藤田小女姫殺害犯がハワイの刑務所で殺されていた
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すっとんきょうな調子で予言を口走る、一風変わったおかっぱ頭の美少女は、たちまち時の人となる。
だがこのときは、やがては首相の岸信介や政商と呼ばれた小佐野賢治、また松下幸之助といった財界の重鎮までもが、彼女の無垢な声に耳を傾けるようになるとは、誰も予想しなかっただろう。
この記事をきっかけに、突如開けた彼女の華やかな人生はまた、悲惨な結末をもって、あまりにも唐突に幕を引いた。 平成6年、藤田小女姫は養子に迎えたひとり息子の吾郎とともに、ハワイで他殺体となって発見された。
息子の友人だった容疑者福迫雷太が、間もなく逮捕される。
しかし、彼が有罪判決を受けたいまでも、事件の真相が究明されたとは言い難い。冤罪説、複数犯行説は依然根強く、犯行の背後関係はぼやけたままだ。
加えて、事件後二人の遺骨が行方知れずになるという混沌とした末路が重なり、その死は一層謎めいた。
藤田小女姫は、最後の最後まで不可思議な人だった。
政財界を股にかけて
色白で細面、切れ長の瞳を持った魅惑的な容姿も受け、若き日の小女姫はタレント並にラジオやテレビ、雑誌にひっぱり回された。
相談の仕事も繁盛を極める。政治評論家の細川隆元も、彼女の能力を大いに買ったひとりだ。
『隆元のはだか交友録』(山手書房)には、政財界の友人に、小女姫を紹介したくだりがいくつか紹介されていた。
日米安全保障条約の改定案成立に、日本中が騒然となった昭和35年、ときの首相・岸信介が、 「細川くん、藤田小女姫に会わせてくれ。そっと会いたい」(『隆元のはだか交友録』) と頼み込んだという。
このとき彼女は22歳だ。以下は前掲書からの抜粋である。
「会って、藤田小女姫に『安保条約は通るか通らんか』と岸さんが訊いた。彼女は目をつぶるわけでもないし、いろんな道具を使うわけでもない。(中略)その間、約五分。
『断固としておやんなさい。通ります。そのかわりに、通ったあと、あなたの内閣は長く持ちませんよ』と彼女は言った」
学生らデモ隊33万人が異様な熱気を迸らせ国会を包囲するなか、6月19日午前0時に、衆院通過後1カ月を経て安保条約は自然成立した。約3週間後に岸内閣は、総辞職した。
細川は、アメリカ進出を見据え、社名変更を考える野田醤油の社長(当時)茂木啓三郎が、細川の紹介状を持ってサンケイ会館に出かけた経緯も記している。彼女はひとこと、「キッコーマン」への改名を勧め、3年後には必ず事業の目は出ると短く補足した。結果は、予言の通りであったという。
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