしむる如(ごと)く命ずべし』と言っています。ただ、最後まで日本軍の戦力を過信していたので、実情よりは楽観的だったとはいえるかもしれません」
――実際の戦況をどの程度把握していたのですか。
「どこでどの軍艦が沈んだかなど、日本軍が受けた被害については、ほぼ確実に把握していました。ただ、石油の備蓄量などは数字を改ざんして上奏されていたとも言われ、100%正確に知っていたかは疑問も残ります」
「一方で、敵に与えた損害は、誇大に報告されがちでした。台湾沖航空戦などが典型ですが、パイロットからの報告を精査せずに積み上げていったので、11隻もの航空母艦を沈めたことになっていました。実態とかけ離れた戦果が天皇のもとに情報として集められ、敵も苦しいはずだという楽観が生まれてしまいました」
――「まだ戦える」と思ってしまったわけですか。
「45年2月に元首相の近衛文麿が戦争の終結を上奏したときに、天皇は『もう一度戦果を挙げてからでないとむずかしい』と答えています。その時点でも、まだ戦果を挙げられると信じていたんですね。米軍に打撃を与えて、できるだけ有利な条件で講和に持ち込むという『一撃講和論』をずっと支持していました。そのために戦争終結がずるずると遅れてしまった面はあると思います」
「沖縄戦でも、当初は、特攻作戦がうまくいっていると誤認していたようです。天皇が戦争をあきらめるのは45年5月ごろです。ドイツの降伏と、沖縄がもう持ちこたえられないとわかって、ようやく終戦を決意したのです」
――沖縄戦に、どの程度具体的に関わっていたのでしょうか。
「沖縄戦では、陸軍と海軍では当初の作戦方針に違いがありました。海軍は沖縄で最後の決戦をしようとしたのですが、陸軍は本土決戦を主張し、沖縄はその『捨て石』と見なしていました。持久戦にして米軍に損失を強い、本土決戦に備えようとしたのです」
「天皇は海軍を支持しました。陸軍は持久戦に備え陣地に立てこもる戦略をとろうとしましたが、天皇は出撃して決戦するように促しました。沖縄戦の場合は、天皇は海軍の側に立って、作戦に介入していたといえます」
2021年10月14日 06時00分 東京新聞
文部科学省は13日、2020年度に全国の国公私立小学校、中学校、高校から報告があった児童生徒の自殺は415人と、調査を開始した1974年以降で最多だったと発表した。
19年度の317人と比べて31%の大幅な増加で、新型コロナウイルス禍が子どもの心身をむしばんでいるとみられる。同省は「極めて憂慮すべき状況にある」とし、相談体制や窓口の充実などに努めるという。
自殺した415人の男女別は男子224人、女子191人。学校別では高校生305人(前年度比83人増)、中学生103人(同12人増)、小学生7人(3人増)で高校生の件数増加が目立った。
自殺した子どもが置かれていた状況について、学校が把握していた内容のほか、保護者や他の子ども、警察などの情報をもとに分類(複数回答)したところ、「家庭不和」12・8%、「精神障害」が11・1%、「進路問題」が10・6%など。
いじめの問題を抱えていた子どもは2・9%(12人)だった。
最多は、周囲が見ても様子が変わらず悩みを抱えている様子がなかったなどで「不明」とされた52・5%だった。
同省の担当者は「コロナ禍による家庭や学校の環境変化が複雑に絡み合い、子どもの心身に悪影響を与えていることがうかがえる。周囲の大人がSOSを受け止め、組織的に対応する必要がある」とした。
調査は自殺のほか、いじめや不登校、暴力行為などの実態を把握するため毎年実施している。(小松田健一)
◆いじめ認知件数は減少、不登校は増加
文部科学省が13日に発表した調査では、2020年度に全国の国公私立の小中高校と特別支援学校で認知したいじめの件数は51万7163件で、前年度より15・6%減少した。
心身が深刻な被害を受けるといった、いじめ防止対策推進法に基づく「重大事態」とされた事例は前年度より28・9%減の514件だった。
同省は「コロナ禍での臨時休校や学校行事の休止、部活動の制限など子ども同士の接触機会が減ったためではないか」と分析。
一方で「人と人との距離が広がったことで、不安や悩みを相談できない子どもがいる可能性を考慮する必要もある」としている。
病気や経済的な理由以外で年間30日以上登校していない不登校の小中学生は、前年度比8・2%増の19万6127人で過去最多となった。増加は8年連続。
同省は、コロナ禍で学校活動に制約が多く、登校意欲がわきにくい環境だったことが影響したとみている。不登校の高校生は同14・1%減の4万3051人だった。
また、高校を中退した生徒数は前年度比18・4%減の3万4965人で、調査を始めた1982年度以降最少だった。
中退理由は「進路変更」が43・1%、と「学校生活・学業不適応」が30・5%を占めた。経済的理由による中退は1・5%と過去最少で、各自治体が低所得世帯などへの就学支援制度を拡充していることも反映されたとみられる。(小松田健一)
◆「子どもの新たな居場所づくりを」
NPO法人若者メンタルサポート協会の岡田沙織理事長の話 私たちに「死にたい」と訴える子どものほぼ全員が、家庭環境に何らかの問題を抱えている。
一部の子には家庭から逃れられる場所の一つでもあった学校も、コロナ禍による休校や行事の中止が相次ぎ、居場所が失われた。
特に高校生の自殺が急増したが、一般的に高校生が生きづらさに悩んだ時に行ける相談窓口が少なく、国全体として手厚いフォローもないのが現状と感じている。
高校は義務教育ではなく、心を病んでも単位などに影響し、休むこともなかなかできないため、小中学生とは違うより難しい環境がある。子どもたちが安心して過ごせて、悩みを打ち明けられる新たな居場所づくりが必要で、それを国が支える仕組みがあればいいと思う。
◇相談窓口
・24時間子供SOSダイヤル(いじめに限らず悩む子供と親、24時間)
0120-0-78310
・こころの健康相談統一ダイヤル
0570-064-556(曜日、時間は都道府県により異なる)
都道府県・政令指定都市の相談窓口
・チャイルドライン(18歳までの子ども、午後4時~9時)
0120-99-7777
・自殺予防「いのちの電話」
2021.03.19 日本財団
ライフリンク清水さんが説く「自殺は個人ではなく社会の問題」
写真:電話相談窓口「#いのちSOS」のPR用ボードを手に持つ清水さん
日本の自殺問題に取り組むNPO法人自殺対策支援センター ライフリンク代表の清水さん
この記事のPOINT!
2020年は、新型コロナウイルスの影響によって女性や若者の自殺が増加している
「生きる促進要因」よりも「生きる阻害要因」が大きくなると、自殺のリスクが高まる
教育の在り方や「自殺」に対するメディアの扱い方など、社会として見直すべき問題がある
取材:日本財団ジャーナル編集部
新型コロナウイルスの影響による、女性や若者の自殺が増えている。
2020年における総自殺者数は2万1,077人(暫定値)。
男性は前年よりも26人減少した1万4,052人、逆に女性は2019年から934人増加し7,025人と2年ぶりに増加に転じた。
若年層に至っては、小学生が15人、中学生が145人、高校生338人の合計498人に上り、1978年の統計開始以来最多だった1986年の401人を超えている。
もとより諸外国と比べて高い日本の自殺率。いま女性や若者たちに一体何が起こっているのだろうか。
今回話を伺ったのは、NPO法人自殺対策支援センター ライフリンク(別ウィンドウで開く)の代表である清水康之(しみず・やすゆき)さん。
2004年から日本の自殺問題に取り組み始め、2006年に制定された「自殺対策基本法」の立案などに関わり、また2016年の同法改正を契機として開始した「日本財団 子どもの生きていく力 サポートプロジェクト(旧日本財団いのち支える自殺対策プロジェクト)では、都道府県版および市区町村版の自殺対策計画モデルの形成や子どもの自殺リスクをマネジメントする多職種連携チームのモデル構築に携わっている。
清水さんが考える日本の自殺問題の背景にある課題と、解決するために必要な取り組みとは?
