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▼「悔いなくやり切った」という努力が自信を作る。
一つずつ、ベストを尽くして、自信を積み上げていくのだ。
そうすれば続けられる。どんなことも、やり遂げられる。
▼大事なのは、わが一念が、どこを向いているかだ。
「なんのため」という根本目標を定めることだ。
▼平和・文化・教育という幅広い分野で活躍する。
そして世界平和を強く願う。
<志>を起こせば、平和の連帯に加わることができる。
平和とは、生命尊厳の理念を広げ、安穏の世界を実現することだ。
そのために、自分ができることを見つけ、一つ一つ挑んでいく。
その挑戦の一歩は、自分自身の日常生活においても、見える世界を少しずつ広げていくことになる。
人類の幸福と平和を願う純真な<志>自身んも境涯を大きく開いていくのだ。
▼自他共の幸福を願う理念には、<他人に不幸の上に自分の幸福を築く>とい考え方はない。
頭が良くなる方法は?
「自分はやればできる」という自信をもてるまでできるかどうか、で決まる。
知能は同じでも、自信をもって進むかどうかで、まったく違う結果になる。
課題があってても「あきらめなうい」「努力すれば解決できる」という信念が大切である。
「何のため」と問いかけながら、努力する。
理想を実現するために続ける―この一点に徹すると「知恵」「力」も、尽きることなくわき出てくるだろう。
ナス・カール・ポーリング(Linus Carl Pauling、1901年2月28日 - 1994年8月19日)は、アメリカ合衆国の量子化学者、生化学者。彼自身は結晶学者、分子生物学者、医療研究者とも自称していた。
ポーリングは20世紀における最も重要な化学者の一人として広く認められている。
量子力学を化学に応用した先駆者であり[注釈 1]、化学結合の本性を記述した業績により1954年にノーベル化学賞を受賞した。
また、結晶構造決定やタンパク質構造決定に重要な業績を残し、分子生物学の草分けの一人とも考えられている。
ワトソンとクリックが1953年にDNAの生体内構造である「二重らせん構造」を発表する前に、ポーリングはそれに近い「三重らせん(英語版)構造」を提唱していた。多方面に渡る研究者としても有名で、無機化学、有機化
学、金属学、免疫学[要出典]、心理学[要出典]、弁論術[要出典]、放射性崩壊、核戦争のもたらす影響などの分野でも多大な貢献があった。
1962年には、地上核実験に対する反対運動の業績によりノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞を2度受賞した5人の1人[1]。単独でのノーベル賞を2度受賞した唯一の人物であり[2]、異なる分野に及ぶ受賞者としては、キュリー夫人[注釈 2]に次いで2人目[1]。
後年、大量のビタミンCや他の栄養素を摂取する健康法を提唱し、更にこの着想を一般化させて分子矯正医学を提唱、それを中心とした数冊の本を著してこれらの概念、分析、研究、及び洞察を一般社会に紹介した。ただし、これにより「ビタミンCを摂取すれば風邪が治る」という俗説が広まる切っ掛けともなった[3]。
若年期
若年期
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1901年2月28日、オレゴン州ポートランドに生まれる[4][5]。父はミズーリ州コンコーディア出身のハーマン・ヘンリー・ウィリアム・ポーリング (1876–1910)[6]、母はオレゴン州ローンロック出身のルーシー・イザベル・ダーリング (1881–1926)[7]:22。父ハーマンは薬剤師だったが仕事がうまく行かず、1903年から1909年まで家族を連れてオレゴン州内の都市を転々と移り[8]:4-5、最終的にポートランドに戻った。父は1910年、母とライナスたち兄妹を残して穿孔性潰瘍で他界した[9]:9。ライナスにはポーリン・ポーリング (1901–2003) とルシル・ポーリング (1904–1973) の二人の妹がいた[10][5]。ポーリンは後に、ニュージャージー州ミルヴィル出身のトーマス・ジョセフ・ネイ (1881–1963) と結婚している。
ポーリングは幼少の頃、熱心な読書家だった[11]。ある時、父は地方紙宛に手紙を送り、ポーリングが熱中しそうな本を何冊か紹介して欲しいと依頼したほどであった[10][注釈 3]。ポーリングが小学校に通っていた頃、父の友人ロイド・ジェフレスとともに昆虫や鉱物の採掘に勤しみ、その中で科学に関心を持った[12]。ポートランドのワシントン高校に進学したポーリングは、ロイドが寝室に持っている小さな化学の実験室で見せてくれた科学実験に、驚きや楽しみの感情を抱き、ポーリングは化学工学の道へ進む夢を抱いた[13][8]:17。実験にあたっては、祖父が夜警員として働いていた仕事場近くの廃棄鉄工場から試薬を借用することもあった[13]。
ポーリングは、必修のアメリカ史の単位を取ることができず、高校の卒業証書を授与される資格が得られなかった[14]。同高校が卒業証書を授与したのは45年後の1962年、ポーリングが2つのノーベル賞を受賞した後のことである[15]。
学生時代
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ポーリングは1922年にオレゴン農業大学を卒業した。
1917年、コーバリスのオレゴン農業大学(現:オレゴン州立大学)に入学した[16]。オレゴン農業大学に在学中、ポーリングはデルタ・ユプシロン[17]・フラタニティのオレゴン農業大学支部を創設。経済的な理由により、大学の講義に出席する傍ら、長時間働く生活を余儀なくされた[18]。入学して2年が経った後、ポーリングは母を養うためにポートランドで職を探そうとしていたが、大学側は彼に定量分析(ポーリングが学生として終えたばかりのコース)を教える職を提供した[8]:29。これにより、彼は学生を続けることができるようになった[8]:29。
