競輪人間学 絶対はない<分かっているけど>

2021年12月10日 19時09分39秒 | 未来予測研究会の掲示板

FⅠ 小田競輪 神奈川新聞社杯争奪戦・CTC杯

12月10日 2日目

9レース 準決勝戦

並び 5-2-5 6(単騎) 7-3-1

レース評
野口の主導権が有力。地元で気合が入る桐山の番手差し。大塚がを固めるが、高橋−佐藤も良いセットだし、小林の強襲に特注

オッズ 

一番人気2-5(2.7倍)

二番人気5-2(4.9倍)

2-5-4(4.9 倍)
5-2-4(10.9倍)

我孫子の勝負師と古河の解説者が、揃って「2-5ー4で決まりだな」と明言する。
その<うんちく>に納得して、車券買いに賛同した。
うんちく:ある分野について蓄えた知識のこと

だが、「まさかの本命2番選手の落車!」
その落車の原因となった7番選手がまさかの失格になる。
これが競輪!
繰り返されるまさかの、想定外なのだ。
つまり、絶対かたい!-は思い込みであり、車券買いの決断には勝負には大きな落とし穴があるのだ。

期待した選手の失格による落車は、予想が到底及ばない分野であり、まさに<魔性>仕業とも想われる分野なのだ。




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 4 大塚 玲   11.1   内突繰上り
× 2 3 佐藤 友和 1車身1/2 11.5 S 掬われ落避
  3 6 大澤 雄大 1/2車輪 11.3     切替落避け
4 1 小林 大介 6車身 12.0     前が掬われ
5 5 野口 裕史 大差       逃争い敗れ
2 桐山 敬太郎         内追上接触
7 高橋 晋也       B 突張逃斜行

26歳で『大腸がん』阪神・原口選手「異変を感じたら病院に行ってほしい」

2021年12月10日 18時51分36秒 | 野球

現役アスリートの“がんサバイバー”が語る経験とプロ野球選手としての思い

12/10(金) 16:42配信

MBSニュース
阪神タイガース 原口文仁選手

プロ野球・阪神タイガースの原口文仁選手(29)は3年前、26歳の時に大腸がんを公表し、その後治療を行いながら復活を遂げました。今も通院しながら現役を続ける原口選手に今年11月下旬、がんサバイバーとしての思いを聞きました。

人間ドックを受け「がん」と診断 手術後は後遺症に苦しむ
阪神タイガース 原口文仁選手

原口文仁選手は高校卒業後、ドラフト6位で阪神タイガースに入団。得意のバッティングでレギュラー争いを繰り広げ、チームに欠かせない存在になっていた26歳の冬、大腸がんと診断されました。疲れが取れない日が続き、人間ドックを受けたそうです。

MBSニュース

(阪神タイガース 原口文仁選手)
「大腸の内視鏡検査を先生がしてくださって、内視鏡の機械を出した時に先生に『隣の部屋に来てください』と言われて、『私の所見と経験からがんです』と。(Qそのときの感覚は?)驚いたのが一番。食事面や体調面は、体が資本なので気を付けていたつもりでしたが…」

がんを公表した時の原口選手のコメント

手術を受ける直前の2019年1月24日、がんを公表。「この病気になったことは自分の使命」と闘病の思いを綴っていました。

手術では大腸13cmを切除した原口選手

手術では大腸13cmを切除。翌日から院内を歩き、リハビリを始めますが、後遺症に苦しみます。その1つがトイレです。大腸が短くなって便が早くなり、1日に20回以上もトイレに行くほどでした。

(原口文仁選手)
「今まで食べられたものにアレルギーが出てしまったり、お腹を下してしまったりとか、術後の体の変化をすごく感じました」

劇的な一軍復帰…一方で試合に出場しながら『抗がん剤治療』
原口選手の著書「ここに立つために」

そこからわずか4か月後、2019年6月4日に行われた一軍の試合に代打で出場し、タイムリーヒット。大勢のファンと仲間に迎えられて復帰を果たします。復帰5日後の甲子園、この日も代打の切り札としてバッターボックスに立った原口選手は、サヨナラタイムリーを放ち、見事な復活を遂げました。

MBSニュース

(原口文仁選手)
「満員のなかで、敵味方関係なくたくさんの拍手・声援をいただいてすごく僕も感動しましたし、ここから第二の野球人生スタートという気持ち」

試合に出場しながら抗がん剤治療を受けていた原口選手

順風満帆な復帰と多くの人が思いましたが、当時、試合に出場しながら抗がん剤治療を受けていたのです。医師から告げられていたステージは「3B」で、初期ではありませんでした。そこから復帰できたことを伝えたらより多くの人の勇気や希望になると知り合いの医師に背中を押され、シーズン終了後に「ステージ3B」と公表しました。

(原口文仁選手)
「僕が病気を克服して乗り越えて頑張っている、タイガースのユニフォームを着ているってすごく大きいと思うんです。(ステージを公表することも)プロ野球選手としての一つの使命ではないかとすごく考えました」

MBSニュース

現役アスリートのサバイバーとして通院を続ける原口さんが今伝えたいことは…。

(原口文仁選手)
「早期発見、早期治療。『おかしいな』という異変を感じたら病院に行ってほしいという気持ちが一番です」


(2021年12月9日放送 MBSテレビ「よんチャンTV」より)

 


序二段から再起した照ノ富士語録 

2021年12月10日 12時36分26秒 | 社会・文化・政治・経済


2021年07月18日20時34分 時事通信

新横綱になってから2場所連続優勝は大鵬以来、59年ぶり。

引退を考えたこともった。

「一人でも<頑張っているな>と思ってくれる人がいるならば、その人のためにも、もう一度土俵に立とう」と決めた。

復帰後は、序二段や三段目にも負けたことがある。


「体がついていかない。そこまでの稽古をしていないから、不安はある」(2019年春場所、序二段で土俵に戻って)
 「状態は少しずつ良くなってきている。相撲を取れるだけで気持ちがいい」(19年夏場所)
 「何でだろう。前みたいに熱くなるものがなくなったのかな」(19年夏場所、土俵際の詰めを欠いて初黒星)
「毎場所、10%ずつぐらい戻っている。全盛期の100%には戻らないと思うが、70%ぐらいにまで戻せればいい」(19年名古屋場所)
 「自分が納得できる体の張りになってきた。自信が出てきた」(19年秋場所、勝ち越しを決めて)
 「少しずつ、すり足もできるようになった。下半身に粘りが出てきている」(19年九州場所)
 「久しぶりで緊張した。声援が多くて気持ち良かった」(十両に復帰した20年初場所で白星発進)
 「自分もまだ20代。30歳を超えてから強くなる人もいる」(20年春場所、十両で若手の琴勝峰を下して)
 「どこまでいけるか分からないが、やれるところまでやる」(20年春場所、14日目に10勝目)
 「最後に、こうやって笑える日が来ると信じてやってきた」(20年7月場所、返り入幕で幕尻優勝)
 「(両膝に)爆弾を抱えてやっている。だらだらしている暇はない」(20年11月場所前の朝稽古で)
 「毎日の積み重ねがあったから、こうして結果を残している」(20年11月場所、御嶽海を破って2桁白星)
 「小さい人だけでなく、でかい人でももらえてよかった」(21年初場所、2場所連続の技能賞)
 「やっとたどり着いたと、ほっとしている。やる限りは、ずっと上を目指していきたい」(21年春場所後、大関昇進の伝達式を終えて)
 「いつ、やめても惜しくない、自分で納得できる終わり方をしたい。それだけ」(21年夏場所の優勝から一夜明けて)

 

 


政府と敵対!田中正造はどう足尾銅山鉱毒事件に立ち向かった?

2021年12月10日 12時36分26秒 | 社会・文化・政治・経済

2019.08.04 colorf

田中正造といえば、足尾銅山鉱毒事件。

反対に、足尾銅山鉱毒事件といえば田中正造。

このように、セットで覚えている方も多いと思います。

では具体的に、足尾銅山鉱毒事件とはどのようなものだったのでしょうか。

そして、それに対して田中正造はどのように立ち向かったのでしょうか。

足尾銅山とは、栃木県にある銅山のことです。

明治時代に古河市兵衛(ふるかわいちべえ)という人物が近代化し、産出量全国一の銅山へと発展させました。

しかしその反面、煙害や木材の乱伐が山林にダメージを与え、大洪水がたびたび発生することになります。

また有害物質を含んだ廃水を垂れ流すことで、渡良瀬わたらせ川流域の漁民・農民たちに甚大な被害を及ぼしました。

すなわち近代化と引き換えに、多くの犠牲を払うことになったのです。

そこで被害を受けた農民たちは、反対運動を始めました。

しかしそれは、思った以上に大変な仕事だったのです。

政府に質問書を提出

衆議院議員を務めていた田中正造は、まず政府に鉱毒被害に関する質問書を提出します。
ですが、政府は問題を解決する姿勢を見せるどころか、冷ややかな対応を行いました。

なぜなら当時の産銅業は重要な外貨獲得産業として、政府が保護・育成を図っていたからです。

さらに被害と足尾銅山に因果関係があるとは考えられていなかったため、当初は誰も田中の意見を取り合ってくれなかったとか。

そこで田中正造は農科大学(現在の東京大学農学部)の助教授に調査を依頼し、因果関係を明らかにしました。

また分が悪いことに、農商務大臣・陸奥宗光の実子が古河市兵衛の養子になっていたのです。

そこで政府は問題を大きくしないため、被害農民と古河との間に示談交渉を締結させました。

それはわずかな補償と引き換えに、一切苦情は受け付けないとするものでした。

 

対政府鉱業停止運動を組織

かといって、被害はなくなるどころか拡大していきます。

そこで田中正造は、示談と日清戦争のために中断されていた反対運動を「対政府鉱業停止運動」として再組織しました。

そして被害農民たちが東京に押し寄せたことで、足尾銅山鉱毒問題は社会問題へと発展していきます。

すると、やっと政府は鉱毒調査会を設置し、古河には鉱毒予防工事命令、被害農民たちには免租処分としました。

しかしこれもうまくいかず、被害農民たちは再び東京へと向かうことにしましたが、

その途中、群馬県の川俣という場所で警官からの激しい弾圧を受けます(川俣事件)
天皇へ直訴するも失敗

もう政治に期待することはできないと悟った田中正造。

厳しい被害農民たちの実情を訴えるため、田中は天皇に直訴を試みます。

当時、天皇に直訴するなどありえないことで、まさに命がけの行動でした。

黒の羽織・はかま姿の田中正造は直訴状を高く掲げ、明治天皇の乗る馬車に駆け寄ったのです。
しかし、警官に取り押さえられてしまい、直訴は失敗に終わります。

ところがこの行為により、反対運動は活性化。

政府も対応せざるを得ない状況となり、第二次鉱毒調査会を設置するに至りました。

きょうのまとめ
今回は足尾銅山鉱毒事件に対して、田中正造はどのように対応したのか簡単にご紹介しました。

① 足尾銅山鉱毒事件は、産業の近代化と引き換えに起こった悲劇だった

② 田中正造は当時の政府に質問書を提出するも、冷ややかな対応を受けた

③ 反対運動を行うも、弾圧を受けた

④ 天皇に直訴するも失敗したが、最終的には政府を動かした

こちらのサイトでは他にも、田中正造にまつわる記事をわかりやすく書いています。

さらに理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!