自殺は誰にでも起こりうる「社会的な問題」
「日本における自殺者数は1997年まで、2万人台の前半で推移していました。
しかし、1997年の11月に三洋証券や都市銀行の一角である北海道拓殖銀行が経営破錠に陥り、その約1週間後に山一証券が自主廃業に追いやられるなど、経済危機が起きた翌年に自殺が急増。
年間ベースで約8,500人も増えて3万人を超え、最も多かった2003年には3万4,000人を超える人が自殺で亡くなる事態となりました。そして、コロナ禍の現在も、当時と似た状況になりかねないと懸念しています」
20年近くにわたり自殺問題に取り組む清水さんは、そう警鐘をならす。
日本における自殺の状況について語る清水さん
1998年に増加した自殺者の多くは、40〜60代の中高年の男性。現在でも、人数的にはこの年代の男性が自殺者全体の3分の1を占める状況が続いている。
しかし、自殺死亡率(人口10万人当たりの自殺者数)は高齢者も非常に高く、また10代~30代の死亡原因の第1位が自殺。最近では、女性の自殺率も上昇しているなど、自殺は日本社会全体の問題になっている。
「自殺問題は非常に複雑です。年代や、住んでいる地域によって抱え込みがちな問題の組み合わせが異なるため、それぞれの実情にあった対策を行う必要があります。
ただ、いずれにしても、諸外国(G7※)と比較しても、日本の自殺率の高さは突出しており、非常事態だと捉えるべきだと思います」
自殺者数は1998年をピークに減少傾向にあるが、2020年は女性の自殺者が7,025人に増加した。資料:厚生労働省「自殺の統計」
なぜ人は自殺へと至るのか。
清水さんによると、衝動的に自殺で亡くなるのではなく、多くは、複合的な悩みや課題が連鎖する中で、「もう生きられない」「死ぬしかない」と、追い込まれた末に亡くなっているのだという。
「私たちが行った自殺の実態調査(自殺で亡くなった523人に関する聞き取り調査)から、自殺で亡くなった人は平均すると4つの悩みや課題を抱えていたことが分かっています。
『自殺の危機経路』と呼んでいますが、例えば景気が悪化して、仕事や生活の問題へと連鎖し、それらが深刻化する中で人間関係の問題となって、さらには心の健康の問題となった先に、自殺が起きるのです」
具体的には、失業者であれば、仕事を失い、生活のためにと借金を重ねるようになり、それが多重債務となる中で、家族の関係が悪化、精神的にも追い詰められてうつ状態になって自殺で亡くなるといった「自殺の危機経路」である。
生活保護や自己破産などの選択肢もあるが、心身共に追い詰められた状況では冷静な判断ができず、また「そんなことになるのは恥だ」といった先入観や、周囲に迷惑をかけたくないといった理由などで、自殺に至ってしまう人もいるという。
「『自殺』と言っても、自ら積極的に命を絶っているのではありません。自殺の背景に潜む経済的な要因や、自殺の危機経路からも分かるように、自殺は極めて社会的な問題です。
もう生きていくことができないと、追い詰められた末に『自殺』で亡くなっているのです。自殺をタブー視するのではなく、もっと社会的な問題として、みんなで考えていく必要があると思います」
急増する若者の自殺。「自分らしく生きること」の難しさ
「自殺のリスクが高まるのは、『生きることの阻害要因』が『生きることの促進要因』を上回ったとき。
つまり、生きることを後押しするさまざまな要因の全体よりも、生きることを困難にさせるさまざまな要因の全体の方が大きくなった状態のときです。
裏を返すと、いくら阻害要因が大きくても、促進要因の方がそれを上回っていれば自殺のリスクは高まりません。促進要因の中には、将来の夢や信頼できる人間関係、ライフスキルや信仰などがあります」
ライフリンクが作成した「自殺が高まるとき」を示す図。
「生きることの促進要因」を「生きることの阻害要因」が上回る時。「生きることの促進要因」となるものは、将来の夢、家族や友人との信頼関係、やりがいのある仕事や趣味、経済的な安定、ライフスキル(問題対処能力)、信仰、社会や地域に対する信頼感、楽しかった過去の思い出など。
「生きることの阻害要因」となるものは、将来への不安や絶望、失業や不安定雇用、過重労働、借金や貧困、家族や周囲からの虐待・いじめ、病気や介護疲れ、社会や地域に対する不信感、孤独など。
清水さんがまとめた「自殺のリスクが高まるときの状況」を表した図
若年層の自殺の増加については、「生きる阻害要因が大きくなっていることよりも、促進要因が少なくなっていることが背景にあると思います。
自分自身であることに意味を感じられず、自己肯定感が低くなっている方が多くなっているのでは」と清水さんは推測する。
「若い人たちからは、『死にたい』というより、『消えたい』『もう生きていたくない』といった声を多く聞きます。
まさに、死にたいのではなく、生きていることをなくしたい、その手段として自殺を考えるということなのだろうと思います。
自分がやりたいことよりも『どうすれば周りに評価されるか』を気にしなければならない中で『過剰適応』(※)を起こし、それを続けている内に、何のための自分なのか、自分が一体何者なのかが分からなくなっていくという悪循環に陥ってしまっているのではないかと感じます」
※自分自身を押し殺して、無理をしてでも周囲に合わせようとすること
周りの大人たちから見れば「問題のない良い子」でも、当人の心の中では追い詰められている状態にあり、そこで就職や受験に失敗すると「これまで自分を押し殺して頑張ってきたのに、否定されるなら生きる意味がない」と感じてしまう子どももいるのではという。
写真:教室の中で1人、机の上で頭を抱える女子高生。その周囲には楽しそうに会話する複数の女子高生の姿が。
周囲が気づかぬうちに追い込まれている若者も少なくない
ここで、清水さんはデンマークの学校の例を挙げる。デンマークでは、生徒一人ひとりの個性や能力を重んじた教育を行っており、国連の持続可能な開発ソリューションネットワーク(SDSN)が行っている世界幸福度ランキングのトップ常連(※)でもある。
※2020年はデンマークが2位、日本は62位とG7の中で最下位
「教室を視察すると、子どもたちが座る席がいろいろな方向を向いていて驚きました。
もちろん先生の方を向いている席もあるのですが、他に、壁に向かっている席や複数人でグループになって座る席もある。
背景には、『子ども一人ひとりによって能力を最大限に発揮できる環境は違う』という考え方があり、学校はそれぞれの子どもに合わせた環境をつくっているのだというのです。
また、宿題を最小限にして、さまざまな体験の時間を大切にしているのも大きな特徴です。体験を通して子どもたちに『これをやりたい』『これを知りたい』『将来○○になりたい』といったモチベーションを持ってもらい、子どもたちがそれらを実現するために最善の環境を社会が用意する。
その結果として、子どもたちは実際にそれらを実現することで社会としての生産性が上がり、同時に大人になる中で幸福度が高くなるという、単純化していえばそうしたことだと理解しました」
写真:自然の中に設置されたトランポリンの上で、楽しそうに飛び跳ねる子どもたち
デンマークでは子どもの遊びの時間も重要視している
自殺ではなく生きる道を選ぶようになるような報道を
女性の自殺率の高さも問題となっている。
その背景には、暮らしや仕事の問題(非正規雇用の多さなど)や、ステイホームによるDV被害、育児の悩みの深刻化があるのではないか。ただ同時に、メディアの自殺報道の影響もあると清水さんは言う。
「2020年の7月半ばには有名な若手俳優、9月末には著名な女優の自殺がありました。データを見れば明らかなのですが、自殺報道のあった次の日から自殺者数が急増しています。
もともと心理的に不安を抱えていた人たち、とりわけ女性や若者たちが影響を受けた結果だと考えられます」
WHO(世界保健機関)は、2017年に『自殺報道ガイドライン』で「やるべきではないこと」と「やるべきこと」を明記しており、政府もメディアに向けた注意喚起(別ウィンドウで開く)を行っている。
そこには、「自殺報道を目立たせず、過度な報道は避けること」「自殺手段を伝えないこと」「支援先の情報を載せること」といった注意書きがある。
「大手のメディアはこういったことに配慮するところが増えてきていますが、それでも『速報』で著名人の自殺のニュースが伝えられ、それがネットを介して一気に拡散されていく。
結果、多くの人が大量の自殺報道にさらされるという『避けるべき事態』が起きてしまっています」
こういった知名度の高い人の自殺報道によって影響を受けてしまう現象を「ウェルテル効果」と呼ぶ。一方で「パパゲーノ効果」というものがあり、それを社会に広めていくことも重要だと清水さんは語気を強める。
「パパゲーノ効果とは、自殺を減らす方向に働く自殺報道のことです。自殺を考えている人が、自分と同じような状況の人が生きる道を選択したストーリーに触れて、『自分も生きよう』と、自殺ではなく生きる道を選ぶようになるような報道を、メディアには期待したいです」
自殺は個人の問題ではなく社会の問題である。新型コロナ禍の中、職を失うリスクや、メンタルを病む可能性は誰にだって起こりうる。その最終的な「逃げ場」が自殺であってはならない。
清水さんが代表を務めるライフリンクでは、新型コロナ禍の自殺リスクの高まりへの対策として、7都道府県にある11支援団体と連携して新たな電話相談窓口「#いのちSOS」(別ウィンドウで開く)を開設した。
専門の相談人が相談者の「死にたい」気持ちに寄り添い、生きる道を選ぶための支援も行う。窓口は年中無休。現在は正午から22時まで受け付けており、将来的には24時間対応を目指す。
また、SNSを活用した自殺対策のための相談窓口「生きづらびっと」(別ウィンドウで開く)も設けている。こちらは水曜午前11時から16時、以外の曜日(土曜休日)は17時から22時まで受け付けている。
2021年11月2日 11:40 (2021年11月2日 13:46更新) 日本経済新聞
think!
