田中角栄 日中国交正常化交渉の舞台裏 台湾断交で開かれた道

2024年11月15日 00時59分21秒 | 社会・文化・政治・経済
日中国交正常化50年

今から50年前の9月29日。
田中角栄総理大臣と中国の周恩来首相が日中共同声明に調印し、日本と中国の国交が正常化した。
歴史が動いたその時、日本の政治家や外交官は中国側とどのような交渉を行ったのか。
大平正芳外務大臣の秘書官として訪中した元外交官が舞台裏を語った。
(岩澤千太朗)

ぶっつけ本番の旅

「成算が無いまま中国に行ったんです。国交がないから中国政府と本当の話ができないんですよ。ちょっと表現が悪いんですけど、『ぶっつけ本番の旅』ですね」

元外交官の藤井宏昭
1972年9月29日の日中国交正常化を成した5日間の中国での交渉をこう表現したのは、元外交官で、北米局長やイギリス大使を歴任した藤井宏昭(89)。
50年前、藤井は大平正芳外務大臣の秘書官を務めていた。

 

総理大臣の田中角栄や、外務大臣の大平正芳が訪中した際、大平と行動をともにした。
都内でインタビューに応じた藤井は、記憶の糸をたぐるように語り始めた。

「ジェットコースターに乗ったような気分でしたね。はじめは国交正常化できないかもしれないと。本当にダメで振り落とされてしまうかもしれないと。それが振り落とされずに無事に戻れたという感じですね」

訪中前に遺書も

1972年9月24日夜。
田中をトップとする訪中団の一行は、出発を翌日に控え、羽田空港近くのホテルに宿泊した。しかし、そこでの食事会は…

(元外交官 藤井宏昭)
「会話はあんまり無いですよ。笑い声なんてほとんど無く、みんな沈うつな気分で飯を食べた。本当に国交正常化がなるのか分からなくて、暗い気持ちだったんですね」

藤井によると、国交正常化ができるという確証が持てない中、大平は、訪中前に遺書までしたためていたと言う。

「中国で何が起きるか分からないという気持ちもあったのかもしれないですね。命を賭してというのかな。遺書を書くことで大平さんは、自分の気持ちを吹っ切らせる効果があったのかなと」

訪中を決めた瞬間は

この2か月前の1972年7月、田中が総理大臣に就任。
田中は、翌月の15日、中国訪問を正式に発表する。

田中角栄

田中はなぜ、訪中を決断したのか。
決断の前に、公明党委員長の竹入義勝が独自のルートで中国の首相・周恩来と会談し、その内容が政府にもたらされたことが大きいと言う。

藤井は、中国が日本に戦後賠償を要求しないとした点が重要だったと、証言した。

「『竹入メモ』って当時言われてましたけど、一番大きなところでは、『中国は賠償金は取らない』って書いてあるんですね。田中さんのところに大平さんはすぐ飛んで行ってね。それでメモを見て『うん、行こう』となったわけです。僕は総理の秘書官室かどこかで待って、帰りの車で大平さんから『もう(訪中を)決めたぞ』って」

当時の国際情勢は

藤井が「ぶっつけ本番の旅」と表現した、田中と大平の中国訪問。それは、激変する当時の国際情勢のなかで、日本政府が、なんとか主導的に東アジア外交を進めようと打ち出した、リスクをはらんだ賭けとも言える一手だった。

中国訪問に至った当時の国際情勢として、藤井が1つ目に挙げたのが、いわゆる「ニクソン・ショック」だ。

ニクソン大統領
1972年2月、アメリカの大統領のニクソンが、国交がなかった中国を訪問した一連の動きを言う。
日米関係は盤石と思われていた中で、日本の頭越しに突然起きた米中の接近。
「日本が『置き去り』になるのではないか」などと、国内に大きな衝撃を与えた。

 

さらに挙げたのが、中国側=北京の共産党政権からの視点だ。
当時のソビエト連邦との、共産主義の国同士の「中ソ対立」のなかで、中国も日本との国交正常化を欲していたという。
ただ、この点は、当時、日本側にはあまり見えていない部分だったと振り返る。

