1919年、イギリスの軍隊が、何の武器も持たないインドの民衆に、機関銃で観差別に発砲して大虐殺を行った。
戒厳令がしかれ、恐怖政治のもと、多くの人々が啞然として沈黙すななか、真っ先に立ちあがったのが、タゴールであった。
タゴールは、自分がイギリスから受けていた「ナイト」の称号を突き返した。
<暴虐非道を行うイギリス政府からの勲章などいらない>と。
恐怖のあまり、何も言えないでいるインドの民衆の抗議の意志に、私は「声」を与えたいのです!
私は、特権などいりません。人間扱いされず、侮辱されている民衆の側に、私は立ちます!
このタゴールの毅然たる行動は、民衆に限りない誇りを呼びさました。
それが、やがて、ガンジーによる非暴力の運動の序曲となったことも、不滅の歴史である。
タゴールは、戦争という巨大な暴力に一貫して挑んだ。
そして世界中を旅して、信念の言論を展開した。
何度も来日した。
日本n国家主義とも戦った。
このままでは日本は危ないと。
19世紀後半以降、イギリスはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる体制の下、帝国主義支配をインドで貫徹し、インドは工業製品の市場・綿花などの原料の供給地として大英帝国を支えた。同時にインド人の民族運動も活発になり、イギリスは一部妥協を図ったが、抑圧体制はかわらず、自治・独立を求める運動が活発になった。
インド帝国の成立
イギリスは18世紀中頃からインド植民地支配を推し進め、1857年のインド大反乱を翌年までに武力で鎮圧してほぼその体制を完成させた。1858年8月に「インド統治改善法」(一般にこれをインド統治法という)によって東インド会社による間接支配から、直接支配に転換して国王の代理が副王(総督)として統治することとなった。その体制は、同年11月1日のヴィクトリア女王の宣言によって明確にされた。スエズ運河の獲得 1970年代にはイギリス資本主義は、帝国主義段階へと移っていった。そのなかで、植民地インドの重要性はさらに強まり、1875年、ディズレーリ内閣はスエズ運河株を買収した。スエズ運河を獲得して「インドへの道」を確保したイギリスは、さらに1877年1月にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることによってインド帝国を成立させ、イギリスによる直接的な植民地統治は名実ともにできあがった。
イギリスによるインド統治
イギリス国王がインド皇帝を兼ねるインド帝国では、どのような統治が行われたのであろうか。 それ以前の東インド会社によるインド植民地支配の段階から、道路など基盤の整備とともに、警察制度の整備と英語教育に力を入れた。特に教育は1835年より英語で行うこととし、官庁の文書もそれまでのペルシア語と各地方語の使用を停止し、すべて英語で作成することを命じた。役人になるためには英語が使えなければならないので、英語は急速に普及した。それまでインドには統一言語の発達が遅れていたことも、英語の普及の理由であった。またインド社会に残る、ヒンドゥー教信仰による嬰児殺し、幼児婚、寡婦の殉死(サティ)などを禁止する立法措置をとった。これらはキリスト教の布教と結びついていたが、必ずしもインド民衆には受け入れられなかった。またイギリスはインド統治にあたって、ヒンドゥーとイスラームの対立(コミュナリズム)を利用した。 → イギリスの分割統治英語の公用語化 イギリスは1837年には、公用語をペルシア語から英語に切り替えた。インドの官僚機構に採用されるには英語は必須となり、高等文官の採用試験は1922年まではイギリスでのみ実施された。イギリスがペルシア語を禁止したのはそれがムガル帝国の公用語だったからであるが、ムガル帝国時代のインドの上流社会では北インドの口語(ヒンドゥスターニー語)にアラビア語、ペルシア語の語彙が取り入れて生まれたウルドゥー語(アラビア文字で表記される)はイギリス統治下でも行政や法廷用語としては保持されていた。それに対して、ヒンドゥー教徒の中に言語純化運動が興り、ウルドゥー語からイスラーム地域由来の語彙を取り除き、インド固有のデーヴァナーガリー文字で表記されるヒンディー語が作られると、イギリスは1900年にインド北西部の地域で、ウルドゥー語とヒンドゥー語の併用を認めるようになった。<粟屋利江『イギリス支配とインド社会』1998 世界史リブレット p.48>
帝国主義段階のインド支配
19世紀後半の帝国主義段階に入り、イギリスの植民地支配はさらに強化され、アフガニスタン、ビルマへの支配の拡大とともに、1853年4月にはボンベイとターネーを結んでアジア最初の鉄道を敷設し、インドの鉄道が綿花などを積み出す交通機関として出現した。 このようなイギリスによる産品を独占して利益を上げ、それに反発するインド民衆を弾圧するための差別法を次々と制定した。たとえば、1878年の「土着語出版法」(インド人の出版、言論の弾圧で「箝口令」と言われた。)、「武器取締法」(インド人の武器所持を禁じる)などである。また1883年には司法上の差別をなくしインド人判事がイギリス人を裁けるようにした法案が、イギリス人団体の反対で廃案になった。
