歴史家トインビーが期待を寄せた日本の宗教組織

2024年09月18日 19時38分50秒 | 沼田利根の言いたい放題

マスコミがほとんど記事にしないので、あえて記すこことした。

歴史家のアーノルド・J・トインビーが、人類史を巡る探究を続ける中でただりついたのが、「時間の遠近法」に基づく洞察であった。

現代における「世界的出来事」と着目したのが創価学会の存在だった。

トインビーは、1972年に「戦後の創価学会の興隆は、単に創価学会が創立された国(日本)だけの関心事ではない。

創価学会は、すでに世界的出来事である―と指摘した。

トインビーは以前から仏教に関心を抱いていた。

彼は1967年の訪日などを通じて、仏教の豊かな可能性を現代に蘇らせた創価学会に着目していた。

そして、池田大作会長との対談を切望する。

1969年9月、その思いを記したトインビーの書簡が池田会長のもとに届いた。

その後、準備が進められ、1972年5月と1973年5月の2度にわたり、ロンドンにあるトインビーの自宅で、のべ40時間に及び対談が実現した。

「私は、対話こそが、世界の諸文明、諸民族、諸宗教の融和に、極めて大きな役割を果たし物と思います。人類全体を結束させていくために、若いあなたは、このような対話をさらに広げていってください」とトインビーは池田会長に期待した。

そして、池田会長はトインビーの勧めで1973年11月科学者のルネ・デュボスと、1975年5月にはローマクラブの創立者のアウレリオ・ペッチェリと会談する。

さらに、1974年にソ連のコスイギン首相と会見した。

1974年12月には中国を訪問し、癌で入院していた周恩来を訪ねて対談し、1975年1月18日アメリカのキッシンジャー国務長官と会談した。

その内容はAP通信を通じて全世界に発信された。

 

アーノルド・ジョゼフ・トインビー(Arnold Joseph Toynbee CH FBA1889年4月14日 - 1975年10月22日)は、イギリス歴史家歴史哲学者。

多数の著書を持ち、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスキングス・カレッジ・ロンドンの国際史研究教授でもあった。1918年から1950年まで、トインビーは国際問題の第一人者として活躍した。

代表作は『歴史の研究』(A Study of History、1934-1961年、全12巻)。

論文・記事・スピーチ・プレゼンテーションなどを大量に発表し、多くの言語に翻訳された数多くの著書を持つトインビーは、1940年代から1950年代にかけては、広く読まれ議論される学者であった。

しかし、1960年代になると、彼の大作は主流の歴史家の間では人気がなくなった。

トインビーは、事実に基づくデータよりも神話寓話宗教を好んでいるという認識があったためである。

 

 


杉良太郎とボランティア活動

2024年09月18日 18時59分59秒 | 社会・文化・政治・経済

杉良太郎“偽善上等”ボランティアに費やした私財40億円超! 一等地にビル所有も私生活は質素

公開日: 日刊ゲンダイ

 

 杉さまの“偽善”を絶賛する声が後を絶たない。

 元日に発生した能登半島地震の被災者の避難先で自ら包丁を握り食事を振る舞ったのが、俳優で歌手の杉良太郎(79)。東日本大震災をはじめ、被災地に駆けつける杉のボランティア活動は今や、多くの人が知るところとなっている。
 
「東日本大震災の際は車両20台で救援物資を運び、宮城から福島へと長期にわたり移動を続け、多くの人たちを励ましている。驚かされるのは今年80歳になる杉さんの体力だけでなく、これらのボランティア活動はすべて私財で行っていること。費やしたお金は40億円はくだらないそうです」(スポーツ紙記者)

 自らの活動にあがる「売名」「偽善」といった声には、「ああ、偽善で売名ですよ」「私のことをそういうふうにおっしゃる方々も、ぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」と意に介さない。

■「活動をしている人に拍手を送るだけで十分」

 自らの経験から福祉にはお金と時間がかかると話し、「お金がない人は時間を寄付すればいい。お金も時間もない人は福祉に対する理解を示し、実際に活動をしている人に拍手を送るだけで十分。それでもう立派な福祉家なんです。福祉ってそういうもんです」と、人に押し付けたりしないスタンスが特徴だ。

杉は芸能界デビュー前の15歳の時からボランティアに携わってきているが、利他的だった両親からの影響が大きかったという。杉の活動は、ライフワークの被災地支援や刑務所慰問だけでない。