アメリカへの根回し

こうした国際情勢の中で、日中国交正常化交渉のための中国訪問を固めた日本政府。
大平は速やかにある行動に出る。
それは、アメリカへの事前の根回しだった。アメリカは、大統領の訪中は果たしたが、まだ中国との国交は樹立していなかった。

(元外交官 藤井宏昭)
「アメリカより先にかなり重要な外交政策をやるのは戦後の日本では珍しいことなんです。だから大平さんはアメリカのニクソン大統領に仁義を切っておかないといけないと考えた。緻密な方ですから。『北京にまっすぐじゃなくてアメリカ経由で行くんだ』ってね」

ハワイでの田中やニクソン
8月末にハワイで田中とニクソンとの首脳会談が行われた。ともに訪問した大平に藤井も同行した。

 

「大平さんは、往路は非常に緊張していたが、帰りは、よっぽど嬉しかったんですね、アメリカの了解が取れたって。鼻歌を歌ってね。何とかの第二国道っていう歌でしたね」

難航する正常化交渉

握手する田中と周
そして9月25日、田中や大平らの訪中団は北京に到着。
藤井はその時の様子をこう回想する。

 

「周恩来首相が出迎えに来てくれましたね。それから儀仗兵もいましたけども、それしかいないという。出迎えとしては立派なんですけど、何というか非常に寂しいような」

田中と周の会談
こうして始まった国交正常化交渉。
しかし、出ばなをくじかれることになる。

 

晩餐会での日中戦争に関する田中の発言に中国側が不快感を示したのだ。

 

晩餐会の出席する田中と周
(元外交官 藤井宏昭)
「田中総理は、日本は中国の人民に対して『ご迷惑をおかけした』ということを言ったんですが、翌日午後の首脳会談で周首相が『迷惑』っていうのは非常に軽すぎると。中国語で言ったら非常に軽いんだっていうことを述べてね」

さらに、具体的な交渉の内容でも日中間で大きな溝があった。日本と台湾との関係だ。
中国と国交を結ぶということは、これまで国交を結んできた台湾との関係を事実上、切り捨てることになる。

「最大の案件はやっぱり台湾です。中国は、日本と台湾が結んだ日華平和条約は『不法であり、効力を有しない』と言うんですよ。日本は『不法であり』というのは絶対に受け入れられない」

台湾をめぐり、表現ぶりをどうするのか。
協議は平行線をたどり、時間だけが過ぎていった。

雰囲気を変えたのは…

訪中2日目、9月26日の夜。
この日の外相会談でも大きな進展はなく、悲観的な気持ちで大平たちは報告を待つ田中の元へ向かった。

(元外交官 藤井宏昭)
「中国とは全くの平行線でらちがあかない。非常に絶望的な気持ちで、もうダメかもしれないという、一番苦しい時でした」

ところが、大平から報告を受けたときの田中の対応は、意外なものだった。

「みんな驚いたのは田中さんがいやに快活なんですよ。話を聞いても『そうか』という感じでね。それで誰かが『総理どうしたらよろしいですか?総理だったらどうしますか?』って聞いたんですよ。そしたら田中さんが『そこはお前ら大学を出た連中が考えろ』って」

藤井は、田中のこのふるまいが、訪中団の雰囲気を大きく変えたと感じた。

「田中さんの明るい態度と応対で、みんながぱっと明るくなったんですね。これは後で気づいたんですけど、田中さんは鋭敏な直感力で、利害と利害が対立してどうにもならない問題ではなく、言葉で解決できると考えたんじゃないかな」

車内で信頼関係を構築

9月27日、交渉3日目。
田中と大平は万里の長城に見学に向かった。車内で大平は中国の外相・姫鵬飛と隣り合って座った。
同乗した藤井は、2人がここで信頼関係を築くことができたと振り返る。

万里の長城を訪れる田中

(元外交官 藤井宏昭)
「会談の場合は大勢いて記録に残るから正式なことを言わなきゃいけない。だけど車に乗って隣にいると、いろんなことが話せて人間的な付き合いができるわけです。行き帰り合わせて4時間くらい『大使の交換をいつにしようか』とか、ずっとやっていましたね」

言葉による解決

台湾との関係について、どうすれば中国側と折り合えるのか。
交渉で中心的な役割を担った大平と外務省の事務方は、連日、知恵を絞った。
そして、外務省の事務方が考え出した1つの言葉をきっかけに交渉が大きく前進する。