多様な観点からニュースを考える
仲田泰祐
政府は2日の閣議で2021年版の「自殺対策白書」を決定した。職についている女性の20年の自殺者数は1698人で、19年までの5年間の平均と比べて3割近く増加した。新型コロナウイルスの感染拡大で、飲食・サービス業など女性が多い非正規労働者の雇用環境が悪化したことが影響したとみられる。
20年の自殺者数は全国で2万1081人と、前年比で912人(4.5%)増加した。増加は11年ぶりで、男性は減少したものの女性の増加幅が上回った。無職の女性は微減、男性は職の有無に限らず減少しており、働く女性の自殺増加が顕著だった。
月別で見ると年前半は例年より少なく、後半に増加した。緊急事態宣言中の4月は前年より300人以上少なかった一方、感染が落ち着いていた10月は700人近く多かった。必ずしも、経済活動が抑制される感染拡大期に増加しているわけではない。10月は無職女性の増加も目立った。
動機別ではうつ病など精神疾患を含む健康問題が多かった。経済や生活の問題など他の要因が精神疾患に発展するケースも多く、厚生労働省は要因を複合的に見るよう指摘している。
白書では著名人の自殺の影響も調査した。20年には人気俳優2人の自殺が報道された後2週間の自殺者数が、統計的な予測値よりも15~23%高くなった。亡くなった俳優と近い世代で増加する傾向が見られた。
20年は児童・生徒の自殺者数が499人で過去最多となった。3月の一斉休校の要請直後には大きく減少したものの、学校が再開した6月に一転して急増し、夏休み明けの9月にも増加が見られた。11月も大きく増加した。就職や進路の相談時期と増加時期が重なっていることから、将来への不安などが関係している可能性があるという。
今年7月から、コロナ危機の影響でどのくらい自殺が増加したかを毎月試算しています。
厚生労働省
はじめに
我が国の自殺者数は近年全体として減少してきているが、依然として年間2万人を超えており、未だ深刻な状況である。
中でも、若年層の自殺についてみると、第1章の3にも記載のとおり、日本における10~39歳の死因順位の1位は自殺となっており、国際的にも、15~34歳の死因順位の1位が自殺となっているのはG7の中でも日本のみである。
自殺死亡率でみると、10歳代はほぼ横ばいで推移しており、20歳代、30歳代は40歳代以上の年代に比べてピークからの減少幅が小さく、かつ、平成10年の自殺死亡率急伸前の水準を依然として上回る数字となっている。
加えて、特に20歳代、30歳代の女性においては、自殺未遂歴のある自殺者が4割を超えており(第1-32図参照)、また、自殺の手段についてみると、特に19歳以下においては、男女とも、他の年代に比べ、飛び降りや飛び込みといった、突発的に行われ得る手段による自殺が多くなっている(第1-27図)。
このように、若年層の自殺は深刻な問題となっていることから、本節では平成21年以降の自殺統計を用いて、若年層の自殺について分析を試みる。
⑵ 原因・動機の推移からみる若年層の傾向
自殺にはさまざまな危機経路があるが、年代の違いにより危機経路も異なっていると考えられる。
ここでは、若年層における原因・動機の件数及び割合を他の年代と比較する中で、若年層の特徴を分析する。
まず、40歳以上の自殺における原因・動機別件数の推移を見ていく。
件数の推移で見ると、この間すべての原因・動機で減少している(第2-3-3図)。
なお40歳以上の自殺者は平成21年の23,757人から30年の15,307人まで35.6%減少しており、
また、40歳以上でかつ1つ以上の原因・動機が特定されている自殺者数は21年の17,751人
から30年の11,451人まで35.5%減少している。
すなわち、全自殺者の減少の割合と、原因・動機が特定されている自殺者の減少の割合はほぼ同じである。
原因・動機の変化を確認するため、原因・動機別の計上件数を、原因・動機が特定された者の数で割った比率の推移をみる(第2-3-4図)。
なお、原因・動機は自殺者一人につき3つまで計上可能としているため、比率の合計は100%にはならない。
40歳以上では、平成21年から26年にかけて経済・生活問題の割合が顕著に下がった。
この間の経済的状態の改善が影響しているとみられる。
代わって、健康問題、勤務問題が計上される割合がわずかに上昇した。
その他の要因はおおむね横ばいである。
論点
注目の連載 オピニオン 毎日新聞 2021/12/8
自殺者が昨年、11年ぶりに増加に転じてしまった。
中高年男性の自殺が減り続ける中、増えたのは若者と女性だ。
日本の10~30代の死亡原因の1位は自殺で、昨年の小・中・高校生の自殺者数は499人と、統計がある1980年以来最多となった。若年層の自殺はなぜ減らないのか。
自殺予防に有効な手立てはあるのだろうか?
評者:村井 哲也(明治大学法学部非常勤講師)
日米開戦研究の新境地
日米開戦をめぐる意思決定の謎は、現代でも大きな関心を集める一大トピックである。両国間の明らかな国力差にもかかわらず、なぜ無謀な意思決定はなされたのか。
この謎には、すでに歴史研究で膨大かつ詳細な蓄積があり、絶え間なく歴史小説やドキュメンタリー番組が世に送りだされている。くわえて、戦争責任など歴史認識問題に関わってくるだけに、繊細なバランス感覚が求められる。言い換えれば、本格的な新規参入を果たすには少々ハードルの高いトピックでもある。
本書は、日米開戦をめぐる国力評価をなした陸軍省戦争経済研究班―通称「秋丸機関」―に焦点を当てることで、このハードルを軽々と超えてみせている。日米開戦研究の新境地を拓く傑作と言ってよい。著者の貪欲かつ真摯な資料収集、説得的な論理構成、それらを展開していく絶妙な筆致は、各方面から高い評価を集めている。
通説では、秋丸機関の客観的かつ正確な国力評価にかかわらず、「愚か」な軍部が無謀な日米開戦に踏み切り、秋丸機関の報告書は軍部に都合が悪い機密扱いゆえ焼却された、とされてきた。だが著者は、軍部に批判的なはずの丸山眞男が戦前のエリート軍人たちを「よほど合理的だった」と高く評価していることに、まず注意を喚起する(3頁)。
起訴保釈中であったマルクス経済学者の東京帝大教授・有沢広巳らを秋丸機関にスカウトしてまで客観的かつ正確な国力評価を求めたのは、他ならぬ軍部であった。この疑問から著者は、経済史学者ならではの鋭い洞察で神話化した通説を覆しつつ、日米開戦をめぐる意思決定のスリリングな謎解きに耽溺していくのである。
目次
はじめに
第一章 満州国と秋丸機関
第二章 新体制運動の波紋
第三章 秋丸機関の活動
第四章 報告書は何を語り、どう受け止められたのか
第五章 なぜ開戦の決定が行われたのか
第六章 「正しい戦略」とは何だったのか
第七章 戦中から戦後へ
おわりに
本書の概要① ―秋丸機関の軌跡―
まず、本書前半の各章に沿って秋丸機関の軌跡を概観する。
第一章は、秋丸機関が創設された経緯が描かれる。秋丸次朗は、満州国の経済建設にあたり「関東軍の頭脳」と呼ばれた東京帝大経済学部卒のインテリ軍人であった。ノモンハンの惨敗や第二次世界大戦の勃発を受け、岩畔豪雄軍事課長から「経済謀略機関」の創設を依頼されたのは、陸軍省経理局兼軍務局課員として帰国した1939年9月のことである。
経済戦争を中心とする国家総力戦への対応が急がれるなか、満州国の資源開発の経験から秋丸は、自国勢力圏での自給能力こそが国力評価の基準であると看破する(25-27頁)。後の「抗戦力」に繋がる認識である。1940年1月に秋丸機関は創設され、各省の革新官僚や満鉄調査部の精鋭、有沢はじめ多分野の学者がスカウトされ5月に陣容は整った。
第二章は、大日本帝国憲法における意思決定不全を克服する試みであった近衛新体制が秋丸機関に与えた影響を指摘している。「持たざる国」日本の経済力を超えた日中戦争の軍事費負担によって、国家目的に沿った統制経済は必至とされた。そのための運動である経済新体制の司令塔こそ秋丸機関であり、世間もそのようにみなしていく。
しかし、右翼、議会、財界の強い反発で1941年4月に近衛新体制の政治的な挫折が明白となった。これは2つの点で転機となる。第1に、「アカ」批判で有沢は表向き解嘱を余儀なくされるなど秋丸機関は憲兵監視下に置かれた。第2に、憲法上の意思決定不全が継続されたことで、日米開戦という「重大な意思決定」をなす基盤が残された(53頁)。
第三章は、『班報』の解読により1940年夏から本格化した秋丸機関の活動と認識が分析される。目を引くのは、日本経済の脆弱性と英米への輸入依存という悲観的な見通しを明確に立てていたことである。ただし、これは他機関も指摘した予想通りの内容であり、陸軍から批判もなかった。1941年前半まで、こうした国力の限界は正確に認識されていた。
「アカ」批判による企画院事件で主要メンバーが検挙され全体の研究が遅延するなか、有沢と秋丸は中間報告『経済戦争の本義』を1941年3月に著す。そこで最重要の概念であり後に焦点となったのは、敵の戦争経済の「抗戦力」をどれだけ破壊できるかでなく、自国の戦争経済への「抗戦力」をどれだけ守れるかにあった(74-77頁)。
第四章は、1941年7月に作成された報告書を解読していく本書の白眉である。まず英米分析は、日米の経済力格差の認識で一致しながら、有沢はアメリカへの長期抗戦力の不可能を強調し、秋丸は英米間の輸送力の弱点を挙げ短期抗戦力(2年)の可能性を匂わせていた。両者の微妙な認識の違いは、より悲観的なドイツ分析で明らかとなる。
ドイツによる大西洋での英米船舶撃沈を渇望する日本にとり、独ソ戦の長期化による激しい疲弊は最大の懸念であった。ここで促される日本の選択は、対ソ参戦していたずらに消耗する「北進」でなく南方資源を獲得する「南進」である。そして、以上の分析は、当時の雑誌や新聞で開陳されていた常識の範囲であり機密でも何でもなかった(103-109頁)。