オレゴン農業大学での最後の2年間で、ポーリングはギルバート・ルイスとアーヴィング・ラングミュアによる原子の電子構造と分子を形成する原子間結合についての研究を知る[8]:29[19]。これにより、物質の物理的及び化学的性質とそれを構成する原子構造の関係の研究に集中することを決心した[要出典]。後には量子化学という新分野の開拓者の一人となった[20]:190。
1922年、ポーリングは化学工学で学士号を授与されオレゴン農業大学を卒業[21]。カリフォルニア州パサデナのカリフォルニア工科大学に進学し、ロスコー・ディッキンソンに師事する[22][23]。卒業研究はX線回折を用いた結晶構造決定に関するものであった[24]。同大学在学中に、鉱物の結晶構造に関する7報の論文を発表した。1925年、最優等で修了し物理化学と数理物理学で博士号を授与された[注釈 4]。
結婚
結婚
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大学4年生の時、ポーリングは「家政学科のための化学」という3年生のコースを教えていた[26]。そこでエヴァ・ヘレン・ミラーと出会い[27]、1923年6月17日に結婚した[28]。彼らの間には3人の息子(クレリン、ライナス、ピーター)と1人の娘(リンダ)が生まれた[29]。
科学者としての初期の経歴
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ポーリングはその後、グッゲンハイム奨学金を使ってヨーロッパに渡り[30]、ミュンヘンでドイツ人物理学者のアルノルト・ゾンマーフェルトに、コペンハーゲンでデンマーク人物理学者のニールス・ボーアに、そしてチューリッヒでオーストリア人物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーにそれぞれ師事した[31]。これら3人の物理学者は、物理学の諸分野に加えて量子力学という新分野を専門にしていた[31][32][33]。ヨーロッパでポーリングは、ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンが行った水素分子中の結合の量子力学的解析のひとつに触れる[34]。ポーリングは2年間のヨーロッパ滞在をこの仕事に費やし、これを将来研究の焦点にすることを決めた[要出典]。ポーリングは、量子化学の最初期の研究者、および量子論を分子構造論へ応用した草分け的存在となる[35]。1927年、カリフォルニア工科大学で理論化学の助教 (assistant professor) に就任した[36][37]。
ポーリングはカリフォルニア工科大学で教員活動を開始したが、最初の5年間は非常に実りが多く、X線結晶学の研究と、原子や分子の量子力学計算を続けた。この5年間で彼はおよそ50の論文を発表し、ポーリングの法則 として知られる5つの法則を発見した[38][39]。1929年、彼は准教授 (associate professor) に昇任し、1930年には教授に就任した[36]。1931年までにアメリカ化学会よりラングミュア賞(30歳以下の人物による純粋化学で最も重要な研究に贈られる)を受賞した[40]。1931年には、ポーリング自身が最高の仕事であると言及した論文シリーズである化学結合の性質を説明する論文を出版し始めた[41][42]。1932年には第三弾として、原子軌道の混成の概念を打ち出し、それにより四価である炭素原子の電子構造を説明する論文を発表している[41][43]。
カリフォルニア工科大学で、ポーリングは理論物理学者のロバート・オッペンハイマーと親交を結ぶ[7][44]。オッペンハイマーはカリフォルニア大学バークレー校の教授だったが、毎年研究や講義で一部の時間をカリフォルニア工科大学で過ごしていた[7][44]。ポーリングは睡眠中に歌を歌うことで知られており、そのために、一度夜中に歌を歌い迷惑罪で逮捕されたことがあった。2人は共同で化学結合の本質を暴くことを計画した。つまり、オッペンハイマーが数学の部分を担当し、ポーリングがその結果を解釈していたようである。しかしこの関係は、オッペンハイマーが妻エヴァ・ヘレンに近付きすぎているとポーリングが疑いを持ったため、次第にほころびていった[注釈 5]。これが原因でポーリングとオッペンハイマーの関係は冷えていく[7]:152[44]。オッペンハイマーは原子爆弾計画の際、ポーリングを化学部門のトップに招いたが、ポーリングは自身の家族全員で引っ越すのを避けたいとして辞退した[45]。
1930年の夏、ポーリングは再びヨーロッパに渡り、電子線回折法を学んだ[46]。カリフォルニア工科大学で彼は学生のブロックウェイ (L. O. Brockway) と共に電子線回折装置を構築し、多くの分子構造解析に活用した[47]。
1932年、電気陰性度の概念を発表[48]。結合開裂エネルギーや分子の双極子モーメントなど、分子の様々な性質を用いて、彼は物質の多くの情報を記述する「ポーリングの電気陰性度」を確立させた。この電気陰性度は、分子中の原子間の結合の性質を予測するのに役立つものである[49]。
化学結合の性質の探究
[編集]1930年代、ポーリングは化学結合の性質に関する論文を発表し始め[50]、1939年にはこの分野の有名な書籍を出版した[51]。ポーリングは1954年に「化学結合の本性、ならびに複雑な分子の構造研究」でノーベル化学賞を受賞するが、これらの化学結合に関する研究もその受賞理由の一つとなっている[52][53]。1939年には化学結合に関する研究の成果を『化学結合の本性 The Nature of the Chemical Bond』[54]という著作にまとめた。この本は化学界に非常に大きな影響を与え[55]、初版が出版されてから30年間のうちに引用された回数は16,000を超えた。今日においても、重要な学術雑誌に掲載される多くの論文がこの著作を引用している。