インドの反英闘争の始まり
これらの差別的な統治法は、イギリス植民地当局のインド人に対する蔑視の表れであるとして、激しい反対の声が起こり、1883年、バネルジーらが指導する全インド国民協議会が結成された。これが言論による反英闘争の最初の組織となった。背景には、イギリスがインド支配のために進めた英語教育を通して、西洋の人権思想や政治的な権利を知った知識人の中に、インド社会の変革の必要を感じてヒンドゥー教改革運動が起こってきたことがあげられる。
イギリスのインド支配強化とそれに対する反発
イギリスは全インド国民協議会に対抗して対英協調組織として1885年にはインド国民会議を開催した。会議に参加した人びとは1885年、国民会議派を結成して政治勢力となった。当初はインドの知識人、上層階級の立場でイギリスの協力者に留まっていたが、1905年のベンガル分割令に対する反対運動から、イギリスの思惑を超えて反英闘争の中心組織に転化し、1906年12月、カルカッタで大会を開き、四大綱領をその闘争の理念として掲げるに至った。 その四大綱領とは英貨排斥・スワデーシ・スワラージ・民族教育であり、以後、インドの民族運動の掲げる要求となった。 イギリスはそのようなヒンドゥー教徒の動きに対抗させて、イスラーム教徒の組織化を支援し、同年末、全インド=ムスリム連盟を結成させるなど、宗教的対立を利用して独立運動を抑えようとした。 第一次世界大戦が始まるとイギリスは戦後の独立を約束して戦争協力を取り付け、多数のインド兵がヨーロッパ戦線に送られたが、戦後その約束は守られず、ガンディーらを中心とした独立運動が本格化することとなる。 → インドの反英闘争
ラビンドラナート・タゴール(英語: Rabindranath Tagore, ベンガル語: রবীন্দ্রনাথ ঠাকুর, ヒンディー語: रवीन्द्रनाथ ठाकुर(टगोर)、1861年5月7日 - 1941年8月7日)は、インドの詩人、思想家、作曲家。詩聖(コビグル কবিগুরু)として非常な尊敬を集めている。1913年には『ギタンジャリ(英語版)』によってノーベル文学賞を受賞した[1]。
これはアジア人に与えられた初のノーベル賞でもあった。
インド国歌の作詞・作曲、およびバングラデシュ国歌の作詞者で、タゴール国際大学の設立者でもあった。
生涯
タゴールは1861年5月7日、ベンガル州カルカッタの名門タゴール家に15人兄弟の末っ子として生まれた(14番目の子で弟がいたという説もある)。
タゴール家はタゴールの祖父ダルカナート・タゴールの代にカルカッタ有数の大商人として成長を遂げた家であり、また父のデヴェンドラナート・タゴール(英語版)も宗教家として著名であり、ヒンドゥー教改革運動(英語版)のひとつブラフモ・サマージのトップを務めていた。
ラビンドラナートは生まれながらにブラフモ・サマージの会員だったが、その活動はごく一部のエリートのものに過ぎず、一般大衆の宗教心と乖離していると感じた[2]。
妻 Mrinalini Deviと。1883年
幼い頃より詩作を能くしたが、イギリス流の厳格な教育に馴染めず、3つの学校をドロップアウトする。
1878年、17歳でイギリスのユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に留学、1年半を過ごすが、卒業には失敗した。イギリス留学でそれほど得るところはなく、家の中では相変わらず冴えない存在だった[3]。
父のデーヴェンドラナートは息子に所帯を持たせることとし、1883年にタゴールはムリナリニ・デビと結婚する[4]。1890年にはシライドホにあったタゴール家の領地管理を行うことになり、農村生活を始めた[5]。
ここでヒンドゥー教徒やイスラム教徒の最下層の人々によるベンガル地方の芸能・修行者集団バウルの伝説的存在ラロン・フォキルに出会い、バウルの歌に絶大な影響を受けることになる[3][6]。タゴールは2600曲あまりの歌を残したが、バングラデシュ国歌「我が黄金のベンガルよ」(Amar Sonar Bangla)を含め、バウルの旋律をそのまま流用した歌も少なくない[3]。詩作や文筆活動では、社会の最下層の人々の知恵・文化を語り、バウルの豊潤さを紹介した[2][7]。
後半生
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タゴールはやがて自らの学園を作る構想を持つようになり、父のデーヴェンドラナートが道場を開いていたカルカッタの北西にあたるシャーンティニケータンに1898年から校舎の建設をはじめ、1901年に野外学校を設立する[8]。
この学校は1921年には大学となり[9]、1951年にはインド国立とされて現在のヴィシュヴァ・バーラティ国立大学となった。1902年にはインドを訪れた岡倉天心と親交を結び、1913年の天心の死までその交友は続いた。
