塩野義が開発の飲み薬、オミクロン株にも効果確認 

2021年12月20日 21時43分42秒 | 医科・歯科・介護

12/20(月) 19:35配信 産経新聞


塩野義製薬が開発中の新型コロナウイルスの飲み薬

塩野義製薬は20日、新型コロナウイルスの治療薬として開発中の飲み薬について、新たな変異株「オミクロン株」にも効果があることを確認したと発表した。

【表でみる】主な新型コロナ飲み薬の開発状況

同社によると、国立感染症研究所から入手したオミクロン株を使用して、開発中の飲み薬の有効性を検証する実験を社内で行ったところ、ウイルスの増殖を抑制する効果があることを確認できたという。

同社は開発中の飲み薬について、承認後速やかに供給できるよう、今月から国内で商用生産を始めており、今年度中に100万人分の生産を計画している。

一方、実用化に向けて最終段階の治験を行っているコロナワクチンについても、オミクロン株への効果を検証する。さらに、オミクロン株の遺伝子情報をもとに、オミクロン対応のワクチンを開発することも検討しているという。同社は「パンデミックの早期終息による社会の安心・安全の回復に貢献するため、国産ワクチンの早期開発・供給に引き続き注力する」とコメントした。

 


悪夢

2021年12月20日 16時00分56秒 | 創作欄

振り出しに戻る. 双六で言う文字どおりの振り出しであった.

まるで,迷路に入り込んだように,夜中の街から街へと徘徊していた.

自分の居る位置が,段々わからなくなる.

北も南も,東も西も. 同じ場所,同じ路地,同じような街道. コンビニが頼りであるが, 聞いたとおり進むと,目的地からどんどん,遠離る. 理由はわかった.

全く反対の方角に向っていたのである. 3駅歩いたら,実は3駅遠離っていた.

終電はすでに終っていたので,線路内も歩く.

ところが,貨物列車が轟音で背後から迫ってきた, 振り向かねば跳ねられていたろう.

それは鉄橋の手前で,もしも鉄橋の中なら, 20メートルほど下の河へ,逃げ込む他なかった.

真冬の河は悪魔のように,鉄橋の下に大口を開けていた. 危機一発であった. 実に悪夢である.

金を借りるために,訪ねた友人が留守であった.

無一文に近く,友人が頼りであった.

線路内で何度も転び,手の平も,ひざ小僧も打ち付ける.

かなり傷口は,腫れ上がっているようだ.

激痛に抗して歩き続けた. ここで,目覚めた. びっしょりとパジャマが濡れていた.


弘子(創作)

2021年12月20日 15時48分26秒 | 創作欄

弘子は大の競輪好きである.主に松戸と取手で観戦するが,記念競輪なら千葉,川崎ぐらいまで出向く.

 メル友の檜垣徹と落ち合い,同じ場所で見るから,顔見知りが増えてきた.
松戸はゴール前.取手はバック(向正面)にいる.
 美形の顔立ちなので,男の目にはとまりやすいし,彼女が声を掛ければ,競輪選手も視線を向ける.
 弘子が好きな選手のタイプは自在型.先行,捲りに比べて柔軟性がある.戦法を固定しないで,臨機応戦に戦うのが良い.
 いつもスターで前に行くことだけの,初めから戦法がわかる選手は好きになれない.
 なぜ競輪なのか? 己の肉体だけ.徒党を組んで戦うのも人間臭くて好ましと思う.
 「徹ちゃん.競輪以外,止めなさい」と弘子はアドバイスしたことがある.
徹はパチンコが止められない.競輪が終ると駅前の店へ急ぐ.
弘子は競輪の余韻を楽しむため喫茶店に誘うが,徹は殆ど応じない.
 弘子が3年前の小倉競輪際に初めて行った時に,偶然,千葉の柏から来た徹に会った.
 「私は,東京の北千住から来たの」
 「へーえ!」と徹は弘子をまじまじと見た.
 「どんな,仕事しているの」
 「何に見える」
 「水商売」
 「そんなものね」
 弘子は花屋である.
水商売の女たちに友人,知人が多く.飲みに行って,カウンターの中に入ったこともある.
 弘子が飲みに来ると,スナックの客が増える.弘子が居るかどうかを確かめ,居ないと顔だけ覗かせて扉をしめ客もいる.
 競輪好きが多いスナック「エイト」に弘子は一番足を向ける.
家も妻子も失った男達のなぜか陽気な様子も微笑ましい.
 「後悔してないの?」
 「全然!」徹もその1人であった.
死んだ父親の財産を2年余ですっかり無くした男だ.
 「私,2年前に徹ちゃんに会えばよかったな」
 「どうして?」
 「半分財産残ったと思うわ」
 「弘ちゃんは勝負師だからね」とママが口を挟んだ.
 ママの分かれた亭主も競馬,競輪で全財産を無くしていた.
 弘子はこれから大きなレースが続くので,気持が浮き立っていた.

