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米のとぎ汁漬

2022年02月18日 22時21分45秒 | 社会・文化・政治・経済

普通は捨ててしまう米のとぎ汁に少量の塩を加え、そこに野菜を漬け込むだけという簡単さが人気の秘密のよう。
 野菜についている乳酸菌が、米のとぎ汁を栄養源にして発酵を起こし、漬物になるとのこと。
 漬物は元来、保存食ですから、漬けておくことで野菜が傷まず、おいしく保つことができるというわけです。

2020/09/30

米のとぎ汁   
天日塩 とぎ汁200mlに小さじ1
好みの野菜

作り方
⒈乾いた白米に水を入れ、さっと洗ったら一番最初の水は捨てる。次に水を入れ、しっかりと研いで濃いとぎ汁を作る。3合のお米で、1リットル前後のとぎ汁が取れます。
2.とぎ汁200mlに対して天日塩小さじ1を入れてよく混ぜ、食べやすく切った野菜を入れた容器に注ぎ、野菜が完全に浸るようにラップや落とし蓋をする。
3.一日〜一週間ほど置く。常温で置いておくと発酵が早まる。食べてみて乳酸菌の微かな酸味を感じたら出来上がり。

植物性の乳酸菌は動物性の乳酸菌より強く、過酷な条件でも生き延びられるので、胃で死んでしまう動物性乳酸菌とは違い、生きたまま腸に届くと言われています。

漬け汁にはその他にもビタミン、ミネラル、植物繊維が含まれていて、お腹やお肌の調子を整え、免疫力も上げてくれるので、漬け汁も調味料として活用するといいそうです。

今回は人参、大根、ねぎの小口切り、生姜おろし、レタスを試してみました。

人参、大根は二日目には程よい塩気と酸味で、爽やかな浅漬けになっていました。そのままマヨネーズなどをつけて野菜スティックにもできそうなフレッシュさです。漬けなかった同じ人参や大根と食べ比べてみると、甘さが引き出されてる感じで甘みと旨味がアップしています。うーん、いいですねえ。

驚いたのは6日後の人参。まるで煮物かというほど柔らかく変化していました。全く別物!塩気も酸味もしっかり効いた漬物に変身しました。

ねぎの小口切りは、翌日も一週間後も、刻みたてのフレッシュさがキープ!されるんですが、色が退色しちゃって残念。辛みが減って甘味も旨味ものって美味しいんですけどねー。胡麻油をかけてそのまま食べられそうな美味しさでした。

そして生姜。これは私が最もダメにしてしまう野菜なんです。買ってくるとすぐに洗って親指大にカットして冷蔵庫にしまっておくのですが、一週間もすると傷んできてしまうんです。

このとぎ汁漬けは、大根おろしもそのまま漬けると聞いて、半信半疑で生姜をおろして漬けてみることにしました。結果は・・・

最高でした!

生姜はおろして置いておくと傷みやすく苦味が出てしまうのですが、これは一週間置いても大丈夫!辛さも香りも飛ばないし、むしろ甘さが出て、薬味の奥行きが増し増しに。

毎朝甘酒やお茶に入れて生姜おろしを飲んでいるので味の違いがはっきりわかります。

そしてレタス。葉物はこれに漬けておくとシャキシャキになるというネット情報があったので、レタスでやってみました。元々しなびていたし塩につけるので、シャキシャキになんてなるのかな?と疑っていたのですが、これは疑い通りしなしなになりました。

しなしなになっているだけじゃなく塩気もかなり強く感じて相当イマイチ。

それが一週間後に食べてみるとしっかり漬物になっていて、旨味が出て意外によかったです。

でも色は退色してシャキシャキ感もないので、シャキシャキを残して保存したいという野望は砕け散りました。

この他にも野菜はほぼ何でも漬けることができて、生で食べれないものは漬け汁ごと茹でて冷まして保存すればいいそうですよ。

米のとぎ汁漬けはやってみて本当に簡単なのを実感しました。これなら糠漬け劣等生の私でも確実にやれそうです。

糠漬けが苦手だというあなた、気軽に発酵食品を取り入れたいあなた!ぜひ試してみてくださいね!