(元外交官 藤井宏昭)
「『不正常な状態』っていう言葉がキーなんですよね。案を出したのは橋本さん(当時の外務省中国課長)。日本側の解釈は(台湾との)日華平和条約は有効だったけれども、中国全体と日本との関係では不正常だったと。中国の解釈は、今まで不正常な状態だったということは、日華平和条約は無効で、これから共同声明によって有効な関係を結ぶことができるのだと」

この言葉は、日中共同声明に次のように盛り込まれることになる。

日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する
さらに台湾をめぐっては次のように明記された。

 

台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部とする立場を日本が十分理解し尊重する

日本と中国の双方の側から主張を通すことができる言葉が見つかり、正常化への道が開かれた。

共同声明に調印、台湾と断交

そして迎えた9月29日。
田中と大平、周恩来と姫鵬飛は、日中共同声明に調印した。

日中共同声明に調印

日本と中国が国交を樹立した歴史的な瞬間だった。
藤井は、晴れがましい田中の表情とは違い、緊張した大平の様子を記憶している。

「大平さんは調印式が終わっても大役があって、非常に沈うつというか、緊張していました。毎日、朝から晩まで隣にいるから、その気持ちはすぐに伝わってくるんですね」

共同声明に調印したあとの記者会見で、大平は次のように述べた。

記者会見する大平正芳
「最後に、共同声明の中には触れられておりませんが、日中関係正常化の結果として、日華平和条約は、存続の意義を失い、終了したものと認められるというのが日本政府の見解でございます」

会見場で、記者たちは慌てふためいたという。

(元外交官 藤井宏昭)
「日台の関係が切れたということを宣言したわけです。国交は断絶すると。記者は、会見でそういうのが出てくるとは思っていなかったから、とにかく騒然としていました」

大平には中国と国交を樹立したあと、間を置かず台湾との断交を表明することで、混乱を避ける狙いがあったと藤井は解説した。

「(台湾との関係は)中国との交渉では非常に重要な部分で、それを大平さんは記者会見でやっちゃおうと。日本へ帰ってやったら、また騒然としますからね。だから記者会見でやっちゃって『全部それでおしまい』っていうのが大平さんの気持ちでした」

本当の意味での正常化

だが、この段階ではまだ本当に“全部おしまい”ではなかったのだという。
田中と大平は、当時、台湾にいた日本人に危害が加えられるような事態が起きないか危惧していた。

調印した日の午後、訪中団一行は、人民公社を視察するため、首相の周とともに北京から上海に向かった。上海の空港に到着すると、藤井は大平の指示を受けて一行から離れ1人宿舎に向かった。そこで、外務省中国課の首席事務官に電話をかけた。

藤井:「台湾の情勢はどうだ?」
首席事務官:「いたって平静です」

携帯電話のない時代。
藤井は、宿舎の玄関で田中と大平を待ち構えた。

(元外交官 藤井宏昭)
「玄関の階段の前で待っていて、一行が現れるわけです。車を降りた大平さんに『台湾、いたって平静だそうです』とまず耳打ちしてね。大平さんがすぐ田中さんに同じことを言ったら2人とも本当に安堵して。これで国交正常化は成功したなって」

藤井は、このときが本当の意味で国交正常化を成し遂げた瞬間だったと力を込めた。

胆力と緻密さと知恵

中国での5日間を語り終えた藤井はこう続けた。

「非常に肝が据わった総理の胆力と、緻密で物を深く考える粘り強い外務大臣。2人の気があって一心同体でね。それから外務省の事務方の知恵。3者の呼吸がぴったり合った。ずいぶん長い間外交官をやったけど、本当にそれを感じた5日間でした」

さらに、藤井はもう1つ、忘れられないエピソードがあると明かした。
それは共同声明に調印したあと、北京から上海に移動した飛行機の中での出来事だった。

田中と周が首相どうし、隣の席に座っていた。

 

飛び立つ飛行機
(元外交官 藤井宏昭)
「田中さん、疲れちゃったんでしょうね。眠りだしたんですね。大平さんに『起こしましょうか』と聞いたら、『いいよ、いいよ』と。周首相も、もちろん気付いて『寝かしておきなさい』と言っていました。それで大平さんと周首相が話をしていましたね」