ポーリングの化学結合の研究の一部は、軌道の混成という概念の導入への道標を与えた[56][57]。原子内の電子は s や p などの型を持つ軌道として記述されるのが普通だが、分子内の結合を記述する際には、これら軌道のうちいくつかの性質を帯びた関数を組み立てると都合が良いことがわかった[58]。具体的に言えば、炭素原子が持つ1つの2s軌道と3つの2p軌道は、「sp3混成軌道」と呼ばれる4つの等価な軌道を形成し、メタンなどの炭素化合物を適切に説明する軌道となる[59]。また、2s軌道は2つの2p軌道と混成して(この場合には1つの2p軌道が非混成のまま残される)、「sp2混成軌道」と呼ばれる3つの等価な軌道を形成する場合もある。これはエチレンなどある種の不飽和炭素化合物を説明する際に適切な軌道である[60]。さらに異なる軌道の混成も、他の種類の分子では確認されている。
彼が探究した他の領域としては、電子が原子間を移動するイオン結合と、電子が原子間で対等に共有される共有結合の関係についてのものがある。ポーリングは、これらは共に極端な例に過ぎず、実際にはほとんどの極性分子の結合は、その波動関数がイオン結合分子と共有結合分子の波動関数の重ね合わせであることを示した[61][62]。ここで顕著に活躍したのが、ポーリングの「電気陰性度」の概念である。一対の原子における電気陰性度の差を調べれば、非常に高い精度で結合のイオン性の度合いを予測できる[63]。
「化学結合の本性」の究明に向けてポーリングが着手したさらなる事象に、芳香族炭化水素、特にその原型であるベンゼンの構造の研究があった[64]。当時、ベンゼンは既にドイツの化学者フリードリヒ・ケクレによって非常に精密な説明がなされていた[65]。ケクレはベンゼンを2つの異なる構造が高速で相互交換しているものだとして扱った[65]。その2つの構造とは、一重結合と二重結合が交互に並ぶ点では共通だが、片方の構造がある位置に二重結合を持てば、もう片方の構造はその位置に一重結合を持つというものである[65]。ポーリングは、ベンゼンは2つの構造が混ざった中間体構造であるとして量子力学に基づいた厳密な説明を示した。この中間体構造とは、2つの構造の高速相互交換では無くそれらの重ね合わせを意味する[65][注釈 6]。今日、この現象は共鳴として知られる[65]。ある意味でこの現象は、1つ以上の電子構造の混合が中間体構造を与える点から、前述の軌道混成に似ているとも言える[要出典]。
藤田小女姫殺害犯がハワイの刑務所で殺されていた
配信
すっとんきょうな調子で予言を口走る、一風変わったおかっぱ頭の美少女は、たちまち時の人となる。
だがこのときは、やがては首相の岸信介や政商と呼ばれた小佐野賢治、また松下幸之助といった財界の重鎮までもが、彼女の無垢な声に耳を傾けるようになるとは、誰も予想しなかっただろう。
この記事をきっかけに、突如開けた彼女の華やかな人生はまた、悲惨な結末をもって、あまりにも唐突に幕を引いた。 平成6年、藤田小女姫は養子に迎えたひとり息子の吾郎とともに、ハワイで他殺体となって発見された。
息子の友人だった容疑者福迫雷太が、間もなく逮捕される。
しかし、彼が有罪判決を受けたいまでも、事件の真相が究明されたとは言い難い。冤罪説、複数犯行説は依然根強く、犯行の背後関係はぼやけたままだ。
加えて、事件後二人の遺骨が行方知れずになるという混沌とした末路が重なり、その死は一層謎めいた。
藤田小女姫は、最後の最後まで不可思議な人だった。
政財界を股にかけて
色白で細面、切れ長の瞳を持った魅惑的な容姿も受け、若き日の小女姫はタレント並にラジオやテレビ、雑誌にひっぱり回された。
相談の仕事も繁盛を極める。政治評論家の細川隆元も、彼女の能力を大いに買ったひとりだ。
『隆元のはだか交友録』(山手書房)には、政財界の友人に、小女姫を紹介したくだりがいくつか紹介されていた。
日米安全保障条約の改定案成立に、日本中が騒然となった昭和35年、ときの首相・岸信介が、 「細川くん、藤田小女姫に会わせてくれ。そっと会いたい」(『隆元のはだか交友録』) と頼み込んだという。
このとき彼女は22歳だ。以下は前掲書からの抜粋である。
「会って、藤田小女姫に『安保条約は通るか通らんか』と岸さんが訊いた。彼女は目をつぶるわけでもないし、いろんな道具を使うわけでもない。(中略)その間、約五分。
『断固としておやんなさい。通ります。そのかわりに、通ったあと、あなたの内閣は長く持ちませんよ』と彼女は言った」
学生らデモ隊33万人が異様な熱気を迸らせ国会を包囲するなか、6月19日午前0時に、衆院通過後1カ月を経て安保条約は自然成立した。約3週間後に岸内閣は、総辞職した。
細川は、アメリカ進出を見据え、社名変更を考える野田醤油の社長(当時)茂木啓三郎が、細川の紹介状を持ってサンケイ会館に出かけた経緯も記している。彼女はひとこと、「キッコーマン」への改名を勧め、3年後には必ず事業の目は出ると短く補足した。結果は、予言の通りであったという。
1994年2月23日にアメリカ合衆国ハワイ州ホノルルで発生した殺人事件。
概要
藤田小女姫殺害
1994年2月23日午後5時頃、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル、1350 Ala Moana Blvd.の高層マンションの部屋でボヤ騒動が起こった。火は駆けつけた消防隊員によって消し止められたが、その部屋のクローゼットから日本の占い師であった藤田小女姫(当時56歳)の射殺体が発見された[1]。
この1時間前の午後4時頃、藤田は取引先の銀行に融資依頼をしていたが、その際に電話の声が怯えていると感じた銀行員が領事館に連絡し、領事館職員がマンションに駆けつけるとボヤ騒動が起きており、藤田の射殺体が発見された。
息子殺害