 


文化の力とは、「知り合う力」、「人間を結ぶ力」だ

2022年02月18日 22時01分46秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

「文化交流を第一義として、民間次元で、人間と人間の真実の友好を促進し、永久的な、揺るぎない平和の基盤を築き上げていきたい。
特に、教育こそ新しい文化創造への一つの源泉である

「音楽は人類普遍の言語である」とは、アメリカの詩人ロング
フェローの言葉である。

個性豊かな独自の文化は人々の心を触発し、胸を打つ「普遍性」を有するが故に歴史上、国家と民族の壁を超えて広範に伝播していったと。
「個性豊かな独自の文化」は人間の本質に迫っているが故に、人々の心を触発するのだ。

①文化とは、人間の心の証で、人間としての生き方、道、軌道とし
て具現したものである。
②文化とは、人間生命の具体的開花で、英知、情熱、感動を具現したも
ので、価値創造の活動それ自体を指す。
③文化とは、調和性、主体性、創造性を骨格とした、強靭な人間生命の産物である。これらから推察するに、人間誰しもが有する「生命」の具体的開花、或いは産物であるが故に、普遍性を有するものと考えます。

文化の力とは、「知り合う力」、「人間を結ぶ力」だと思います。前述し
たように文化の有する普遍性がその背景にあるように思えますが、

文化は、調和性、主体性、創造性を骨格とした、強靭な人間性の産物であるといるだろう。
その開花こそが、武力、権力に抗しうる人間解放の道を開く唯一の方途である。


ロシア文学の特徴

2022年02月18日 16時52分14秒 | 新聞を読もう

ロシア文学とは、ロシアの作家によって書かれた、あるいはロシア語で書かれた文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。一般的には、旧ソビエト連邦体制下の作家を含む。

いわゆるロシア文学が生まれたのは比較的遅く17世紀になってからであり、詩と戯曲から始まったが、間もなく非常に豊かな小説の伝統が生まれた。

続く19世紀にはアレクサンドル・プーシキン、フョードル・ドストエフスキー、ニコライ・ゴーゴリ、レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフといった偉大な小説家たちが現れ、世紀の終わりには劇作家アントン・チェーホフも登場した。

ロシア文学の<徹底性>

物事を一定段階なで極めて満足してしまうのではなく、とことんまで究め抜く、頑固なまでの<徹底性>。

文学者たちが、常に民衆の苦悩を鋭く直視し、真実の文学のあり方を問い続けてきた。

それは求道者的姿勢を貫いていることなのだ。

人間把握の深さは、国民性、民族性を形成する母体である民衆の土壌にしっかりと足をおろしている。

しょせん民衆をはなれて文学はないのだ。

 

20世紀に入ると、象徴主義と未来派の詩が、強力な理論活動と共に新しい文学の飛躍をもたらしたが、すぐにソ連の迫害に直面することになった。

それでも20世紀にはセルゲイ・エセーニンやウラジーミル・マヤコフスキーなどのような詩人や、マクシム・ゴーリキー、ボリス・パステルナーク、ミハイル・ショーロホフ、ミハイル・ブルガーコフなどの小説家が輩出した。ヴァシリー・グロスマン、ヴァルラーム・シャラーモフ、アレクサンドル・ソルジェニーツィンらのソ連の全体主義体制を告発する作家たちは特に強くスターリンによる抑圧を被った。

ソ連の崩壊と共産主義体制の消滅により、1990年代には新しいロシア文学が徐々に生まれつつある。

近代ロシア文学

アレクサンドル・プーシキン

フョードル・ドストエフスキー
19世紀初頭のロマン主義の出現と共に、 ヴァシーリー・ジュコーフスキー、アレクサンドル・プーシキン、ミハイル・レールモントフ、フョードル・チュッチェフらの才能ある世代が登場し、19世紀はロシア文学、とりわけ小説の最盛期となり、「ロシア文学黄金の時代と呼ばれた。