 

豪放磊落な田中と寛容な周。
この2人だからこそ国交正常化を成し遂げられたのだと、藤井は感じたという。

今後の日中関係は

あれから50年。
いまの日中関係を藤井はどうみているのか。
経済を成長させ軍事力を増強してきた中国は覇権主義的な動きを強めている。
藤井は、日本は防衛力を強化するとともに、中国との対話が重要だと強調した。

元外交官の藤井宏昭
「相互理解を深めていく。対話は必ず必要なんです。何世代に渡ってこれは続いていく話なんですよ。今の中国が問題だと決めつけない方がいい。日中はお互いに学び合ってきた国なんです」

さらに、手元に準備していた、かつて仕えた大平の演説の一節を読み上げた。

 

中国は近いようで遠い国だ。言ってみれば、大みそかと元旦の関係に近い。だが、両方とも引っ越すわけにはいかない。従って、相互の理解は、想像以上に難しいけれども、引っ越すわけには行かないのだから、努力と忍耐が必要だ
「大みそかと元旦っていうのは、僕は『どっちが元旦なんだ』て言ってましたけど、大平さんの本心だと思うんです。また、これは本当に今でも通じる名言だと思います」

 

日本外交に求められるものは

インタビューは、休憩を取りながらおよそ2時間に及んだ。
藤井は、静かに、そして時に熱っぽく当時を語った。
言葉の端々から政治家や官僚の息づかいを感じ、取材した私は50年前にタイムスリップしたような錯覚に陥った。
そして田中の胆力と大平の緻密さを骨格とした日本外交のチームワークに思いをはせた。

日中関係は、いま尖閣諸島をめぐる問題や台湾情勢をめぐり、課題は多い。
50年前、先人たちは遺書をしたため並々ならぬ覚悟で中国との国交を樹立した。
そこに日中関係改善の糸口を探るとすれば、必要なのは、リーダーの胆力と、激変する国際情勢を冷徹に見極め、現実的な次の一手を見いだすチーム力なのではないか。
いまこそ日本外交の真価が問われている。
(文中敬称略・肩書きは当時)

 
政治部記者
岩澤 千太朗
2016年入局。初任地は大阪局で2021年から政治部。“総理番”を経てことし8月から外務省を担当。ブルーベリー農家の長男で、現在、入局後3回目の肉体改造中。

周恩来氏

2024年11月15日 00時52分37秒 | 社会・文化・政治・経済
約30分にわたって行われた会見。翌6日付「人民日報」には“池田会長夫妻と、親密で友好的な話し合い”と 写真入りで報道された(1974年12月5日、北京)

闘病中の身を押して

「50年前、桜の咲く頃に私は日本を発ちました」——19歳で留学した日本の思い出を、周恩来総理は懐かしそうに振り返った。

「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」と語る池田大作先生に周総理は言った。「願望はありますが、無理でしょう」——周総理は癌におかされ、闘病中の身であったのだ。

1974年12月5日の夜。総理からの会見の要望は、2度目の訪中で北京に滞在していた池田先生に、突然伝えられた。総理の病状を心配した池田先生は、会見を固辞。しかし、総理の「強い希望」であるとの説得に促され、会見場となった入院先の三〇五病院に向かった。総理は玄関で立って待っていた。

「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」
 
 
会見の前の記念撮影。この後、総理の体調を
気遣い、池田先生と香峯子夫人だけが、
会見の部屋に入った
(1974年12月5日、北京)

託された「日中友好の未来」

1960年代初めから、「創価学会は、民衆のなかから立ち上がった団体である」ということに着目していた周総理。

1968年に池田先生が発表した「日中国交正常化提言」も高く評価していた。

「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」——周総理は、日中の友好、アジアの平和、さらには世界の平和と安定について、万感を込めて語る。

「中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であることを何度も提唱されている。そのことが私にはとてもうれしいのです」「あなたが若いからこそ大事につきあいたいのです」この時、周総理76歳、池田先生は46歳だった。

