有吉佐和子の中国レポート (1979年)

2024年11月14日 22時16分11秒 | 社会・文化・政治・経済

 

有吉 佐和子 (著)

 

1987年、大学時代、『複合汚染』を読んで以来有吉佐和子作品に興味を持ち、端から読み漁ったうちの一つ。中国の民衆の生きざまと、文革後の文化人たちの話を「聞き」、中国の過酷さと頼もしさを知った。

 

今年は2021年。再読し、ピンとこなかった中国地名をネットで調べればどんな田舎でも地図上に表れ、土地勘をもって読むことのできるテクノロジーの進歩と、それに伴い今や経済大国第二位となった中国の発展ぶりが相まって、三十年の月日の流れを感慨深く思い返されながら読了した。

 

昔はもっと友好的で、日本は中国の歴史に対する尊敬をもち、高度成長後の日本は中国を支援し円滑に良い関係を築いていたと思います。

良い指導者が殺され、物の分かる方々が日本人と共に悩み、それが度々訪れている筆者の日常の中で変化してゆきます。友情を保っていたのに、暗殺されてしまう無念さや動乱の時期を経て、今に至っているというのがよく分かります。

 

文革という大混乱の直後の中国レポート。

ここから現代中国の発展が始まる。一方、直前までの中国の混乱した様子が被害者達の口吻から垣間見ることができる。

大変、貴重な歴史資料であり、かつ、有吉佐和子さんの読み手を飽きさせない筆致と構成力で書かれた作品。すーと、最後まで読み切ることができました。

 

 
昔はもっと友好的で、日本は中国の歴史に対する尊敬をもち、高度成長後の日本は中国を支援し円滑に良い関係を築いていたと思います。良い指導者が殺され、物の分かる方々が日本人と共に悩み、それが度々訪れている筆者の日常の中で変化してゆきます。友情を保っていたのに、暗殺されてしまう無念さや動乱の時期を経て、今に至っているというのがよく分かります。

 

「有吉佐和子の中国レポート」を読みました。1979.3.5発行。

有吉さんが1978.6、5度目の訪中時の話です。1966.8の文化大革命の後の中国、人民公社の農村の人と一緒に暮らしたレポート。

化学肥料と火薬、農薬と毒ガスの歴史を話しながら、化学肥料と農薬の弊害(複合汚染)を説く著者。中国の農業の2つの顔、無農薬と農薬漬けの状況をレポートしてます。重苦しいレポートでした

 

文革直後の雰囲気が伝わってくる。VIP特権を活かし、各地の人民公社を訪ね歩いた取材記録。筆者は中国の農業に大きな可能性を感じるとともに、農薬乱用による土壌汚染にも憂慮している。慧眼。

 

中国という国が今、資本主義の悪い所だけを学んだかのように得体のしれないほど膨れ上がり、旧市街の破壊と替え玉とCGを駆使してまで先進国のイメージ作り優先のオリンピックを強行し、地球環境を汚染しまくり、少数民族を圧迫する中華思想に走り、歪んだ一人っ子政策をやめたものの、平和や協調という語句は辞書に無いかのごとく国際社会で振る舞い、大挙して日本に押し寄せ爆買いをしている現状を、もし有吉佐和子が生きていたら、どんな「新・中国レポート」を書くだろうかとしみじみしてしまう。

 


詩人 タゴール

2024年11月14日 21時31分55秒 | 社会・文化・政治・経済

1919年、イギリスの軍隊が、何の武器も持たないインドの民衆に、機関銃で観差別に発砲して大虐殺を行った。

戒厳令がしかれ、恐怖政治のもと、多くの人々が啞然として沈黙すななか、真っ先に立ちあがったのが、タゴールであった。

タゴールは、自分がイギリスから受けていた「ナイト」の称号を突き返した。

<暴虐非道を行うイギリス政府からの勲章などいらない>と。

恐怖のあまり、何も言えないでいるインドの民衆の抗議の意志に、私は「声」を与えたいのです!

私は、特権などいりません。人間扱いされず、侮辱されている民衆の側に、私は立ちます!

このタゴールの毅然たる行動は、民衆に限りない誇りを呼びさました。

それが、やがて、ガンジーによる非暴力の運動の序曲となったことも、不滅の歴史である。

タゴールは、戦争という巨大な暴力に一貫して挑んだ。

そして世界中を旅して、信念の言論を展開した。

何度も来日した。

日本n国家主義とも戦った。

このままでは日本は危ないと。

 

19世紀後半以降、イギリスはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる体制の下、帝国主義支配をインドで貫徹し、インドは工業製品の市場・綿花などの原料の供給地として大英帝国を支えた。同時にインド人の民族運動も活発になり、イギリスは一部妥協を図ったが、抑圧体制はかわらず、自治・独立を求める運動が活発になった。

インド帝国の成立

 イギリスは18世紀中頃からインド植民地支配を推し進め、1857年インド大反乱を翌年までに武力で鎮圧してほぼその体制を完成させた。1858年8月に「インド統治改善法」(一般にこれをインド統治法という)によって東インド会社による間接支配から、直接支配に転換して国王の代理が副王(総督)として統治することとなった。その体制は、同年11月1日のヴィクトリア女王の宣言によって明確にされた。
スエズ運河の獲得 1970年代にはイギリス資本主義は、帝国主義段階へと移っていった。そのなかで、植民地インドの重要性はさらに強まり、1875年ディズレーリ内閣はスエズ運河株を買収した。スエズ運河を獲得して「インドへの道」を確保したイギリスは、さらに1877年1月にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることによってインド帝国を成立させ、イギリスによる直接的な植民地統治は名実ともにできあがった。

イギリスによるインド統治

 イギリス国王がインド皇帝を兼ねるインド帝国では、どのような統治が行われたのであろうか。
 それ以前の東インド会社によるインド植民地支配の段階から、道路など基盤の整備とともに、警察制度の整備と英語教育に力を入れた。特に教育は1835年より英語で行うこととし、官庁の文書もそれまでのペルシア語と各地方語の使用を停止し、すべて英語で作成することを命じた。役人になるためには英語が使えなければならないので、英語は急速に普及した。それまでインドには統一言語の発達が遅れていたことも、英語の普及の理由であった。またインド社会に残る、ヒンドゥー教信仰による嬰児殺し、幼児婚、寡婦の殉死(サティ)などを禁止する立法措置をとった。これらはキリスト教の布教と結びついていたが、必ずしもインド民衆には受け入れられなかった。またイギリスはインド統治にあたって、ヒンドゥーとイスラームの対立(コミュナリズム)を利用した。 → イギリスの分割統治
英語の公用語化 イギリスは1837年には、公用語をペルシア語から英語に切り替えた。インドの官僚機構に採用されるには英語は必須となり、高等文官の採用試験は1922年まではイギリスでのみ実施された。イギリスがペルシア語を禁止したのはそれがムガル帝国の公用語だったからであるが、ムガル帝国時代のインドの上流社会では北インドの口語(ヒンドゥスターニー語)にアラビア語、ペルシア語の語彙が取り入れて生まれたウルドゥー語(アラビア文字で表記される)はイギリス統治下でも行政や法廷用語としては保持されていた。それに対して、ヒンドゥー教徒の中に言語純化運動が興り、ウルドゥー語からイスラーム地域由来の語彙を取り除き、インド固有のデーヴァナーガリー文字で表記されるヒンディー語が作られると、イギリスは1900年にインド北西部の地域で、ウルドゥー語とヒンドゥー語の併用を認めるようになった。<粟屋利江『イギリス支配とインド社会』1998 世界史リブレット p.48>