フョードル・ドストエフスキー、ニコライ・ゴーゴリ、イワン・ゴンチャロフ、ニコライ・レスコフ、ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン、レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフら無数の才能が出現し、全世界の文学に多大な影響を与えた。

この時代以降のロシア文学が西洋文学の影響を強く受けていることが、シュテファン・ツヴァイクの『三人の巨匠――フョードル・ドストエフスキー、オノレ・ド・バルザック、チャールズ・ディケンズ』[8] や、ミシェル・カドーの『東洋と西洋の間のロシア』などで示されている[9]。

寓話作家イヴァン・クルィロフ、詩人エフゲニー・バラトゥインスキー(フランス語版)、コンスタンティン・バチュシコフ(ロシア語版)、ニコライ・ネクラーソフ、アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ、フョードル・チュッチェフ、アファナーシー・フェート、風刺作家グループの変名であったコズマ・プリュートコフ(ロシア語版)などにより、他の文学領域も発展を見た。アントン・チェーホフは極めて重要な戯曲作品を生み出しただけでなく、非常に短い物語という枠組み自体を作り出し、最も傑出したロシア語作家の1人となった。

なお、19世紀のロシアの上流階級ではフランス語を日常会話で使っていたため、当時書かれた小説の中にはフランス語がそのまま使われている作品もある(戦争と平和など)。

20世紀
象徴主義と未来派
20世紀初頭には、詩の領域において象徴主義、アクメイズム、ロシア未来派などの潮流が次々と出現し活発な活動が見られた。この「銀の時代」と呼ばれる時代に活動した詩人たちにはアンナ・アフマートヴァ、インノケンティー・アンネンスキー、アンドレイ・ベールイ アレクサンドル・ブローク ワレリー・ブリューソフ、マリーナ・ツヴェターエワ、セルゲイ・エセーニン、ニコライ・グミリョフ、ダニイル・ハルムス、ヴェリミール・フレーブニコフ、オシップ・マンデリシュターム、ウラジーミル・マヤコフスキー、ボリス・パステルナーク、フョードル・ソログープ、マクシミリアン・ヴォローシン(英語版)などがいる。

この時期にはまた批評と理論の活動も活発で、ロシア・フォルマリズムが発達した。

ソビエト時代
ロシア革命の後、数多くのロシア作家たちが特にベルリン、次いでパリなどへと亡命し、それらの亡命先では「ロシア思想(ロシア語版)」誌のようなロシア語による文芸雑誌が数多く発行された。1921年には、アンナ・アフマートヴァの夫ニコライ・グミリョフが親皇帝的な活動の咎で処刑された。

しかしながら、ネップ(新経済政策)の開始と共に、多少の自由が作家に認められるようになり、亡命作家の一部は帰国を選択した。ヴィクトル・シクロフスキー、アンドレイ・ベールイ、後にはマクシム・ゴーリキーなどである。


セラピオン兄弟(英語版)
権力による障害や経済的な不安定さはあるにせよ、どうにか文学生活は再開された。セラピオン兄弟(英語版)のようなグループやオベリウー(ロシア語版)のような運動は小説や詩の美学を刷新しようと試みた

。イルフとペトロフ(英語版)の風刺小説やユーリイ・オレーシャの『羨望』のような若干の社会批評も市民権を獲得した。ミハイル・ショーロホフは『静かなドン』を発表し、この作品によって1965年にノーベル文学賞を受賞することとなる。

1930年代にヨシフ・スターリンが最高権力者となると、ボリシェヴィキ権力によって作家に若干の自由が与えられていた時代は終わりを告げる。公式の美学が設定された――社会主義リアリズムである。

この文学的教条は単純なもので、作家の才能を体制の功績や成功を賞賛し、公式なプロパガンダを説くのに用いるというものであった。

体制は文学生活と主題の方向を、政治委員アンドレイ・ジダーノフに直属するソ連作家同盟を介して組織しようとした。それでも、「文学ガゼータ[訳語疑問点]」誌は若干の精神の自由を守り続けていた。