池田先生に日中の未来を託したい——病状を心配する側近の制止のメモを振り切って、切々と総理は語り続けた。医師団から「会見すれば、命の保証はできません」と、反対されても「池田会長とは、どんなことがあっても会わねばならない」と譲らず、実現させた会見だった。
 
年ごとに花咲く創価大学の「周桜」。碑は、会見が行われた北京の方角に向かって建てられている(東京)

友好の心を次代へ

会見の翌春、新中国からの初の国費留学生6人を日本で唯一受け入れたのは、池田大作先生が創立した創価大学であった。

周総理が日本に留学した時、大学で学ぶ機会を得られず、苦労したことに報いたいとの池田先生の真情だった。留学生の身元の保証から日常生活にいたるまで、池田先生はこまやかに心を砕いた。

そして同大学構内に、桜の木の植樹を提案。日中友好と平和への願いが込められた桜は「周桜」と命名され、今も青年の成長を見守っている。

「日中医学協会」

2024年11月15日 00時28分38秒 | 医科・歯科・介護

1972年の日中国交正常化を契機に医学・医療関係者の相互訪問が盛んになり、これに対応するため、1978年、日中友好協会内に日中医学協会の前身である医学学術交流小委員会が設置され、中華医学会(日本医学会に相当)を中国側窓口として交流を行っておりました。

1980年、日中友好協会から独立し、任意団体「日中医学協会」として活動を開始しました。

医療の近代化を目指す中国の要請に応じて、日中間の共同研究、人材育成等の事業を行うため、1985年、医学・歯学・薬学・看護学・その他医療関係団体の総意を結集し、経済団体連合会傘下の医療業界のご協力を得て、全国性・総合性を備えた民間の窓口として「財団法人日中医学協会」が発足しました。

2013年、公益法人制度改革に伴い、「公益財団法人日中医学協会」に移行しました。2015年、財団設立30周年を経て、今の時代に相応しい新たな日中医療交流事業をまさに展開しようとしています。

日中医学協会 沿革・あゆみ

設立記念行事

開催年 設立記念行事 記念シンポジウムテーマ
1980年 日中医学協会創立  
1985年 財団法人日中医学協会設立  
1995年 設立10周年記念シンポジウム 日中医学交流の過去・現在・未来
(陳敏章衛生部副部長講演)
2000年 設立15周年記念シンポジウム 中西医結合の現状と展望
(彭玉衛生部副部長講演)
2005年 設立20周年記念シンポジウム 中国における感染症の予防とコントロール
(陳嘯宏衛生部副部長講演)
2013年 公益財団法人認定記念祝賀会  
2015年 設立30周年記念シンポジウム 日本医療の国際展開と中国における日中医学協会の役割
(馬暁偉中国国家衛生・計画生育委員会副主任臨席)

 

〈日中友好に医療で貢献〉 中国に医療の文化を伝えたい

2016-04-25 12:59

医療法人社団 常仁会 牛久愛和総合病院 名誉院長
東京女子医科大学 名誉教授
高崎 健 先生

高崎先生は、長年東京女子医科大学の消化器センター長として、消化器外科分野で数々の実績を上げている。世界で初めて考案した「グリソン鞘一括処理による系統的肝切除」では肝切除の成績を飛躍的に伸ばした。その他、肝膵同時切除(HPD)術式の開発、また手術の現場で広く普及している開創器で先生の名前Kenを冠した「ケントレトラクター」など、様々な医療道具を発明するなど、その功績は大きい。
また高崎先生は、消化器センターの開祖であり世界的権威として知られる中山恒明先生の最後の弟子として、その教えである「患者を中心においた医療」を受け継ぎ、多くの後進を育てている。
第一線を退いた現在は、中日友好病院の客員教授として「中国人が中国で日本と同じような医療が受けられること」を目的に中日医療交流に精力的に動いている。そして、医療の技術だけでなく、医者としてのあり方、術後のケアなど医療文化の必要性を訴える。
また、「一般社団法人 日本医療学会」の理事長として、日本の医療を考えるだけでなく、アジア全体への広がりを目指している。

 