また同日に、殺害現場の高層マンションから数キロ離れた、ワイキキにあるパークショアホテルの駐車場で1台の乗用車が炎上しているのが発見された。乗用車の中からは、ハワイ大学の学生だった藤田の一人息子(当時20歳)[2]がテープで縛られ胸を銃撃された状態の焼死体で発見された[1][3]。
容疑者逮捕
交友関係の捜査の過程で、藤田の息子のスキューバダイビング仲間で銃器不法所持の前歴があったF(事件当時28歳)が浮上した。その後の捜査で、事件現場近くであったFが住むアパートから犯行に使われたものと同じ弾薬が発見された。さらにDNA型鑑定によって、ソファから検出された血痕が藤田の息子のDNAと一致した。
また、Fが藤田の所持品であった貴金属類を質屋に持ち込んで2000ドルを借りていたことが判明した。これによって、捜査機関は藤田親子を殺害したのはFであると断定し、国際刑事警察機構を通じて日本の警察庁に身柄確保を要請した。
一方、Fは事件の2日後の2月25日に日本へ帰国した。3月4日に神奈川県警に出頭し、殺害の無実を主張した。4月3日、アメリカで起訴され、5月11日に法務省へ日米犯罪人引渡し条約による正式の請求が来て、8月16日にFはハワイに送還された[4]。
裁判
Fはホノルル市警による血痕のDNA鑑定を根拠に4月3日に起訴され、裁判では遺体の搬送を手伝っただけであり殺害に関与していないと主張して殺害を否認し、実行犯はヤクザであり、ある日本人ビジネスマンの未認知の息子である藤田の息子が遺産を相続しないよう殺害したと主張した[1]。
8月23日にホノルル巡回裁判所はFを藤田親子を殺害した実行犯と認定して、第2級殺人罪で終身刑が言い渡され確定した。なお、ハワイ州では死刑制度が存在しないため、終身刑は最高刑であるが、30年服役すれば出所できる可能性があったものの、2013年の時点では少なくとも2034年まで仮釈放はないとされていた[5]。
2024年10月14日(現地時間)、F受刑者が収容先のハラワ刑務所で雑居房の受刑者により刺され、頭と首に致命傷を負い倒れた状態で発見され、死亡が確認された。59歳没[1][6]。
なお、藤田が生前記録していたと言われる「ノート」が未だに発見されていない。このノートには「政財界のエピソード」が書かれたとされており、そのノートが世に出ると困る大物が殺害事件の裏にいるという陰謀説が存在する。
出典
- ^ a b c d "Man convicted in Fujita murders is stabbed to death at Halawa". Star Advertiser (英語). Star Advertiser. 15 October 2024. 2024年10月16日閲覧。
- ^ 幼少期に藤田と養子縁組。ただし、藤田の実弟いわく、藤田の実の息子であるとされる。また、事件後、藤田の長男の遺骨は、戸籍上の実の両親の親類に引き取られたという。
- ^ “State v. *** (男性Fの名字) :: 1997 :: Supreme Court of Hawaii Decisions :: Hawaii Case Law :: Hawaii Law :: US Law :: Justia”. 2024年10月16日閲覧。
- ^ “Murder suspect handed to U.S. police - UPI Archives” (英語). UPI (1994年8月16日). 2023年5月30日閲覧。
- ^ Kerr, Keoki (2013年4月12日). “*** (男性Fの名字) to remain behind bars until at least 2034” (英語). Hawaii News Now. 2013年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月30日閲覧。
- ^ “30年前の占師・藤田小女姫さん親子射殺事件で服役中の男が刺殺される 米報道 | TBS NEWS DIG (1ページ)”. TBS NEWS DIG (2024年10月15日). 2024年10月15日閲覧。
獄中死した日本人受刑者は「真犯人」を知っていたのか
1994年8月、ハワイに送還された際の福迫受刑者。日米犯罪人引渡条例に基づく送還の第1号だった
第1回【「殺人犯にされてしまう」 藤田小女姫事件の「福迫雷太受刑者」がハワイで獄中死…仮拘束前日の「2時間の肉声」】の続き 【写真】松下幸之助氏と頬を寄せ合い…政財界が夢中になった「天才霊感少女」藤田小女姫さん 現地時間10月13日夜、ハワイの刑務所で59歳の日本人受刑者が死亡した。1994年2月23日に占い師の藤田小女姫(こととめ)さんと息子の吾郎さんがハワイで殺害された事件で有罪となり、終身禁固刑が確定していた福迫(ふくさく)雷太受刑者である。現地警察の発表によると、福迫受刑者を刺殺したとみられる男は居室が同じだった38歳。詳しい身元などは明かされておらず、殺人事件として捜査が始まっている。 「藤田小女姫母子殺人事件」は発生直後から日本とハワイで盛んに報じられた。発生の約2週間後、日本に帰国していた福迫受刑者は神奈川県警に出頭。当時の報道で事件を追うシリーズ第1回では、東京高検に仮拘束される前日の福迫受刑者が、事件への関与を全面否定したインタビュー(「週刊新潮」1994年4月14日号)をお届けした。 だが、1995年2月から始まった裁判では全面否定の主張が一転。部分的な関与を認めた上で、殺人の実行犯ではないとした。それでも5月には陪審員の評決で有罪となり、8月の判決公判に至る。第2回と第3回では、この裁判の詳細を報じた記事を再掲する。 (全3回の第2回:「週刊新潮」1995年9月7日号「藤田小女姫殺しで服役三十年となった意外の確証」を再編集しました) ***
事件の5日後にマークされていた