急速に、非協力的な作家たちは亡命・収監・強制労働などを余儀なくされていった。未来派の詩人ウラジーミル・マヤコフスキーとマリーナ・ツヴェターエワは自殺を選んだ。こうした抑圧は、第二次世界大戦による極めて厳しい物質的欠乏の状況とも相俟って、ロシア文壇の統一性の消滅にまで至った。

文芸批評や文芸理論も同じ運命を辿った。ロマーン・ヤーコブソンはアメリカ合衆国へ亡命し、ヴィクトル・シクロフスキーとミハイル・バフチンは沈黙した。作家の一部は、検閲を逃れるために児童文学(ダニイル・ハルムス)や歴史的伝記(ユーリイ・トゥイニャーノフ)のようなジャンルを隠れ蓑とした。

しかしながら、ミハイル・ブルガーコフ、ボリス・パステルナーク、アンドレイ・プラトーノフ、オシップ・マンデリシュターム、ユーリイ・オレーシャ、イサーク・バーベリ、ヴァシリー・グロスマンといった大半の作家たちは死後の出版に期待したり、サミズダート(手作りによる秘密出版)を通じて発表したりなどして時として内密に創作活動を続けていた。

ノーベル賞作家イヴァン・ブーニン、アレクサンドル・クプリーン、ウラジーミル・ナボコフら亡命作家たちは文学で生計を立てることに成功し、創造活動の自由も確保したが、その作品を母国の読者に伝える手段はサミズダートしかなかった。


アレクサンドル・ソルジェニーツィン
スターリン時代より後のソ連では、社会主義リアリズムが唯一の公認された文学様式であることに変わりはなかったが、サミズダートで発表する作家たちは多少自由になった。

特に、作家たちは創作により生計を立てられるようになり、抑圧や強制収容を以前ほどには恐れずに済むようになった。ノーベル賞作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンやヴァルラーム・シャラーモフらによる、グラグ(強制労働収容所)に関する作品もサミズダートを介して流通しはじめた。ヴェネディクト・エロフェーエフ(ロシア語版)はサミズダートを通じて出版活動を継続した。

ソ連の衰退期には、ノーベル賞受賞者ヨシフ・ブロツキーや小説家セルゲイ・ドヴラートフのような亡命ロシア人たちは西側で非常に高い評価を受けたが、その作品もソ連ではサミズダートを通じてしか知られることはなかった。

反体制作家たちの作品が正式に出版されるようになったのは1980年代後半になりペレストロイカ政策が始まって以降であった。

現代ロシア文学
20世紀末には、ロシア文学は難しい局面を迎える――数十年間に及ぶソ連の社会主義によって損なわれた土壌の再生の局面である。この時期に必要とされたことが2つあった。新しい才能の育成と発見および、ロシアにおける出版市場の創出である。

出版社は成長のための資金を、三流の小説を売ることで獲得した。ヴィクトル・ペレーヴィンやウラジーミル・ソローキンのように頭角を現す作家は僅かであった。出版社は、共産主義時代の重苦しい作品や、サミズダートにより知られていた作品などはほとんど出版しなかった。

ロシアの出版社にとっての金の卵は、他国同様、推理小説であった。ダリヤ・ドンツォヴァ(ロシア語版)の皮肉の込められた推理小説は大成功を収めた。ドンツォヴァの50に及ぶ推理小説は数百万部を売り上げ、ヨーロッパ諸語へも翻訳された。

21世紀初頭には、ロシア語出版の需要は、質と量の双方で大きく増大した。その結果、ロシアの出版界は「ロシアの悲劇四部作[10]」で知られるエドワード・ラジンスキー等の新しい文学的才能を発掘し、報酬を与えることで顧客に作品を供給しなければならないようになった。出版社と部数は増加を続けている。