 

 

由起子(創作)

2021年12月20日 15時31分32秒 | 創作欄

「あなたに,あったことある」と新入社員が言う.
「うん?・・」
 私は相手を真直ぐに見た.
 新川由起子は病的に痩せていた.長いスカートを引きずるように部屋に入って来た時に,この人は入院歴があるのでは? と直感した.
 「平間さんにも会ったことある」と言う.
 「え! どこで?」と美しい声の藍子が驚いて尋ねた.
 「 池袋」
 「池袋には,最近行ってないけど」藍子は不信そうに由起子を見詰めた.
 とてもユニークな発想をすると社長が採用した.

23歳の由起子は当社が始めての職場で,これまで父親が経営していた不動産屋の事務をしていた.交通事故で父親が亡くなり,1,2年家事を手伝っていたのだ.
面接に来る時,「駅前の交番に居るから誰か迎えに来て」と言った.前代未聞である.
 「面白い子だ」とおおらかな社長が,1カ月前に入った多田寅雄を迎えいに行かせた.
 パソコンをこなせる,ということで採用となる.

当社は社員が15名ほどの零細企業であるが,20坪ほどのフロアーを3部屋借りていた.一階は大家がお上さんと二人でやっている酒屋で,夫婦二人の住いは6階.7階は大学生の息子の部屋である.
 バレンタインの日に女性社員たちが,義理チョコを配った.
それを見た由起子が退社する時に私を誘った.
 「どこへ行くの」
 「御徒町.買いものするの」
 そして買ったのが1000円の時計5個.
 「これは,徹さんに」
 「これは,社長に」
 「 これは,中島さんに」
 「これは,忘れた.あのハンサムさんに」
 私は馴染みのガード下の居酒屋に由起子を誘った.
 「徹さん,昼間ホテルへ行ったことある」
 「ないな!」
 「あれって,いいのよ」
 私は由起子を改めてまじまじと見た.
 私は由起子に言わせると前世は兄妹と言う.
 「惜しかったな! 兄妹でなかったら.昼間ホテルに行けたのに!」
 私は,突然泣き出した由起子の肩を,抱くようにして店を出た.
 何か悪いことが起こりそうな予感がして,私は上野へ向わず銀座へ行くことにした.
 「由起ちやん,ありがとね.ここで失礼するよ」
 「ええ! 私を送ってくれないの」
 「友達に会うんだ」
 「冷たいのね」由起子の目がすわっていた.
 由起子はそれきり,行くへ知れずになった.

 

 

 

 

 

 


友に会う

2021年12月20日 15時15分55秒 | 投稿欄

何時もより1台早めの電車に乗ったら友人に会う.