帝国主義段階のインド支配

 19世紀後半の帝国主義段階に入り、イギリスの植民地支配はさらに強化され、アフガニスタン、ビルマへの支配の拡大とともに、1853年4月にはボンベイとターネーを結んでアジア最初の鉄道を敷設し、インドの鉄道綿花などを積み出す交通機関として出現した。
 このようなイギリスによる産品を独占して利益を上げ、それに反発するインド民衆を弾圧するための差別法を次々と制定した。たとえば、1878年の「土着語出版法」(インド人の出版、言論の弾圧で「箝口令」と言われた。)、「武器取締法」(インド人の武器所持を禁じる)などである。また1883年には司法上の差別をなくしインド人判事がイギリス人を裁けるようにした法案が、イギリス人団体の反対で廃案になった。

インドの反英闘争の始まり

 これらの差別的な統治法は、イギリス植民地当局のインド人に対する蔑視の表れであるとして、激しい反対の声が起こり、1883年バネルジーらが指導する全インド国民協議会が結成された。これが言論による反英闘争の最初の組織となった。背景には、イギリスがインド支配のために進めた英語教育を通して、西洋の人権思想や政治的な権利を知った知識人の中に、インド社会の変革の必要を感じてヒンドゥー教改革運動が起こってきたことがあげられる。

イギリスのインド支配強化とそれに対する反発

 イギリスは全インド国民協議会に対抗して対英協調組織として1885年にはインド国民会議を開催した。会議に参加した人びとは1885年国民会議派を結成して政治勢力となった。当初はインドの知識人、上層階級の立場でイギリスの協力者に留まっていたが、1905年ベンガル分割令に対する反対運動から、イギリスの思惑を超えて反英闘争の中心組織に転化し、1906年12月、カルカッタで大会を開き、四大綱領をその闘争の理念として掲げるに至った。  その四大綱領とは英貨排斥スワデーシスワラージ民族教育であり、以後、インドの民族運動の掲げる要求となった。
 イギリスはそのようなヒンドゥー教徒の動きに対抗させて、イスラーム教徒の組織化を支援し、同年末、全インド=ムスリム連盟を結成させるなど、宗教的対立を利用して独立運動を抑えようとした。
 第一次世界大戦が始まるとイギリスは戦後の独立を約束して戦争協力を取り付け、多数のインド兵がヨーロッパ戦線に送られたが、戦後その約束は守られず、ガンディーらを中心とした独立運動が本格化することとなる。
 → インドの反英闘争

 

ラビンドラナート・タゴール(英語: Rabindranath Tagore, ベンガル語: রবীন্দ্রনাথ ঠাকুর, ヒンディー語: रवीन्द्रनाथ ठाकुर(टगोर)、1861年5月7日 - 1941年8月7日)は、インドの詩人、思想家、作曲家。詩聖(コビグル কবিগুরু)として非常な尊敬を集めている。1913年には『ギタンジャリ(英語版)』によってノーベル文学賞を受賞した[1]。

これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもあった。

インド国歌の作詞・作曲、およびバングラデシュ国歌の作詞者で、タゴール国際大学の設立者でもあった。

生涯

タゴールは1861年5月7日、ベンガル州カルカッタの名門タゴール家に15人兄弟の末っ子として生まれた(14番目の子で弟がいたという説もある)。

タゴール家はタゴールの祖父ダルカナート・タゴールの代にカルカッタ有数の大商人として成長を遂げた家であり、また父のデヴェンドラナート・タゴール(英語版)も宗教家として著名であり、ヒンドゥー教改革運動(英語版)のひとつブラフモ・サマージのトップを務めていた。

ラビンドラナートは生まれながらにブラフモ・サマージの会員だったが、その活動はごく一部のエリートのものに過ぎず、一般大衆の宗教心と乖離していると感じた[2]。

妻 Mrinalini Deviと。1883年

幼い頃より詩作を能くしたが、イギリス流の厳格な教育に馴染めず、3つの学校をドロップアウトする。

1878年、17歳でイギリスのユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に留学、1年半を過ごすが、卒業には失敗した。イギリス留学でそれほど得るところはなく、家の中では相変わらず冴えない存在だった[3]。

父のデーヴェンドラナートは息子に所帯を持たせることとし、1883年にタゴールはムリナリニ・デビと結婚する[4]。1890年にはシライドホにあったタゴール家の領地管理を行うことになり、農村生活を始めた[5]。

ここでヒンドゥー教徒やイスラム教徒の最下層の人々によるベンガル地方の芸能・修行者集団バウルの伝説的存在ラロン・フォキルに出会い、バウルの歌に絶大な影響を受けることになる[3][6]。タゴールは2600曲あまりの歌を残したが、バングラデシュ国歌「我が黄金のベンガルよ」(Amar Sonar Bangla)を含め、バウルの旋律をそのまま流用した歌も少なくない[3]。詩作や文筆活動では、社会の最下層の人々の知恵・文化を語り、バウルの豊潤さを紹介した[2][7]。

後半生
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タゴールはやがて自らの学園を作る構想を持つようになり、父のデーヴェンドラナートが道場を開いていたカルカッタの北西にあたるシャーンティニケータンに1898年から校舎の建設をはじめ、1901年に野外学校を設立する[8]。

この学校は1921年には大学となり[9]、1951年にはインド国立とされて現在のヴィシュヴァ・バーラティ国立大学となった。1902年にはインドを訪れた岡倉天心と親交を結び、1913年の天心の死までその交友は続いた。

1902年には妻ムリナリニを亡くしている[10]。

1905年にイギリスがベンガル分割令を出すと反対運動の先頭に立ったが、やがて政治から身を引いた[11]。

1909年、ベンガル語の詩集『ギタンジャリ』を自ら英訳して刊行する。これは詩人のイェイツに絶賛され、評判となった(イェイツはこの詩集の序文も贈っている)。

1913年、タゴールはアジア人として初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞した。インドの古典を自らのインド英語で紹介したことで受賞したが、これは後年になってインド英語が世界で通用することの根拠として英語教育学の世界で取り上げられている[12]。

翌1914年、イギリス政府からナイトに叙されたものの、1919年にはアムリットサル事件に抗議してこれを返上している[13]。

1916年には来日し、日本の国家主義を批判した[14]。この時、親交のあった岡倉天心の墓を訪れ、天心ゆかりの六角堂で詩を読んだ[15]。

またマハトマ・ガンディーらのインド独立運動を支持し(ガンディーにマハトマ=偉大なる魂、の尊称を贈ったのはタゴールとされる[16])、ロマン・ロランやアインシュタインら世界の知識人との親交も深かった。マハトマ・ガンディーと同様にマリア・モンテッソーリのインド滞在時にはモンテッソーリとの交流を経てモンテッソーリ教育を真の平和教育と賞賛、強く支持していた[17]。

ドイツのノーベル賞物理学者ハイゼンベルクには、東洋哲学を教えている。

アインシュタインとタゴール(1930年)
 