タチヤーナ・トルスタヤ(ロシア語版)やリュドミラ・ウリツカヤといった一部のロシア作家たちは今では西ヨーロッパや北アメリカでも人気となっている。

ボリス・アクーニンの探偵小説『エラスト・ファンドーリン(ロシア語版)』シリーズはヨーロッパや北アメリカでも刊行されている。

ロシア最大の探偵小説作家アレクサンドラ・マリーニナも、その作品をヨーロッパで売ることに成功しており、特にドイツで大きな成功を収めている。

より伝統的な文学も、地方のインテリの日々の困難と喜びの物語を書くペルミの作家ニーナ・ゴルラノヴァ(ロシア語版)や、チュクチのアイデンティティの問題を語るチュクチ自治管区の作家ユーリー・ルィトヘウ(ロシア語版)といった遠隔地出身の作家たちの到来によって新しい飛躍を迎えている。

ドミトリー・グルホフスキーやセルゲイ・ルキヤネンコといった作家はサイエンス・フィクションで成功を収め、映画化やコンピュータゲーム化もされている。

 

近代ロシア文学

アレクサンドル・プーシキン

フョードル・ドストエフスキー
19世紀初頭のロマン主義の出現と共に、 ヴァシーリー・ジュコーフスキー、アレクサンドル・プーシキン、ミハイル・レールモントフ、フョードル・チュッチェフらの才能ある世代が登場し、19世紀はロシア文学、とりわけ小説の最盛期となり、「ロシア文学黄金の時代[7]」と呼ばれた。

フョードル・ドストエフスキー、ニコライ・ゴーゴリ、イワン・ゴンチャロフ、ニコライ・レスコフ、ミハイル・サルトィコフ=シチェドリン、レフ・トルストイ、イワン・ツルゲーネフら無数の才能が出現し、全世界の文学に多大な影響を与えた。

この時代以降のロシア文学が西洋文学の影響を強く受けていることが、シュテファン・ツヴァイクの『三人の巨匠――フョードル・ドストエフスキー、オノレ・ド・バルザック、チャールズ・ディケンズ』[8] や、ミシェル・カドーの『東洋と西洋の間のロシア』などで示されている[9]。

寓話作家イヴァン・クルィロフ、詩人エフゲニー・バラトゥインスキー(フランス語版)、コンスタンティン・バチュシコフ(ロシア語版)、ニコライ・ネクラーソフ、アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ、フョードル・チュッチェフ、アファナーシー・フェート、風刺作家グループの変名であったコズマ・プリュートコフ(ロシア語版)などにより、他の文学領域も発展を見た。

アントン・チェーホフは極めて重要な戯曲作品を生み出しただけでなく、非常に短い物語という枠組み自体を作り出し、最も傑出したロシア語作家の1人となった。

なお、19世紀のロシアの上流階級ではフランス語を日常会話で使っていたため、当時書かれた小説の中にはフランス語がそのまま使われている作品もある(戦争と平和など)。

20世紀
象徴主義と未来派
20世紀初頭には、詩の領域において象徴主義、アクメイズム、ロシア未来派などの潮流が次々と出現し活発な活動が見られた。この「銀の時代」と呼ばれる時代に活動した詩人たちにはアンナ・アフマートヴァ、インノケンティー・アンネンスキー、アンドレイ・ベールイ アレクサンドル・ブローク ワレリー・ブリューソフ、マリーナ・ツヴェターエワ、セルゲイ・エセーニン、ニコライ・グミリョフ、ダニイル・ハルムス、ヴェリミール・フレーブニコフ、オシップ・マンデリシュターム、ウラジーミル・マヤコフスキー、ボリス・パステルナーク、フョードル・ソログープ、マクシミリアン・ヴォローシン(英語版)などがいる。

この時期にはまた批評と理論の活動も活発で、ロシア・フォルマリズムが発達した。

ソビエト時代
ロシア革命の後、数多くのロシア作家たちが特にベルリン、次いでパリなどへと亡命し、それらの亡命先では「ロシア思想(ロシア語版)」誌のようなロシア語による文芸雑誌が数多く発行された。1921年には、アンナ・アフマートヴァの夫ニコライ・グミリョフが親皇帝的な活動の咎で処刑された。

しかしながら、ネップ(新経済政策)の開始と共に、多少の自由が作家に認められるようになり、亡命作家の一部は帰国を選択した。ヴィクトル・シクロフスキー、アンドレイ・ベールイ、後にはマクシム・ゴーリキーなどである。