1994年2月23日、ホノルル市アラモアナ通りにある高級コンドミニアムの33階に住む小女姫さんが、左胸を銃で撃たれた上、室内に放火された。発見は午後5時すぎ。同じ日の夜10時半、ワイキキの「パークショア・ホテル」の駐車場で、赤い車が燃えているのが見つかり、その助手席から車の持主で小女姫さんの息子の吾郎君が、やはり銃で胸を撃たれた遺体となって発見された。 ホノルル警察が親子殺害の重要参考人として、吾郎君の友人で、小女姫さんの自宅から徒歩で14、5分の所にあるコンドミニアム「ディスカバリーベイ」に住む福迫雷太をマークし出したのは、事件から5日後のことだった。 その時すでに、福迫は日本に帰国していた。だが、ホノルルの大陪審は3月30日、福迫を第1級殺人罪と、親子それぞれの殺害を計画性の低い第2級殺人罪として、併せて3件で起訴した。(注:当時は氏名、罪名を伏せた極秘起訴)
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今から50年前の9月29日。
田中角栄総理大臣と中国の周恩来首相が日中共同声明に調印し、日本と中国の国交が正常化した。
歴史が動いたその時、日本の政治家や外交官は中国側とどのような交渉を行ったのか。
大平正芳外務大臣の秘書官として訪中した元外交官が舞台裏を語った。
(岩澤千太朗)
ぶっつけ本番の旅
「成算が無いまま中国に行ったんです。国交がないから中国政府と本当の話ができないんですよ。ちょっと表現が悪いんですけど、『ぶっつけ本番の旅』ですね」
1972年9月29日の日中国交正常化を成した5日間の中国での交渉をこう表現したのは、元外交官で、北米局長やイギリス大使を歴任した藤井宏昭(89)。50年前、藤井は大平正芳外務大臣の秘書官を務めていた。
総理大臣の田中角栄や、外務大臣の大平正芳が訪中した際、大平と行動をともにした。
都内でインタビューに応じた藤井は、記憶の糸をたぐるように語り始めた。
「ジェットコースターに乗ったような気分でしたね。はじめは国交正常化できないかもしれないと。本当にダメで振り落とされてしまうかもしれないと。それが振り落とされずに無事に戻れたという感じですね」
訪中前に遺書も
1972年9月24日夜。
田中をトップとする訪中団の一行は、出発を翌日に控え、羽田空港近くのホテルに宿泊した。しかし、そこでの食事会は…
(元外交官 藤井宏昭)
「会話はあんまり無いですよ。笑い声なんてほとんど無く、みんな沈うつな気分で飯を食べた。本当に国交正常化がなるのか分からなくて、暗い気持ちだったんですね」
藤井によると、国交正常化ができるという確証が持てない中、大平は、訪中前に遺書までしたためていたと言う。
「中国で何が起きるか分からないという気持ちもあったのかもしれないですね。命を賭してというのかな。遺書を書くことで大平さんは、自分の気持ちを吹っ切らせる効果があったのかなと」
訪中を決めた瞬間は
この2か月前の1972年7月、田中が総理大臣に就任。
田中は、翌月の15日、中国訪問を正式に発表する。
田中はなぜ、訪中を決断したのか。
決断の前に、公明党委員長の竹入義勝が独自のルートで中国の首相・周恩来と会談し、その内容が政府にもたらされたことが大きいと言う。
藤井は、中国が日本に戦後賠償を要求しないとした点が重要だったと、証言した。
「『竹入メモ』って当時言われてましたけど、一番大きなところでは、『中国は賠償金は取らない』って書いてあるんですね。田中さんのところに大平さんはすぐ飛んで行ってね。それでメモを見て『うん、行こう』となったわけです。僕は総理の秘書官室かどこかで待って、帰りの車で大平さんから『もう(訪中を)決めたぞ』って」
当時の国際情勢は
藤井が「ぶっつけ本番の旅」と表現した、田中と大平の中国訪問。それは、激変する当時の国際情勢のなかで、日本政府が、なんとか主導的に東アジア外交を進めようと打ち出した、リスクをはらんだ賭けとも言える一手だった。
中国訪問に至った当時の国際情勢として、藤井が1つ目に挙げたのが、いわゆる「ニクソン・ショック」だ。
1972年2月、アメリカの大統領のニクソンが、国交がなかった中国を訪問した一連の動きを言う。日米関係は盤石と思われていた中で、日本の頭越しに突然起きた米中の接近。
「日本が『置き去り』になるのではないか」などと、国内に大きな衝撃を与えた。
さらに挙げたのが、中国側=北京の共産党政権からの視点だ。
当時のソビエト連邦との、共産主義の国同士の「中ソ対立」のなかで、中国も日本との国交正常化を欲していたという。
ただ、この点は、当時、日本側にはあまり見えていない部分だったと振り返る。
アメリカへの根回し
こうした国際情勢の中で、日中国交正常化交渉のための中国訪問を固めた日本政府。
大平は速やかにある行動に出る。
それは、アメリカへの事前の根回しだった。アメリカは、大統領の訪中は果たしたが、まだ中国との国交は樹立していなかった。
(元外交官 藤井宏昭)
「アメリカより先にかなり重要な外交政策をやるのは戦後の日本では珍しいことなんです。だから大平さんはアメリカのニクソン大統領に仁義を切っておかないといけないと考えた。緻密な方ですから。『北京にまっすぐじゃなくてアメリカ経由で行くんだ』ってね」
「大平さんは、往路は非常に緊張していたが、帰りは、よっぽど嬉しかったんですね、アメリカの了解が取れたって。鼻歌を歌ってね。何とかの第二国道っていう歌でしたね」
難航する正常化交渉
そして9月25日、田中や大平らの訪中団は北京に到着。藤井はその時の様子をこう回想する。
「周恩来首相が出迎えに来てくれましたね。それから儀仗兵もいましたけども、それしかいないという。出迎えとしては立派なんですけど、何というか非常に寂しいような」
こうして始まった国交正常化交渉。しかし、出ばなをくじかれることになる。
晩餐会での日中戦争に関する田中の発言に中国側が不快感を示したのだ。
(元外交官 藤井宏昭)
「田中総理は、日本は中国の人民に対して『ご迷惑をおかけした』ということを言ったんですが、翌日午後の首脳会談で周首相が『迷惑』っていうのは非常に軽すぎると。中国語で言ったら非常に軽いんだっていうことを述べてね」