同じ水道橋近辺で働いているのに出会ったのは2年ぶりか.
 元エリカ(喫茶店・スナック)現在の「小菊」の常連客10人で,11月3日,大井競馬のナイターに行った話となる.
「半分の人が,プラス」
 やるな!
 エリカは実に様々な人が来て,朝、昼、夜と毎日2,3回は行った.
 元キックボクサーたちとスナックのママさんの息子のボクシング試合を後楽園スタジアムで見たことが思い出される.
 相撲好きのマスターと相撲談義をする人.

金曜日は競馬好きの溜まり場となる.
 大半が界隈の商店主,印刷屋,不動産屋,雑誌の編集長,業界新聞の人,区会議員,居酒屋の旦那,ソバ屋の旦那ら.
 江戸っ子を自認するお神輿好きも多かった.
 月に2,3回,マージャンで徹夜をして,そのまま後楽園の場外馬券場へ足を向けた.
 そごいギャンブラーがいて,数十万円はざら,時に数百万円を払い戻す人もいた.


日本の伝統

2021年12月20日 15時09分55秒 | 沼田利根の言いたい放題

▼原爆被害は、人類史上最悪の惨劇!
その被害者の住まいや居場所で被害被爆地の線引きをすること自体が、大きな過誤であろう。

▼日本の伝統
 初めから結果がわかっていたら,面白くない.
それは,人情というものだ.

選挙結果について,こちらの支持者が不利という噂だ.
現職が有利なのは何故か?
人の持つ保守性.
変化を好まない日本人の特性.

 だから,奇蹟のように,連綿と天皇制も続いている
 日本の伝統の象徴それは,日本人の大切な,精神的支柱でもある.
天皇制の維持の上に,戦後の民主主義,経済の発展があったのも,まぎれもない歴史的事実で,これは肯定されなければならない.

 「陛下 京都にお帰りになりますか」と明治の昔,政府の元勲や重鎮が陛下を諌める.
 思うに,現人神に位置付けられる前のこと,明治天皇に言いたいことが言えたようである.

 明治の為政者の知恵であった「かのようなの思想」
 「神のような」
 「現人神のような」
 
 象徴天皇なのに,女性天皇,女系典天皇では,何が問題で,誰が困り,不都合なのか.
 男女が生まれる確立は,ほぼ,1対1.
 つまり,ウルトラC(例えば一夫多妻制の容認など)でもない限り,男性系天皇の継続は殆ど不可能.
 

 

 


パーキンソン病の友人

2021年12月20日 14時59分19秒 | 創作欄

パーキンソン病の友人はとても辛そうであった.左手が震えていた.歩きもおぼつかない.

 前かがみで,路面をふらつくようにあるく.足がほとんど上がらず,靴を重そうに引きずるのが,いたわしい.
 「走行中,3度こけたのでバイクも手放した」という.
「修理するほかない」とバイク屋に言われた.
 8万円の修理代は出せないので,バイク屋に無料で引き取ってもらったら28万円で売り出し,翌日に売れたのだった.
 ツーリングが趣味で,仲間とよく遠くまで行っていた.
 競馬の予想をホームページでやっている.新聞を丹念に読み込んで,月曜日から検討を開始し,日曜日の午前11に結論をまとめる.
大きなレースしか予想しない.観戦記も載せる.
馬券の的中率もなかなかであった.
「うつがひどくなって,予想に集中でなくなった」と愚痴をこぼす. 
愚痴は他の人には言えない,ので辛い日々を送っているのである.
 喫茶店でコーヒーを飲み,サンドイッチを二人でつまむ.
 ジャーナリストなので,取材メモは取れているのかどうか,心配になったが聞かなかった.

勘違い

2021年12月20日 14時59分19秒 | 創作欄

旅行に阿佐田哲也の本を持っていく.

電車内で読んでいるうちに,おや,こんなに気弱な一面があったのか? と訝る.

表紙を見たら,何と! 佐木隆三の本であだった.

二人は無頼派であるが,家庭的な健全面さをより佐木隆三に感じた.