セラピオン兄弟(英語版)
権力による障害や経済的な不安定さはあるにせよ、どうにか文学生活は再開された。セラピオン兄弟(英語版)のようなグループやオベリウー(ロシア語版)のような運動は小説や詩の美学を刷新しようと試みた。イルフとペトロフ(英語版)の風刺小説やユーリイ・オレーシャの『羨望』のような若干の社会批評も市民権を獲得した。

 

ミハイル・ショーロホフは『静かなドン』を発表し、この作品によって1965年にノーベル文学賞を受賞することとなる。

1930年代にヨシフ・スターリンが最高権力者となると、ボリシェヴィキ権力によって作家に若干の自由が与えられていた時代は終わりを告げる。公式の美学が設定された――社会主義リアリズムである。この文学的教条は単純なもので、作家の才能を体制の功績や成功を賞賛し、公式なプロパガンダを説くのに用いるというものであった。

体制は文学生活と主題の方向を、政治委員アンドレイ・ジダーノフに直属するソ連作家同盟を介して組織しようとした。それでも、「文学ガゼータ[訳語疑問点]」誌は若干の精神の自由を守り続けていた。

急速に、非協力的な作家たちは亡命・収監・強制労働などを余儀なくされていった。未来派の詩人ウラジーミル・マヤコフスキーとマリーナ・ツヴェターエワは自殺を選んだ。こうした抑圧は、第二次世界大戦による極めて厳しい物質的欠乏の状況とも相俟って、ロシア文壇の統一性の消滅にまで至った。

文芸批評や文芸理論も同じ運命を辿った。ロマーン・ヤーコブソンはアメリカ合衆国へ亡命し、ヴィクトル・シクロフスキーとミハイル・バフチンは沈黙した。作家の一部は、検閲を逃れるために児童文学(ダニイル・ハルムス)や歴史的伝記(ユーリイ・トゥイニャーノフ)のようなジャンルを隠れ蓑とした。

しかしながら、ミハイル・ブルガーコフ、ボリス・パステルナーク、アンドレイ・プラトーノフ、オシップ・マンデリシュターム、ユーリイ・オレーシャ、イサーク・バーベリ、ヴァシリー・グロスマンといった大半の作家たちは死後の出版に期待したり、サミズダート(手作りによる秘密出版)を通じて発表したりなどして時として内密に創作活動を続けていた。

ノーベル賞作家イヴァン・ブーニン、アレクサンドル・クプリーン、ウラジーミル・ナボコフら亡命作家たちは文学で生計を立てることに成功し、創造活動の自由も確保したが、その作品を母国の読者に伝える手段はサミズダートしかなかった。


アレクサンドル・ソルジェニーツィン
スターリン時代より後のソ連では、社会主義リアリズムが唯一の公認された文学様式であることに変わりはなかったが、サミズダートで発表する作家たちは多少自由になった。特に、作家たちは創作により生計を立てられるようになり、抑圧や強制収容を以前ほどには恐れずに済むようになった。ノーベル賞作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンやヴァルラーム・シャラーモフらによる、グラグ(強制労働収容所)に関する作品もサミズダートを介して流通しはじめた。ヴェネディクト・エロフェーエフ(ロシア語版)はサミズダートを通じて出版活動を継続した。

ソ連の衰退期には、ノーベル賞受賞者ヨシフ・ブロツキーや小説家セルゲイ・ドヴラートフのような亡命ロシア人たちは西側で非常に高い評価を受けたが、その作品もソ連ではサミズダートを通じてしか知られることはなかった。

反体制作家たちの作品が正式に出版されるようになったのは1980年代後半になりペレストロイカ政策が始まって以降であった。

現代ロシア文学
20世紀末には、ロシア文学は難しい局面を迎える――数十年間に及ぶソ連の社会主義によって損なわれた土壌の再生の局面である。この時期に必要とされたことが2つあった。新しい才能の育成と発見および、ロシアにおける出版市場の創出である。出版社は成長のための資金を、三流の小説を売ることで獲得した。ヴィクトル・ペレーヴィンやウラジーミル・ソローキンのように頭角を現す作家は僅かであった。出版社は、共産主義時代の重苦しい作品や、サミズダートにより知られていた作品などはほとんど出版しなかった。