さらに、具体的な交渉の内容でも日中間で大きな溝があった。日本と台湾との関係だ。
中国と国交を結ぶということは、これまで国交を結んできた台湾との関係を事実上、切り捨てることになる。
「最大の案件はやっぱり台湾です。中国は、日本と台湾が結んだ日華平和条約は『不法であり、効力を有しない』と言うんですよ。日本は『不法であり』というのは絶対に受け入れられない」
台湾をめぐり、表現ぶりをどうするのか。
協議は平行線をたどり、時間だけが過ぎていった。
雰囲気を変えたのは…
訪中2日目、9月26日の夜。
この日の外相会談でも大きな進展はなく、悲観的な気持ちで大平たちは報告を待つ田中の元へ向かった。
(元外交官 藤井宏昭)
「中国とは全くの平行線でらちがあかない。非常に絶望的な気持ちで、もうダメかもしれないという、一番苦しい時でした」
ところが、大平から報告を受けたときの田中の対応は、意外なものだった。
「みんな驚いたのは田中さんがいやに快活なんですよ。話を聞いても『そうか』という感じでね。それで誰かが『総理どうしたらよろしいですか?総理だったらどうしますか?』って聞いたんですよ。そしたら田中さんが『そこはお前ら大学を出た連中が考えろ』って」
藤井は、田中のこのふるまいが、訪中団の雰囲気を大きく変えたと感じた。
「田中さんの明るい態度と応対で、みんながぱっと明るくなったんですね。これは後で気づいたんですけど、田中さんは鋭敏な直感力で、利害と利害が対立してどうにもならない問題ではなく、言葉で解決できると考えたんじゃないかな」
車内で信頼関係を構築
9月27日、交渉3日目。
田中と大平は万里の長城に見学に向かった。車内で大平は中国の外相・姫鵬飛と隣り合って座った。
同乗した藤井は、2人がここで信頼関係を築くことができたと振り返る。
(元外交官 藤井宏昭)
「会談の場合は大勢いて記録に残るから正式なことを言わなきゃいけない。だけど車に乗って隣にいると、いろんなことが話せて人間的な付き合いができるわけです。行き帰り合わせて4時間くらい『大使の交換をいつにしようか』とか、ずっとやっていましたね」
言葉による解決
台湾との関係について、どうすれば中国側と折り合えるのか。
交渉で中心的な役割を担った大平と外務省の事務方は、連日、知恵を絞った。
そして、外務省の事務方が考え出した1つの言葉をきっかけに交渉が大きく前進する。
(元外交官 藤井宏昭)
「『不正常な状態』っていう言葉がキーなんですよね。案を出したのは橋本さん(当時の外務省中国課長)。日本側の解釈は(台湾との)日華平和条約は有効だったけれども、中国全体と日本との関係では不正常だったと。中国の解釈は、今まで不正常な状態だったということは、日華平和条約は無効で、これから共同声明によって有効な関係を結ぶことができるのだと」
この言葉は、日中共同声明に次のように盛り込まれることになる。
さらに台湾をめぐっては次のように明記された。
日本と中国の双方の側から主張を通すことができる言葉が見つかり、正常化への道が開かれた。
共同声明に調印、台湾と断交
そして迎えた9月29日。
田中と大平、周恩来と姫鵬飛は、日中共同声明に調印した。
日本と中国が国交を樹立した歴史的な瞬間だった。
藤井は、晴れがましい田中の表情とは違い、緊張した大平の様子を記憶している。
「大平さんは調印式が終わっても大役があって、非常に沈うつというか、緊張していました。毎日、朝から晩まで隣にいるから、その気持ちはすぐに伝わってくるんですね」
共同声明に調印したあとの記者会見で、大平は次のように述べた。
「最後に、共同声明の中には触れられておりませんが、日中関係正常化の結果として、日華平和条約は、存続の意義を失い、終了したものと認められるというのが日本政府の見解でございます」会見場で、記者たちは慌てふためいたという。
(元外交官 藤井宏昭)
「日台の関係が切れたということを宣言したわけです。国交は断絶すると。記者は、会見でそういうのが出てくるとは思っていなかったから、とにかく騒然としていました」
大平には中国と国交を樹立したあと、間を置かず台湾との断交を表明することで、混乱を避ける狙いがあったと藤井は解説した。
「(台湾との関係は)中国との交渉では非常に重要な部分で、それを大平さんは記者会見でやっちゃおうと。日本へ帰ってやったら、また騒然としますからね。だから記者会見でやっちゃって『全部それでおしまい』っていうのが大平さんの気持ちでした」
本当の意味での正常化
だが、この段階ではまだ本当に“全部おしまい”ではなかったのだという。
田中と大平は、当時、台湾にいた日本人に危害が加えられるような事態が起きないか危惧していた。
調印した日の午後、訪中団一行は、人民公社を視察するため、首相の周とともに北京から上海に向かった。上海の空港に到着すると、藤井は大平の指示を受けて一行から離れ1人宿舎に向かった。そこで、外務省中国課の首席事務官に電話をかけた。
藤井:「台湾の情勢はどうだ?」
首席事務官:「いたって平静です」
携帯電話のない時代。
藤井は、宿舎の玄関で田中と大平を待ち構えた。
(元外交官 藤井宏昭)
「玄関の階段の前で待っていて、一行が現れるわけです。車を降りた大平さんに『台湾、いたって平静だそうです』とまず耳打ちしてね。大平さんがすぐ田中さんに同じことを言ったら2人とも本当に安堵して。これで国交正常化は成功したなって」
藤井は、このときが本当の意味で国交正常化を成し遂げた瞬間だったと力を込めた。
胆力と緻密さと知恵
中国での5日間を語り終えた藤井はこう続けた。
「非常に肝が据わった総理の胆力と、緻密で物を深く考える粘り強い外務大臣。2人の気があって一心同体でね。それから外務省の事務方の知恵。3者の呼吸がぴったり合った。ずいぶん長い間外交官をやったけど、本当にそれを感じた5日間でした」
さらに、藤井はもう1つ、忘れられないエピソードがあると明かした。
それは共同声明に調印したあと、北京から上海に移動した飛行機の中での出来事だった。
田中と周が首相どうし、隣の席に座っていた。