タゴールとガンディー(1940年)

1941年、80歳で死去した[18]。

影響
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タゴールの死後もその文学への評価は高く、インド・バングラデシュを問わずベンガル人に愛され、文化的に重要な位置を占めている[19]。1950年1月24日には独立したインド議会によって、タゴールがベンガル語で作詞し作曲したジャナ・ガナ・マナがインド国歌に採用された。

また、パキスタンが民族・地域対立によって東西で激しい対立が起こるようになると、東パキスタンはアイデンティティをベンガル語に求めるようになり、ベンガル語世界の生んだ最大の詩人であるタゴールの評価も高くなっていった。1970年のバングラデシュ独立戦争時には、タゴールが1905年に作詞した「我が黄金のベンガルよ」がバングラデシュ解放軍によって歌われるようになり、独立後の1971年1月16日には正式に国歌として採用された[20]。また、同じくベンガル出身の巨匠である映画監督のサタジット・レイは、タゴールの作品に基づいた映画も多く製作しており[21]、1961年にはタゴールの生涯をつづったドキュメンタリー、「詩聖タゴール(英語版)」を制作した。

日本との関係
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1916年の訪日時のタゴール(中央)。右端に横山大観。
1916年の訪日時、軽井沢で学生を前に瞑想指導を行うタゴール。

早くから日本に対する関心も深く、岡倉天心・河口慧海・野口米次郎らとの親交があり、日本人の自然を愛する美意識を高く評価した。5度にわたって訪日している。

1916年、タゴールが来日した折、日本女子大学校創立者の成瀬仁蔵の招きを受けて日本女子大学校で7月に講演をおこない、さらに8月に軽井沢を訪れ(三井邸に滞在)、日本女子大学校が毎年実施していた修養会に講師として招かれ、学生を前に「瞑想に就きて」という講演や瞑想指導をおこなっている[22][23]。

タゴールは、1924年の3度目の来日の際に第一次世界大戦下の対華21か条要求などの行動を「西欧文明に毒された行動」であると批判し、満洲事変以後の日本の軍事行動を「日本の伝統美の感覚を自ら壊すもの」であるとしている[24]。

タゴールは中国について、「中国は、自分自身というものをしっかり保持しています。どんな一時的な敗北も、中国の完全に目覚めた精神を決して押しつぶすことはできません」[25]と述べた。タゴールのこうした日本批判に対して、友人でもあった野口米次郎とは論争になった[26]。野口は日本は中国を侵略しているのではなく、イギリスの走狗と戦っているのだとした[27]。

1929年を最後に、タゴールは来日することはなかった[24]。

1959年、東洋大学学長大倉邦彦、評論家山室静、平凡社の下中弥三郎、中村元らによって、タゴール記念会・タゴール研究所が設立。タゴール研究やベンガル語の講義が行われた。1961年にはタゴール生誕100年祭が開催、アポロン社から『ギーターンジャリ』『タゴール撰集』が出版された。

1980年、タゴール生誕120年にあたるこの年、高良とみ日本タゴール協会長らが中心となった詩聖タゴール像設立委員会により、長野県軽井沢町の碓氷峠の見晴台に高田博厚作「タゴール像」が建立された。背後の壁にタゴールの言葉「人類不戦」の文字が記されている[22]。

1981年、森本達雄が中心となり、『タゴール全集』が出版された[24]。

 


エナジートロン

2024年11月14日 15時45分37秒 | 医科・歯科・介護
毎日のように行っているが、全ては体験である。
実際に、良い結果が出ているので、続けるつもりだ。
 
 
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一日でも早く健康を取り戻し、苦痛から開放された楽しい毎日を送ってもらいたい。
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創作 義理と人情 続編 1

2024年11月14日 14時43分02秒 | 創作欄

徹は、日本の宗教団体に入信したメイユウに餞別として100万円を進呈した。

そして、成田空港へ送って行く電車内の中で、「中国国内では、信仰は難しいかもいれないな」と言ってみた。

メイユウは「センセイ、わたし、ないしょで、信心します。センセイの幸せ祈ってます」と決意を述べた。

ちなみ、香港には組織があったことを、歯科技工士の木村虎雄から聞いていたのだ。

木村は日本国内ではなく、香港で折伏され入信していた。

メイユウが信仰する宗教団体は1980年代、すでに世界宗教になりつあった。

「センセイ一度、中国にきてください。まってます」

「行けたらいいのだけれど・・・」それは徹の本心ではなかった。

「センセイ わたしの写真うけとってください」メイユウは浅草で徹から買ってもらった赤いバッグから写真を取り出した。

それはチャイナドレスでベッドに横たわるメイユウの妖艶な姿だった。

だが、その写真は皮肉にも、妻の愛子に見られてしまう。

「あなた、この写真は何なのよ」愛子が突然大声を上げ、怒りにまかせて写真はその場で引き裂かれる。

 

 

 

 

 

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 車券を買わずに自宅でテレビ観戦

2024年11月14日 13時39分23秒 | 未来予測研究会の掲示板

3着おじさんは、競輪場に姿を見せなくなる。

1時期に姿を見せたが来なくなる。

同じように藤代の電電公社も埼玉浦和のチャップリンも、土浦の山さんも、引退したカーテン屋さんも。

先日は、鳥さんから電話があり、彼の招待で静岡競輪へ12月30日には行くこととまる。

FⅠ 取手競輪 デイリースポーツ賞

9レース

南関両者人気 

 






選手名 府県



  4 1 1 川口雄太 徳島 28 111 S2
×   4 2 2 山本勝利 東京 26 117 S2
  4 3 3 近藤夏樹 千葉 37 97 S2
  4 4 4 佐藤愼太郎 福島 46 83 S2
  3 5 5 道場晃規 静岡 27 117 S1
    5 6 6 白戸淳太郎 神奈川 51 74 S2
  4 7 小林令 山梨 28 109 S2
                     
                   
誘導員 土田 武志       S2

並び予想 1-4 2-7 5-3-6

応援している山本勝利選手が勝って良かったね!

たぶん、車券は買っていただろう。

明日は取手競輪場へ行く予定である。

2

未発売
2

2=3
2,590円(8)
3

2=3=7
2,060円(10)


2=3
470円(6)
2=7
270円(3)
3=7
540円(7)
未発売
2-3
4,790円(15)
2-3-7
11,910円(39)

児童虐待防止月間オレンジリボン

2024年11月14日 11時44分19秒 | 社会・文化・政治・経済

虐待を受けた子どもは、自己肯定感が低くなる。

こども家庭庁では、
毎年11月に「オレンジリボン・児童虐待防止推進キャンペーン」を実施し、
家庭や学校、地域等の社会全般にわたり、
児童虐待問題に対する深い関心と理解を得ることができるよう、
児童虐待防止のための広報・啓発活動に集中的に取り組みます。

なお、この取組は、11月の「秋のこどもまんなか月間」の取組の一つとして実施します。

虐待とは強者としての大人から弱者としえの子どもへの重大な権利侵害です。

個人の方にできること

子ども虐待の防止は、児童相談所や市町村などの公的機関だけ行えるものではありません。
わたしたち一人一人が「子育てにやさしい社会」を作ることが、子ども虐待の防止につながります。