 

 

 

 

 


【「青天を衝け」外伝 渋沢栄一を動かした言葉】

2021年12月10日 12時28分36秒 | 社会・文化・政治・経済

古河財閥の創業者・古河市兵衛「生まれたばかりの銀行を潰し、日本の将来を台無しにしてはならぬ」 自らの資産も供出 

2021.3.12 .zakzak

そんな折、江戸から明治初期にかけて「豪商」でならした小野組が経営難に陥った。渋沢は焦った。同行は巨額の融資をしていた。何としてでも回収せねばならぬ。

進退窮まった栄一は、小野組の経営責任者、古河市兵衛に直談判する。古河は懐から1枚の紙を取り出した。小野組の資産に加え、古河の個人資産も供出するとあった。

 「生まれたばかりの銀行を潰し、日本の将来を台無しにしてはならぬ。私は無一文になっても構わぬ」

 この席で、その紙片を見た栄一は男泣きに泣いたという(『その時歴史が動いた19巻』より)。

 小野組は翌年、閉店に追い込まれたが、銀行は当座救われた。ただ、銀行の危機はその後も続く。今回の貸し倒れの危機の教訓を生かして、栄一は国立銀行条例の改正を試みる。この時、その改正案に理解を示したのが、当時大蔵卿だった、大隈重信だった。これも人の縁、巡り合わせというべきものだろう。

 ところで、先述の古河市兵衛は栄一の援助で、その後、鉱山経営に乗り出し、古河財閥をつくっていった。その市兵衛所有の足尾銅山が起こした鉱毒事件は、日本の歴史に汚点も残した。

 ■松平定知(まつだいら・さだとも) 1944年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、69年にNHK入局。看板キャスターとして、朝と夜の「7時のテレビニュース」「その時歴史が動いた」などを担当。2007年に退職。現在、京都芸術大学教授などを務める。

 


田中正造は、足尾鉱毒問題の解決のためにどんな努力をしたのか

2021年12月10日 12時23分14秒 | 社会・文化・政治・経済

(1)国会で演説
被害状況を調査した田中正造(当時51歳)は、あまりの被害のひどさに、鉱毒の解決のために、自分は一生をささげようと決心しました。
そして、翌年、国会で、「政府は、すぐに銅の生産をやめるように命令すべきである。」と演説しました。
これは、我が国の公害問題を取り上げた最初の出来事でした。
しかし、政府は、富国強兵策(ふこくきょうへいさく)など国の事情もあり、被害の原因が、鉱毒によるものかどうかわからないとして問題にしませんでした。


(2)被害状況の調査を専門家に依頼
正造は農科大学(現在の東京大学農学部)の助教授に頼んで原因を調査してもらったところ、「銅山から流れ出る水には、銅・鉄分・硫酸が非常にたくさん含まれている。それが原因で動植物に被害が出る。」という結果が出ました。
政府もその結果を受けて、ようやく鉱毒を起こさないために新しい機械を取り付けるよう命令しました。
ところが、その機械では、鉱毒をくい止めることはできませんでした。
その後も正造は、何度も国会で訴えましたが、鉱毒問題は一向に解決しませんでした。


(3)明治天皇(めいじてんのう)に直訴から今年で120年
農民が願い出ても、国会で訴えてもだめだと知った正造は、明治天皇への直訴しかないと、命がけの覚悟を決めて議員をやめました。
明治34年(1901年)12月、国会開会式の日、正造は黒の羽織、はかま姿の正装で被害の様子を書いた直訴状を高く差し上げながら、明治天皇の乗る馬車めがけてかけよりました。
正造は、すぐに警官に捕まってしまいました。
しかし、この事件がきっかけとなって世論が盛り上がり、とうとう、政府は鉱毒調査会を作ることになったのです。
この調査会が示した計画は、渡良瀬川(わたらせがわ)・思川(おもいがわ)・巴波川(うずまがわ)の合流する地点の谷中村をつぶして遊水地を作り、洪水を防ぐというものでした。
しかし、これでは本当の解決にはならないため正造たちはこのやりかたに反対しました。
何回も国や県に訴えましたが、そのたびに取り下げられ、明治44年(1911年)には谷中村に遊水地がつくられました。
昭和(しょうわ)48年(1973年)、日本の公害問題の原点といわれる鉱毒問題を起こした足尾銅山が閉山となりました。
田中正造は、この問題を解決するために、73歳で息をひきとるまで身をささげて運動を展開し、正義を貫き通したのです。


見えないのに価値を生む「無形資産」

2021年12月10日 12時11分21秒 | 社会・文化・政治・経済

良好な人間関係 知識、健康など、豊かな人生を実現するための<形のない資産。

長寿社会では、より多くの変化に対応する能力が求められている。

そのためには、自身の役割を変化させ、新しい知識を習得し自身の

活力強化のために投資するとった、「無形資産」を増やす努力が欠かせない。

自分自身を変えていくために必要な「変身資産」だ。

人的ネットワークや新しい経験への開かれた姿勢、また深い自己認識などが「変身資産」。

コロナ禍では、健康や人とのつながりなど、人生にとって何が本当に重要なのかを考える機会となった。

人生のマルチステージ

人生100年時代、働き方はマルチステージへ. ワーカー、家族、企業、政府に求められる変化とは. [リンダ・グラットン]ロンドン・ビジネススクール 。

人生100年時代、働き方はマルチステージへ

ワーカー、家族、企業、政府に求められる変化とは

[リンダ・グラットン]ロンドン・ビジネススクール教授

2016年10月、WORKSIGHT LAB. エグゼクティブセミナー「THE 100-YEAR LIFE~100歳まで生きる時代のワークスタイル~」にて、『LIFE SHIFT(ライフ・シフト)――100年時代の人生戦略』を執筆したリンダ・グラットン氏の講演会が開催された。(主催:コクヨ株式会社)

グラットン氏の講演内容を前編(本編)で、その後に行われた予防医学研究者・石川善樹氏とのトークセッション内容を後編で紹介する。

世界では長寿化が急激に進んでいます。過去200年のデータを見ると、10年ごとに寿命が2年ずつ延びています。これは1年が14か月に延びること、あるいは1週間が9日に、1日が30時間になるのと同じです。

先進国では1967年生まれの半数は91歳まで生きると見込まれます。1987年生まれは97歳、2007年生まれに至っては2人に1人が103歳まで生きることになります。日本の場合はさらに長寿で、2007年生まれの半数が107歳まで生きると予測されています。人生100年時代は私たちが思っているより速く、驚くべきスピードで進行しているのです。

できるだけ長く、健やかで生産的に生きていくために

日本は長寿国であると同時に、出生率が低い国でもあり、2050年には老年従属人口指数が世界で最も高まります。つまり、少ない数の若者で多くの老人を支えていくことにかけて世界一となるのです。

寿命が延びると聞くと、健康や生活資金、介護などの不安を感じる人も少なくないでしょう。でも長寿化は素晴らしい恩恵です。長生きするということは、それだけいろいろなことをするチャンスが巡ってくるということだからです。例えば寿命が70歳だとすると、一生に過ごす生産的な時間は12万4800時間となります。80歳まで生きるなら15万6000時間、100歳までとなると、21万8000時間にも増えるのです。

まずは長寿をポジティブにとらえること。国民1人ひとりができるだけ長く、健やかで生産的に生きていくことが状況を打破する鍵です。どれだけの時間を、どのように使っていけばいいのか。それを詳しく述べたのが新著『ライフ・シフト』です。ここではその内容をかいつまんでご紹介します。

引退後に余生を楽しむ人生モデルの終焉

人生100年時代の到来はさまざまな変化を引き起こします。その1つとして予測できるのは、日本を含む先進各国で人々がより長く仕事を続けることになるということです。

長寿社会とは、より長く働く社会でもあるということです。引退後に余生を楽しむという人生はもう終わり。60代、70代の人は“ご隠居”ではないのです。80代、あるいは90代だってそうです。年齢に関してのステレオタイプを取り払っていかなくてはいけません。

「教育」「勤労」「引退」の3ステージからマルチステージへ

より長く働くためには、今の働き方を変える必要があります。今まで、人生のステージは「教育」「勤労」「引退」と3つに分けられてきました。教育期間を終えるとフルタイムで働き、次はフルタイムで引退生活を送るというものです。大学をみな同じ年齢で卒業し、同じような年齢で結婚し、子どもを持って、そして昇進して引退するという予測可能な人生のモデルがあったわけです。

しかし、今後これは成り立ちません。みんなが同じ時期に同じことをする一斉行進の時代は終わり、世界はマルチステージの人生に変わりつつあります。1人ひとりが違った働き方を見出し、また人生のイベントの順序もそれぞれ違ってきます。自分にとって理想的な人生を追い求めていくことになるのです。

人々はより多くのステージを経験することになるでしょう。例えば、旅や留学などを通じて幅広い進路を探る「エクスプローラー(探検者)」、自由と柔軟さを求めて小さなビジネスを起こす「インディペンデント・プロデューサー(独立生産者)」、さまざまな仕事や活動に並行して携わる「ポートフォリオ・ワーカー」などです。そして、こうしたさまざまなステージを行ったり来たりする「トランジション(移行期)」も必要となります。