佐木隆三:1937年、朝鮮北部生まれ。

八幡製鉄に勤務後、作家に。

「復讐するは我にあり」で第74回直木賞受賞、「身分帳」で第2回伊藤整文学賞受賞。

阿佐田哲也:1929(昭和4)年3月28日東京生れ。
*本名 色川武大(いろかわたけひろ)。東京市立第三中学中退。
* 14~15歳より麻雀を始め、賭場などを放浪する。
* 昭和28年、アウトロウの世界より引退。雑誌編集等を経て文筆 活動に入り、阿佐田哲也の筆名による「麻雀放浪記」が若い 読者の圧倒的人気を得て脚光を浴びる。
 
 経歴を比較したとおり,佐木隆三は元サラリーマン,阿佐田哲也はアウトローで比較にならない.
 阿佐田哲也には松戸競輪場であった.

目が偶然合った時には一瞬,ビビった.擦れ違って,直ぐに阿佐田哲也は立ち止まった.
 予想行為のために,彼の頭のコンピューターが激しく回転しだして,その場に立ち止まったのだと思う.
 その大きな背中をじっと,見詰めた.その距離2メートルほど.
 


紀子の彼(創作)

2021年12月20日 14時46分27秒 | 投稿欄

紀子の彼の武藤史郎君は風呂に入らないと言う.

シャワーだけ.

「武蔵が風呂に入らなかった,と人から聞いてからなの.不潔よね」  

「そうなの」  宮本武蔵は相当,昔の人だ.風呂に入らない理由は?  

不潔でも,武蔵のような生き方をしたいらしい.  

「格闘家に武蔵が,いるでしょ.残念! いなければ,武蔵を名乗りたかった,と惜しがるの」

 紀子の彼は池袋に本部がある空手の門下生だ.  

「オッス!」と野太い声で,私に挨拶した.  

その武蔵君が紹介者になって,館長に面談した.

館長は、こちらの営業話に真剣に耳を傾ける.  

実に誠実な態度でいっぺんに好感を持つ.  

全盛のころの館長の試合ぶりをビデオで見た武藤君が,「実に華麗!」と更に惚れ込んだのだが、空手の華麗さとはどのようなものなのか?  

当日は支部会で,ホテルに集合した全国の支部長たち関係者の大半がプロレスラー並みの体格で圧倒されたのだった.


「ギャンブル・涙本のネタ」(創作)

2021年12月20日 14時42分42秒 | 新聞を読もう

「父に感謝」

年老いた父に300万円を借りることとなる.
 小柄な父は, 70歳を過ぎて一回りも,二回りも小さくなる.秋葉原で父を90分待つ.
 几帳面な父は絶対に遅刻をしない人間だ.埼玉の秩父から出て来た父を待ち続けた.
 この日が支払日で,金の都合が付かなければ,暴力団系の金融機関だ,何をされるかわからない.
 徹は4つあるホームを探し歩いたが,父の姿は何処にもない.
 何処かで倒れたのだ.悪い予感が,脂汗が溜まった頭に広がった.
 念のために,社の方に電話をした.
 「あら,徹さん,何度も,お父様から電話がありましたよ.今,どこですか? お父様は御徒町の駅のホームでお待ちよ」と同僚の明子が言う.
 「そうなんですか! ありがとうございました」
 徹は何故すぐに電話を入れなかったのと悔いながら,隣駅へ向うために,ホームを全速で走った.
 「待つ身が辛いか! 待たせる身が辛いか!」と心で叫ぶ.胸が張り裂ける思いにかられた.
 父は御徒町のベンチで居眠りをしていた.確りと黒皮のセカンドバックを抱えていた.
 「徹,仕事忙しかったんだね」
 非難めいたことは一言も言わない.
 私は,善良そのもので,謹厳実直な父に心のなかで,手を合わせた.
 「現金300万円と,これは郵便貯金だ.キャッシュカードも入っている.1500万円あるから無駄遣いはしないようにね」とバックごと寄越した.