中国でも日本と同じ治療が
できるように

―― まず、先生の中国との馴れ初めについてお聞かせ願えますか。
高崎 最初は90年代に手術で行きました。3年ぐらい前に中国のドクターから中国の医療を何とかしたいというお話があり、お手伝いすることになりました。今は個人的に女子医大が中心になって支援している段階です。
今、日本のいい医療を受けたいと来日する方が多いようですが、私は基本的に、慣れない日本に来て、大変な治療を受けるというのは、その人にとって必ずしも幸せなことではないと思っているのです。
私の目的は、「中国で日本と同じような治療ができるようにする」こと。そのために、日本から出向いてもいいし、向こうからドクターに研修に来てもらったりして、その環境を早くつくる必要があると思っています。
だからこの2年間は、毎月1回、第二砲兵病院(北京)で肝胆膵の、主として外科的な治療の勉強会を開いています。まず私が手術を見せて、その後ディスカッションする。肝胆膵は一番面倒な病気で、その手術・治療・診断も難しいものですから勉強会への参加希望が多い。また昨年は中国国内6都市に出向き学術集会およびライブ手術を行ってきました。
あとは、日本と縁が深い中日友好病院をサポートしたいと思っています。北京市にある中日友好病院は1984年開院で、創立30周年ですが、改革がないまま来てしまった。新しい院長に代わり、建て直しに日本医療学会もお手伝いすることになりました。
本年1月には中日友好病院の先生方が来日し、京都大学、国立がんセンター、有明(公益財団法人がん研究会)、順天堂、聖路加などをまわりました。東京女子医大では日本で最初に疾患ごとのセンター方式にしています。各センターには医師、看護、リハビリテーション、検査、研究部門のすべてが集約しています。それを中日友好病院でも取り入れたいということで、外来や最新医療の「先端生命医科学研究所」も見学していただきました。
中日交流はまだ端緒ですが、中日友好病院が主体になるのがいいと思っています。もう少し仕組みを整え、医療学会の他の先生にも行ってもらって輪を広げるつもりです。

333

技術だけでなく日本の
医療文化を伝えたい

―― なぜ中国に医療の文化を伝えたいと思われたのですか。
高崎 医療は単なる技術ではなく医療文化が大事だと思うのです。だから私も中国に行って、それを伝えたいと思いました。患者と医者の関係とか、医者の社会の中のあり方、医者は患者のためにある、人間を診るのだと、当たり前のことをしみじみと思う。
私たちは昔から、女子医大消化器病センターの開祖である中山恒明先生に、「患者中心の医療」を教えられてきていた。患者を中心にして、外科医、内科医、放射線科医そして検査医がみんなでチームを作り議論し合いながら、治していくというやり方なんです。本当の意味のチーム医療というのは、何人もの医者で、その患者についての一番いい検査、治療を考えていきます。患者中心の医療を、中国人は中国で受けられるのが一番幸せだと思うのです。
あと、大切なのは術後のケアという文化。病気が治っても、精神的に患者自身が必ずしも治っていない。術後もフォローして社会復帰していなければいけない。今まで何例手術しても、患者の5年後がわからない。自分が手術した症例は、その後、患者がどういう生活を送っているかを調べるようにする。それがなければ、その人に本当に適した治療だったかどうかわからないじゃないかと話しています。今はフォローアップの仕組みをつくり始めています。

444

患者を治すために
世界初の治療法をあみだす

―― 先生は消化器外科がご専門で、肝膵同時切除(HPD)、グリソン鞘処理による肝切除術など世界初の治療法をあみだしています。
高崎 誰が最初にやったかは問題ではありません。要するに患者を治すためにいろんな工夫をしてきたということです。今、「残存肝機能推測法」は一番便利です。これは、手術でどのぐらい肝臓を切っていいかを計算で出す方法です。意外と中国の人は知らない。だから危ないからと言って、手術をやらなくなっている。これだけ切っても大丈夫という計算ができれば、さっと簡単にできます。
あと、開腹手術の視野確保に「ケントレトラクター」という道具をつくり、メーカーが私の名前を付けました。今日本で普及しています。
中国では最先端の医療は特別な人たちに対してだけで、一般の人は恩恵を受けていない。しかし今、民間がどんどん病院を建てている。医者自身も、いい技術を身につけようという意識はすごくある。だから日本の医者が中国に行って貢献できることは、とても多いのです。こうした活動に参加してもらえたら一番いい日中友好になると思います。

『人民日報海外版日本月刊』より転載