筆者はこう通説を覆したうえで、報告書の核心部分に迫る。秋丸は、陸軍省経理局兼軍務局の課員であった。報告書は、「北進」を唱える陸軍参謀本部を牽制し、「南進」を唱える「軍務局の意向に沿う」性格を帯びたものだったのである(126-130頁)。
とはいえ報告書は、悲観的な見通しを正面からとらえた客観的かつ正確な国力判断でもあった。これが、どのようにして「愚か」な開戦決定をもたらしたのであろうか。
本書の概要② ―日米開戦の意思決定をめぐって―
続いて、本書後半の各章に沿って日米開戦の意思決定の内実や秋丸機関の顛末を概観する。
第五章は、最新の理論を駆使して日米開戦の謎に迫る。行動経済学によるプロスペクト理論では、損失発生が確実な場合にリスク愛好的な意思決定がなされやすいとされる。つまり、報告書で指摘された高い確率での長期抗戦力の不可能は、むしろ同時に指摘された低い確率での短期抗戦力に賭けさせる結果をもたらしたのであった。
集団心理学による集団意思決定では、極端なリスキーシフトである集団極化が起りやすいとされる。これは、スペインのフランコのように強力なリーダーが存在する場合でなく、統帥権が独立して首相が弱体な大日本帝国憲法で格好の条件を提供するものであった。
だが、理論以上に重要と思われるのは、アメリカの経済制裁が大々的に報道され、「不当な圧力」として国民世論が対米強硬論で沸騰したという箇所である(163-164頁)。こうして、客観的かつ正確な国力判断が広く認知されながらリスキーシフトは加速されたのである。
第六章は、秋丸機関の戦略への評価を試みている。そもそも戦略で解決できる問題でなかった、と著者は指摘する。日独両国は共通の目標も戦略もなく、互いにないものねだり のまま個々に戦い個々に敗れたからである。秋丸機関も、日本の抗戦力を過大評価しアメリカの抗戦力を過小評価していた。
それでは、秋丸機関に参加した経済学者はいったい何ができたのであろうか。著者は、時間稼ぎで国際環境の変化を待つ「レトリック」が必要だったという。ネガティブな現実を突きつけるよりポジティブな3年後への抗戦力プランを示せば、リスキーシフトを防げたはずだったというのである(202-204頁)。
第七章は、秋丸機関の顛末を描いている。開戦前後のゾルゲ事件や満鉄調査部事件は、もともと「アカ」批判を受けていた秋丸機関への警戒心を増し、ついに1942年末に解散へと追いやった。しかし秋丸機関のメンバーらは、停戦後の米英ソの離間を図るというポジティブなレトリックを編みだし、終戦工作へ一定の寄与を果たしていく(222-223頁)。
有沢は戦後、吉田茂首相の私的諮問機関で、戦時の抗戦力測定の経験から経済の拡大再生産を図る傾斜生産方式を唱えた。しかし有沢の真意は、その政策効果でなく、そこからGHQの信用を得て復興に必要な重油輸入を得るというレトリックにあった。秋丸機関の失敗の経験から、戦後復興へ一定の寄与を果たしたのである(234-235頁)。
「おわりに」で著者は、現代にも通じる普遍的な課題を示している。自らも経済学者として、日米開戦という重い意思決定において「経済学者には何ができたのだろうか」と、改めて自問自答するのである(239-240頁)。
容易に答えが出るはずもない。しかし著者は、歴史を学ぶ意味は、そこから現代への教訓を読み取ることであるとする。そして、本書がエビデンスとヴィジョン、そしてレトリックを使って、より良い選択をするための考える機会となることを願うのである。
評価:優れた歴史研究リテラシー
本書の概要を踏まえ、その評価を試みたい。前述した通り、日米開戦研究の新境地を拓く本書は各方面から高い評価を集めている。ここでは、既存の評価との重複は避け、主に歴史研究における資料解釈はどうあるべきか、という根源的な視点から評価を試みたい。
本書が高水準の歴史研究を示しえたのは、著者が近年に急進展するデータベース化とデジタル化を貪欲に駆使したことにある(70-71、87-88、238頁)。この歴史研究の変化の波に乗ったことで、さらに資料を俯瞰的に相対化する著者の真摯な姿勢がさらに際立ったように思われる。
これまでの歴史研究では、特定のコネクションを持つ研究者ないし研究集団が特定の資料へのアクセスを独占しがちであった。もちろん、提供者との信頼関係や発見努力の報いとして必然のことではある。他方で、アクセス独占が公平な資料解釈を阻み、発見努力による思い入れの深さから資料解釈に偏りをもたらすことが多々あることも否めない。
著者は、秋丸機関報告書の発見に多大な努力を費やしながら、こうした歴史研究の落し穴に陥っていない。当時の新聞・雑誌を渉猟することで秋丸機関の分析内容が同時代的に常識であったことを突きとめ、そこから報告書を俯瞰的に相対化していった。
日米開戦研究には膨大かつ詳細な蓄積がありながら、多くの歴史研究者が盲点を衝かれる新視点が本書に満載された背景には、このような資料解釈でこそ勝負するという真摯な姿勢がある。それだけではない。資料の俯瞰的な相対化には、当然ながら「行間を読む」力量が問われる。その源泉は、著者の幅広い学際性にある。
まず、経済史研究者としての著者の手堅い力量が前提である。日米開戦は、経済戦争を中心とする国家総力戦の時代の真っただ中にあった。その時代に醸しだされた資料を読み解くには、経済史への専門知識が欠かせない。ゆえに著者は、政治史をはじめとする歴史研究者が読み解きがたい「行間」を自由自在に行き来した。
同時に、政治史をはじめとする歴史研究の膨大かつ詳細な蓄積も読み解かねばならない。国家総力戦における経済的な「抗戦力」という概念が持つ意味を読み込んだうえで、日米開戦の政治的な文脈を浮かび上がらせた場面は、その最たるものであろう。著者は、これらを的確に消化したうえで、経済史研究との架橋を果たす力量を示している。
本書は、貪欲かつ真摯な資料収集、公平かつ俯瞰的な資料解釈、そして専門性を横断する学際性を備えている。すなわち、多くの研究者がお手本とすべき、多くの読者が学ぶべき「歴史研究リテラシーの書」としてこそ、評価され直すべきであろう。
論点:政治権力と専門家のディレンマ
本書に若干の違和感もある。それを指摘しつつ、現代にも通じる普遍的な課題を抽出したい。
違和感を覚えたのは、本書後半で頻出する「レトリック」の必要性についてである。もちろん、秋丸機関の顛末話やブレーン集団の戦略論として、その趣旨は理解できる。有沢たち経済学者たちは、レトリックの不足を心から悔いていたかもしれない。
とはいえ著者は、日米開戦を阻止するレトリックについて、「必ずしもエビデンスに基づく必要はなく、極端な場合、事実や数字を捏造しても良かっただろう」(203頁)とまで踏み込んでいる。このレトリックの危険性への無自覚さは、さすがに勇み足であろう。
そもそも、秋丸機関の客観的かつ正確な国力評価という本書の分析視覚そのものが揺らぎかねない。しかも、秋丸機関は軍務局の意向に沿って報告書で「南進」を促すという、やや際どいレトリックを駆使している。それは結果として日米開戦に格好の口実を与え、レトリック不足というより、レトリックが策に溺れてしまったと言えなくもない。
もっとも、この勇み足は些末な問題にすぎない。本書が暗示する普遍的な課題こそ掘り下げていくべきであろう。全ての専門家にとって、自らの専門性と信念を現実の意思決定に反映させるべく政治権力へ接近するリスクは不可避である。時に、政治権力の意向を忖度して献策内容にレトリックを駆使することは不可欠であろう。潔癖症では何も変わらない。
一方で、政治権力への接近とレトリックの駆使が進むにつれ、客観的かつ正確であったはずのエビデンスは政治性を帯び、専門家の正統性(信頼性)は失われていく。実際にそのようなケースは、古今東西を問わず無数に存在する。時に、政治権力への接近と専門家の正統性はトレード・オフの関係に陥らざるを得ないからである。
このディレンマに対峙して困難なバランスを取ることは、全ての学者、ジャーナリスト、あるいは政治権力と接する機会の多い官僚にとっても普遍的な課題である。そう考えれば、著者によるレトリックの勇み足は、「経済学者に何ができたのであろうか」と自問自答する姿勢が、それだけ本気だったことの表れなのかもしれない。
その危険性に自覚的ならば、レトリックをめぐる言説は歴史研究と政治研究に新たな土壌をもたらすように思われる。筆者がその成功例とした終戦工作や傾斜生産方式と失敗例とした秋丸機関との分水嶺は、果たしてどこにあるのか。専門家たちは、どのようなディレンマに葛藤してきたのか。逆に政治権力の側は、専門家にどのように対峙してきたのか。
また、第六章で著者が、レトリックで日米開戦を回避できた可能性に言及しつつ、「もちろん硬化している国民世論をどう説得するか」という問題は残る、とさりげなく指摘した箇所は実に重要である(203頁)。専門家のレトリックは、世論を矯正する存在なのか、操作する存在なのか。近年のメディア史研究やポピュリズム研究と共振する部分は多いであろう。
以上のように本書は、優れた歴史リテラシーの書でありながら、現代への教訓となる普遍的な課題を満載している。きっと多くの読者が、我が身に置きかえて振りかえりたくなるに違いない。本書が現れたことを喜びつつ、著者のさらなる研究の発展を期待したい。
番組のエッセンスを5分の動画でお届けします
(2021年12月4日の放送内容を基にしています)
もし80年前、太平洋戦争の時代にもSNSがあったなら、人々は何をつぶやいたのだろうか?今、研究者たちが注目するのが、戦時中に個人が記した言葉の数々「エゴドキュメント」だ。膨大な言葉をAIで解析。激動の時代を生きた日本人の意識の変化を捉えようとしている。
1941年12月に始まった太平洋戦争。長きに渡った戦争で国は焦土と化し、日本人だけで310万もの命が失われた。なぜリーダーたちは判断を誤ったのか。そして、なぜ多くの市民が大国との戦争に熱狂したのか。