岡山で朝の散歩

2021年12月20日 14時35分52秒 | 創作欄

2早朝の散歩へ行く,路面電車は2,3分置きにやって来た.

桃太郎通りを直進する路面電車,右折する路面電車.  

交差点に立ち止り,カラフルな車体を目で追った.

 バスもカラフルで,コマーシャルが車体に描かれている.

多くのイラストが斬新だ.  

岡山城の石垣の下で,老人が二人,競艇の話をしていた. 
 「どこから?」  「東京です」
  「昨日は,おいしいもの食べた」 
 「ハイ.ままかり寿司.それに,さわら(鰆)のしゃぶしゃぶ.岡山のばらずしは,食べ損ねた.おこわはおしいですね.餅米に山菜,鶏肉,栗をまぜた御飯で,高原の香りがした」  
「それは,そかった」と老人二人は善良なそうな相好を崩した. 
 後楽園へ向う橋から,朝日に輝く天守閣に向け,デジカメのシャッターを押す. 
 戦災で焼け落ちた城,石垣に60年を経ても焼けた痕跡が見られた.
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 724で勝負へ  
何時も,予定は未定です. 
 知り合いの病気見舞いに行く予定で電車に乗ったが,専門新聞,スポーツ新聞を読んでいる人がチラホラ. 
 何処かにギャンブル場があるらしい.  

その人達について,途中下車した. 
 海が見える競輪場.  
白いヨットの帆の向こうに四国への連絡船が行く.

高松まで意外に近いのだ.  
いざ車券を買おうとしたら,財布がない.そこで夢から覚めた.  
友が死ぬ.見舞え行かなかたことをとても,悔いた.  

724(7月24日生まれ)今年は724を買い続ける予定だ.


1970年代がテーマになる(創作のヒント)

2021年12月20日 14時17分19秒 | 創作欄

2005年11月22日

「とことんやる」ことの意義.
 1日3万メートルも泳いだフジヤマのトビウオこと古橋廣之進.想像を絶する練習に脱帽です.
 戦後の乏しかった食料事情を考えるとスタミナ源は何であったのか?
「とことん打ち込んだ先きに出てくるもんが本当だ」
 なるほど,先人の言葉に重みがあります.
 作家・北方兼三の近刊「水滸伝」全19巻も脱帽です.
 1947年生まれの,団塊の世代.
 全国に燃え広がった1970年代の学生運動に参加した.
「僕の学生時代は,キューバ革命が成立して10年くらいしか,たっていなかった」と北原は振り返る.
 革命が手に届きそうな時代だったわけである.
 
 (創作)
 日比谷公園の松本楼が突然,燃え上がった.
 居ても立っていられなかった元全学連の闘士たちは,厚生省を飛び出して行った.
 「俺の青春が燃える」とおじいちゃと呼ばれた老記者がつぶやいた.
 松本楼は,作家有島武郎が見合いをした由緒あると言うか,伝統のあるレストランである.
 時代は大正時代であったろうか.
 軽井沢の別荘で有島武郎と心中した波多野明子(婦人公論の記者)に昔,お爺ちゃんこと中村記者(保健同人社)は惚れていたと言う.
 「実に,良い女だった」と中村さんが述懐した.
 つまりは,歴史上の人物を身近に知っていたのだ.
 
 「青春の純粋性というのは,一種の愚かさだと思うげど」と北原兼三.その愚かさが今どきの若者には欠ける.
 水滸伝は,青春の意味を問い直すために書いたそうだ.
 1970年代,確かに,皆が国を自らの手で変えられると信じていた.
 警察権力(機動隊)の犠牲(脳挫傷)で,青春を棒に振った人もいた.
 絶大とも言えた権力の前に,大きな挫折を味わった1970年代がテーマになりそうだ.