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是非みなさまの意志表明として、ご登録をお願い致します。
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メールで受け取れます。

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子育て中の親子に、やさしいまなざしをお願いします。

ご近所や外出先で出会った子育て中の親子に、やさしいまなざしをお願いします。
赤ちゃんに微笑みかけたり、階段で困っている親子を見かけたらベビーカーの持ち運びを手伝ったり、
そんな些細なあなたの行動が、子育て中の親子の心の支えになります。

日頃からお付き合いがあるなどご存じの親子で、気になる方がいる場合は、声をかけるなどしてみてください。
お互いに育児の悩みを話せたり、子どもを一緒に遊ばせたりできる相手がいれば、心が少しおだやかになるかもしれません。
でも、あなたが受け止めきれなかったり、声を掛けるのが難しい場合は、無理をせず、公的な支援を活用しましょう。

子育てに関するお悩みやご相談は、お住まいの市区町村子育て窓口、
または児童相談所の児童相談所相談専用ダイヤル「0120-189-783(いちはやく・おなやみを)」(フリーダイヤル)へ。

こどもの虐待防止推進全国フォーラム with おかやま

入場無料、事前予約も不要です。
YouTubeでのライブ配信も行います。(一部プログラムを除く)

日時
2023年11月23日(木・祝) 14:00〜17:30
場所
岡山芸術創造劇場ハレノワ 大劇場
詳細は特設サイトをご覧ください

本フォーラムは終了しました。フォーラムの内容はアーカイブ映像をご覧ください(一部コンテンツを除く)。

 
 

ハンセン病問題

2024年11月14日 11時33分13秒 | その気になる言葉
「ハンセン病問題を正しく理解する週間」は、6月16日から6月22日までの期間です。
 
ハンセン病問題に対する正しい知識の普及啓発を目的としており、6月22日は「らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日」として定められています。
 
ハンセン病に関する歴史には、次のようなものがあります。
  • 明治40年(1907年)に「らい予防ニ関スル件」が制定され、ハンセン病患者に対する強制収容・隔離政策が開始されました。
     
     
  • 1931年には「らい予防法」が制定され、在宅の患者も含めたすべてのハンセン病患者を強制的に隔離する政策が決定されました。
     
     
  • 全国各地に国立療養所が設けられ、各県では「無らい県運動」という名のもとに、患者を見つけ出し療養所に送り込む施策が行われました。
     
     
  • 特効薬によって完治する病気となったにもかかわらず、強制隔離政策を継続させた「らい予防法」は、1996年に廃止されました。
     
     
 
 
ハンセン病問題に係る全国的な意識調査及び調査に関する検討会の運営業務等一式
実施要領
1 趣旨・目的
厚生労働省は、未だ残るハンセン病に対する偏見差別について、現在の状況とこれ
をもたらした要因を分析・解明し、偏見差別の解消のために必要な広報活動や人権教
育、差別事案への対処の在り方についての提言を行う「ハンセン病に係る偏見差別の
解消のための検討会」の開催等を行ってきた。令和5年3月には、「ハンセン病に係る
偏見差別の解消のための検討会 報告書」が取りまとめられたところである。
当該報告書において、ハンセン病問題に関する全国的な住民の意識調査が一度も実
施されていない現状が指摘されている。ハンセン病問題に関する全国的な住民の意識
調査を実施し、ハンセン病に係る偏見差別の現状を正確に分析することは、また、今後
必要とされるハンセン病問題の施策を検討する上でも、極めて重要なものである。
2 事業の内容
ハンセン病問題に関する全国的な住民の意識調査を実施するため、以下の業務を
行う。
(1)ハンセン病問題に係る全国的な意識調査に関する検討会の開催及び議事運営
①基本的事項
別紙「ハンセン病問題に係る全国的な意識調査に関する検討会運営要綱(案)」
に基づき、検討会の開催・運営を行うこと。(頻度は調査項目検討の進捗によるが、
オンラインを基本とし、必要に応じて、一部の開催において対面とすることも可能
とする。年間8回以上とする。)
開催案内を各委員及び厚生労働省に通知すること。
②検討会委員の任命等
委員の候補者(厚生労働省が別途示す者。)に対して委嘱状を送付し、委員とし
て任命する旨の通知を行うこと。
③その他運営事務
検討会に出席した委員に対し、謝金(委員 19,600 円/回程度)を支払うこと。
オンラインツールについては、「zoom」による接続とする。
対面により開催する場合には、各委員の意向を確認の上、会場を確保すること。
また、旅費(国家公務員等の旅費に関する法律に準ずること。)を支払うことがで
きるものとする。
委員からの求めに応じて、検討会について事前説明を行うこと。
なお、謝金及び旅費については、本契約とは別に、実費を支払うものとする。
(2)事務局機能
本事業における事務局機能を継続的に維持すること。
検討会での決定や求めに応じ調査・分析、資料収集及び報告書等のとりまとめを
行う必要があることから、事務局として、調査・分析業務の知識・経験を有する常
勤職員を1名以上確保するとともに、必要に応じて事務職員を配置すること。
(3)調査実施及び調査結果分析等
①調査方法
原則として、インターネットモニター調査とする。ただし、抽出するインターネ
ットパネル登録モニターについては、検討会等で議論の上、受託者は本調査に適
したものを選択すること。また、調査時期についても、検討会等の議論により決定
するものとする。
②調査対象者及びその範囲等
原則として、サンプル数 20,000 人以上とする。ただし、検討会等の議論により
決定するものとする。
③調査結果分析等
原則として、調査結果は単純集計、5軸程度のクロス集計を行うものとする。た
だし、検討会等の議論により決定するものとする。
検討会における議論等を踏まえ、ハンセン病問題に係る全国的な意識調査の調
査実施・調査結果分析を行うこととし、回答入力データ及び調査結果データ等を付
した上で、報告書として取りまとめを行うこと。
調査に関する疑義が生じた場合は、厚生労働省に相談すること。
その他調査実施に必要な経費(事務局職員の旅費、通信運搬費、印刷製本費等)
を支払うこと。
3 事業の実施期間
契約日から令和6年3月29日まで
4 留意事項
受託者は、下記の項目について留意しなければならない。
(1)検討会は、原則非公開とする。
(2)本事業により知り得た情報については、講演、著書等、本事業以外の活動におい
て個人のプライバシーへの保護等に配慮し、検討会の範囲を超えて公にしないこ
と。
(3)(2)は、本調査事業が終了した後も同様であること。
(4)受託者は事業の実施に当たって委託者と緊密に連絡を取ることとし、疑義が生
じた場合は委託者と協議すること。
(5)委託事業実施計画書
受託者は委託者の定める様式に従い、契約締結時に委託者に対して委託事業実
施計画書を提出するものとする。委託事業の実施に当たり計画書に記載した事項
を変更する必要があると判断したときには、委託者に対してその旨届出を行い、委
託者の指示に従わなければならない。
(6)事故等の報告
委託事業の実施に重大な影響を及ぼす事故その他重大な事件、人命に損傷を与
える事故等が発生したときは、受託者は、臨機の措置を講ずるとともに、遅滞なく
その状況を委託者に報告することとする。
(7)新型コロナウイルス感染症予防対策について
検討会の開催等の実施に当たっては、新型コロナウイルス感染症の感染予防に
必要な措置(十分な規模の会場や各委員との十分な距離の確保、オンラインの活用
等)を講じること。
(8)個人情報の取扱い
本事業によって知り得た個人情報は、次に掲げるとおり取り扱うこと。
① 委託者の承認なしに第三者に提供してはならないこと。
② 個人情報が記された資料を事業実施以外の目的で複写又は複製してはならな
いこと。作業の必要上、複写又は複製した場合は、作業終了後、適切な方法で破
棄しなければならないこと。
③ 個人情報が記された資料は、事業完了の日の属する年度の終了後5年間保存
するものとし、保存期間経過後、適切な方法で破棄すること。ただし、委託者が
別に指示したときは、その指示によること。
④ 個人情報漏洩等問題となる事案が発生した場合には、事案の発生した経緯、被
害状況等について委託者に報告するとともに、委託者の指示に基づき、被害の拡
大の防止及び復旧等のために必要な措置を講ずること。
(9)再委託
① 受託者が本契約に係る事務又は事業の全部を一括して第三者(受託者の子会
社(会社法第2条第3号に規定する子会社をいう。)を含む)に委託することは
禁止する。また、総合的な企画及び判断並びに業務遂行管理部分は再委託しては
ならない。
② 受託事務又は事業の一部を再委託する場合は、あらかじめ再委託の相手方の
商号又は名称及び住所並びに再委託を行う事務又は事業の範囲、再委託の必要
性及び契約金額について記載した「再委託に係る承認申請書」を支出負担行為担
当官に提出し、承認を受けること。また、受託事務又は事業の一部を再委託する
場合は、受託契約金額に占める割合は、原則2分の1未満とすること。
③ 再委託に関する内容に変更が生じた場合には、受託者は「再委託に係る変更承
認申請書」を支出負担行為担当官に提出し、承認を受けること。
④ 再委託の相手方から更に第三者に委託が行われる場合には、当該第三者の商
号又は名称及び住所並びに委託を行う事務又は事業の範囲を記載した「履行体
制図」を支出負担行為担当官に提出し、履行体制の把握に努めること。
⑤ 受託者は、秘密保持、知的財産権等に関して本仕様書が定める受託者の責務を
再委託先業者も負うよう、必要な処置を実施し、支出負担行為担当官に提出し、
承認を受けること。
⑥ なお、第三者に再委託する場合は、その最終的な責任を受託者が負うこと。
5 成果物
本事業完了後、以下の成果物を納品すること。
①検討会開催経過、調査結果等をまとめた報告書 100 部(A4 サイズ、1色刷り、
簡易製本)(検討会委員へ 1 部ずつ送付する分も含む。)
②報告書の原稿、回答入力データ及び調査結果データ等は、電子媒体(CD-ROM 等)
でも 1 部提出すること。
納入期限は令和6年3月29日とする。
6 その他
(1)事業の実施によって得られるすべてに係る著作権、その他の諸権利は厚生労働
省に帰属するものであること。
(2)本実施要領に定めのない事項及び疑義が生じた場合は、厚生労働省担当者と速
やかに協議を行うものとする。
別紙
ハンセン病問題に係る全国的な意識調査に関する検討会運営要綱(案)
(目的)
第1条 ハンセン病問題に係る意識調査は、ハンセン病に係る偏見差別の現状を正確
に分析することすることにより、今後必要とされるハンセン病問題施策の検討に資
することを目的として設置する。
(検討会の設置・活動)
第2条 ハンセン病問題に係る意識調に関する検討会(以下、「検討会」という)を設
置し、ハンセン病に係る偏見差別の現状を正確に把握するための設問や調査対象者
の範囲等の検討、調査結果の分析を行う。
(構成)
第3条 検討会の委員は、学識経験者(人権法学者、統計学者等)、ハンセン病違憲国
家賠償訴訟全国原告団協議会、全国ハンセン病療養所入所者協議会、ハンセン病家
族訴訟原告団及びハンセン病違憲国家賠償訴訟全国弁護団連絡会の6名程度で構成
し、受託者の長が選任する。
(資料開示)
第4条 厚生労働省は、検討会から求めがあった場合、個人のプライバシー保護等に
配慮しつつ、その保存する関係資料を原則としてすべて検討会に対し開示する。
(会議の公開)
第5条 検討会は原則非公開とする。ただし、検討会において必要と認めた場合にお
いては、議事概要を公開するものとする。
(事務局)
第6条 検討会の運営事務は、受託者が行う。
 