(元外交官 藤井宏昭)
「田中さん、疲れちゃったんでしょうね。眠りだしたんですね。大平さんに『起こしましょうか』と聞いたら、『いいよ、いいよ』と。周首相も、もちろん気付いて『寝かしておきなさい』と言っていました。それで大平さんと周首相が話をしていましたね」
豪放磊落な田中と寛容な周。
この2人だからこそ国交正常化を成し遂げられたのだと、藤井は感じたという。
今後の日中関係は
あれから50年。
いまの日中関係を藤井はどうみているのか。
経済を成長させ軍事力を増強してきた中国は覇権主義的な動きを強めている。
藤井は、日本は防衛力を強化するとともに、中国との対話が重要だと強調した。
さらに、手元に準備していた、かつて仕えた大平の演説の一節を読み上げた。
「大みそかと元旦っていうのは、僕は『どっちが元旦なんだ』て言ってましたけど、大平さんの本心だと思うんです。また、これは本当に今でも通じる名言だと思います」
日本外交に求められるものは
インタビューは、休憩を取りながらおよそ2時間に及んだ。
藤井は、静かに、そして時に熱っぽく当時を語った。
言葉の端々から政治家や官僚の息づかいを感じ、取材した私は50年前にタイムスリップしたような錯覚に陥った。
そして田中の胆力と大平の緻密さを骨格とした日本外交のチームワークに思いをはせた。
日中関係は、いま尖閣諸島をめぐる問題や台湾情勢をめぐり、課題は多い。
50年前、先人たちは遺書をしたため並々ならぬ覚悟で中国との国交を樹立した。
そこに日中関係改善の糸口を探るとすれば、必要なのは、リーダーの胆力と、激変する国際情勢を冷徹に見極め、現実的な次の一手を見いだすチーム力なのではないか。
いまこそ日本外交の真価が問われている。
(文中敬称略・肩書きは当時)
- 政治部記者
- 岩澤 千太朗
- 2016年入局。初任地は大阪局で2021年から政治部。“総理番”を経てことし8月から外務省を担当。ブルーベリー農家の長男で、現在、入局後3回目の肉体改造中。
周恩来氏「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしてもお会いしたいと思っておりました」
闘病中の身を押して
「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」と語る池田大作先生に周総理は言った。「願望はありますが、無理でしょう」——周総理は癌におかされ、闘病中の身であったのだ。
1974年12月5日の夜。総理からの会見の要望は、2度目の訪中で北京に滞在していた池田先生に、突然伝えられた。総理の病状を心配した池田先生は、会見を固辞。しかし、総理の「強い希望」であるとの説得に促され、会見場となった入院先の三〇五病院に向かった。総理は玄関で立って待っていた。
「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」
気遣い、池田先生と香峯子夫人だけが、
会見の部屋に入った
(1974年12月5日、北京)
託された「日中友好の未来」
1968年に池田先生が発表した「日中国交正常化提言」も高く評価していた。
「20世紀の最後の25年間は、世界にとって最も大事な時期です」——周総理は、日中の友好、アジアの平和、さらには世界の平和と安定について、万感を込めて語る。
「中日両国人民の友好関係の発展は、どんなことをしても必要であることを何度も提唱されている。そのことが私にはとてもうれしいのです」「あなたが若いからこそ大事につきあいたいのです」この時、周総理76歳、池田先生は46歳だった。
池田先生に日中の未来を託したい——病状を心配する側近の制止のメモを振り切って、切々と総理は語り続けた。医師団から「会見すれば、命の保証はできません」と、反対されても「池田会長とは、どんなことがあっても会わねばならない」と譲らず、実現させた会見だった。
友好の心を次代へ
周総理が日本に留学した時、大学で学ぶ機会を得られず、苦労したことに報いたいとの池田先生の真情だった。留学生の身元の保証から日常生活にいたるまで、池田先生はこまやかに心を砕いた。
そして同大学構内に、桜の木の植樹を提案。日中友好と平和への願いが込められた桜は「周桜」と命名され、今も青年の成長を見守っている。
1972年の日中国交正常化を契機に医学・医療関係者の相互訪問が盛んになり、これに対応するため、1978年、日中友好協会内に日中医学協会の前身である医学学術交流小委員会が設置され、中華医学会(日本医学会に相当)を中国側窓口として交流を行っておりました。
1980年、日中友好協会から独立し、任意団体「日中医学協会」として活動を開始しました。
医療の近代化を目指す中国の要請に応じて、日中間の共同研究、人材育成等の事業を行うため、1985年、医学・歯学・薬学・看護学・その他医療関係団体の総意を結集し、経済団体連合会傘下の医療業界のご協力を得て、全国性・総合性を備えた民間の窓口として「財団法人日中医学協会」が発足しました。
2013年、公益法人制度改革に伴い、「公益財団法人日中医学協会」に移行しました。2015年、財団設立30周年を経て、今の時代に相応しい新たな日中医療交流事業をまさに展開しようとしています。
設立記念行事
開催年 | 設立記念行事 | 記念シンポジウムテーマ |
---|---|---|
1980年 | 日中医学協会創立 | |
1985年 | 財団法人日中医学協会設立 | |
1995年 | 設立10周年記念シンポジウム | 日中医学交流の過去・現在・未来 (陳敏章衛生部副部長講演) |
2000年 | 設立15周年記念シンポジウム | 中西医結合の現状と展望 (彭玉衛生部副部長講演) |
2005年 | 設立20周年記念シンポジウム | 中国における感染症の予防とコントロール (陳嘯宏衛生部副部長講演) |
2013年 | 公益財団法人認定記念祝賀会 | |
2015年 | 設立30周年記念シンポジウム | 日本医療の国際展開と中国における日中医学協会の役割 (馬暁偉中国国家衛生・計画生育委員会副主任臨席) |