いのちの理由

2021年12月20日 12時36分16秒 | 社会・文化・政治・経済

さだ まさし  (著)

命・心・時間――自分の意志では自由にならない3つの要素。
それがさだまさしの永遠のテーマ。今こそ、この3つの大切さを、「歌のちから」で伝えたい。
東日本大震災を前にして、自分に何ができるかを考えた。その答えが、ここにある。本当の復興、心の復興はこれから始まる。
 

内容(「BOOK」データベースより)

「こころ」「時間」「いのち」―。自分の意志では自由にならない、この三つが、さだまさしの歌の永遠のテーマ。東日本大震災という災厄を前に、歌手として人として自分に何ができるか。被災地から教わった答えが、ここにある。―音楽は微力だが無力ではない。日本と日本人に、勇気と元気を伝える魂のメッセージ。
 

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

さだ/まさし
1952年、長崎県長崎市生まれ。73年、フォークデュオ・グレープで歌手デビュー。76年にソロとなり、「関白宣言」「秋桜」「防人の詩」など、数々のヒット曲を生み出す。
2001年には、小説家として、「精霊流し」を発表、ベストセラーに。
以降、「眉山」「アントキノイノチ」など意欲的な小説を発表し続けている。
エッセイとしても、「もう愛の唄なんて詠えない」「美しい朝」など、著書多数。
また、精力的に続けてきたコンサートは、76年ソロデビューから、通算3900回以上を数える(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
僕は常に、命に対する不安、社会に対する不安、人生に対する不安を、歌詞に入れ込み、体温として伝わるよう努力してきました。
歌詞の端々に潜んでいる体温の部分に皆さんが反応してくださるのかもしれません。
命の正体はいくら考えても分かりません。
祖母が亡くなったのは電話のベルが鳴った瞬間に感じ取りました。
その頃からでしょうか。
神様とか命とか、もしくは、人間の目に見えない力がもしかしてあるのかなと思い出しました。
祖母の死は、僕にとって大きな節目になった出来事だったかもしれません。
僕は、命などにフォーカスして歌作りをするタイプです。
僕は日常生活で体験したことをクリアにして、時代ごとの言葉を切り取るのが仕事だと思っています。
 
 
 
1回毎のものをまとめているので、とても読みやすかった。
色んな裏話もあり、政治や震災についての率直な考えが示されていて、共感した。
多忙で時間的に難しいかも知れないが、これからもエッセイを期待したい。
 
 

さだまさしのエッセイ。
さださんのたくさんの人たちとの交流が、
描かれています。
さだまさしの視線は、
日本の現状を憂いていたり、
長い年月を振り返っていたり、
友を想うものです。

相変わらずの名文で、
とてもわかりやすく、
本人の意識のありようが、
手に取るように分かります。

エッセイですから、
さださんの旅と、
旅先の地域の情景やそこに住む人たちとの交流が描かれます。
地域でがんばっている人たちや古い友人知人に暖かい視線を送るさださん。
全国を行くさだまさしは、
文字通りの旅人。

2009年からスタートしたエッセイが、
最後に暗転します。
東日本大震災。

ここから、
さださんの苦悩が語られます。
被災地を訪問して言葉を失う。

被災者の方々に、
「ありがとう。お身体お気をつけて」としか言えなかったというくだりは、
我々の心を代弁しているかのようで、心を打ちます。

震災と日本人について、
混乱しながらも言葉を発するさだまさし。
ここでは語り尽くしてはいません。
続きが読みたくなる、
そんなエッセイでした。
 
 
さだまさしが思っていることや社会への批判と評価など
色々なテーマについて述べられています。
読むことで良き人生を送るために糧になります。
 
 
 

 
 
 

【ヒロシマの空白】被爆の線引き<上>こぼれ落ちた被害 黒い雨、乏しい記録が痛手

2021年12月20日 12時26分40秒 | 新聞を読もう

2021/1/2 23:21 中国新聞

「何が起きたのか、今からでも明らかにする意味は必ずある」。家族写真を前に、亡くした兄への思いを語る沖村さん
「何が起きたのか、今からでも明らかにする意味は必ずある」。家族写真を前に、亡くした兄への思いを語る沖村さん