長時間労働は健康や生産性に悪影響を及ぼすだけでなく、個人的なビジネスを実験的に立ち上げるとか週末に仕事以外の活動に参加するといった、人生のイノベーションを起こすための時間を捻出しにくくなるという弊害も巻き起こします。80歳まで働き続けるには、幾度かの移行が必要であり、そのための時間を確保しなければならないのです。

長寿社会では無形資産が強み。
生産性、活力、変身する力を養う。

長く働くために働き方を変えようとするとき、より重視されるのが個人の無形資産の構築です。

資産とは時間を通して価値をもたらすものであり、これまでは主に現金や家財、不動産、株式といった有形資産を指してきました。こうした有形資産は今後ももちろん有用ですが、長寿社会では無形資産を持つことが強みとなります。

無形資産の種類としては3つ挙げられます。

1つは生産性を高めるものです。例えば、価値あるスキルの生涯学習、メンタリングやコーチングに寄与するような自分のプラスになる人間関係の維持、そして会社や組織に頼らない自分自身の評判が該当するでしょう。

2つ目は活力の維持です。100歳まで生きる、そして長い年月働けるようにするには当然でしょう。運動や食生活に注意すると同時に、適切なストレスマネジメントの実践も求められます。例えば友人をたくさん作ることも大きな意味があり、孤独で寂しく暮らす人より、仲間と楽しい時間を過ごす人の方が長生きします。

生産性、活力、変身する力を養う。

長く働くために働き方を変えようとするとき、より重視されるのが個人の無形資産の構築です。

資産とは時間を通して価値をもたらすものであり、これまでは主に現金や家財、不動産、株式といった有形資産を指してきました。こうした有形資産は今後ももちろん有用ですが、長寿社会では無形資産を持つことが強みとなります。

無形資産の種類としては3つ挙げられます。1つは生産性を高めるものです。例えば、価値あるスキルの生涯学習、メンタリングやコーチングに寄与するような自分のプラスになる人間関係の維持、そして会社や組織に頼らない自分自身の評判が該当するでしょう。

2つ目は活力の維持です。100歳まで生きる、そして長い年月働けるようにするには当然でしょう。運動や食生活に注意すると同時に、適切なストレスマネジメントの実践も求められます。例えば友人をたくさん作ることも大きな意味があり、孤独で寂しく暮らす人より、仲間と楽しい時間を過ごす人の方が長生きします。

無形資産の3つ目として、変身する力も身につけておきたいですね。長い人生を歩んでいくとき、ずっと同じ人間でいるわけにはいきません。同じ会社に居続けるわけにもいかないし、年を重ねれば体も変化します。70代や80代でも生き生きしている人は、そういう変化についていける人たちです。世界に対してワクワク感を忘れずに変わっていく活力ある人、変身する力のある人こそ長い人生を充実させることができます。

そして変身を遂げるには、まず自分と向き合うことです。組織やグループの一員ではなく、個人として自分を見つめるのです。また、多様性に富むネットワークも変身する力を高めます。特に自分と違う年代、性別、仕事、国の人と交わることが大切です。自分に似た人とばかり交わっていたのでは現状を維持するだけです。いろいろなタイプの人と出会い、ロールモデルを得ることが変化のきっかけになります。

家族の構成は急速に変わりつつある

家族のダイナミズムも変わっていくでしょう。誰か1人が大黒柱として一家を養いながら、なおかつ変身も遂げていくというのは無理な話です。共働きを望む若者が増えていますが、これは賢明なことと思います。どちらかが働いて、どちらかが学校で学び、それを交代で行うシーソー的な夫婦関係もあり得ます。

そういう考えが主流になれば、企業側も男性と女性が共に働き、共に家事や育児を担う仕組みに対応していかなければなりません。子どもを持たない夫婦も増えていくでしょうし、働く女性の増加も今後いっそう見込まれます。

すでに新しいパートナーシップのモデルが生まれて、家族の構成は急速に変わりつつあります。女性の労働力率を見てみると、一番割合が高いのはノルウェー、スウェーデン、デンマークといった北欧の国々です。日本や韓国は低いです。北欧は法制度が整備されていますし、子育てケアの支援も厚いうえ、働く女性に対する社会的偏見もありません。そうした環境づくりが女性の社会進出には不可欠といえます。

刷新を迫られる企業の人事制度

企業も多様性への対応を迫られます。みんなが同じ仕事を同じ時間に行う労働形態は、全ての従業員を十把ひとからげに扱えるので企業にとっては好都合でしたが、こういう働き方は終わりを迎えるでしょう。多くの国でいろいろな種類の働き方、働き手が出てきます。

人口動態的に見ても女性参画率は高まるでしょうし、年齢の高い労働者も増えてきます。共働きも増えるでしょう。労働形態も多様化して、フリーランスの働き手やジョイントベンチャー、マイクロアントレプレナーの数も増えると思われます。OECD諸国においては、従業員数10人未満の企業が9割を占めます。テクノロジープラットフォームを生業にする企業が多く、イノベーションに大きく寄与しています。多様性がイノベーションを生む土壌になっているのです。

さまざまな人がそれぞれに違う見方をしてネットワークが広がり、人材のエコシステムが育まれます。人が100歳まで生きる時代になると、もっとイノベーティブに、そしてクリエイティブに貢献する機会が増えることでしょう。より面白い仕事に出合うチャンスも増えるはずです。

そういった意味で、企業の人事制度も新しくしていく必要があります。新入社員が大学を出たばかりの若者とは限らなくなるでしょうし、一度退職した人が戻ってくるケースもあるでしょう。働いている途中で学びのステージに立ち寄り、スキルを再構築する人も出てくるかもしれません。

さらにいえば、引退年齢もなくなるかもしれません。60歳になって生産性が落ちる人も確かにいるかもしれませんが、それは一握りに過ぎないでしょう。それなのに60歳をひとくくりに定年とするのでは、企業にとっても損失を招くと思います。

80歳代まで生産的に働き続けるには政府の後押しも必要

政府も根本的に政策を見直していくことになるでしょう。日本の政府は高齢化に向けて世界でも先進的な取り組みをしていますが、人々が80歳代まで生産的に働き続けるにはさらなる後押しが必要です。例えば、年金に代わる経済基盤をどう作るか、多世代を支える生活資金をどう構成するか、さまざまな観点があると思います。

寿命が100年に延びる時代がやってくる。それは社会に一大変革をもたらします。個人も家族も企業も政府も、みんな変わっていかなければならない時代がもうすぐそこまで来ているのです。

変化はチャンスでもあります。いまみなさんの目の前にはさまざまなチャンスがあふれています。もう一度人生を再設計できるということです。前回の本、『ワーク・シフト』では働き方の再設計を提案しましたが、今回の『ライフ・シフト』では人生に関しても再設計できるんだということをお伝えしています。

私たち、そして子どもたちに対して、人生を再設計する素晴らしいチャンスが今まさに到来しているのです。そのことを理解し、前に進んでいくための一助としてこの本がお役に立て

引退後に余生を楽しむ人生モデルの終焉

人生100年時代の到来はさまざまな変化を引き起こします。その1つとして予測できるのは、日本を含む先進各国で人々がより長く仕事を続けることになるということです。モデルケースを使ってシミュレーションしてみましょう。

1971年生まれのジミーはいま40代です。65歳で引退し、この年代生まれの平均寿命に当てはめて2056年、85歳まで生きるとするとリタイア生活は20年にもなります。老後は最終年収の50パーセントで暮らしていくと想定した場合、毎年の所得の17.2パーセントを貯蓄し続けなければなりません。これは到底無理な話ですし、企業年金や公的年金も盤石とはいえません。

ではジミーはどうすればいいのでしょうか。できることは2つあります。1つは、65歳で引退する代わりに老後の生活レベルを下げること。もう1つは、引退の年齢を引き上げることです。世界にはジミーのような人が大勢いますが、多くの人が2つ目の選択肢を選ぶことになるでしょう。65歳という高齢を迎えて、働きたいからという理由で働くのならともかく、生活のために働かざるをえない人がたくさん出てくるわけです。

生産性、活力、変身する力を養う。

長く働くために働き方を変えようとするとき、より重視されるのが個人の無形資産の構築です。

資産とは時間を通して価値をもたらすものであり、これまでは主に現金や家財、不動産、株式といった有形資産を指してきました。こうした有形資産は今後ももちろん有用ですが、長寿社会では無形資産を持つことが強みとなります。

無形資産の種類としては3つ挙げられます。1つは生産性を高めるものです。例えば、価値あるスキルの生涯学習、メンタリングやコーチングに寄与するような自分のプラスになる人間関係の維持、そして会社や組織に頼らない自分自身の評判が該当するでしょう。

2つ目は活力の維持です。100歳まで生きる、そして長い年月働けるようにするには当然でしょう。運動や食生活に注意すると同時に、適切なストレスマネジメントの実践も求められます。例えば友人をたくさん作ることも大きな意味があり、孤独で寂しく暮らす人より、仲間と楽しい時間を過ごす人の方が長生きします。

無形資産の3つ目として、変身する力も身につけておきたいですね。長い人生を歩んでいくとき、ずっと同じ人間でいるわけにはいきません。同じ会社に居続けるわけにもいかないし、年を重ねれば体も変化します。70代や80代でも生き生きしている人は、そういう変化についていける人たちです。世界に対してワクワク感を忘れずに変わっていく活力ある人、変身する力のある人こそ長い人生を充実させることができます。

そして変身を遂げるには、まず自分と向き合うことです。組織やグループの一員ではなく、個人として自分を見つめるのです。また、多様性に富むネットワークも変身する力を高めます。特に自分と違う年代、性別、仕事、国の人と交わることが大切です。自分に似た人とばかり交わっていたのでは現状を維持するだけです。いろいろなタイプの人と出会い、ロールモデルを得ることが変化のきっかけになります。

家族の構成は急速に変わりつつある

家族のダイナミズムも変わっていくでしょう。誰か1人が大黒柱として一家を養いながら、なおかつ変身も遂げていくというのは無理な話です。共働きを望む若者が増えていますが、これは賢明なことと思います。どちらかが働いて、どちらかが学校で学び、それを交代で行うシーソー的な夫婦関係もあり得ます。