ロシアの出版社にとっての金の卵は、他国同様、推理小説であった。ダリヤ・ドンツォヴァ(ロシア語版)の皮肉の込められた推理小説は大成功を収めた。ドンツォヴァの50に及ぶ推理小説は数百万部を売り上げ、ヨーロッパ諸語へも翻訳された。

21世紀初頭には、ロシア語出版の需要は、質と量の双方で大きく増大した。その結果、ロシアの出版界は「ロシアの悲劇四部作[10]」で知られるエドワード・ラジンスキー等の新しい文学的才能を発掘し、報酬を与えることで顧客に作品を供給しなければならないようになった。出版社と部数は増加を続けている。

タチヤーナ・トルスタヤ(ロシア語版)やリュドミラ・ウリツカヤといった一部のロシア作家たちは今では西ヨーロッパや北アメリカでも人気となっている。ボリス・アクーニンの探偵小説『エラスト・ファンドーリン(ロシア語版)』シリーズはヨーロッパや北アメリカでも刊行されている。ロシア最大の探偵小説作家アレクサンドラ・マリーニナも、その作品をヨーロッパで売ることに成功しており、特にドイツで大きな成功を収めている。

より伝統的な文学も、地方のインテリの日々の困難と喜びの物語を書くペルミの作家ニーナ・ゴルラノヴァ(ロシア語版)や、チュクチのアイデンティティの問題を語るチュクチ自治管区の作家ユーリー・ルィトヘウ(ロシア語版)といった遠隔地出身の作家たちの到来によって新しい飛躍を迎えている。

ドミトリー・グルホフスキーやセルゲイ・ルキヤネンコといった作家はサイエンス・フィクションで成功を収め、映画化やコンピュータゲーム化もされている。

 


愚かな真似をしたものだ。

2022年02月18日 16時23分40秒 | 日記・断片

利根川土手から近道をしたら、小さな公園の先は行き止まりだった。
そこで引き返すべきだった。
だが、意を決して先へ進む。
下の駐車までの高さは5メートルほどで、足が竦む。
もしも、そこから足を滑らせから下はコンクーリトなので、一巻の終わりだろうと恐怖心が湧いてきた。
草の斜面側に左足を乗せ、右足を踏ん張るよういにして前へ進む。
もはや引き返せないので幅10センチ余りの細い縁・足場を頼りに慎重に前に進む他ない。
何とかして利根川大橋の駐車場への道へ辿り着いた。
愚かな真似をしたものだ。
そして利根川大橋を300㍍ほど歩き、そこで富士山の写真を写す。
利根川土手からの富士山の映像ばかりではなく、新町の丘からの富士山の写真などは、早朝(午前5時)の散歩に拘る鈴木さんに見てもらうための映像。

利根川堤防からの富士山の映像

利根川大橋からの富士山の映像

新町の住宅地からの富士山の映像

新町の坂道からの富士山の遠望


人は<近道>では大きく成長できない

2022年02月18日 14時46分45秒 | 新聞を読もう

▼人生のオリンピックに敗者はいない。
いるとすれば、それは<挑戦>しなかった人だけである。
▼人は<近道>では大きく成長できない。
剣難の道に挑み続ける鍛錬の中で飛躍をとげる。
▼何事も<必ずやる>と腹を決める。
▼行き詰まった時こそ、原点へ帰ることだ・
▼環境は変えることができる。
何もせずに諦める弱い心を打ち破ることだ。
▼あくまでの現状を打開するのは誰かではなく、自分自身の強い一念なのだ。

▼逆境は成長のための道場であり、幸福を創造するための舞台である。

▼苦難はむしろ飛躍のチャンス。

取手・新町の丘から望む富士山(1月18日午前11時17分ころ)

 

 