それを解き明かす鍵が、近年発掘が進むエゴドキュメント。個人がつづった日記や手記だ。表現の自由が制約された時代。誰にも言えなかった本音が記されている。会社員や学生などの市民。最前線の兵士。国のかじ取りを担う指導者たち。ひとりひとりの視点から、新たな戦争の姿が浮かび上がる。個人の視点から歴史のうねりを追体験していくシリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」。
第1回は「開戦」。国家を破滅へと導く戦争の入り口で、日本人の多くは歓喜した。しかし、時計を巻き戻すと、開戦の前年、社会には戦争とほど遠い空気が漂っていた。都市部ではアメリカブームに沸き、ハリウッド映画やジャズが流行した。国の指導者たちも、国力で圧倒的に勝るアメリカとの戦争を避けようとしていた。
なぜ、わずかな期間で急激な意識の変化が生まれたのか。開戦の前年から太平洋戦争に至る道のりを、市民と国の指導者のエゴドキュメントから探っていく。
<開戦 なぜ日本人は熱狂したのか>
『住代ちゃん 昭和十五年二月六日。あなたは高らかに産声をあげました。スヤスヤと眠っているあなたを見るとママは涙ぐましい程の感激にふるえて、胸はゴムマリのように弾んでなりません』
東京・四谷に住む金原まさ子さん。開戦前年の2月、一人娘の住代ちゃんが生まれたことで、育児日記を書き始めた。
『四月十八日。おっぱいを出そうとして この暖かいのに昨日も今日も「すきやき」。住代ちゃん あくびをするときの甘い甘い息の匂い ママは大好きなり』
一人一人の言葉「エゴドキュメント」からは、当時を生きていた人々の息づかいが聞こえてくる。開戦前年、都市部では戦争とはほど遠い豊かな暮らしがあった。
『野球見物 イーグルスがタイガースに勝つ』(6月15日 評論家 青野季吉日記より)
『今日は宴会だ 二次会で街の飲食店にて騒ぐのが目的である』(1月2日 農家 小長谷三郎日記より)
大阪で精米店を営む井上重太郎さん。子供のために、大きな買い物をしたことが記されていた。
『ピヤノの如き(ごとき)は贅沢(ぜいたく)品ではあるが、一家の慰安として身分に過ぎるかもしれぬが、買うことにしたのである』
当時、ピアノの金額は、公務員の初任給8か月分。日夜仕事に励み、稼いだお金でやっと手にした宝物だった。現在と変わらないようにも見える穏やかな人々の営み。それがなぜアメリカとの戦争に歓喜するまでに至ったのか。
日本人の心境の変化に迫ろうと、全国600か所の資料館や個人宅をまわり日記を探した。会社員・学生などの市民、国の指導者など、男女あわせて250人以上。人々の心の内がつづられた「エゴドキュメント」だ。今回、それをAIに読み込ませ、SNS上の「つぶやき」に見立てて解析。投稿数に換算すると、12万件のデータから心の変化を読み解いていく。
関西学院大学 計量歴史社会学 渡邊 勉教授「どこの時点で何を考えて、どこで変わったのかということを追っていける。かなり意味のある大きなデータかなと思っている」
SNSのトレンド分析をモデルに、日記のテキストを分解。単語の数は630万に達した。それをジャンルごとに分け、頻繁に登場するものほど、大きくビジュアル化する。
1940年の前半。市民の関心の最も多くを占めているのが「生活」だ。その中の「食」をのぞいてみよう。
オムレツ、ポタージュ、アイスクリーム、マカロニ、そしてビフテキ。多彩なメニューを楽しんでいたことがうかがわれる。しかし、この年の後半、食生活に変化が起こる。
代用品、配給、外米。一転して、不自由さを示す単語が現れ始めた。子育てにいそしむ金原まさ子さんの日記には、子供のごはんが質素になってきたことがつづられている。
『八月十一日。外米になってから子供の腹こわしが増えた。今月からは麦が入る。7割外米の麦入りときては大変なり。大人は我慢するが子供はかわいそうだ』
実は住代ちゃんの兄は、幼くして食中毒で亡くなった。そのため、金原さんは娘の体調をひときわ心配していた。
大阪で精米店を切り盛りしていた井上さんは、ピアノを楽しむ余裕も消え失せ、政府に不満を抱くようになっていた。
『政府はいたずらに統制統制といって配給が遅れている。米の入荷がないので配達することもできぬ』
生活の変化の背後にあったのは3年に及んでいた日中戦争だった。戦時体制が強化され、政府は食料を統制。農村部では、軍への米の供出を強いられた。食糧難の影響は、都市部にも広がり、市民の贅沢が禁止された。暮らしに影が差し始めた開戦の前年。市民がアメリカを戦争の相手国として意識し始めたのは、いつだったのか。
埼玉県・浦和に住む女学生、笠原 徳さん。当時17歳。この年1月の日記につづられていたのは、アメリカへの夢や憧れだった。
『午後、シネマを観に行った。昨年度のアカデミー賞を得た「スタア誕生」といふの。ロスアンジエルス、ロマンティックで美しくあざやかだった』
笠原さんは、アメリカの友人と文通し、見知らぬ国への憧れを募らせていた。
これは当時の映像。人々は、ハワイアンやジャズに夢中だった。アメリカ文化が流行し反米感情より、むしろ親近感を抱く市民も多かった。しかし、次第に笠原さんの日記では別の国の存在が増していく。ドイツだ。
『六月二日。訓練されしドイツ軍。中でも英仏より数世紀も進んだ機械化部隊の活躍めざまし。今度の戦い、ドイツに凱歌(がいか)あがらん』
当時、ヨーロッパでは、第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍は破竹の進撃を続けていた。笠原さんのドイツへの関心は、日を追って高まっていった。
『九月二十七日。日独伊、積極的な同盟生まれる』
『軍事・政治・経済 あらゆる方面から完全に一体となり、世界の民族のリーダーとなれる三国の力強さ。ますます心ひきしまる』
17歳の心を捉えた三国同盟。日米開戦の1年3か月前、日本はドイツ・イタリアと同盟を結んだ。日本の狙いのひとつは日中戦争の解決。中国を支援するアメリカやイギリスを、ドイツと組んでけん制することだった。日本は、ナチスドイツの人気に沸いた。デパートにはためくカギ十字の旗。両国の絆を祝うダンスショーに人々は喝采した。アメリカを強く刺激し、太平洋戦争開戦の大きな要因となったとされる三国同盟。危機感を抱く人物もいた。のちに真珠湾攻撃を指揮する山本五十六はこう訴えた。
『三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は、日米戦争を回避する様、極力ご努力願いたい』
ドイツとの同盟が戦争をもたらすリスクを、市民はどこまで認識していたのか。今回集めた市民の日記から、戦争に関連する単語を抽出。その数は延べ2万に達した。それを時系列にそって並べ、戦争への危機感や関心がどのように変化していったのかを探っていく。
1940年から翌年にかけて最も高い値は、日米が開戦した41年の12月だった。一方、グラフの値が最も落ち込む時期がある。三国同盟が結ばれた40年の9月から11月にかけてだ。アメリカとの戦争の危機を感じるどころか、戦争への関心が薄らいでいたと考えられる。
慶應義塾大学 近代日本政治・社会史 玉井 清教授「本来なら国際的危機が、反米論が巻き上がっておかしくないんで意外だったです。この日独伊三国同盟の意味、真意が国民に伝わらなかったという問題を考えないと」
市民の戦争への意識が高まらなかった要因として専門家が指摘したのは「言論統制」だ。政府は三国同盟への批判的な意見を禁止。同時に、反米感情の高まりも警戒していた。
『アメリカへの敵性感情を煽(あお)る記事を禁止する』(内務省 日独伊三国条約 記事取り締まりに関する件)
当時の陸軍大臣・東條英機が言論統制の意図を語ったエゴドキュメントが残されていた。
『英米に対して三国同盟が衝撃を与えるのは必然である。いたずらに排英米運動を行うことを禁止する』
東條ら軍の指導者たちは、この時点ではアメリカとの決定的な対立を避けようとしていた。すでに陸軍は100万を超す大兵力を日中戦争に投じていた。その上、アメリカと対立する余裕はなかったのだ。
これは、この年に撮影された政府のプロパガンダ写真。
日本とアメリカの青年たちによる卓球大会。日米親善がことさらに強調されていた。アメリカとの戦争を招きかねない三国同盟を結んだ日本。その一方で「親米」を演出するという矛盾に満ちた政策を推し進めていた。しかし、そうした日本のご都合主義は、アメリカには通用しなかった。ドイツと結んだ日本にアメリカの世論が反発。厳しい経済制裁を求める声は8割に上った。飛行機の燃料やくず鉄などの重要資源の輸出禁止が矢継ぎ早に決まった。
1941年、太平洋戦争開戦の年が明けると、日本はアメリカの経済制裁の影響であえぎ始める。国は不足した鉄などの資源を補うため、市民から供出させた。街中から金属が消え、経済全体が冷え込み始めていた。
作家・永井荷風は、散歩の途中で見た光景を日記につづっている。
『道すがら虎ノ門より櫻田(さくらだ)へかけて立ちつらなる官庁の門を見ると、今まで鉄製だったのをことごとく木製に取り換えていた。これは米国より鉄の輸出を断られたためである』
市民の日記から、「品切れ」「枯渇」など物資不足に関する単語を抽出。1941年1月以降、増加傾向が顕著になっていく。同じ時期、戦争への関心も高まっていた。戦争に関する単語数も増加に転じていた。
生活の不満の高まりを背景に、アメリカに対する過激な論調が目立つようになっていた。当時のオピニオンリーダー、徳富蘇峰は、1月、ラジオでこう呼びかけた。
評論家・ジャーナリスト 徳富蘇峰『米国は日本が積極的に進んでいけば、むろん衝突する。しかしボンヤリしていても米国とは衝突する。早く覚悟を決めて、断然たる処置をとるがよい』
さらに、当時のベストセラー作家が刊行した本。「日米戦わば」。
『米国なお反省せず。我が国の存立と理想を脅かさんとすることあらば、断然これと戦うべし。日本は、難攻不落だ』