そういう考えが主流になれば、企業側も男性と女性が共に働き、共に家事や育児を担う仕組みに対応していかなければなりません。子どもを持たない夫婦も増えていくでしょうし、働く女性の増加も今後いっそう見込まれます。

すでに新しいパートナーシップのモデルが生まれて、家族の構成は急速に変わりつつあります。女性の労働力率を見てみると、一番割合が高いのはノルウェー、スウェーデン、デンマークといった北欧の国々です。日本や韓国は低いです。北欧は法制度が整備されていますし、子育てケアの支援も厚いうえ、働く女性に対する社会的偏見もありません。そうした環境づくりが女性の社会進出には不可欠といえます。

刷新を迫られる企業の人事制度

企業も多様性への対応を迫られます。みんなが同じ仕事を同じ時間に行う労働形態は、全ての従業員を十把ひとからげに扱えるので企業にとっては好都合でしたが、こういう働き方は終わりを迎えるでしょう。多くの国でいろいろな種類の働き方、働き手が出てきます。

人口動態的に見ても女性参画率は高まるでしょうし、年齢の高い労働者も増えてきます。共働きも増えるでしょう。労働形態も多様化して、フリーランスの働き手やジョイントベンチャー、マイクロアントレプレナーの数も増えると思われます。OECD諸国においては、従業員数10人未満の企業が9割を占めます。テクノロジープラットフォームを生業にする企業が多く、イノベーションに大きく寄与しています。多様性がイノベーションを生む土壌になっているのです。

さまざまな人がそれぞれに違う見方をしてネットワークが広がり、人材のエコシステムが育まれます。人が100歳まで生きる時代になると、もっとイノベーティブに、そしてクリエイティブに貢献する機会が増えることでしょう。より面白い仕事に出合うチャンスも増えるはずです。

そういった意味で、企業の人事制度も新しくしていく必要があります。新入社員が大学を出たばかりの若者とは限らなくなるでしょうし、一度退職した人が戻ってくるケースもあるでしょう。働いている途中で学びのステージに立ち寄り、スキルを再構築する人も出てくるかもしれません。

さらにいえば、引退年齢もなくなるかもしれません。60歳になって生産性が落ちる人も確かにいるかもしれませんが、それは一握りに過ぎないでしょう。それなのに60歳をひとくくりに定年とするのでは、企業にとっても損失を招くと思います。

80歳代まで生産的に働き続けるには政府の後押しも必要

政府も根本的に政策を見直していくことになるでしょう。日本の政府は高齢化に向けて世界でも先進的な取り組みをしていますが、人々が80歳代まで生産的に働き続けるにはさらなる後押しが必要です。

例えば、年金に代わる経済基盤をどう作るか、多世代を支える生活資金をどう構成するか、さまざまな観点があると思います。

寿命が100年に延びる時代がやってくる。それは社会に一大変革をもたらします。個人も家族も企業も政府も、みんな変わっていかなければならない時代がもうすぐそこまで来ているのです。

変化はチャンスでもあります。いまみなさんの目の前にはさまざまなチャンスがあふれています。もう一度人生を再設計できるということです。前回の本、『ワーク・シフト』では働き方の再設計を提案しましたが、今回の『ライフ・シフト』では人生に関しても再設計できるんだということをお伝えしています。

私たち、そして子どもたちに対して、人生を再設計する素晴らしいチャンスが今まさに到来しているのです。そのことを理解し、前に進んでいくための一助としてこの本がお役に立てばうれしいです。

WEB限定コンテンツ
(2016.10.25 中央区のベルサール汐留にて取材)

text: Yoshie Kaneko

リンダ・グラットン(Lynda Gratton)

ロンドン・ビジネススクール教授。人材論、組織論の世界的権威。2年に1度発表される世界で最も権威ある経営思想家ランキング「Thinkers50」では2003年以降、毎回ランキング入りを果たしている。

フィナンシャルタイムズ紙「次の10年で最も大きな変化を生み出しうるビジネス思想家」、英タイムズ紙「世界のトップ15ビジネス思想家」などに選出。邦訳されベストセラーとなった『ワーク・シフト』(2013年ビジネス書大賞受賞)などの著作があり、20を超える言語に翻訳されている。


働き方の未来を提案する

2021年12月10日 11時31分32秒 | 新聞を読もう

ホット・スポッツ・ムーブメント社

インタビュー:リンダ・グラットン氏 —寿命100年時代を生き抜く—【後編】

リンダ・グラットン(ロンドン・ビジネススクール教授

組織に依存せず
働き方を自由にデザイン

アデコ
会社に依存してキャリアをデザインする時代が終わり、個人が自分のキャリアに責任を持つようになると、もはや組織は不要になるのでしょうか。

グラットン
寿命が延びていくにつれ、会社に所属せずに過ごす時間はどんどん増えていきます。

退職後の孤独感も大きな問題になるでしょう。従来のように、人間関係の多くを会社に頼ったままでは生きにくくなると思います。

同時に「会社以外の場所で、いかに自分の価値観に合ったネットワークをデザインしていくか」に目が向くようになるのは、自然な流れだと思います。
ただし、日本人は英語が苦手な人が多いことがネットワークづくりの弱点になりそうですね。

世界にはさまざまな働き方、暮らし方がありますが、日本語圏に限ってしまうとアクセスできるネットワークが限られてしまいます。私も日本語が話せるわけではないので偉そうに言えませんが(笑)。

アデコ
企業に属することで得られていた個人の安心感や安定は、そうしたネットワークで代替できるものでしょうか。

グラットン
企業に属するか否かにかかわらず、人間は、結局集まって何かをするのが好きなのだと思います。

かつては、テクノロジーが進化して在宅勤務が可能になれば、誰もが家で仕事をするようになると考えられていましたが、いざ条件が整ってみても、在宅勤務よりも集まって仲間と一緒に働くことを好む人は少なくありません。
私は、組織のイノベーション創出を支援する「ホットスポッツムーブメント」という会社を経営していますが、社員にいくら「在宅勤務OK」と伝えても、みんなオフィスに出てきたがるのです。
ですから、企業の存在が相対的に小さくなる社会においては、「みんなが集まって仕事に取り組める場」を自らデザインできるかどうかが人生における重要なポイントになるでしょうし、これからの大きな課題になるでしょう。

アデコ
グラットンさんもやはり、集まって仕事をするのが好きですか。

グラットン
私自身は自宅で仕事をするのが好きですね(笑)。特に執筆の仕事は自宅の方がずっと集中できます。

といっても、自宅が唯一の仕事場だと考えているわけではありません。ここロンドン・ビジネススクールにも、ホットスポッツムーブメントにもそれぞれオフィスがあり、タスクに応じて使い分けています。
ホットスポッツムーブメントのオフィスは、テムズ川沿いに立つサマーセットハウスという建物の中にあります。

18世紀に建てられた美しい建物です。個人事業主が100人ほど入居していて、それぞれ独立したオフィスを構えていますが、共用スペースでは大勢の入居者が毎日顔を合わせてお茶を飲み、あれこれと情報交換をします。

私はこの場所をとても気に入っていますが、1人で何かをじっくり考えるのに向いているとは思いません。
多くの人が「マルチプル・アイデンティティ」を持つようになれば、1人で多様な働き方を使い分けて、それぞれの生産性を上げていかなければいけません。

タスク(仕事・課されたつとめ)に適した働き方や働く場をダイナミックにデザインすることが大切なのです。

管理型から創造型へ
マネジメントも進化する
アデコ
グラットンさんの同僚であるゲイリー・ハメル氏(ロンドン・ビジネススクール客員教授)は、管理型マネジメントの終焉を予言しています。

今後、ワーク・シフトが進めばマネジメントはどう変わるでしょうか。企業が個人のワーク・シフトを活用するようになれば、もはや管理は不要になるのでしょうか。

グラットン
管理型マネジメントがなくなるかどうかはさておき、マネジャーの役割が大きく変化することは間違いないでしょう。

中でも「スタッフの管理」という意味のマネジメントは、テクノロジーでどんどん代替できるようになるため、マネジャーはもはや管理者というより、コーチ、メンター、あるいはサポーターとしての役割の方が重要になるでしょう。
ゲイリーが言うところの「マネジメントの終焉」とは、そういう意味だと思います。

むしろ組織のリソースを最大限に活用するというマネジメントが本来あるべき役割を果たすようになるともいえるのではないでしょうか。

アデコ
ジョブトレーニングについてはいかがでしょう。会社が時間をかけて人財を育てても、すぐに企業から離れてしまうのでは育成の意味がなくなります。

キャリアデザインの主体が企業から個人に移った社会で、企業の教育システムはどうあるべきでしょうか。

グラットン
重要な視点ですね。まさしく今、研究中のテーマです。

企業に属さずフリーランスで働くためにも、相応のトレーニングは必要です。しかし、その費用は誰が負担すべきなのでしょうか。

政府? 自分自身? 企業? また、テクノロジーは職業教育においてどんな役割を果たすべきでしょうか。

これらの問いに対する答えを、私自身もまだ持っていません。しかし、多くの企業がこれから考えなくてはならないポイントです。

アデコ
では、人財を評価するシステムについてはどうでしょう。

個人が「連続スペシャリスト」になるために、あるいは企業が自社に必要な連続スペシャリストを見極めるためにどんな基準を作るべきでしょうか。

グラットン
そのヒントは、企業がフリーランスの人財をどのように活用するかを考える中で見えてくると思います。

日本企業のほとんどは、給料を勤務時間に対して支払っています。フルタイム労働を前提として、労働者から時間を買っているのです。

いわば時給システムです。しかし、フリーランスへの報酬は成果(製品やサービス)に対して支払われます。

これは、時給システムとは根本的にマインドセットが異なります。そのための方法論をさまざまな角度から検証しなければならないと思います。


アデコ
社会に出るまでの学校教育も変わらざるを得ないと思います。教育現場にはどんな変化が必要でしょうか。

グラットン
最も大切なのは「情報の透明性」を確保することだと思います。
例えば配車サービスのUberを考えてみてください。かつてタクシーは路上で見つけるものでした。

しかし、Uber(より優れている配車サービス例えば宅配便)の登場で運転手の所在が調べられるようになった。この革新的な変化を生み出したのが、Uberのシステムの基盤となっている情報の透明性です。
職業選択に関しても、情報の透明性が高まれば、もっと選択肢が広がります。