コロナ第6波で「自宅療養中の死亡」地方に拡大…100人中3人しか入院できない衝撃

2022年02月18日 14時45分01秒 | 新聞を読もう

2/17(木) 9:06配信 日刊ゲンダイDIGITAL

独自調査では5県で初確認

入院率は3.2%、陽性者100人に3人しか入院できない。入院させない政府方針の危うさを示す数字だ(後藤茂之厚労相)/(C)日刊ゲンダイ

「入院すべき方が入院できない状況が起きているのではないか」との質問(14日の衆院予算委員会)に後藤厚労相は「数字として、今すぐ起きているわけではない」と答弁した。数字上、病床は逼迫していないという立場だ。しかし、入院のハードルはかつてなく高く、自宅療養中の死亡が地方にも広がりつつある。

オミクロン株「重症化スピード」は最速!第5波の3倍、発症から「3日以内」で悪化の調査結果を紐解く

 ◇  ◇  ◇

 14日の厚労省の発表によると、9日時点のコロナ療養者は83万9580人。このうち入院しているのは、たったの2万6734人で入院率は3.2%だ。陽性者100人に3人しか入院できない。

 第5波のピークだった8月25日時点の入院率は11.5%(2万4126人/20万9703人)。第6波の入院率の低さが際立っている。

 ワーストは兵庫の1.9%。以下、京都(2.3%)、大阪(2.3%)、東京(2.4%)、神奈川(2.5%)、福岡(2.7%)と都市部の入院率が低い。

 高い順では島根(14.8%)、岩手(12.7%)、鳥取(9.6%)、和歌山(9.4%)。患者に手厚い地方でも1割程度の入院率にとどまっている。第6波では、ケタ違いの感染者が発生しているが、軽症も多く、入院するケースが少なくなっているのだろう。

 入院が必要な患者は病院に入れているのだろうか。気になるのが自宅療養中の死亡例が地方で確認されていることだ。

 日刊ゲンダイは自治体の発表や報道をもとに第6波の自宅療養中の死亡例を調べた。すると、5県で県内初の自宅療養中の死が確認されていた。宮崎(4日)、青森(5日)、滋賀(7日)、鹿児島(12日)、茨城(14日)の5県だ(日付は発表日)。

軽症の高齢者をどう守るのかという難問
新型コロナの症状が改善し、自宅療養する女性(左)を病院から送り届けた介護タクシー「かご屋」の木原代表(都内)/(C)共同通信社

 第4波や第5波の時は、大阪や東京の病床がパンク。重症者も入院できず自宅療養者の死が相次いだ。第6波では病床は空いているが、軽症のため入院不要と判断された高齢者が自宅で亡くなるケースがほとんどだ。

 医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏が言う。

「軽症の高齢者をどう扱うのかは難しい問題です。どんどん入院させればいいわけではない。同居家族がいる場合、自宅で療養する方が快方に向かうことも少なくありません。ただし、自宅療養とする場合、急変時にすぐに医療にアクセスできる体制を充実させることが必要です。1人暮らしの場合は自宅療養は危険です。東京都が軽症~中等症1の高齢者を受け入れる臨時施設やリハビリを含め治療ができる拠点を整備するようです。評価できる試みだと思います」

 15日発表された死者数は過去最多の236人。とうとう200人を超えてしまった。オミクロン株の怖さは、たとえ軽症でも高齢者の場合、死につながるケースがあることだ。軽症者の死をどう防ぐのか──。やれることはいくらでもあるはずだ。

 茨城の70代男性は8日に発熱し、10日に陽性が判明。基礎疾患があったが軽症だったため、医師がすぐの入院は必要ないと判断した。保健所が症状などを聞き取る予定だった12日早朝、家族が異変に気づいた。救急隊が来た時は死亡していたという。茨城県の病床使用率は37.6%(14日時点)だ。県に聞いた。

「県内の病床は逼迫しておらず、必要な患者には入院いただけています。70代の男性は、医師が入院不要と判断し、自宅療養となりました。今回のケースを踏まえ、今後は軽症でも容体が急変することを考慮し対応したい」(感染症対策課)

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