今でいうインフルエンサー的存在。戦争をあおるような言葉が、人々を捉え始めていた。
この頃、雑誌が「日米戦は避けられるか」というアンケートをおこなった。4割もの人々が「避けられない」と回答した。
『米英の妨害を 断然排除して進まねばなるまい』
静岡・伊東市で書店を営む竹下浦吉さんは不穏な未来を予測していた。
『日本がドイツと同盟して東亜に新秩序を確立せんとする以上、どうしても米英との衝突は免れぬと思う』
子育て中の主婦・金原さんも、危機感を抱くようになっていた。
『日米間の情勢についてだいぶ悲観的な話を聞くようになり、ママたちも本気で心配するようになっている。本当に日米戦が起こったら東京空襲も免れないし、住代ちゃんのような弱い子を、お医者もいない田舎に連れて行って、もしものことがあったらと思うと暗然とする。しかし、何という時代に生まれ合わせたものか!強い母にならねばならない』
開戦の8か月前。国の指導者たちは、アメリカとの決定的対立を避けるための外交交渉に乗り出そうとしていた。背景には、陸軍が極秘でおこなったアメリカとの戦力比較のシミュレーションがあった。その報告に立ち会った将校の「エゴドキュメント」が残されていた。そこには指導者たちの「本音」が吐露されている。
『三月十八日、物的国力判断を聞く』
陸軍の中枢で政策決定に関わった石井秋穂中佐。この日、参謀本部で明かされたシミュレーションの結果は、陸軍の首脳に衝撃を与えた。
『誰もが対米英戦は予想以上に危険で、真にやむをえざる場合のほか、やるべきでないとの判断に達したことを断言できる』
資源豊富なアメリカとの戦争が2年以上に及んだ場合、日本側の燃料や鉄鋼資源が不足することが判明。これを受け、陸軍大臣・東條らは、日米戦争は回避すべきと判断した。
軍や政府の決定を知るよしもなかった金原さん。育児日記に、大きな変化が現れ始める。
『今こそ日本の歴史の大転換期であり、住代の育児日記も母の目に映った世の有様(ありさま)を書き記していこうと思う』
6月、金原さんを震撼(しんかん)させるできごとが起きる。
『世界の情勢はまた大変なことになってきた。独ソ開戦、寝耳に水のこのニュースに、世界中大混乱である。日本の立場こそ、デリケートなものになってきた』
ドイツが突如ソビエトへ侵攻し、独ソ戦が勃発。金原さんが敏感に感じ取っていたように、日本の運命を大きく左右することになる。
独ソ戦勃発から10日後。それまでアメリカとの戦争を避けようとしてきた指導者たちが、ここで決定的な判断ミスをおかす。日本軍が南部仏印、今のベトナム南部に進駐したのだ。
『自存自衛上、立ち上がらねばならない場合に備えて、あらためて南部仏印に軍事基地を作るという要求が生まれつつあった』
独ソ戦により、日本にとって背後のソビエトの脅威がなくなった。その隙に、アメリカの禁輸政策のため欠乏する資源を手に入れようと、東南アジアの資源地帯を押さえようとしたのだ。アメリカは、日米のパワーバランスを崩しかねない日本軍の行動に強く反応した。そして、日本への石油の輸出を止めた。石油の9割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、計り知れない打撃だった。軍の指導者たちは、アメリカがそこまで強硬に反応するとは想定していなかった。南部仏印進駐に関わった石井はこう振り返っている。
『大変お恥ずかしい次第だが、南部仏印に出ただけでは多少の反応は生じようが、祖国の命取りになるような事態は招くまいとの甘い希望的観測を包(かか)えておった』
希望的観測が招いた石油の禁輸。アメリカとの戦争に慎重だった海軍も態度を大きく変える。
『ぢり貧になるから、この際決心せよ』
海軍のリーダー永野修身。この捨てばちとも受け取れる言葉の裏には、永野なりの算段があった。
『今後はますます兵力の差が広がってしまうので、いま戦うのが有利である』
石油が底をつけば戦争はできない。その強迫観念が指導者を戦争へと駆り立てようとしていた。事態を冷静に見ていたリーダーもいた。海軍次官、澤本頼雄。開戦に強く反対する。
『資源が少なく、国力が疲弊している状況では、戦争に持ちこたえることができるか疑わしい』
澤本は、戦争に勝ち目はなく、日米の外交交渉での解決を探るべきだと主張した。
『この方向に向かうことこそ国家を救う道である』
開戦まで半年を切っていた7月。市民の生活はいっそう過酷な状況となっていた。物資不足に関するグラフは、さらに高まりを見せる。
『帰りに八百屋に寄り、何でもいいから買おうと思ったが何もなし。あわれ、菜っぱ一束、胡瓜(きゅうり)一本を買うこともできない』 (7月14日 碓井元「戦時庶民日記」より)
『食べ物の悲惨。うまいもの食ったのはいつのことなりしか。肉なしデー。ついに冗談ではなく実現す』(7月30日 古川ロッパ「昭和日記」より)
国民の食料不足を補うため、このころ政府がタンパク源として推奨したのは、昆虫食。カイコから絞り出した油を食用油に、絞りカスでうどんを。さまざまなレシピを発表していた。
生活に困窮する市民。人々は、日々積み重なる不満をどこに向けていたのか。井上重太郎さんは大阪で精米店を営み、かつては政府の米の管理に強い不満を記していた。国が米を統制するようになり価格は下落。個人経営では立ち行かなくなっていった。
『組合の人々は集会して米の共同販売のことを相談している。やむをえない時勢に従うほかはないようになってきた』
国策によって追い詰められ、自分の店をたたまざるをえなくなった井上さん。しかし、逆に国に協力する言葉や活動が増えていく。そのひとつが「隣組」だ。食料の配給など生活を国が統制するための地域組織。国防のための奉仕も求められた。
『近衛首相の放送があったが、愛国心を説き、国民の総力をもって困難の克服を強調された。全国一斉に隣組の常会を開くという。今夜は自分のうちで開いてくれと頼まれている。全国民がはりきっている』
戦時体制のもと、言論を取り締まり、愛国教育を強化してきた日本。多くの国民が協力して国の危機を乗り切るべきと考えるようになっていた。娘が1歳を迎えた金原さんの育児日記に、戦争への覚悟の言葉が現れるようになる。
『住代ちゃんにあげるおやつを探し回って、午前中をつぶしてしまった。パン屋さん全部休み。世界戦争も実現するかも分かりません。住代ちゃんも食べるものも不満足ですが、でもしっかりやっていきましょう。大東亜建設のため、次の日本を背負って立つのは、住代ちゃん、あなたがたなのです。丈夫に育って、立派にお国のために尽くしなさい。パパもまた、一命を国に捧げねばならなくなるかもわかりません』
「お国のため」。生活の不満とアメリカとの戦争の予感が結びつき、出てきた言葉だった。
『アメリカの参戦も時期を早めるだろうとの予測もある。肉がないお菓子がないどころの騒ぎではなくなってきたのだ。しかしこれも、お国のためと思えば我慢する』
慶應義塾大学 近代日本政治・社会史 玉井 清教授「自分たちを苦しめているのは政府でなくて、その背後でイギリスやアメリカが経済的に圧迫していくのでわれわれの生活はどんどん追い込まれていく。自分たちの生活を苦しめている敵である英米を叩いたら、われわれの生活も元に戻る。そういう意味で『お国のため』ということが素直に受け入れられたということだと思います」
人々に湧き上がる「お国のために」という愛国心。しかし、一部に違和感を抱いていた人もいる。
学校の先生をしていた森下二郎さんは、日本の同盟国・ドイツについて、こうつづっている。
『悪がはびこっている。世界はドイツの戦勝に眩惑(げんわく)されて、その行動を肯定し賛美する。悼むべし、哀しむべし』
日中戦争を祝う式典に出た日。
『この四年の戦果、中国の死傷者三百八十万、日本の死傷者十万と報じられた。これが祝うべきことであるというのか。これが喜ぶべきことであるというのか』
戦争に反対する気持ちを押し殺し、表向きは戦争を賛美する教育に手を染めざるをえなかった森下さん。本音をつぶやく場は日記にしかなかった。
日中戦争の膨大な犠牲は、特に地方で覆い隠せなくなっていた。岐阜の農家・野原武雄さんは、高まる米の需要に応えようと農作業が続き、妻を過労で亡くしていた。
『本日は共同植え付け作業 第四日目で、体の具合も大分(だいぶ)疲れてくる。ついに父も倒れて仕事も出来ず床につくようになりたり』
7月の日記には、この頃、村で立て続けに起きていたことが記されていた。
『本日またもや我が村に五名の〇〇あり。二回目の〇〇故、ひとしお お気の毒の至りに、たまらぬ次第なり』
伏せ字は「召集」と思われる。兵士の動員に関する言葉は、機密に関わるとして軍からとがめられる恐れがあった。農家の次男、三男が続々と召集され、戦地へと送られていた。実は、野原さんの息子二人も徴兵され、中国の戦場へ。一人は瀕死の重傷を負った。農村部が日本の戦争をさまざまな形で支えていた。
4年目を迎えた日中戦争には、100万人以上が動員。戦死者の数は18万人以上にのぼっていた。
10月。開戦の2か月前。日米は対立を深めながらも、ぎりぎりの外交努力を続けていた。アメリカが日米交渉の条件として求めたのは「中国からの日本軍即時撤兵」。しかし、その要求は陸軍にとって受け入れがたいものだった。
日中戦争での戦死者18万人以上。東條たち陸軍首脳は、撤兵はその犠牲を無にするものとして受け止めていた。では、アメリカとの戦争を選ぶのか。東條は悲壮な面持ちで漏らしたという。
『支那事変(日中戦争)にて数万の命を失い、みすみす撤退するのはなんとも忍びがたい。ただし日米戦となれば、さらに数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えねばならないが、決めかねている』
6日後、東條は決断を首相に伝えた。
『撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。数十万人の戦死者、これに数倍する遺族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる』