初の意識調査 “偏見 差別は依然として深刻” 厚労省

ハンセン病への差別や偏見の実態を把握するため、厚生労働省が一般の人を対象に初めて意識調査を行いました。
6割以上の人が「ハンセン病への差別意識を持っていない」と答えましたが、2割近くの人が身体に触れることに抵抗を感じると答えたほか、元患者の家族と自分の家族が結婚することに抵抗を感じると答えた人も2割以上にのぼったことがわかりました。
厚生労働省の検討会は、「ハンセン病への偏見差別は現存し、依然として深刻な状況にあることがうかがえた」と結論付けています。

(社会部 勝又千重子 記者)

差別や偏見の実態について意識調査 一般の人2万人余りから回答

 

ハンセン病をめぐっては、かつての国の誤った隔離政策で元患者や家族が差別を受けてきていて、去年、元患者や人権の専門家などでつくる検討会は、差別や偏見の実態を把握するよう求める報告書をまとめました。

これを受け、厚生労働省は去年12月、一般の人を対象にインターネットを通じて初めての意識調査を実施し、2万人あまりから回答を得ました。

調査では、ハンセン病について自分が偏見や差別の意識を持っているかどうかを尋ねたところ、
▼「持っていると思う」が35.4%、
▼「持っていないと思う」が64.6%でした。

また、ハンセン病の元患者や家族に対してどのような場面で抵抗を感じるかを尋ねました。

「とても感じる」と「やや感じる」を合わせた抵抗を感じる人は、
▼「近所に住むこと」で9.3%、
▼「同じ医療機関・福祉施設に通うこと」では7.5%でした。

さらに、
▼「ホテルなどで同じ浴場を利用すること」は19.8%、
▼「手をつなぐなど身体に触れること」には18.5%、
▼「ハンセン病元患者の家族とあなたの家族が結婚すること」については21.8%が抵抗を感じると回答しています。

厚生労働省の検討会は、「ハンセン病への偏見差別は現存し、依然として深刻な状態にあることがうかがえた」と結論づけました。

平成8年まで隔離政策 元患者や家族の救済策設ける

 

ハンセン病は「らい菌」による慢性の感染症です。

衛生状態のよい今の日本では、感染しても発症することはほぼないものの、有効な治療薬が無かった時は、進行すると手足や顔が変形するなどの後遺症が残りました。

国は感染の拡大を防ぐ目的で、昭和28年に「らい予防法」を定め、患者の隔離政策を進めました。

その後、感染力が極めて弱いことが知られるようになり、治療法が確立されましたが、国は患者を強制的に療養所に隔離する政策を続け、平成8年に法律が廃止されるまで続きました。