「150人を超えるベトナム人の里子がいたり、二つ目の落語家の支援をしたり、芸能界で稼いだお金をこうした活動に惜しみなく使ってきています。

その一方で、東京都心の超一等地にオフィスビルを所有する資産家でもありますが、妻の伍代夏子も『リンガーハットの皿うどんが好き』と公言するなど、普段は夫婦ともども決してセレブな生活を送っているわけではないようです。

被災地では自身が所有する農園で栽培した野菜などで調理したカレーやうどんを多くの人に振る舞う様子から、普段から自宅で包丁を握っていることがわかります」(芸能ライター

 

だれかの「助けて」に耳を傾けられる社会へ。

芸能56年、福祉61年の杉良太郎さんが、「コロナ後」を語る

  • 暮らしと社会
 

最初の福祉活動は、15歳の刑務所慰問

――事務所に『芸能56年、福祉61年』と掲げてありました。杉さんの福祉活動は、芸能界での活動よりも年期が入っているのですね。

 デビューしたのは20歳ですが、15歳のころから、レッスンに通っていた歌の先生に誘われて福祉施設や刑務所などを慰問していましたからね。始めは深い考えがあったわけではありません。「行ってみようか」くらいの軽い気持ちでした。

 中学生が刑務所のステージに立って歌うというんだから、相当不安でしたよ。足ががたがた震えてね。何を歌ったのかまでは覚えていないけれど、とにかく一生懸命歌った。気持ちが伝わったのか、こわもての受刑者もみんな泣いて拍手をしてくれました。

杉良太郎さん

写真=深澤慎平

――これまで数えきれないほど福祉の現場を訪問されていますが、特に印象に残っている体験はありますか?

 1996年に、熊本にある国立療養所菊池恵楓園(きくちけいふうえん)(※1)というハンセン病療養所で「遠山の金さん」を上演したことでしょうか。恵楓園には、国の隔離政策で人権を奪われ、差別や偏見に苦しんできたかたたちが大勢入所されている。実はその5年前に訪問した時に、上演を約束していたのです。照明や音響の設備も整っておらず、トラブル続きで何度も中断しながらでしたが、講堂に集まった何千人というかたたちはじっと舞台を見守ってくださいました。

 金四郎の決めぜりふ「一件落着」を言わねばならないのですが、このかたたちには生涯、一件落着はないのだと思うと、胸が詰まって言葉が出てきません。やっとの思いで声をふりしぼって「一件落着」と言うと、怒涛のような拍手が起きました。決して忘れられない体験です。

1991年9月、菊池恵楓園でハンセン病患者と言葉を交わす杉良太郎さん

1991年9月、菊池恵楓園への最初の訪問で、ハンセン病患者と言葉を交わす(写真=株式会社杉友提供)

 長年福祉に携わってきても、相手の痛みを自分事として感じるのは難しいものです。けれどこの時、実際に恵楓園の入所者のかたたちに会って、お話を聞いて、握手して、抱き合って、少しだけ理解できたような気がしました。

※1:1909年(明治42年)九州7県連合立九州癩療養所として開設。1941年(昭和16年)に国に移管されると同時に「国立療養所菊池恵楓園」へと名称を改め、現在に至る。総面積はおよそ約18万坪、園の周囲は3.9㎞に及び、日本最大の国立療養所として知られている。

杉良太郎を、福祉活動に駆り立てるものは

――なぜ、杉さんは、多忙な芸能活動と並行して、これほどまでに熱心に福祉に取り組んでいるのですか?

 必ず聞かれますが、それがいちばん難しい質問ですね。うまい答えを探しているんですが……。いつも、何か考える前に行動しているのです。

 例えば、この『きなり』(生協パルシステムの商品カタログ)を見るでしょ。商品がいっぱい並んでいる。そうすると、「ああ、おいしそうだな」「食べたいな」っていう前に、「これはあの人が喜ぶかな」「あの人に送ってあげようかな」と、いろいろな人の顔が浮かんでくるんですよ。

 まあ、性分なんですね。私は終戦のちょうど1年前に生まれたのですが、私たちの世代には、そういう人が多いかもしれない。世話を焼くというか、面倒見てやるよっていうコミュニティが周りにありましたからね。

杉良太郎さん

写真=深澤慎平

――杉さんのお母さんも、口癖のように「人には親切、慈悲、情け」とおっしゃっていたそうですね。

 そうですね。私が子共のころは本当に貧しくて、明日のお米にも困るような家だったんです。それでも、母親だけじゃなく父親も、いつも人のために動いているような人でした。父は兵隊帰りで気性は荒かったけれど、お人好しでね。両親からの影響ばかりじゃないだろうけれど、困っている人を見かけると、何とかしたいと思うような子供だったのは確かです。