どんな職業があるか、その職業に就くためには何が必要か、それはどれくらい困難か、その職業に就けばどんな結果が得られるか……。

全てが透明化されていれば、利益も不利益も踏まえて幅広い選択肢からふさわしい道を選べるようになるからです。
私の息子は「自分のスキルを有効活用して高い所得を得たいなら弁護士を目指せば良い」と十分に理解していますが、実際には著述家を目指しています。それこそが選択です。

逆に言えば、自分自身のスキルや労働市場を理解することなしに望む道を選択することはできないのです。
労働市場では、ビッグデータが蓄積されたリンクトインが情報基盤として重要な役割を果たしています。

登録されている全ての情報が正しいかどうかは分かりませんが、「誰がどんな仕事を獲得しているか」「どんな仕事が不足しているか」「どんなスキルが求められているか」といった情報を定量的に把握することができます。
アデコのような第三者的かつ客観的な会社は、この分野で重要な役割を果たすことが期待されていると思います。

社会の固定観念を
解きほぐすには
アデコ
日本では少子高齢化が進んでおり、生産年齢人口の減少による競争力の低下が懸念されています。

そして、それを補うために女性の社会参画を推進しています。こうした日本の女性施策について、どうお考えですか。

グラットン
3つの視点から考えてみましょう。
まず「家庭」から見ると、世帯収入の全てを1人の稼ぎ手に頼ることは、もはや大きなリスク要因です。

女性の労働参加は当然の流れといえるでしょう。
「社会の生産性」という面から見ても、男性と同等の生産性を持つ女性を労働市場から排除するのは大きな機会損失です。

ましてや移民の流入が極端に少ない日本においては、女性の労働力は不可欠なのですから。
「世界の中の日本」を考えても、もっと多くの女性の活躍が必要です。ロンドン・ビジネススクールでは日本人女性も学んでいますが、彼女たちは日本社会の性的役割分担意識の強さにうんざりしています。だから、日本に貢献したいと強く考えているにもかかわらず、どんどん海外の企業に流れてしまう。実際に、日本企業には本当に女性が少ないと思います。
日本のクリエーティビティや技術力の高さは世界の多くが認めるところですが、こと男女共同参画に関しては世界に遅れていると言わざるを得ません。その事実に世界も気付き始めています。

アデコ
その通りだと思います。

アデコグループでは、世界118カ国の「人財を獲得、育成、維持する能力」を調査し、ランク付けした「Global Talent Competitiveness Index(GTCI:人財競争力に関する国際調査)」を発表していますが、2017年の調査では日本は22位にとどまっています。

詳しく見ると、人財を惹きつけるための魅力を測る「Attract:魅力」という点が全体の51位となっており、総合順位を下げる大きな要因となっています。その中でも「男女の賃金格差」や「女性に対するビジネスチャンス」について特に評価が低く、大きな課題となっています。

こうした調査からも現在、企業の中枢にいる世代には、まだまだ古い固定観念が根強く、これが大きな壁になっていることがうかがえます。

グラットン
おっしゃるように、社会に浸透した固定観念は大きなハードルでしょう。しかし、現実を動かすのは行動しかありません。他人の考え方や態度を無理に変えようとするより、私たち一人一人が行動を変える方が早いのです。
その第一歩は、あらゆる場面で「そこに女性がいるかどうか」を確認し続けることです。

「候補者に女性がいるか」「雇用対象に女性がいるか」「仕事の現場に女性がいるか」。それを毎日問い続け、いなければ配置するためのプロセスを踏むのです。

クオータ制(社員や役員における女性の割合を一定にして起用する制度のこと)の採用でもいいし、男性の育休取得の推進でもいい。とにかく、現状の意識を変えることにつながるプロセスを実行することが重要です。
ただし、女性の参画がトークニズム(形式的平等)に陥らないように気を付けなければなりません。重要なポストに1人だけ女性を起用して良しとする例はあちこちに見られますが、これはたった1人に全ての女性を代表させることにつながり、意見が偏り、かえって後進の活躍を阻みます。どんな場所でも、最低でも女性の割合が3分の1を上回るように注意すべきです。
女性がどんな仕事のどんなポジションにいるのも当たり前となり、女性と共に働く機会が増えれば、かたくなだった上の世代も、男女の間に大きな違いなどないということに気付きます。

そして組織も少しずつ変わっていく。より良い変化をもたらせるかどうかは、結局のところ、私たち一人一人にかかっているのです。


インタビューの報告を受けて
個人のキャリアデザインをどのように描くかについては、私たち人材サービス業界において、重要なテーマとして認識されており、アデコでもさまざまな取り組みを始めている。
ただ、グラットン氏が今回の取材で語ってくれたことから、これまでの日本のキャリアデザインに関する取り組みは、働く個人の思いや意思をいかに実現するか、ということに視点が向き過ぎていたのではないかと考えさせられる。
どんな社会でも、雇用とは社会にとって必要な仕事(役割)と担う側のマッチングである。

昨年は人材が足りなかった業界が、今年になって仕事がないということも当たり前のように起こるのである。どう働くかを考える上でグラットン氏が言うどんな仕事が必要とされるか「予測する力」が重要であることは言うまでもない。それに加えて重要なことは、自分のキャリアデザインが、社会の変化に照らし合わせて必要とされるものになっているかどうか、常に微調整する習慣を働く人々に浸透させること。これこそが健全な雇用流動性を促す私たち人材サービス業界に課せられた問題だと実感している。
また、キャリアデザインが多様化することで、人財の評価システムにも影響が及ぶことをグラットン氏は指摘しているが、終身雇用というシステムが残る日本は、その重要な機能をいまだ企業が担っていることが今後大きな問題になるかもしれない。
突破口はグラットン氏のいう「情報の透明性」であろう。雇用する側が何を求め、雇用される側が何を提供するかを、公正に、かつ徹底的に見える化できるかどうかが鍵となる。
私たち人財サービス業界の仕事とは、測ることの難しい「人財」という価値をサービスとして提供することだ。私たちが自らの仕事を通して培った知見を、誰もが納得するモノサシづくりに生かすことができれば、キャリアデザインは働き方を超えて、生き方にダイナミズムをもたらすものになるはずである。

アデコ株式会社
代表取締役社長川崎健一郎

 

 


柳田「敬神と祈願」大拙の神道批判

2021年12月10日 10時58分44秒 | 社会・文化・政治・経済

今回は柳田「敬神と祈願」との比較を考えたいので、ここまでの概要と検討は割愛する。

なお、大拙の神道批判に関する先行研究である黒崎浩行[2007]も指摘していることであるが、大拙は敗戦まで一般的であった神道非宗教論を前提に議論していない。
テーマ1に入る前に、「一体神道は―それがどんな意味にとられても―まだ宗教なるものにまでは発展して居ないのである」(同169頁)、と神道が宗教の段階に至っていないことを批判しているが、敗戦までの神道は宗教ではないとされてきた。

し大拙が神道を救済宗教と考え、その未熟さを糾弾しているのだとしたら、議論自体が意味をなさないことになるが、そこは本プレゼンで追及しないことにする。
《第二講における祈りの考察》
冒頭で、「宗教的生活の中心は祈りに在る。祈りのない処に宗教はない」(同183頁)とある;《←これも、上記のように神道は宗教ではないとされていたのだから、批判の体をなさないことになるが、そこは問題としないことに》
まず、祈りに関して万葉からの引用があって、それが現物交換的な「神への頼み」とされる(同184頁)。

次に「真宗の人々の祈りを嫌ふ」ことが参照され、「真宗の信徒は悉く此祈りの中に生きて居る」と展開し、それは「霊性的自覚」の故だと肯定的に位置づけられる。

(この辺、真宗門徒を高く評価し過ぎの感があるが)それに続いて、神道の祈り批判となる(同上185頁後半以降)。
この部分は黒崎[2007]が云うように、『霊性的日本の建設』別箇所で参照されている白石光邦『祝詞の研究』(1941年)をも念頭に置いた立論かもしれない。

とはいえ、白石著作は大部で多面的であり、本プレゼンの目指す
柳田-大拙比較と関わらない部分が多いので、大拙が上記箇所で参照している山田孝雄『国史に現れた日本精神』(朝日新聞社、1941年)の当該箇所(同書154-164頁)のみに即して検討したい。
因みに、山田は大拙が云うような“神道学者”(全集第9巻旧版、185頁;「宗教を了解すると云ふ点では、山田氏は全く門外漢」云々)ではなく国語学者で、以下概要を示す祝詞の解釈も国語学からのもの。

また、当時は神道あるいは国学関係者(山田は神宮皇學館総長であったので、“関係者”ではあった)が数多く“日本精神論”を刊行しており、山田著書もその一つ。
山田は、本のタイトルに含まれる“日本精神”を探る一環として「神に真を捧げ奉る」(山田著書155頁)祝詞に注目し、さらに儒仏の影響を受けていない時代の祝詞を考察しようとする。

その結果、春日祭・平野祭・道 饗みちあへの祭など“新しい方”の祝詞には“何々し給へ“という祈願が入るのに、“古い方”の祈年祭・月次祭の祝詞には祈願の辞がないとする(156-157頁)。

古代の祝詞ではこの祈願の代わりに、“ 称 辞 竟奉る”と神徳称讃の限りたたへごとを へを盡し奉ったことが示される、とする(158ー160頁)。
つまり祭りの本意は神徳称讃であり、人が神に対して絶対的に信頼し盡すことが日本精神の本質であり、神と人との関係は親子に同じである、とする(162-163頁)。

さらに、日本人の“純なる人”が死後に神と祀られること、天皇が現つ御神であることの根源も、こうした人間が神の子であるという信念にあるとする(164頁);
以上に対し大拙は、草木動物は絶対に大地を信頼するという「本能の生活」(全集第9巻旧版、187頁)をしているが、「人間は反省する、反省して謀叛する。

それが悩みである、否定である。

祈りはそれから出る。祈りは人間に許された特権である。

「ここに人間としての真価がある」(同頁)、と“祈り”を意味づける。
そのうえで、山田が口語訳した祝詞について祈りがないのではなく、それは「一種の交換条件を入れた祈願とも考へられないことはない」とする。