〈日中友好に医療で貢献〉 中国に医療の文化を伝えたい
2016-04-25 12:59
医療法人社団 常仁会 牛久愛和総合病院 名誉院長
東京女子医科大学 名誉教授
高崎 健 先生
高崎先生は、長年東京女子医科大学の消化器センター長として、消化器外科分野で数々の実績を上げている。世界で初めて考案した「グリソン鞘一括処理による系統的肝切除」では肝切除の成績を飛躍的に伸ばした。その他、肝膵同時切除(HPD)術式の開発、また手術の現場で広く普及している開創器で先生の名前Kenを冠した「ケントレトラクター」など、様々な医療道具を発明するなど、その功績は大きい。
また高崎先生は、消化器センターの開祖であり世界的権威として知られる中山恒明先生の最後の弟子として、その教えである「患者を中心においた医療」を受け継ぎ、多くの後進を育てている。
第一線を退いた現在は、中日友好病院の客員教授として「中国人が中国で日本と同じような医療が受けられること」を目的に中日医療交流に精力的に動いている。そして、医療の技術だけでなく、医者としてのあり方、術後のケアなど医療文化の必要性を訴える。
また、「一般社団法人 日本医療学会」の理事長として、日本の医療を考えるだけでなく、アジア全体への広がりを目指している。
中国でも日本と同じ治療が
できるように
―― まず、先生の中国との馴れ初めについてお聞かせ願えますか。
高崎 最初は90年代に手術で行きました。3年ぐらい前に中国のドクターから中国の医療を何とかしたいというお話があり、お手伝いすることになりました。今は個人的に女子医大が中心になって支援している段階です。
今、日本のいい医療を受けたいと来日する方が多いようですが、私は基本的に、慣れない日本に来て、大変な治療を受けるというのは、その人にとって必ずしも幸せなことではないと思っているのです。
私の目的は、「中国で日本と同じような治療ができるようにする」こと。そのために、日本から出向いてもいいし、向こうからドクターに研修に来てもらったりして、その環境を早くつくる必要があると思っています。
だからこの2年間は、毎月1回、第二砲兵病院(北京)で肝胆膵の、主として外科的な治療の勉強会を開いています。まず私が手術を見せて、その後ディスカッションする。肝胆膵は一番面倒な病気で、その手術・治療・診断も難しいものですから勉強会への参加希望が多い。また昨年は中国国内6都市に出向き学術集会およびライブ手術を行ってきました。
あとは、日本と縁が深い中日友好病院をサポートしたいと思っています。北京市にある中日友好病院は1984年開院で、創立30周年ですが、改革がないまま来てしまった。新しい院長に代わり、建て直しに日本医療学会もお手伝いすることになりました。
本年1月には中日友好病院の先生方が来日し、京都大学、国立がんセンター、有明(公益財団法人がん研究会)、順天堂、聖路加などをまわりました。東京女子医大では日本で最初に疾患ごとのセンター方式にしています。各センターには医師、看護、リハビリテーション、検査、研究部門のすべてが集約しています。それを中日友好病院でも取り入れたいということで、外来や最新医療の「先端生命医科学研究所」も見学していただきました。
中日交流はまだ端緒ですが、中日友好病院が主体になるのがいいと思っています。もう少し仕組みを整え、医療学会の他の先生にも行ってもらって輪を広げるつもりです。
技術だけでなく日本の
医療文化を伝えたい
―― なぜ中国に医療の文化を伝えたいと思われたのですか。
高崎 医療は単なる技術ではなく医療文化が大事だと思うのです。だから私も中国に行って、それを伝えたいと思いました。患者と医者の関係とか、医者の社会の中のあり方、医者は患者のためにある、人間を診るのだと、当たり前のことをしみじみと思う。
私たちは昔から、女子医大消化器病センターの開祖である中山恒明先生に、「患者中心の医療」を教えられてきていた。患者を中心にして、外科医、内科医、放射線科医そして検査医がみんなでチームを作り議論し合いながら、治していくというやり方なんです。本当の意味のチーム医療というのは、何人もの医者で、その患者についての一番いい検査、治療を考えていきます。患者中心の医療を、中国人は中国で受けられるのが一番幸せだと思うのです。
あと、大切なのは術後のケアという文化。病気が治っても、精神的に患者自身が必ずしも治っていない。術後もフォローして社会復帰していなければいけない。今まで何例手術しても、患者の5年後がわからない。自分が手術した症例は、その後、患者がどういう生活を送っているかを調べるようにする。それがなければ、その人に本当に適した治療だったかどうかわからないじゃないかと話しています。今はフォローアップの仕組みをつくり始めています。
患者を治すために
世界初の治療法をあみだす
―― 先生は消化器外科がご専門で、肝膵同時切除(HPD)、グリソン鞘処理による肝切除術など世界初の治療法をあみだしています。
高崎 誰が最初にやったかは問題ではありません。要するに患者を治すためにいろんな工夫をしてきたということです。今、「残存肝機能推測法」は一番便利です。これは、手術でどのぐらい肝臓を切っていいかを計算で出す方法です。意外と中国の人は知らない。だから危ないからと言って、手術をやらなくなっている。これだけ切っても大丈夫という計算ができれば、さっと簡単にできます。
あと、開腹手術の視野確保に「ケントレトラクター」という道具をつくり、メーカーが私の名前を付けました。今日本で普及しています。
中国では最先端の医療は特別な人たちに対してだけで、一般の人は恩恵を受けていない。しかし今、民間がどんどん病院を建てている。医者自身も、いい技術を身につけようという意識はすごくある。だから日本の医者が中国に行って貢献できることは、とても多いのです。こうした活動に参加してもらえたら一番いい日中友好になると思います。
『人民日報海外版日本月刊』より転載