ハンセン病の元患者たちは、「国の誤った隔離政策で人権を侵害された」として、各地で国に賠償を求めた裁判を起こし、平成13年5月に熊本地方裁判所が「国は必要がなくなったあとも、患者の強制的な隔離を続け、差別や偏見を助長した」などとして、国に賠償を命じる判決を言い渡しました。

国と国会はその年に隔離政策の誤りを認めて謝罪し、元患者や遺族が申請をすれば補償金を支払う救済策を設けました。

また、令和元年には患者だけではなく、家族も偏見や差別の被害を受けたとして、国が家族に対し、補償金を支払う制度ができました。

家族への補償金の申請は、ことし11月21日までで、あと半年あまりに迫っています。

「うつるから戻ったらいかん」治っても親族に拒まれ帰郷できず

 

報告書に記載された現存するハンセン病への偏見や差別とはどのようなものなのか、元患者の女性が自分の体験を聞かせてくれました。

岡山県の療養所で暮らす、87歳の女性は、中学3年生のころにハンセン病を発症して療養所に入所しました。

元患者の中には、病気が治っても、差別を恐れた家族から帰宅を拒まれる人が多くいたということですが、女性は、兄から「自分の家なのだから帰っておいで」と言ってもらい、三重県の母と兄が住む実家に年に1回程度帰省していたということです。

しかし、母親が亡くなり、兄も介護が必要になった10年ほど前からは、兄の妻から帰省を拒まれるようになったといいます。

女性は、「ちょっと帰るねと言うと『その時はだめ』と。『病気がうつるから戻ってきたらいかん』とはっきり言うんです。病気は治っているとどれだけ説明してもだめだった」と話していました。

その後も、兄に電話をしてもつないでもらえない状態が続き、去年12月に兄が亡くなったと連絡がありました。

兄の葬式への出席も断られたということで、現在まで墓参りができない状態が続いているということです。

元患者の女性の兄

女性は、墓参りの代わりに自室の仏壇に母親と兄の昔の写真を飾り、毎日、手を合わせています。

女性は、「私にとってはお父さんみたいな兄でした。3つしか年が離れていなかったけれど、何もかも分かってくれた。いまだに会いたい気持ちは出てくるが、諦めないと私の気持ちが持たない。ハンセン病の正確な知識はまだ世の中には理解されていないと感じます」と話していました。

亡くなっても本名 名乗れず 療養所の納骨堂に眠る

 

女性のように今も療養所で暮らす元患者は、厚生労働省のまとめで、去年5月時点で全国でおよそ810人にのぼっています。

亡くなったあとも、ふるさとの墓に入ることなく、療養所の納骨堂に入る人も多くいます。

岡山県にあるハンセン病の療養所「邑久光明園」で、20年以上働いてきたソーシャルワーカー、坂手悦子さん(53)は、入所者の葬儀や納骨に関わってきました。

療養所の納骨堂にある1797人の遺骨をおさめた骨つぼの半数以上には、仮名が記されているということです。

坂手さんは、「ことし2月にも当園では3人が亡くなったが、1人は仮名のままで納骨堂で眠っています。入所者は、家族をハンセン病の差別から守りたいという思いがあって仮名を貫き通していて、ハンセン病の差別は自分で断ち切る、自分さえ我慢すればいいんだという思いがある」と説明しました。

そのうえで坂手さんは、「園でも本名を知っている職員は限られているし、私たちも本名を隠す手伝いをしている。ふと我に返ったときに本当におかしなことだと思います。外の人たちからは隠しているから差別が無くならないのではないかと言っていただくこともあるが、それでも必死で隠さざるをえない状況にあるということの背景にあるものを忘れてはいけないと思います」と話していました。

家族にも差別 姉の縁談が破談に

 

ハンセン病では、元患者だけではなく、家族たちも差別を受けてきました。

兵庫県出身の、浜本しのぶさん(仮名・87歳)は、11歳の時にハンセン病を発症しました。

今も、岡山県の療養所で仮名を名乗って暮らしています。

家族ではじめにハンセン病にかかったのは、浜本さんの父親でした。

近所に病気のことを知られた時のことについて、浜本さんは、「あそこの家はうつる、汚いとか言われて私も頭から白い消毒の粉をかけられて、それを近所の人が人だかりになって見ていました。これまで一緒に遊んでいた男の子に石を投げられて頭をけがしました」と語りました。

中でも浜本さんが忘れられないのが、手紙や面会で励ましてくれた、2歳上の姉への差別です。

姉は、20代のころ、公務員の男性と結婚の話が持ち上がりましたが、浜本さんのハンセン病の病歴が分かると破談になったということです。

浜本さんは、「姉への差別は、生きていた中で一番つらかった。自分の病気のせいで姉にも迷惑をかけてしまう。死のうかと思いました」と話していました。

その後、姉は別の男性と、浜本さんのハンセン病のことを伝えた上で結婚しましたが、親戚の中には、いまだ妹の存在を伝えることができていない人もいるということです。

ハンセン病をめぐり、国は誤った隔離政策で元患者だけでなく家族も差別の被害を受けたとして、令和元年(2019年)、最大で180万円の補償金を支払う制度を設けました。

当初、国は補償の対象となる元患者の家族をおよそ2万4000人と見込んでいましたが、3月中旬時点で請求があったのは8300件あまりと、想定の3割あまりにとどまっています。

補償金の申請の期限は、ことし11月21日に迫っていますが、浜本さんの姉は、まとまった金額を受け取ることで周りに妹の病歴を知られることを恐れて、補償金の申請ができていないといいます。

浜本さんは、「子どものお嫁さんはぜんぜん私のことを知らないから、姉には私の存在を絶対言ったらあかんと口止めしました。これまでハンセン病のことで差別されてきたので。ばれるようなことをして姉が悲しまないといけないことになったら、私も生きているのがつらい」と話していました。

補償金の申請 多くが断念

 

浜本さんが暮らす、岡山県にあるハンセン病の療養所「邑久光明園」で、ソーシャルワーカーの坂手悦子さん(53)は、補償金の申請につながらないケースに数多く立ち会ってきました。

申請をする上で大きな壁となっているのは、家族自身が周囲に元患者の存在を隠しているケースが多いということです。

補償金の申請には、戸籍謄本などのほかにも療養所に入所していた証明書が必要なため、療養所には家族から連絡がくるということですが、申請のための戸籍謄本を取る際に役所で使用理由を聞かれ、周囲に知られると思ったとか、ほかの家族にハンセン病の家族のことを隠していて知られる恐れがあるなどの理由で申請を断念するケースがあったということです。

中には、「180万円ごときで今まで大切にしてきた生活を壊すわけにはいかない」と話した人もいたということです。


坂手さんは、「請求したくても怖い、ハンセン病の家族がいたことがばれるかもしれないと思ってできない状況が今も続いている。隠さざるをえない状況自体が今も続いていることが差別だと思っています。根深いものがあると思う」と話していました。

そのうえで、「世間でハンセン病への目に見える差別は少なくなっていると思うが、コロナがあって、感染した人の家に落書きがあったり、県外ナンバーの車に嫌がらせがあったり、そういうのを見ると、ハンセン病の元患者のご家族たちはやっぱり今も同じじゃないかと思ってしまう。家族補償を請求できない人が多いことは、社会が変わっていないことのあらわれなのだと気づいてほしい」と話しました。

 


 
 