1902年には妻ムリナリニを亡くしている[10]。
1905年にイギリスがベンガル分割令を出すと反対運動の先頭に立ったが、やがて政治から身を引いた[11]。
1909年、ベンガル語の詩集『ギタンジャリ』を自ら英訳して刊行する。これは詩人のイェイツに絶賛され、評判となった(イェイツはこの詩集の序文も贈っている)。
1913年、タゴールはアジア人として初のノーベル賞となるノーベル文学賞を受賞した。インドの古典を自らのインド英語で紹介したことで受賞したが、これは後年になってインド英語が世界で通用することの根拠として英語教育学の世界で取り上げられている[12]。
翌1914年、イギリス政府からナイトに叙されたものの、1919年にはアムリットサル事件に抗議してこれを返上している[13]。
1916年には来日し、日本の国家主義を批判した[14]。この時、親交のあった岡倉天心の墓を訪れ、天心ゆかりの六角堂で詩を読んだ[15]。
またマハトマ・ガンディーらのインド独立運動を支持し(ガンディーにマハトマ=偉大なる魂、の尊称を贈ったのはタゴールとされる[16])、ロマン・ロランやアインシュタインら世界の知識人との親交も深かった。マハトマ・ガンディーと同様にマリア・モンテッソーリのインド滞在時にはモンテッソーリとの交流を経てモンテッソーリ教育を真の平和教育と賞賛、強く支持していた[17]。
ドイツのノーベル賞物理学者ハイゼンベルクには、東洋哲学を教えている。
アインシュタインとタゴール(1930年)
タゴールとガンディー(1940年)
1941年、80歳で死去した[18]。
影響
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タゴールの死後もその文学への評価は高く、インド・バングラデシュを問わずベンガル人に愛され、文化的に重要な位置を占めている[19]。1950年1月24日には独立したインド議会によって、タゴールがベンガル語で作詞し作曲したジャナ・ガナ・マナがインド国歌に採用された。
また、パキスタンが民族・地域対立によって東西で激しい対立が起こるようになると、東パキスタンはアイデンティティをベンガル語に求めるようになり、ベンガル語世界の生んだ最大の詩人であるタゴールの評価も高くなっていった。1970年のバングラデシュ独立戦争時には、タゴールが1905年に作詞した「我が黄金のベンガルよ」がバングラデシュ解放軍によって歌われるようになり、独立後の1971年1月16日には正式に国歌として採用された[20]。また、同じくベンガル出身の巨匠である映画監督のサタジット・レイは、タゴールの作品に基づいた映画も多く製作しており[21]、1961年にはタゴールの生涯をつづったドキュメンタリー、「詩聖タゴール(英語版)」を制作した。
日本との関係
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1916年の訪日時のタゴール(中央)。右端に横山大観。
1916年の訪日時、軽井沢で学生を前に瞑想指導を行うタゴール。
早くから日本に対する関心も深く、岡倉天心・河口慧海・野口米次郎らとの親交があり、日本人の自然を愛する美意識を高く評価した。5度にわたって訪日している。
1916年、タゴールが来日した折、日本女子大学校創立者の成瀬仁蔵の招きを受けて日本女子大学校で7月に講演をおこない、さらに8月に軽井沢を訪れ(三井邸に滞在)、日本女子大学校が毎年実施していた修養会に講師として招かれ、学生を前に「瞑想に就きて」という講演や瞑想指導をおこなっている[22][23]。
タゴールは、1924年の3度目の来日の際に第一次世界大戦下の対華21か条要求などの行動を「西欧文明に毒された行動」であると批判し、満洲事変以後の日本の軍事行動を「日本の伝統美の感覚を自ら壊すもの」であるとしている[24]。
タゴールは中国について、「中国は、自分自身というものをしっかり保持しています。どんな一時的な敗北も、中国の完全に目覚めた精神を決して押しつぶすことはできません」[25]と述べた。タゴールのこうした日本批判に対して、友人でもあった野口米次郎とは論争になった[26]。野口は日本は中国を侵略しているのではなく、イギリスの走狗と戦っているのだとした[27]。
1929年を最後に、タゴールは来日することはなかった[24]。
1959年、東洋大学学長大倉邦彦、評論家山室静、平凡社の下中弥三郎、中村元らによって、タゴール記念会・タゴール研究所が設立。タゴール研究やベンガル語の講義が行われた。1961年にはタゴール生誕100年祭が開催、アポロン社から『ギーターンジャリ』『タゴール撰集』が出版された。
1980年、タゴール生誕120年にあたるこの年、高良とみ日本タゴール協会長らが中心となった詩聖タゴール像設立委員会により、長野県軽井沢町の碓氷峠の見晴台に高田博厚作「タゴール像」が建立された。背後の壁にタゴールの言葉「人類不戦」の文字が記されている[22]。
1981年、森本達雄が中心となり、『タゴール全集』が出版された[24]。