山田の云う(神に対する)「絶対の信頼感」とは「食物の供給の如何」に関わっているとする。

それは「宗教的に云ふ絶対の憑依感と、全くその次元を異にする」(以上、引用は同頁)と結論づける。
{コメント}“宗教”の捉え方が大拙と山田とで異なるのでは? 山田は少なくとも、神社・神道が宗教ではないという前提で議論しているし、解を求めているのは本のタイトル通り“日本精神”。

そもそも、祝詞はそれを奏上する宮廷貴族から見た神観念が反映されているだけであろう;⇒山田は祝詞を日本人の宗教意識を求める素材と見ていない。
以上にも拘わらず、大拙による上述の祝詞理解は至極当然であろう。

古代の神祇祭祀は、(大拙が云うように、幾分かの交換条件を含む祈願があったかどうかは別にして)主眼は穀霊に対する感謝であろうから。

(補足) 同書第1編所収の“神道の宗教的検討”のf “祈りを知らぬ神道”(旧全集107-109頁)、も大体同じ;⇒神道家は日本人精神の特色を感謝の念に置き、上代の祝詞には祈願がないとする。

彼らは祈願を神との間の利益交換の義とする。

かるに、祈りは対称的知性的と絶対的霊性的なものに分かれ、利益交換的なものは前者である、云々。
ちなみに、既に参照した先行研究である黒崎[2007]は、主にこちらの(第一編の)祈り論に関して上記した白石の大著も踏まえつつ、大拙は神道家・神道研究者が“祈願”より“感謝”に優位性を見た、という風に解釈し、そのことを大拙が批判したことが、彼の敗戦直後の戦争批判・国家主義批判の一環であった、と論じている。

報告者には、黒崎の後の方の議論は、大拙の反戦論に対する近年の批判*を重く評価し過ぎのように感じられる。
[* B.ヴィクトリア『禅と戦争』[1997/2001] は禅僧の戦争責任というイデオロギー負荷的な枠組の上に著された書で、学術書としての意義は疑わしい。

もっとも、彼が大拙について3箇所で(訳書41-50頁、172-181頁、219-226頁)取り上げているうち、三番目の戦中戦後の大拙に対する評価―「彼の「反戦的」発言は、常識的なものに過ぎなかった」(同226頁)―は、確かにその通りであろう;←黒崎が云うような祈願と感謝に関わる真摯な考察からの出自、ではないと思える]
「敬神と祈願」
全18パートから成るが、14“統一政策の弊”以降、戦時中の『神道と民俗学』(1943)で肯定していたとしか考えられない(⇒由谷[2018])日露戦後の神社合祀策を非難する内容が混入する。

またタイトルの片方“敬神”は、7“敬神の解釈”でラフに―“祭への参加”として―位置づけされるもの、もう片方の“祈願”を具体的にどの
ようなものと考えているのか、かなり分かり辛い。

というのも、“神信心”、“信仰”なる語が複数回現れ、それらが“祈願”とどう関係するのか、読み取り難いからである。
例えば、先の敬神の解釈の箇所で、「国家の敬神には少なくとも祭への参加があり、さうして祭は信仰の行為であつた」
(定本第11巻443頁)と、信仰は敬神とも関わる*かのように表現されている。
* 14“統一政策の弊”では、「信仰と敬神と、二つは本来別々のものであつたわけでは無く、寧ろ前者の擁護と善導との為に、他の一方のものが益々入用になる」(初版140頁、定本455頁)云々と、“信仰”を“祈願”と同義として記していると思われる。

ところが、その前の、検閲があった12“自然と人為”の検閲箇所の後に、「祈願は意志であり、信仰は又受身の感覚であつて」(定本451頁)云々と、両語が違う意味を有するように記している;←この点は判断停止する。
加えて、12と15の箇所で検閲がなされているが、削除されたのはいずれも国家神道的な内容―国家の大事に当たって敬神を国民に強制しても良い、的な―であり、とくに15の箇所では、検閲後は「この非常の時局に臨むことは、.信ずればこそ人は祈願する。

さうして其祈願の必ず容れらるべきことを信じ得る。しかも平生彼らが教へられて居るのは、敬神であつて信心では無い」(定本457頁)云々と、敬神―国家神道に否定的なニュアンスへ、と改竄されてしまっている(↑ 改竄後の最後の文章冒頭、“しかも”ではなく“しかし”であるべきは?);←原文の内に
は、「...国家の大事に際して、この自然の事実に拠つて人心を帰一せしめ又発憤せしむる必要があるだらう」云々といった、国家神道を正当化する内容が見られた。
以上のように、読解するのがかなり難儀な講演録ではあるが、4“神社巡拝の風習”以降、かつての『明治大正史世相編』(1931年)でも述べられていたような、交通機関の発達によって遠隔地の神社への参詣が増えたことが、議論の前提に置かれていると思われる。

柳田はその前の3“政策と経験”で「復古思想」(定本437頁)なる語を出し、自分はその立場を支持しないことを明言していた。
おそらく柳田は上代において既に神観念に変化があったと考えており、「敬神と祈願と、二つは別のものであり、後には一続きに繋がつてしまつた」(定本444頁)、と変化を肯定的に捉えている。

そうした変化の背景をまず「仏法」のような「外来宗教の感化」とし(定本441頁)、次に「大きな特に有力なる神々の出現」があるとし、「石清水北野、八坂今宮」といういわば御霊系の神社の名をあげ、「汎く一般の貴賤の中からの祈願を叶え、小さな多数の荒ぶる神々を、統御したまふ力を示された」(定本442頁;下線は引用者)、とする。
ここでの文脈からはかなり分かり辛いが、“多数の荒ぶる神々”の前にあえて“小さな”という語が付加されているのは、“祈願”が横死した無名の人々(例えば戦死者)の霊を統御することをも含意しているのではないだろうか?;

《←13“神道は衰へたか”において戦、招集、出征兵士にまつわるエピソードが“今日の如き国難期”(初版138頁、
定本454頁)なる語と共に現れることことからの推測;←なお、御霊系の祭神を並列して、それが土着の(固有信仰的な)神と異な
るとする論旨は、共に1946年刊の『先祖の話』『祭日考』、1947年刊『氏神と氏子』収録の「氏神と氏子」にも見られる》
 結び
大拙の祝詞(の山田による口語訳)批判、交換条件を出す感謝、それが食物供給に関わり霊性的自覚に至らないなどの評価は、(交換条件になっているかは別にして)ほぼ妥当であろう。

神道は上代の穀霊祭祀から出自したと考えられ、個々人を救済する宗教ではなかったから(さらに、敗戦まで神道は、宗教ではないとされてきたので)。
柳田との比較では、大拙は柳田のターミノロジーで“敬神”段階、もしくは上代にそれが“祈願”と混じり合い始めた段階を批判した、ということになるのでは?
因みに今回は考察できなかったが、『日本の霊性化』の第二講「霊性と神道」における“途中の神”という天照大神の位置づけ(オリジナルは和辻哲郎)も非常に興味深く、大拙の神道批判はもっと考察・研究されるべきと思う;←とはいえ、『霊性的日本の建設』の平田篤胤批判は、かなり酷いと思う(⇒鎌田東二[2003]が具体的に問題点を指摘しているが、そもそも大拙は、篤胤の原テキストを読まずに批判していたのでは?)。
柳田の“敬神”は、(柳田は国家神道を批判していた、と云う通説―読み手の信念あるいは願望?―があるため、これも国家神道における“敬神”と異なるとの解釈が少なくないものの)山田のいう“神徳称讃”に近いと思われる。
しかし柳田は、そうした“敬神”が時代と共に“祈願”と混ざり合い、境界が分かりにくくなったと捉え、そのことを肯定的に見ている。

“祈願”の具体的な例は「敬神と祈願」にほとんど出てこないが―上記の出征兵士が戦死しないように、との祈り位か?―、石清水ほか御霊系の神社が“小さな多数の荒ぶる神々”を統御してきたから祈願の対象になった、という趣旨の議論がある所から、柳田は“祈願”の先に、(戦死者がそうであるような)御霊の鎮撫を考えていたのでは?、と推察することが許されるかもしれない。
⇒ 柳田は、神社が国家神道的な敬神、都市化に伴って人々が遠隔地に参詣しての個人的な祈願に加えて、別側面(横死した人々の慰霊・追悼)の対象にもなっていることを、主張したかったのでは?
《占領期の神道・神社に関して》大拙の議論は、占領軍の神社政策の応援になっている(占領軍内でも、神社の評価は一枚岩でなかったらしいが...)。柳田の講演録は、占領軍の検閲により国家神道に肯定的な箇所は削除された。

そうした制約の中で、柳田はできる限り神社・神道を護ろうとしたのではないか。
《参照文献》
江藤 淳「『氏神と氏子』の原型」,『新潮』1月号,1981
ヴィクトリア,B.『禅と戦争』光人社,2001(原著1997)
鎌田 東二『神道のスピリチュアリティ』作品社,2003
黒崎 浩行「祈りの類型論とその批判的文脈―鈴木大拙の神道・国学批判―」,『宗教研究』80-4,2007
小堀 桂一郎 「昭和期神道理解の二局面」,『明治聖徳記念学会紀要』復刊51,2014
白石 光邦『祝詞の研究』至文堂,1941
神社新報社(編)『神道指令と戦後の神道』同社刊,1971
鈴木 大拙『霊性的日本の建設』東方出版社,1946 ⇒『鈴木大拙全集』第9巻(旧版),岩波書店,1968
―― 『日本の霊性化』法藏館,1947 ⇒『鈴木大拙全集』第8巻(旧版),岩波書店,1968
関 一敏 「『東国の学風』について-鈴木大拙と柳田國男-」,『宗教研究』84-4,2011
柳田 國男『明治大正史世相編』朝日新聞社,1931 ⇒『定本柳田国男集』第24巻,筑摩書房,1963
―― 『氏神と氏子』小山書店,1947 ⇒『定本柳田国男集』第11巻,筑摩書房,1963
山田 孝雄『国史に現れた日本精神』朝日新聞社,1941
由谷 裕哉「柳田國男『神道と民俗学』における神社祭祀論の再検討」,『民俗学論叢』33,2018


「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す。

2021年12月10日 10時22分11秒 | 社会・文化・政治・経済

新田 均  (著)