泥沼の日中戦争がもたらした戦死者、耐え忍ぶ人々。指導者たちはその膨大な犠牲に判断を縛られていた。
10月18日。内閣総理大臣となったのは東條英機。このとき、天皇は日米交渉の継続を望んでいた。東条内閣発足の際、側近に打ち明けた言葉がある。
『いわゆる、虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね』
アメリカに強く出るべきとする陸軍強硬派を、陸軍の東條に抑えさせる。それにより、戦争を避ける道を探ろうとしていたのだ。しかし国民は、軍人出身の首相の誕生に異なる期待を抱いた。
『いまや死中に活を求めるほかはないのである』(10月17日「頴原退蔵日記」より)
『いよいよ臨戦色濃厚な方向へ進む』(10月20日 山中宏「私の戦時財界日誌」より)
『前内閣に類を見ない思い切ったことを断行できるのではあるまいか』(10月19日「小長谷三郎日記」より)
アメリカから再び、中国からの撤兵を求められた日本。指導者たちは開戦を決定する。
多くの人たちが、新たな戦争は自らのうっ屈を晴らしてくれると信じた。国の米配給事業に携わるようになっていた井上重太郎さん。
『宣戦の詔書(しょうしょ)が放送された。自分はそれを聞いて涙が出た。誰が感泣せずにいられようか』
息子二人を徴兵され、重労働にあえいでいた米農家の野原武雄さん。
『大戦果を得たり。まったく我が海軍の強さに驚くほかない。大東亜戦の開戦ここに始まる』
わずかだが、暗い予感を日記に記した人もいた。長野県の教師・森下二郎さん。
『国民は大よろこびでうかれている。しかしこれくらいの事で米・英もまいってしまうこともないから、この戦争状態はいつまで続くかわからない。あてのつかない戦争である』
金原まさ子さん。娘が1歳10か月になったばかりの日だった。
『血わき、肉躍る思いに胸がいっぱいになる。この感激!一生忘れ得ぬだろう今日この日!爆弾など当たらないという気でいっぱいだ』
開戦の一体感に身をゆだねた日本人。しかし、その先に見たものは、命も国土も焼き尽くしていく戦争の正体だった。
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太平洋戦争開戦78年
1945年12月8日、日本陸軍がマレー半島に上陸、その後海軍機動部隊がハワイ・真珠湾を急襲して太平洋戦争が始まった。3年8ヶ月間に及んだ戦争で日本人310万人、アジア太平洋地域全体では2000万もの命が失われたとされる。
太平洋戦争直前、日本は大陸に侵攻し日中戦争を戦っていた。南京陥落後、中国国民政府を率いる蒋介石は内陸部の重慶に首都を移して徹底抗戦を続け、毛沢東率いる八路軍が国共合作によって華北を中心に対日ゲリラ戦を展開し、戦況は膠着していた。
1945年12月8日、そうした戦況にもかかわらず日本は、アメリカ、イギリス、オランダなどと戦端を開いた。しかも、国民の多くがその開戦を熱狂的に受け入れた。
開戦前、戦争終結の見通しが見えないまま大陸での戦死者は増え続け、物資は統制されて暮らしは彩りを失い生活の息苦しさは高まっていた。それなのになぜ人々は新たな、しかも複数の強国を相手にする戦争を支持したのか。
太平洋戦争に至るまでを、メディア、特に映像のニュースは何をどのように伝えていたのかを見つめると、日本人がどのように戦争を受け止めていたのかを探れないか、太平洋戦争への道を敷いていく上でメディアがどのような役割を演じたのか、一端を知ることができるのではないか。
そこで、現在ネットで閲覧できる当時のニュース映画、「日本ニュース」をデジタルアーカイブ 、「NHK戦争証言アーカイブス」で一覧視聴してみた。
映像ニュースは、人々が戦争を受け入れるために何をしたのか
開戦当時、まだテレビ放送は始まっていない(NHKのテレビ放送開始は1953年)。人々が唯一国内外の出来事を映像で知ることができたのは映画館で上映された「日本ニュース」である。
「日本ニュース」は太平洋戦争の直前の1940年から戦中、戦後にかけて映画館で上映されていた。
1940年6月に第1号の上映が始まり、戦争が終結した昭和20年夏までは、戦争遂行と国家総動員のためのプロパガンダを目的にした国策映画である。軍官当局の検閲を受け、あるいは当局指導のもとで制作されていた。

当時、人々が接していたメディアはラジオや新聞、雑誌などがあり、ニュース映画はそのひとつだったが、唯一の動画であり、映像の持つ訴求力で人々の意識に強く働きかけたはずである。
ここでは、1940年6月から太平洋戦争前夜までの18ヶ月間(第1号から79号まで)、「日本ニュース」が何をどのように伝えたのかを見る。日中戦争に加えて新たな戦争へ向かって行く激動の1年半である。
太平洋戦争の1年前というのは、泥沼化した日中戦争を打開しようと日本は空陸の大攻勢をかけながらも共産党軍も加わった大規模な反攻もあり、混乱に陥っていた時期である。
一方、欧州戦線では、ドイツがフランスを屈服させ、さらにソビエトへ侵攻。ドイツと同盟を結んだ日本は、フランスの支配力が空白化するとの見通しから北部仏印(現在のベトナム北部)へと進駐を進める。米英は強く反発、日本への経済制裁を強化した。
そして、1941年4月「日米交渉」がスタートする。その間にアメリカの神経を逆なでするように日本はさらに南部仏印へ軍事進駐を行い、米英による石油の禁輸など経済制裁はいっそう強化され、孤立化した日本は太平洋戦争へと突き進む。
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この18ヶ月間の「日本ニュース」は、収束のめどが立たない日中戦争を戦いながら日本がいったい何を選択しようとするのかを映し出している。同時に、権力側のコントロール(検閲や指導)を受けて制作されているので、新たな戦争を受け入れる環境を整える役割を果たした。
「日本ニュース」は、朝日、毎日(大阪毎日・東京日日)、読売、同盟といった大手新聞・通信社のニュース映画部門が統合されたもの、当局による生フィルムの統制と検閲を容易にするための統合だった。「日本ニュース」は1940年6月に上映を開始した。前年の1939年に施行された「映画法」によって全ての映画館で上映することが強制された。
1941年1年間の日本の映画館入場者は、延べ5億人。国民一人当たり年に7回見た計算になる。
新聞、ラジオ、ニュース映画といった報道メディアは、1931年の満州事変以降、軍部の膨張と右派勢力の圧迫で軍と一体化した報道一色になる。元々日本の新聞は戦争ごとに大きく部数を伸ばしていて、反軍的な報道をすれば、右翼と軍が一体となって不買運動を起こす状況であった。新聞各社のニュース映画部門も新聞と同様の厳しい当局の検閲と指導の元でしか制作ができなかった。
そうした制限下でどのようなニュースを制作していたのだろうか。
現在と変わらないニュース制作手法
この頃すでに、現在のテレビニュースと変わりのない伝え方が確立されていることがわかる。映像には、字幕、ナレーション、音楽、効果音がつけられ、インタビューや演説などは音声をしっかり聞かせる演出になっている。編集(カットの長さやアップとロング、ミドルサイズの映像の組み合わせ方)も違和感はない。実際の出来事から公開までは早ければ2〜3日で、中国戦線もフィルムを航空機で輸送、短時日にポストプロダクション(編集から収録までの作業)されている。
ナレーションの大きな特徴は、観客、制作者、軍部の一体感を打ち出している点だ。自国のことは「我が国」や「我々」、「我が軍」と表現し、航空部隊は「荒鷲」、海軍なら「海鷲」、陸軍航空部隊は「陸鷲」と表現し、常に力強さを打ち出している。戦闘シーンには勇壮な音楽がつけられ、砲弾の炸裂音も強調される。ナレーションでも「赫赫たる戦果」、「神速果敢の我が攻撃」、「頑敵を覆滅し」など漢語調の威勢の良い言葉で「強さ」を強調する。

勝ち続けても終わらない戦争
この18ヶ月間で最も多く取り上げられたニュース項目は、もちろん「日中戦争」だ。1937年に始まり、日本は100万もの将兵を送り込んでいた。ほとんどの日本人は、自分の家族や友人、あるいは職場の同僚などが大陸に送り込まれていたはずだ。
「日本ニュース」では200人もの取材陣を中国戦線に送り込み、ほぼ毎号陸海軍の戦いぶりを伝えた。日中戦争に関わる項目は77本で、そのうち地上戦が29本、空襲が22本である。多い時には複数項目で戦闘が取り上げられる号がある。
1940年9月3日の13号では、「下川上陸」、「桂林爆撃」と地上戦に続いて空襲について伝えている。
当時は、一週間経つと次の号が公開されている。
デジタルアーカイブによってまとめてこのニュースを見て気づいたのは、日中戦争の戦闘のニュースがワンパターンの構成で制作されていることであった。定型化していたのだ。
例えば、4号の「皇軍宜昌占領重慶前衛の牙城潰ゆ」では、敵前上陸、城内突入、激しい戦闘、逃げ去る中国兵、掲げられる日の丸という構成だ。他の号を見ても、地上戦を伝えるニュースのほとんどは地名が異なるだけで、ほぼこの構成に収まる。最後のカットが万歳の場合も多い。

空襲についてのニュースも同様。攻撃隊の離陸〜爆撃して敵基地などを粉砕〜全機無事帰還である。ニュースによっては、襲ってくる中国軍戦闘機を撃退する場面もある。

もう一点わかったことは、日本軍の被害については全く言及していないことである。さらに、彼我の死傷者や避難民の姿も一切出てこない。日本軍も10万以上、中国は軍民合わせると数十万という死者が出ているにも関わらず、死体は映らない。生きている中国兵の姿も全ニュースのうち、2本に出てくるのみである。
上記にあるように、空襲のニュースは、最後はすべて全機無事帰還で終わっているが、実際には、陸海軍機ともにかなりの数が失われている。陸軍の爆撃機に同乗して撮影にあたったカメラマンの川口和男は、1940年6月の重慶への爆撃行では陸上攻撃機が二機撃墜されたと証言している。

