創作 人生の相性 8)

2024年09月20日 11時28分50秒 | 創作欄

東京駅の八重洲地下街の居酒屋「ホタル」の娘である北側春香は、太宰治を信奉する人であった。

彼女は、太宰の愛人となった人たちに、自らの妊娠した身を重ねたのである。

特に太宰の子を産んだ愛人・太田静子の斜陽の世界である。

実は、北側春香は東京女子大学に学び、卒業論文に太宰と斜陽の世界を選択した。

水野晃に春香は言った「あなたの愛を求めたのは、私の方からでした。だから、責任を取ってとか、奥さんと離婚してとも言いません。でも、私から離れないでください。私は子ども一人で育てていきますから・・・」

水野はその日、春香から築地のマンションに誘われていた。

母親の梓は3連の休みで網代の自宅に戻っていた。

2人は春香のベッドで交情を重ねた。

それは、彼の妻との交情では得られない愛欲の世界だった。

 

参考

太宰は、そのイメージに違わず、若い頃から恋多き男でした。

彼が最初に恋仲になった女性として記録に残っているのは、1927年(18歳)に知り合った故郷・青森の芸妓、小山おやま初代です。当時すでに同人誌『細胞文芸』を立ち上げるなど執筆活動に打ち込んでいた太宰は、故郷で初代との逢瀬を重ね、21歳の頃には小山家と結納も交わしていました。

1935年、『文藝』に発表した小説『逆行』が芥川賞候補になるなど、作家としてのキャリアを順調に進めつつあった太宰。

しかし26歳のとき、腹膜炎により入院したことをきっかけに、鎮痛剤であるパビナールの中毒となってしまいます。
多いときには1日に50数本の注射を打つほどの依存状態に陥った太宰は、パビナール中毒の治療のために入院。入院時、不幸なことに初代が不貞行為を犯していたことを知ってショックを受けた太宰は、以後、初代と別居状態になります。

そんな中、29歳にして出会ったのが、のちに太宰の正妻となるインテリ女性・石原美知子でした。太宰は師事していた井伏鱒二の紹介により、山梨で女学校の教師をしていた美知子と見合いをし、結婚を決めます。
初代との破局以前にもバーの女給と心中未遂を図るなど、私生活が乱れに乱れていた太宰。彼は、美知子との結婚にあたって自らの覚悟が半端なものではないと示すため、当時、井伏鱒二にこんな手紙を送っています。

この前の不手際は、私としても平気で行ったことでは、ございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生というものを知りました。結婚というものの本義を知りました。結婚は、家庭は、努力であると思います。厳粛な、努力であると信じます。

ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を完全の狂人として、棄てて下さい。
井伏鱒二『太宰治』より

『斜陽』のモデルとなった愛人・太田静子

美知子との結婚生活をスタートさせた太宰は、『富嶽百景』、『走れメロス』といった素晴らしい短編作品を多数執筆しました。小説家としての地位と名声を順調に得つつあった太宰が32歳にして出会った女性が、歌人で作家の太田静子です。

太田静子には、25歳で弟の同僚からの熱心な求婚を受けて結婚するも、夫を愛することができずわずか1年ほどで離婚したという過去がありました。
女学校時代から口語短歌や詩歌を嗜んでいた静子は、離婚直後にふと読んだ太宰の小説に惹かれ、小説を書きたいので指導してほしい、という内容の手紙を太宰に送ります。太宰はこの手紙に“お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい”と返事をし、静子を自宅に招きました。そして太宰と静子はその出会いをきっかけに、恋に落ちてしまったのです。

太宰と静子はそれから、妻・美知子の目を盗んで逢い引きを重ねるようになります。太宰は静子に送ったラブレターの中に

僕は今日まで、結婚の時にたてた誓いを一

所懸命まもって来た。だけど、もうどうしていいか分からなくなった

一ばんいいひととして、ひっそり命がけで生きてゐて下さい

などと記すほど、静子に夢中でした。

第二次世界大戦が終わる頃、すでに大人気作家として多忙な毎日を送っていた太宰は、数年ぶりに静子との再会を果たします。しかし、太宰が静子に告げたのは、“小説の材料のために、日記を提供してほしい”という依頼のみでした。

太宰に依頼されて静子が提供した日記は、小説『斜陽』のモデルとなります。静子はその際に太宰の子を身ごもるも、それ以来太宰からの態度は冷たくなり、“自分は小説の材料として利用されただけなのではないか”と疑念を抱き続けていたといいます。

実は、太宰は静子から日記の提供を受けたのと同じ頃、東京・三鷹で美容師をしていたある女性と屋台で知り合いになっていました。その女性こそ、太宰とともに心中した最後の愛人・山崎富栄です。

富栄は太宰の著作を読んだことがなかったものの、出会ってすぐに太宰に好感を持ったようで、

愛してしまいました。先生を愛してしまいました。

と情熱的な日記を綴っています。そして太宰も、

死ぬ気で恋愛してみないか

と持ちかけ、ふたりは恋人同士になったのでした。

非常に情熱的で、嫉妬深い性格だった富栄。38歳になっていた太宰は『ヴィヨンの妻』発表後から体調を崩し、仕事部屋にこもりがちになっていました。富栄は美容師を辞めてそんな太宰の世話を甲斐甲斐しく焼く一方で、部屋に青酸カリを隠していると太宰を脅し、彼を精神的に追い詰めていきます。

富栄は太宰と心中自殺をする直前、静子に宛ててこんな手紙を投函していました。

修治さんはお弱いかたなので 貴女やわたしやその他の人達にまでおつくし出来ないのです わたしは修治さんが、好きなので ご一緒に死にます

 太宰が富栄とともに玉川上水で心中したのは、1948年6月13日。太宰の遺体が見つかった川原には“下駄で摺った跡”があったとされており、井伏鱒二はこれを、

太宰が死ぬまいと最後の瞬間に抵抗した名残りだろうと思った。

と分析しています。

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