新田 均. (にった・ひとし). 昭和33年(63歳)、長野県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程に学ぶ。博士(神道学)。近代日本の政教関係を中心に、学際的な立場 。

 

「現人神」「国家神道」――これらの言葉から、現代の日本人はどんなイメージを連想するだろうか。おそらく、狂信的な「天皇崇拝思想」と、それを支えた「国教制度」といったとこだろう。そして、この「日本国民を狂信的な戦争へと導いた思想と制度」は「明治政府が日本の近代化のために考え出した」などとされている。

だが著者は、「そのような認識は思い込みに基づく幻想にすぎない」と喝破する。それは最近の実証的歴史研究の成果に照らしても明らかなのだが、これが意外と世間では知られておらず、歴史の専門家でさえ、少し分野が違っただけで知らない者が大多数なのだという。

世間で知られていないことがそれほど大きな意味を持たないなら、それでもかまわないのかもしれないが、この「幻想」はわが国の首相の靖国神社参拝問題や政教関係訴訟、さらには教科書問題や外交関係にまで影を落としている。

明治時代以降のわが国の神道を語る場合、かならず使われる用語が「国家神道」であり、その中心にあるのが「現人神」である天皇であった、というのが、私の理解であったし、一般の理解であろう。
 しかし、それらの用語が生み出されくる背景を見ると、明治以降の日本の歴史に対してかなり偏った見方や限られた部分だけを見て、論理が展開されていることを本書は指摘している。

たとえば戦前の神道に対する一つのイメージを作った村上重良氏の『国家神道』(岩波書店)に展開されている説にも、明治維新以来の宗教政策を丹念にしらべていけばいくつもの破綻があることを明らかにしている。
 実際、「国家神道」といわれた思想を生み出したのは、かならずしも神道プロパーの人たちではないし、「現人神」という考え方を生み出したのが明治政府の人々ではないことは、この本を読んで初めて知ることができた。
 さらに、本書の中で、明治大正時代に戦わされた政治と宗教のあり方についての議論が紹介されているが、現在のわれわれが思うより、あるいはむしろわれわれ以上に自由な議論がなされているのが新鮮な驚きである。
 限られた紙面で、例証がじゅうぶんにできていないところもあるようだが、日本近代史に対する、戦後の固定観念を解く入り口としてはじゅうぶんな内容であろう。

 

いかなる国もそうであるように、近代日本の歩みも「宗教」と切り離しては考えられず、その正確な認識が不可欠であるにもかかわらず、この方面に関する的確な分析に、これまでお目にかかったことがなかった。

相当の学識ある人でも、「国家神道」「現人神」については、それが昭和のある時期にねつ造された幻想であることとに寸分も疑いを抱かず、幻想を事実と思いこんだまま、通俗的な誤った議論を展開している。この憂うべき状況に、声を荒立てるのではなく、淡々と史料に語らしめ、俗説を糾す本書は、まことに待望の書である。

 

最近読んだ「国家神道と日本」でこの作品が取り上げられていました。おいおいこんな重要な作品がなぜ知られていないのか?びっくりして読んでみました。
最近の流行でもある「創られた伝統」というアプローチを適用することにより、俗説の基盤を粉々にしてしまったのですが、結果としての対応はいつもながらの「無視」というわけだったです。
著者のアプローチは疑わしい前提と先入観からの演繹を排し、丁寧に明治、大正、昭和の議論の展開と変質そしてその背景を細部にわたり丹念に追うという平凡なものです。
鍵となるのは1930年代を覆った空気の存在でしょうか。この空気を再体験することはもはや不可能でしょう。
「当時を生きたお年寄りに聞いてみましょう?」、もう当時を生きたお年寄りなんていませんし、昭和10年代を生きた人々も現代では何も覚えてはいません。
人間の記憶ほどあてにならないものはありません。人間は自分にとって都合の良いことしか覚えておらず、そこでは過去はすべて現在から再解釈され、意識的か無意識にか巨大なアリバイ構築の力学がそこでは不可避的に働いているのです。
現代の読者ができるのは丹念に資料を読み込み当時の文脈の中でこの空気への接近を試みるだけでしょう。
共産党が組織としては根絶された後にもかかわらず、昭和10年代にマルクス主義というガラクタへの過大評価に基づく対抗概念(国体イデオロギー)の必要性に取りつかれた知識人なんてその程度の存在なのです。
そして、「幻想の生みの親」とその「媒介者」の存在が占領政策に与えた影響、いつの時代にもみられる官僚制の権限拡大への本能、さらにはグロテスクな文化教育官僚!が旗振り人となって社会の各層で見られた強烈なアリバイ証明(その例が海外での神社建設)への熱意と「努力」。
結果として出現したのが、明治憲法制定時には想定もしなかった信教の自由の実質的な喪失だったというわけです。
著者は俗説と幻想の解読の後に、「神社非宗教論」と「公認教制度」の議論に筆を進めます。ここからが著者の現在の問題関心なのでしょうが、議論は複雑なものとなります。
著者は、近代日本の政教関係は、事実として公認教制度と結論づけています。日本の宗教事情は欧米に比べてはるかに複雑であり、そこで試行錯誤の政策を通じて、この時代の「宗教政策」が模索されたというわけですが、ここからは限りなく現代的な論点となります。
 
 
 
実証的に文献を当たっていながら、それは見せかけの実証で、先に結論ありきでしょう。
文献からも彼の目的の結論に行き着かないと、最後は
どうして女系ではいけないのかという千の疑念も万の理屈もさかしらな議論をすべて吹き飛ばしてしまう事実の重み、不可思議な伝統の力。
この事実を 男系につとめよとのご真意と受け止め、神風が吹いたということばを口にした国民が多数現れた。それが 民族意識の古層の隆起 のように見える。
と唐突に自分の想いで締めくくる。
国家神道に至っては、加藤幻智の英訳が広めた、としてそのもとになる加藤は単に彼の理想を書いたとしている。つまりこの本の著者は国家神道を広めたのはGHQだと言いたいのだと気がついた。
彼のいう 歴史センスのない知識人とは次元の異なる理論を期待して購入、目次も期待が持てそうであっただけに、著者の隠された意図が浮かび上がってきたときには、体験のない若者が本だけを読んでその時代を間違って理解してしまう危険に震えた。
 
 
最近読んだ「国家神道と日本」でこの作品が取り上げられていました。おいおいこんな重要な作品がなぜ知られていないのか?びっくりして読んでみました。
最近の流行でもある「創られた伝統」というアプローチを適用することにより、俗説の基盤を粉々にしてしまったのですが、結果としての対応はいつもながらの「無視」というわけだったです。
著者のアプローチは疑わしい前提と先入観からの演繹を排し、丁寧に明治、大正、昭和の議論の展開と変質そしてその背景を細部にわたり丹念に追うという平凡なものです。
鍵となるのは1930年代を覆った空気の存在でしょうか。この空気を再体験することはもはや不可能でしょう。
「当時を生きたお年寄りに聞いてみましょう?」、もう当時を生きたお年寄りなんていませんし、昭和10年代を生きた人々も現代では何も覚えてはいません。人間の記憶ほどあてにならないものはありません。
人間は自分にとって都合の良いことしか覚えておらず、そこでは過去はすべて現在から再解釈され、意識的か無意識にか巨大なアリバイ構築の力学がそこでは不可避的に働いているのです。
現代の読者ができるのは丹念に資料を読み込み当時の文脈の中でこの空気への接近を試みるだけでしょう。
共産党が組織としては根絶された後にもかかわらず、昭和10年代にマルクス主義というガラクタへの過大評価に基づく対抗概念(国体イデオロギー)の必要性に取りつかれた知識人なんてその程度の存在なのです。
そして、「幻想の生みの親」とその「媒介者」の存在が占領政策に与えた影響、いつの時代にもみられる官僚制の権限拡大への本能、さらにはグロテスクな文化教育官僚!が旗振り人となって社会の各層で見られた強烈なアリバイ証明(その例が海外での神社建設)への熱意と「努力」。
結果として出現したのが、明治憲法制定時には想定もしなかった信教の自由の実質的な喪失だったというわけです。
著者は俗説と幻想の解読の後に、「神社非宗教論」と「公認教制度」の議論に筆を進めます。ここからが著者の現在の問題関心なのでしょうが、議論は複雑なものとなります。
著者は、近代日本の政教関係は、事実として公認教制度と結論づけています。日本の宗教事情は欧米に比べてはるかに複雑であり、そこで試行錯誤の政策を通じて、この時代の「宗教政策」が模索されたというわけですが、ここからは限りなく現代的な論点となります。
 
実証的に文献を当たっていながら、それは見せかけの実証で、先に結論ありきでしょう。
文献からも彼の目的の結論に行き着かないと、最後は
どうして女系ではいけないのかという千の疑念も万の理屈もさかしらな議論をすべて吹き飛ばしてしまう事実の重み、不可思議な伝統の力。この事実を 男系につとめよと  のご真意と受け止め、神風が吹いたということばを口にした国民が多数現れた。それが 民族意識の古層の隆起 のように見える。
と唐突に自分の想いで締めくくる。
国家神道に至っては、加藤幻智の英訳が広めた、としてそのもとになる加藤は単に彼の理想を書いたとしている。つまりこの本の著者は国家神道を広めたのはGHQだと言いたいのだと気がついた。
彼のいう 歴史センスのない知識人とは次元の異なる理論を期待して購入、目次も期待が持てそうであっただけに、著者の隠された意図が浮かび上がってきたときには、体験のない若者が本だけを読んでその時代を間違って理解してしまう危険に震えた。

“虚像”が誰によって、いかにして創られたかを検証する。

 