あらゆる人が「生きているだけで価値がある」

2024年11月14日 11時00分40秒 | その気になる言葉

▼人材の育成の在り方は、時代とともにことなってくる。

「これからは、賞賛、激励の時代である。多種多様なあらゆる努力を的確に評価し、褒め、讃えていく。それが勇気となり、意欲を育んでいく」

▼さなざな職種の人々が、励ましの言葉を糧に、社会で実証を示す。

その姿を見て、自分も頑張ろうと決意していくのである。

▼子どもたちの斬新なアイデアに、無限の可能性を感じる。

▼あらゆる人が「生きているだけで価値がある」と称賛される社会の仕組みづくりに率先して取り組むことを期待したい―福島智(さとし)東京大学特任教授

福島さんはこれまで多くの差別を受けた。

「自分の体が透明になってしまうような、<凍えるような寒さ>を感じるような経験」を告白する。

だからこそバリアフリーに熱心に取り組む政治に期待を寄せている。

▼戦時中派兵士としての有能さ、戦後は経済活動での優劣が問われた。

「私たちの意識の地下水脈には、優性思想的な能力主万能の価値観が脈々と流れ続けている」

障害者と健常者、あるいはそれぞれの中でも決定的な能力差がある。

その現実を見て見ぬふりをしつつ<人間には無限の可能性がある>など、いびつなスローガンが流布されていることに疑問を投げかける。

 


心の財(たから)

2024年11月14日 10時03分22秒 | 創作欄

▼逆境、苦闘といった言葉は、意外とうしろ向きな意味あいを含んでいるが、それらが生命の原動力ともなるものだ。

逆境があらねば圧力はなく、圧力がなければ変化も起こらない―天文学者・ジャストロウ

壮大なる宇宙の誕生 (集英社文庫)

ジャストロウ、 小尾 信彌監訳
 
▼世は無常だ。
しかし変化に翻弄されず、逆に自らが前向きな変化を起こす。
そのためには不動の信念と勇気による実践が大切となる。
▼わが地域こそ、わが本国土でる。
その地域にたいせつにせずに、平和の建設もない。
▼目標に向かって、懸命に挑戦する、ひたぶるに戦う。
歯をくいしばって道を開いていく―振り返ってみれば、その時は苦しいようで、じつはいちばん充実した、人生の黄金の時なのだ。
目的の<宝>さがしも大切だが、全力で目的地への前進する<勇気の旅>もまた、最高の宝となるのだ。
▼世界には、未だ多くの紛争がある。
そうした紛争を克服する思想として、今、仏教思想への関心が高まっている。
その思想とは、人間の尊厳であり、人々に奉仕し、貢献する機会がふえていくことだ。
人間革命の哲学と行動に、世界の知性が期待をよせている。
共生の哲学が世界を包むことだ。
<いつか>ではなく<今まさに>に平和の構築を!
 

創作 義理と人情 おわり

2024年11月14日 03時42分15秒 | 創作欄

メイユウは、女の嫉妬心であったのだろうか、彼女の同居人である姉や従妹の名前なの一切を徹に明かすことはなかった。

「センセイは、わたしだけの人」彼女は徹に一途な気持ちを打ち明ける。

そして、驚くことに、既に日本の宗教団体の信者となっていた。

「センセイ、わたしと一緒に幸せになってください」と徹を弘教するまでとなる。

実は、彼女が勤務する韓国店の同僚から折伏されていたのである。

その後、メイユウの従兄が来日する。

羽振りが良くなったメイユウの従妹の話が、来日の契機となっていた。

この従兄こそが、メイユウの命運を左右するこことなったのだ。

徹がメイユウに与えた金が、皮肉にも従兄の標的となった。

新宿の大久保病院に搬送されたメイユウは、短刀で従兄に腹部を差されたものの、命を取り留めていた。

「もう、わたし、お金いらないです」メイユウが涙を流す。

徹が初めて、メイユウの柔らかい手を握りしめる。

「センセイ、わたしに、最後のキスしてください」徹は一瞬、ためらったが、それに応じた。

「わたし、北京に帰ります。さよなら、センセイのさよならのキス、とても嬉しいです」彼女は、白い数珠を握りしめていた。

徹は、改めて思った。

日本語の文字は、中国の漢字に由来する。

その意味で、中国は日本とは切っても切れない因縁のある国である。

メイユウに日本語を教える中で、そのことを徹な改め痛感していたのだ。

つまり、中国は日本にとっては、<報恩の国>とも言えたのである。

 

参考

折伏(しゃくぶく)とは、仏教用語で、悪人や悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせることを意味します。
 
 
「折」は破邪の意、「伏」は顕正の意で、間違った考え方を打ち破り、正しい道に導くことを意味します。
 
 
折伏は、仏教における化導弘通(けどうぐづう)の方法のひとつで、相手の立場や考えを容認せず、その誤りを徹底的に破折して正法に導く厳しい方法です。
 
 
創価学会では、折伏を「真実を言いきっていくこと」と捉え、誠実に、まじめに、相手の幸せを願って仏法を語っていくことが折伏になるとされています。また、自分が分かっている範囲で話をし、折伏に挑戦していくことも大切です。
 
 
 

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2024年11月14日 03時30分40秒 | 日記・断片
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創作 義理と人情 5

2024年11月14日 02時20分26秒 | 創作欄

メイユイは、徹から得た金の大半を北京に送金する。

そして、彼女の姉と従妹が来日することなったのだ。

3人は中野・中央の6畳との4畳半のアパートの部屋に同居する。

メイユイはそれまで、新宿・大久保のアパートの4畳半に住んでいたのであるが、徹の斡旋で移転していた。

徹はアパートでメイユイに日本語を教えていた。

彼は過去に国語教師になり損ねた経緯があったのである。

メイユイは徹に恋愛感情を抱いていたが、徹は数か月前に歯科医師の天田孝蔵の勧めで歯科衛生士の戸田愛子と見合い結婚をしていた。

「センセイ、なぜ、結婚、わたしに、隠していたのですか」メイユイは泣くのだが、どうにもならない帰結だった。

「わたし、とても、残念です」二人のやりとりは、日本語が全く分からない彼女の同居人の姉と従妹には通じない問題であった。

徹は既に中国株の運用で3000万円余の利益を得ていた。

徹は再度、メイユウに500万円を渡す。

それが、結果的に皮肉にも裏目に出たのだった。

 


選挙をやるたびに議席を減らす公明党と共産党

2024年11月14日 02時05分06秒 | 社会・文化・政治・経済

島田 裕巳(宗教学者・作家)

今回の衆議院議員選挙において、公明党は惨敗した。

32あった議席は24に減り、比例代表の得票数は596万票と600万票をわった。2022年の参議院議員選挙でも、比例代表では618万票だったから、今回の結果は十分に予想されたことである。

公明党が惨敗したのは、連立を組む自民党に裏金問題が生じ、逆風にさらされたからだともされるが、何よりもっとも大きな原因は、支持母体である創価学会の衰退である。

創価学会の衰退は、これからも続いていく。したがって、選挙をやるたびに公明党は議席を減らしていくことになるはずだ。

朝日新聞の11月8日付けの社説では、「自民党との長年の連立で薄れた『清潔な政治』『大衆福祉』『平和』といった党の原点に立ち返ることなしに、退潮に歯止めはかかるまい」と述べられていたが、たとえ公明党が1964年に結党された原点に立ち返ったとしても、退潮に歯止めがかかることは考えられない。