がんじがらめの検閲と指導
では、どうしてこのようなニュースになるのか。それは、当局の検閲と指導に従わなければならない構造にニュース制作者側ががんじがらめになっていたからだ。
陸海軍の作戦に関するニュースは、撮影対象も限られた上に、撮影した素材全てを陸海軍報道部に提出し、許された映像だけを編集することができた。撮影対象などを当局に強要されることもあった。編集が終わり、ナレーションがつけられたものは、内務省と情報局に提出し検閲を受け、さらに陸海軍報道部も重ねて検閲した。完成してもナレーションのトーンが暗いだの、明るいだのと文句がつけられて撮り直しも行われたという。皇室に関するニュースは、宮内省も検閲に加わった。
日中戦争についてのニュースから国民に伝わったのは、勇壮・優勢な日本軍が中国軍を蹴散らして次々に占領地を広げ、中国国民政府の拠点である重慶を圧迫し続けているということである。
しかし、どうだろうか、毎週同じような勝ち続けることを伝えるニュースは何を人々にもたらすだろうか。どんなに戦闘に勝利しても“終わらない”戦争ということではないか。上陸、突撃、激しい戦闘、敵の潰走、上がる日章旗、既視感を覚えるニュースが続く。
ニュースを見れば見るほど、「日中戦争」が行き詰まり泥沼化していることを否が応でも感じさせたはずだ。
日中戦争さなかに新たな戦争を始めた日本
勝利を伝え続けるこのニュースが上映された1940年頃は、長引く戦争と戦死者の増大、物資の不足に、日本人は先行きを暗く感じていた。
1941年12月の開戦の日を迎えた著名人の書き残した文章に直前までの重苦しい空気が読み取れる。
戦後、東大総長になった南原繁は、太平洋戦争開戦時について記している。「支那事変(日中戦争)というものは、はっきりとした情報があたえられていないにもかかわらず、憂鬱な、グルーミーな感じだったのに、それがなにかすっきりしたような、この戦争なら死んでもいいやという気持になりましたね」。
フランス文学研究者の桑原武夫は、「暗雲が晴れた。スーッとしたような気持」と書き、文芸評論家の河上徹太郎も「今本当に心からカラッとした気持でいられる」と記している。

日本軍の被害や死体を見せないなどは、検閲や当局の「国民に対して厭戦気分を与えないため」という指導によるものだが、その制限の中で制作されることになったがゆえに、一方的な勝利を伝える画一的な表現の連続となり、皮肉なことに「勝利を続けても終わらない戦争」というイメージを観た人々に与えたのである。
だからこそ、その鬱屈した気分を打ち払うようなイベント(米英との戦争)を人々は求めたのかもしれない。
日本ニュースは“フェイク”だったのか
1940年頃、映像ニュースの話法はすでに確立されていて、ニュース制作者は、撮影、編集から音楽、効果音、ナレーション、インタビューといった音声表現を巧みに組み合わせ、視聴する人々の心に強く働きかける手法を持っていたのだ。
それだけに、事物を意図したように効果的に伝えることができた。ただ、当局の指導と検閲の中にとどまっていたために、1カットずつの映像には事実が映し出されていたにせよ、出来上がったニュースは権力者が意図した方向に人々を誘導しようとした、いわばフェイクニュースだったと言えるだろう。
現在、ネットに出てくる映像コンテンツが内容の真偽が確認されないまま拡散され、時にはフェイクとして人々に届く。
「日本ニュース」を見るとき、今を生きる私たちは何を意識すべきか。まず、メディアの送り出すコンテンツが、事実・真実を伝えているのかを見極めるリテラシーを身につけることが求められる。
さらに、権力の影響を排除しメディアの自律的な制作環境を私たち市民が主体となって確保することも欠かせない。この「日本ニュース」は、過去を知るためだけでなくメディアの今と未来を考える上で重要なコンテンツになりうるはずだ。
早稲田大学法学部卒業後NHK入社 沖縄放送局で沖縄戦や基地問題のドキュメンタリーなどを制作。アジアをテーマにした情報番組「アジアナウ」デスク。報道局おはよう日本チーフプロデューサーをへて、「戦争証言プロジェクト」・「東日本大震災証言プロジェクト」編集責任者として番組とデジタルアーカイブを連携させる取り組みで、第37回、39回の放送文化基金賞受賞。その後、Yahoo!ニュースプロデューサーとして全国の空襲体験を収集、アーカイブして配信する「未来に残す戦争の記憶」の制作にあたる。現在 立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授 東京大学大学院情報学環 地方紙デジタル化活用プロジェクト委員
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2014年12月で、太平洋戦争が始まって73年。NHK
昭和16年(1941年)12月8日、日本軍が、当時の英領マレーとアメリカ・ハワイの真珠湾を奇襲攻撃。太平洋戦争がはじまりました。
あの日、この戦争が始まったことを人々はどのように受けとめたのでしょうか。
太平洋戦争が始まったということは、いずれ自らが戦場に行く、あるいは、自分の家族を戦場に送り出すことがいつでも起こりうることを意味しました。
開戦の日、人々は戦争が始まったことをどのような気持ちで受け止め、どう行動したのでしょうか。証言や当時のニュース映画で振り返ります。
ハワイ・真珠湾攻撃に向かう艦上爆撃機
開戦の報を聞いて皇居に駆け付けた人々
1. 市民は開戦をどううけとめたのか
昭和16年12月8日、当時のメディアは、号外や臨時ニュースで戦争が始まったことを伝えました。人々はどう受け止め、学校や職場、地域でどんな行動をしたのでしょうか。
開戦と緒戦の勝利を祝して、さまざまな行事が行われたといいます。また、家族や地域の人々が出征する時にどのように送り出したのでしょうか。
東京で行われた祝賀の行進
開戦を伝える号外を読む人々
2. 開戦の日、戦場にいた兵士たち
昭和16年12月8日(現地7日早朝)、海軍の空母機動部隊は、ハワイ真珠湾にむけて航空部隊を発進させました。
真珠湾攻撃に参加した元搭乗員の方々の証言で、戦争の火ぶたを切った空襲の様子を振り返ります。
また、同じ日、陸軍はマレー半島に部隊を上陸させました。太平洋戦争初日の攻撃に参加した元陸軍兵士の証言です。
そのうち、陸軍第一師団司令部に主計将校として勤務していた佐々木栄一郎さんは、国力に格差があるアメリカとの戦争に大きな不安を感じたといいます。
日本軍の攻撃を受けるハワイ・真珠湾
マレー半島を進む陸軍戦車部隊
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![]() 空母・瑞鶴 |
![]() 鈴鹿海軍航空隊 |
![]() 広島・歩兵第11連隊 |
![]() 広島・歩兵第11連隊 |
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![]() 広島・歩兵第11連隊 |
![]() 徳島・歩兵第143連隊 |
![]() 近衛師団 |
3. 日本と戦うことになった米英の将兵たち
一方、「敵国」となったアメリカやイギリスでは、どうだったのでしょうか。アメリカ軍やイギリス軍の元将兵の証言で、戦争が始まった日を振り返ります。
そのうち、海兵隊の中隊長として沖縄戦を戦ったフランク・ヘイグラーさんは、大学生だった開戦時に、日本軍による真珠湾奇襲攻撃の復讐を誓ったといいます。
4. 二つの祖国のはざまで~日系二世と開戦~
開戦によって、大きく引き裂かれた人々がいます。日系アメリカ人の人々です。当時の日系人は、開戦によってアメリカ本土では、隔離政策がとられ強制収容所に入れられました。
日系二世の若者の中には、アメリカへの忠誠を誓って米軍に入隊する人もいれば、日本への愛国心から、米軍に入ることを拒否するなどし、アメリカの市民権を失った人もいました。
また、二世の中には、一世の親が故国で教育を受けさせようと日本へ送り、開戦時に日本に滞在していた人が少なくありません。こうした人々は、二つの祖国の開戦をどう受け止め、その後どんな体験をしたのでしょうか。アメリカにいて強制収容された人々と、多くの移民を送り出していた広島で被爆した日系二世の人々の証言です。
昭和16年(1941年)12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃。アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えました。また、その1時間以上前には日本陸軍がイギリス領マレー半島に奇襲上陸しています。同日、日本はアジアや太平洋の各地でいっせいに軍事行動を開始。3年9か月におよぶ太平洋戦争の始まりでした。
昭和16年12月8日のラジオ放送は、ラジオというメディアの威力をいかんなく発揮したものでした。国内はもちろん、前の年に海底ケーブルで結ばれた満州(現・中国東北部)をはじめ、朝鮮半島など、当時日本の勢力下にあった地域でも、開戦のニュースは放送され、多くの人々がラジオに耳を傾けました。当時多くの家庭では、夜間のみ電力の供給を受けていましたが、この日政府は昼間にも無料で送電を行い、次々と戦果を伝えました。開戦の日のラジオ放送から、その日の報道を振り返ります。
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街頭ラジオに聞き入る人々
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午前7時の臨時ニュース
「太平洋戦争開戦」 -
正午の放送より
「大詔を拜し奉りて」 -
午後0時半のニュース
「真珠湾攻撃の続報」