最近読んだ「国家神道と日本」でこの作品が取り上げられていました。おいおいこんな重要な作品がなぜ知られていないのか?びっくりして読んでみました。最近の流行でもある「創られた伝統」というアプローチを適用することにより、俗説の基盤を粉々にしてしまったのですが、結果としての対応はいつもながらの「無視」というわけだったです。
著者のアプローチは疑わしい前提と先入観からの演繹を排し、丁寧に明治、大正、昭和の議論の展開と変質そしてその背景を細部にわたり丹念に追うという平凡なものです。
鍵となるのは1930年代を覆った空気の存在でしょうか。この空気を再体験することはもはや不可能でしょう。「当時を生きたお年寄りに聞いてみましょう?」、もう当時を生きたお年寄りなんていませんし、昭和10年代を生きた人々も現代では何も覚えてはいません。人間の記憶ほどあてにならないものはありません。
人間は自分にとって都合の良いことしか覚えておらず、そこでは過去はすべて現在から再解釈され、意識的か無意識にか巨大なアリバイ構築の力学がそこでは不可避的に働いているのです。現代の読者ができるのは丹念に資料を読み込み当時の文脈の中でこの空気への接近を試みるだけでしょう。
共産党が組織としては根絶された後にもかかわらず、昭和10年代にマルクス主義というガラクタへの過大評価に基づく対抗概念(国体イデオロギー)の必要性に取りつかれた知識人なんてその程度の存在なのです。そして、「幻想の生みの親」とその「媒介者」の存在が占領政策に与えた影響、いつの時代にもみられる官僚制の権限拡大への本能。
さらにはグロテスクな文化教育官僚!が旗振り人となって社会の各層で見られた強烈なアリバイ証明(その例が海外での神社建設)への熱意と「努力」。
結果として出現したのが、明治憲法制定時には想定もしなかった信教の自由の実質的な喪失だったというわけです。
著者は俗説と幻想の解読の後に、「神社非宗教論」と「公認教制度」の議論に筆を進めます。
ここからが著者の現在の問題関心なのでしょうが、議論は複雑なものとなります。著者は、近代日本の政教関係は、事実として公認教制度と結論づけています。
日本の宗教事情は欧米に比べてはるかに複雑であり、そこで試行錯誤の政策を通じて、この時代の「宗教政策」が模索されたというわけですが、ここからは限りなく現代的な論点となります。
 
 
 
実証的に文献を当たっていながら、それは見せかけの実証で、先に結論ありきでしょう。
文献からも彼の目的の結論に行き着かないと、最後は
どうして女系ではいけないのかという千の疑念も万の理屈もさかしらな議論をすべて吹き飛ばしてしまう事実の重み、不可思議な伝統の力。この事実を 男系につとめよと  のご真意と受け止め、神風が吹いたということばを口にした国民が多数現れた。それが 民族意識の古層の隆起 のように見える。
と唐突に自分の想いで締めくくる。
国家神道に至っては、加藤幻智の英訳が広めた、としてそのもとになる加藤は単に彼の理想を書いたとしている。つまりこの本の著者は国家神道を広めたのはGHQだと言いたいのだと気がついた。
彼のいう 歴史センスのない知識人とは次元の異なる理論を期待して購入、目次も期待が持てそうであっただけに、著者の隠された意図が浮かび上がってきたときには、体験のない若者が本だけを読んでその時代を間違って理解してしまう危険に震えた。
 
 
私は戦争を知らない世代だが、「勝つ見込みの無い戦争」であった大東亜戦争を、「天皇陛下のため」「お国のため」に勇敢に戦って散った我々の父祖を、「狂信的天皇絶対主義で洗脳されて犬死にした」などという言説には本当に腹が立つ。
といって、「『国家神道』というものを日本国政府が全国民に『強制した』時代があった」ということ自体に反論するすべもなく、直感的に「どこか間違っている、矛盾している」と思うだけで歯がゆい思いをしていたところであった。
新田氏は、明治初期の政府の宗教教育方針からGHQによる『神道指令』にいたるまでの道のりを丹念に見直し、『国家神道』という幻想を作り出し、それを政府が「強制」したという事実があったように見せかけたのは「誰」だったのか(あるいは「何」だったのか)等など、これまで「当たり前」と思っていたことを悉く覆して見せてくれた。
何度も膝を打ち、目から鱗がはがれて、胸にわだかまっていたモヤモヤがすっきりと消化された気分である。
ちなみに私の実家は浄土真宗であるとつい最近母が亡くなって初めて知ったのだが、人畜無害の「ご都合主義的仏教」と勝手に思っていた浄土真宗の恐るべき「野心」の事実を知って愕然とした。
無知は時々罪でさえある。
日本人の「宗教感情」というものが、多くの人が「無宗教」と思ってしまうほどに土着的に身に染み付いていることを改めて感じた。「天皇」の存在そのものに対する国民の気持ちも、「強制されたから仕方なく持つ」類のものではないということを、本書が証明してくれたような気がする。
 
 
 現代の我が国では、朝日新聞社と共産主義勢力と浄土真宗(とくに親鸞原理主義者と呼ばれている真宗左派)が、GHQの神道指令とマスコミに天皇の人間宣言と名付けられた昭和天皇の新日本建設に関する詔書を悪用し、現人神と国家神道という幻想を大きく膨らまして靖国神社の戦争責任を糾弾し、大衆の目から歴史の真実を覆い隠している。

 しかし現代の日本人がこの「現人神と国家神道という幻想」と 大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義 (自由選書) という名著をもって幻想を振り払うと、そこに剥き出される歴史の真実は、戦時中ひたすら戦争を煽っていた者は、朝日新聞社。
戦後に共産党、社会党、日教組の大幹部になった共産主義者と元朝日記者のソ連スパイ尾崎秀実。
浄土真宗の僧侶であり、神社神道の神職たちは、浄土真宗が布教と葬儀を仏教の独占とするために政府に受諾させた「神社非宗教」説に雁字搦めに拘束され、哀れなことに布教も葬儀もままならず、祭祀の厳修以外にできることは宮司のポスト争いに現を抜かすか、神社の地位向上運動に挺身するくらいしかなかったのである。

 何のことはない朝日新聞社と共産主義勢力と浄土真宗は、自分たちの戦争責任を靖国神社と神道になすりつけるためにデマを飛ばしているのである。

 おそらく「「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す」は、戦後民主主義時代を研究する歴史学徒の必須文献となっていくだろう。
 そして平成生まれの日本の若者は、彼らが書いた現代史書を読み、日本の戦後を、日本の戦前よりもはるかに異様で狂気に満ちた時代と思うに違いない。政治家、官僚、裁判官、学者、知識人、宗教家、新聞記者が平然とデマを撒き散らして金銭を得ているのだから。

 彼らと同時代に生き、彼らの跳梁跋扈を許している現代の我々日本人は、彼ら詐欺師と同類に扱われるのである。

天皇制ファシズムと「国家神道」、そして柳田國男が温存した「神道」のドグマとは?

2021年12月10日 10時08分17秒 | 社会・文化・政治・経済

岩上安身によるインタビュー

第707回 ゲスト 島根大学名誉教授・井上寛司氏(近代・現代編) 2016.12.15 記 事 
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現在の安倍政権のもとで、大日本帝国で猛威をふるった「国家神道」が復活の兆しを見せる中、古代にまで遡って「神道」の起源を探ってきた岩上安身による島根大学名誉教授・井上寛司氏へのインタビュー・シリーズ。
3日目である2016年12月15日には、明治維新後の近代、さらには戦後社会における「神道」の展開について聞いた。


「神社」は7世紀後半につくられた!『古事記』『日本書紀』、そしてアマテラスの起源・・・「国家神道」のルーツを探る! 岩上安身によるインタビュー 第705回 ゲスト 島根大学名誉教授・井上寛司氏(古代編) 2016.11.22
「神道」理解のカギは室町時代にあり! 吉田兼倶による神道理論の体系化、その意義とは?岩上安身によるインタビュー 第692回 ゲスト 島根大学名誉教授・井上寛司氏(中世・近世編) 2016.11.23
 幕末に尊皇の志士の間で流行した「国体論」の影響を強く受けた明治の元勲らは、大日本帝国憲法や教育勅語を通じ、天皇中心主義的な「国家神道」を国民に刷り込んでいった。なかでも、大日本帝国による侵略戦争を精神的な側面から肯定し、国民を戦争へと駆り立てていったのが、靖国神社である。


「宗教」ではなく「国家の祭祀」として侵略戦争を肯定した「国家神道」
 東京・九段にある靖国神社。ここには、幕末から太平洋戦争に至るまでの戦没者約246万柱が「英霊」として祀られている。ただし祀られているのは、あくまで大日本帝国の「国策」に殉じた人々で、たとえば明治新政府に反旗を翻した西郷隆盛や江藤新平などは祀られていない。

 靖国神社の前身である東京招魂社が創建されたのが、1869年。山口県下関市にあった櫻山招魂場を模倣するかたちで、長州藩の軍事的なリーダーだった大村益次郎の命で作られた。

 井上氏によると、日本国民に対して靖国神社の持つ影響力が増大したのは、1894年の日清戦争と1904年の日露戦争がきっかけであったという。

 「日清・日露という本格的な対外戦争を通じ、日本ではかつて経験したことのない多数の戦死者が発生しました。そのことから、戦死者を『英霊』として祀る靖国神社は国民的な基盤を持つ神社となり、やがては植民地獲得のための帝国主義戦争を美化して、国民を侵略戦争に駆り立てる機関となっていったのです」

 しかし、こうした戦争で戦死したのは、靖国神社に「英霊」として祀られているような日本の軍人だけでは、もちろんない。特に日清戦争で最大の犠牲を出したのは、日本軍でも清軍でもなく、戦場となった朝鮮の人々だった。

大本営指示は「殲滅せよ」!殺された朝鮮人農民は3〜5万人!東学党の乱の結末は日本軍によるジェノサイドだった!隠されてきた朝鮮侵略の真実!!~岩上安身によるインタビュー 第276回 ゲスト 奈良女子大学名誉教授・中塚明氏 2013.2.16
抵抗する朝鮮農民を「ことごとく殺戮すべし」陸軍兵站総監による戦慄の殺戮司令~陸軍公式の「日清戦史」から史実を抹消した参謀本部~岩上安身によるインタビュー 第324回 ゲスト 井上勝生氏 2013.8.2
民俗学者・柳田國男が温存した「神道は日本民族に固有の宗教である」というドグマ
 多くの国民を戦場に駆り立てて死に追いやった「国家神道」は、戦後、GHQによる「神道指令」によって解体された。そのはず、である。しかし多くの日本人は、今でも神道こそは、昔から今も変わらない「日本民族に固有の宗教」であると考えがちである。安倍政権における「国家神道」の復活も、こうした日本人の心情を巧みに利用したものであると考えられる。