 ▽カルテも散逸進む

 「兄の体に何が起きていたのか」。広島市安佐南区相田の沖村武士さん(75)は、兄の正明さんと和男さんをがんで亡くした。2人とも33歳だった。放射性物質を含む「黒い雨」を体内に取り込んだからではないのか―。1945年8月6日を境に家族を苦しめ、今なお解けない疑念だ。

 正明さんは当時、安国民学校(現安小)4年、和男さんは2年だった。原爆さく裂後に下校した2人は、黒い川の水がたまった農業用のせきで、浮いた魚をすくって夕方まで遊んだ。生後4カ月だった武士さんは自宅にいた。「真っ黒けで帰ってきた」と、後に母アキコさん(98年に88歳で死去)から聞いた。

 しかし沖村家には、雨を気にとめる余裕などなかった。県立広島工業学校(現県立広島工業高)1年の長兄博さん=当時(12)=が、動員された中島新町(現中区)での建物疎開作業から戻らない。翌朝からの捜索も実らず、現場で拾ったベルトの切れ端を墓に納めた。自らも千田町(現中区)で被爆し、博さんを探し歩いた父政雄さんは60年、56歳で亡くなった。

正明さんが68年に膵臓(すいぞう)がんで、和男さんはその3年後の71年に小腸がんで命を落としたが「なおも黒い雨との関連は頭になかった」と武士さん。実際、黒い雨と健康被害への関心が大きく広がったのは70年代半ばだった。

 ■援護求める動き

 広島市は73年、住民の声を受け、沼田町(現安佐南区)などで黒い雨の実態調査に乗り出した。国は76年、広島管区気象台(現広島地方気象台)の45年の調査から、大雨が降ったとされるエリアだけを援護対象区域に指定した。区域外で黒い雨を浴びた体験者たちは援護拡大を求める運動を本格化させ、手記集なども出版されるようになる。

 しかし国は区域外での健康被害を否定した。直接被爆では援護の枠組みが徐々に整い、白血病やがんの増加といった知見が重ねられたが、黒い雨はそもそも公的な記録や研究の「網」からもこぼれ落ちていった。

記録や研究の「空白」は、さかのぼっての被害の検証を難しくしている。国は昨年11月からの新たな検証作業で、広島赤十字・原爆病院(中区)の被爆者カルテを分析するとしたが、保管対象は被爆者健康手帳の所持者分のみ。沖村家でも、当時の原爆病院を受診していたのは直接被爆した父政雄さんだけだった。

 広島市と広島県が2008年、約3万7千人に黒い雨の体験や病気の有無などを聞き「心身に影響があった」との結果をまとめた大規模調査についても、国は「合理的根拠とはならない」と退けた。

 ■資料発掘を提言

 「空白」は埋まらないのか。被爆関連資料などの研究を続ける宇吹暁・元広島女学院大教授(74)は、病状などを客観的に記録した資料として「黒い雨の体験者が受診した病院のカルテを、国が予算を付けて発掘するべきだ」と提言する。

国民学校2年だった原田毅さん(83)=佐伯区八幡=は強いだるさや嘔吐(おうと)、下痢の症状にしばらく苦しんだ。2年ほど通院した地元医院での診断は「十二指腸潰瘍」だったが、今も「雨のせいだったのでは」との思いを抱える。

 その医院は既に閉院していたが、近くに住む家族を捜して訪ねた。「原爆はもう2代前のこと。よく分かりません」。一帯で雨を浴びた多くの人がかかった医院だが、医師法が定めるカルテの保存期間は5年。記録は残されていなかった。

 「原爆死の証(あかし)はありませんが…」。2人の息子をがんで失った沖村アキコさんが亡くなる2年前に残した手記には、母の悔しさが刻まれる。その「証」の一端が、日々の診療の記録として眠る可能性がまだ残る。しかし後継がおらず閉院する医院も多いのが現状だ。(明知隼二)