596万票にしても、選挙において自民党と協力しているからである。もしも自民党との協力関係がなくなれば、500万票を確保できるかどうか、それもかなり怪しい。

しかも、選挙で落選した石井啓一氏が就任したばかりの代表を辞任し、代わりに国交大臣だった斎藤鉄夫氏が就任した。斎藤氏は72歳で、66歳の石井氏よりも年が上だ。これは、公明党にいかに人材がいないかを証明している。

選挙運動期間中、『聖教新聞』や『公明新聞』では必死の訴えがなされ、とくに選挙の支援活動にSNSを活用するよう強く勧められたものの、それが功を奏することもなかった。

創価学会を押し上げた高度成長というブーム

ではなぜ、これほどまでに創価学会は衰退してしまったのだろうか。

それは、戦後の創価学会の拡大が「ブーム」だったからである。それは創価学会についてだけ言えることではなく、戦後に拡大した新宗教全般にもあてはまることである。

創価学会は全国で会員の数を伸ばしたが、東日本では立正佼成会が、西日本ではPL教団が最大のライバルだった。この二つの教団も戦後に巨大教団へと発展した。現在、立正佼成会も創価学会と同様にかなり会員を減らしているが、もっとも深刻なのはPL教団である。

2020年に3代目の教祖が亡くなったものの、4代目はまだ決まっていない。PL教団と言えば、毎年8月1日に行われる「教祖祭PL花火芸術」において、膨大な数の花火を打ち上げてきたが、コロナ禍で中止されて以降、現在になっても再開されていない。資金難から、再開は不可能のようだ。

戦後に、創価学会をはじめとする新宗教が拡大したのは、未曾有の高度経済成長が起こったからである。

高度経済成長は、産業構造の転換をともなった。それまでの日本の社会においては、農業を中心とした第1次産業の比重が重かったが、それが鉱工業の第2次産業やサービス業の第3次産業へと転換していった。第2・3次産業は都市を舞台にするもので、高度経済成長時代の大都市では大量の労働力を必要とした。その供給源となったのが地方の農村部であった。

それによって、大量の労働力が地方から大都市へと移動することになった。彼らは「金の卵」としてもてはやされたものの、年齢が一〇代と若かった上に、小卒や中卒で学歴が低かった。彼らが就職できたのは、中小企業や零細企業、町工場や商店であった。

新宗教は、そうした新たな都市下層を取り込むことで、その勢力を拡大していった。創価学会に入会すれば、たちどころに仲間ができ、何かと支えになってくれたのである。

ブームは去り、組織は年老いた

しかも、当時の創価学会は日蓮正宗と密接な関係をもっており、創価学会に入会することは同時に日蓮正宗の檀徒になることでもあった。日蓮正宗の総本山である大石寺には、彼らが考える究極の「御本尊」があり、それは日蓮正宗・創価学会の信仰の正しさを証明するものでもあった。

日蓮正宗の信仰は正しいと教えられた創価学会の会員は、その信仰を広めるために、相手を強く説得する「折伏」を行った。折伏を行うには日蓮正宗の教えを学ばなければならない。それは、十分な教育を受けてこなかった創価学会の会員の識字能力を高め、また自分たちだけが正しい信仰をもっているという自信を植えつけることにもなった。

会員たちは、その集まりである地域の座談会で、折伏の成果を発表した。会員や『聖教新聞』の購読者を増やすことが成果で、それを発表すれば、座談会に集った他の会員たちから拍手喝采された。それがさらに自信を与えることにつながった。池田氏も日本全国をまわり、会員を励まし続けた。

しかし、1970年代に入るころには高度経済成長は曲がり角にさしかかる。70年の大阪万博がピークで、73年の第1次オイル・ショック以降は低成長の時代に変わる。そうなると、大都市への人口移動も低調になり、創価学会に入会する人間は減っていった。

つまり、創価学会という組織は、1950年代半ばから70年くらいまでの時代に入会した会員が多数を占めていた。そうした世代が高齢化し、あるいは亡くなることで、会員が減り続けるという状況が生まれたのだ。

創価学会では、その信仰を会員の子どもや孫へ伝えていくために相当な努力を重ね、ある程度は成功した。これは、他の新宗教ではできなかったことである。だが、信仰の熱量となると、2世や3世以降の会員では、自ら入会した1世にはどうしても劣る。それも、創価学会の衰退に歯止めがかからない要因になっている。

実は、こうしたことは共産党にもあてはまる。共産党もまた大都会に出てきたばかりの都市下層をターゲットにしたからである。選挙のたびに創価学会と共産党が激しくぶつかったのも、同じ社会階層を取り込もうとしたからである。

今回の選挙で、共産党は10議席から8議席に減り、9議席のれいわ新撰組にも抜かれてしまった。共産党が力を失ってきたのも、その理由は創価学会と共通する。どちらも、戦後のブームに乗って組織を拡大してきたが、ブームが去ったことで退潮していかざるを得ないのである。

裏金問題で巻き添えを食ったわけではない

私は、ここのところ公明党の地方選挙の結果に注目してきた。地方選挙は4年ごとに行われるわけだが、公明党の候補者は選挙のたびに平均して10パーセント程度得票数を減らしてきている。

昨年6月、当時の岸田文雄首相が衆議院の解散に踏み切るのではないかと言われた。ところが、自民党が行った調査で、自民党は42議席減らすという予測結果が出たために、解散が先送りされた。その調査では、公明党は23議席にとどまると予測された。

今回の選挙結果は、そのときの予測を裏づけることになった。自民党はそれ以上に議席を減らしたが、公明党についての予測はほぼあたっている。これは、裏金問題に公明党が巻き込まれたことが退潮の原因でないことを示している。裏金問題が一気に表面化したのは、それから半年後の昨年11月のことだった。

池田大作氏が亡くなった翌日の昨年11月16日に、創価学会は『創価学会教学要綱』を刊行した。これは、創価学会の教えについて改めてまとめたものである。

そこに示された現在の創価学会の教えは、ひどく穏健なもので、かつてのように、自分たちの信仰が絶対に正しいという主張は完全に影を潜めている。私はそれを読んで、一般の日蓮宗の方がむしろ過激なのではないかという印象さえもった。

以前なら、創価学会の会員は、神社の祭にも参加せず、鳥居さえ潜らなかった。ところが、最近では、そうした会員は一部になり、公明党の議員も神社の祭で神輿を担いだりしている。それは、一般の地域住民と創価学会の会員を隔てる壁がなくなったことを意味する。

 

都市下層として恵まれない境遇にあった創価学会の会員は、かつては自分たちだけのコミュニティーを必要とした。しかし、創価学会の家庭に生まれた子どもも高等学校や大学に進学し、それなりの経済力を身につけるようになった。もはや創価学会という閉鎖的な集団に閉じこもっている必要はなくなった。

創価学会の存在意義が、新たな都市下層民を社会のなかに定着させていくことにあったのだとしたら、十分にその役割を果たしたとも言える。そうなると、日本社会にとっても、創価学会の会員にとっても、創価学会という組織は要らないものになってしまったのである。