    ◇

研究が積み重ねられてきた直接被爆に対し、「黒い雨」をはじめとする間接被爆には未解明な点が多い。今、何ができるのか。道筋を探る。

【黒い雨、解明への道筋は】
<1>発生の仕組み きのこ雲から放射性物質降る
<2>新たな検証 五つの視点、課題は山積 国が検討会
<3>体験者の今 心身癒えぬ苦しみ 援護区域拡大へ闘い続く
<4>検討会委員の広島大名誉教授・鎌田医師に聞く

 

 


軽視され、、線引きされてきた「黒い雨」の被爆者

2021年12月20日 12時11分10秒 | 社会・文化・政治・経済

森本真治・参院議員

「黒い雨」の被害者は原爆被害の象徴でありながら、長年にわたって救済されてこなかった。広島の原爆被害のなかでも、置き去りにされた最後の問題の一つだったと思う。

線引きで分けられた被爆者

 黒い雨による被害を巡り、原告の住民全員を被爆者と認めた広島高裁判決について国が上告を断念した。原告は国が定めた「健康診断特例区域」、いわゆる援護対象区域の外で黒い雨にあった人たちだ。

 この区域は戦後の気象台による調査で「大雨」が降ったとされた区域だが、行政区画が基準とされたため、集落を区切る小川などが境界線となった場合もある。その結果、家族や同級生、同じ集落の住民でも援護を受けられる人と受けられない人が出た。この「線引き」が長年問題になってきた。

軽視されてきた「黒い雨」

 そもそも健康診断特例区域という制度自体が差別的な措置だ。直接被爆した人や、あるいは原爆投下後に被爆地に入った入市被爆者は、政令が定めた範囲内にいたことが証明できればただちに被爆者と認められる。

 しかし、特例区域の場合は、黒い雨を浴びていても厚生労働省が定める11障害を伴う病気(脳出血や肝硬変、甲状腺機能低下症など)を患わなければ被爆者健康手帳を受け取ることはできない。他の被爆者に比べて高いハードルが設定されている。広島でこんな扱いを受けているのは黒い雨の被爆者以外にはない。言い換えるならば、黒い雨の被害は軽視されてきた。

 今回の訴訟の原告はその援護措置からも外された人たちだ。気象台の調査では「小雨」あるいは降雨域外とされたが、土砂降りだったと証言した人もいる。二重の意味で差別され、放置されてきた。

 今回の判決は黒い雨を浴びた人をそのまま被爆者として救済するもので、この差別を解消するものだ。特例区域についても「本来、被爆者として手帳を交付すべきだったにもかかわらず、あえて交付しなかった疑いが強い」と指摘し、従来の援護措置に疑問を呈した。「黒い雨を浴びた人をただちに被爆者と認めろ」という地元のまっとうな要求に応じた判決だったと思う。

線引きはできないもの

 黒い雨に限らず、被爆者の被害の線引きは本当はできないもののはずだ。どこまでを対象とするかは結局、政治が決めている。

 「科学的知見を根拠にした」と言うが、被爆の人体への影響が科学的に解明できているのかといえば、そんなことはない。結局は最初に政治の判断があり、後付けで「科学的知見」を根拠にしてきた歴史がある。

 線引きの10メートル外ならば被爆していない、ということがあるはずがない。事実としては境目などない。際限がないからここまで、と決めてきた歴史があることをふまえるべきだ。

 基本は経験をした人の声を大事にすることだ。地裁、高裁判決で示された判断の枠組みの通り、これまでの三つの降雨域を参考にしながら、住民の証言の信用性を吟味する方法をとるべきだ。まずは早急に、広島県と市が拡大を要望している地域を援護対象地域として確定すべきだ。

筋が通らない首相談話

 菅義偉首相は首相談話で判決について「これまでの被爆者援護制度の考え方と相いれない」と述べた。これは理解できない。…