広島、長崎の原爆病院を慰問する様子

1970年には広島、長崎の原爆病院を慰問(写真=株式会社杉友提供)

――今の福祉活動につながる思いは、そんな幼いころに芽生えていたのですね。

 もちろん、自分では意識していませんでした。ただ私は、なぜか災害や人の“非常時”に接する機会が多いんです。ロサンゼルス地震も現地でディナーショーをやった日の夕方だったし、実家が神戸だから阪神淡路大震災も身近に経験している。ほかにも、だれも知らないところでそういうかかわりがいっぱいあります。もしかしたら、だれかが遇わせているんじゃないかと思うくらい。

 そういう体験ばかりしているから、頼まれてもいないのに、「社会を少しでもよくしたい」「みんなが平穏な日々を送ることができたらいいな」という“妄想”を抱くようになったのかもしれません。

「売名」と揶揄するのは、無関係な外野の人たち

――東日本大震災の時にも、いち早く大量の支援物資を被災地に運び、自ら炊き出しをされていましたね(※2)。

 あの時も、ある意味闘いでしたね。炊き出しでは、カレーの寸胴鍋を両脇において両手にしゃもじを持ってかき混ぜるんです。そうしたら首が回らなくなっちゃった。ニンニクをすりおろしすぎて、手はグローブみたいになるし。

2011年4月1日~3日、石巻市雄勝町で炊き出しの準備をする様子

2011年4月1日~3日、石巻市雄勝町で炊き出しの準備(写真=株式会社杉友提供)

 「どうせ人にやらせているんだろう」なんて疑っている人もいるけれど、いつだって準備から何から、全部、自分でやりますよ。

――それなのに、「売名」「偽善」と言われることが多かったとか。

 例えば、石巻市の避難所で炊き出しのカレーを配っていたら「杉さん」って声をかけられて、顔上げたらレポーターが「それってやっぱり売名ですか」と聞くんです。目の前の被災者のことで頭がいっぱいで、息つく間もなく動いて疲れ果てている時だったから、思わず「当たり前じゃないか、売名だよ。あなたもしなさいよ」って返したんですよ。後になってネットかなんかで話題になったようですね。

2011年4月、東日本大震災での炊き出しの様子

2011年4月、東日本大震災の炊き出し(写真=株式会社杉友提供)

――善意でされていることが、そんな風に揶揄されるなんてつらくはないですか。

 あのころにはもう、私にとってはどうでもよいことになっていましたが、「売名」という言葉を聞くたびに、日本にいるのが嫌になっていた時期もありますよ。最近でこそ「ボランティアの杉さん」なんてもち上げられるけれど、昔は何やっても「売名」「偽善」と言われてしまうから、寄付とか慈善活動に関しては、シークレット。人に知られないように細心の注意を払っていました。

 だけど、そんな風に言うのは、決まって外野の無関係な人たちです。私は、だれが何と言おうと困っている人の力になりたい。「善意はきっと届く」という一心で活動してきました。

――海外でのほうが、杉さんの慈善活動が認められるのは早かったようですね。

 日本は慈善活動に対する意識が遅れていると感じます。海外に行くと、まるで評価が違うんです。一つの例を挙げると、アメリカを代表する喜劇俳優のボブ・ホープ氏が来日した時、名指しで「杉良太郎に会いたい」と言ってきたんです。彼の泊まっているホテルに行くと、机の上に面会を望む芸能人からのメッセージが積み上がっていました。

1989年11月、アメリカのチャリティ王、ボブ・ホープ氏と面会

1989年11月、アメリカのチャリティ王、ボブ・ホープ氏と(写真=株式会社杉友提供)

 彼はこう言いました。「彼らの俳優としてのキャリアは素晴らしい。だけど彼らはチャリティをしていないんだよ」と。「おれはアメリカのチャリティ王って言われている。杉は日本のチャリティ王だ。さあ、握手をしよう。これは世紀の握手だ」って。面白いでしょ。彼にとっての関心事は、芸能界で何をやっているかではなく、どんなボランティアをしているかだったんです。

※2:石巻市立大須小学校、万石浦中学校のほか周辺9か所の避難所で、カレー、野菜サラダ、豚汁、杏仁豆腐などを炊き出しで振る舞った。

ボランティアは「一方通行」

――「ボランティアや福祉は一方通行」という信念で活動されていると伺いました。

 そう。見返りや感謝は求めない。ボランティアって、相手があることだから、難しいんですよ。

 被災地支援なら、炊き出しは何がいいとか、何を持って行くとか、どう手配するとか、どう配るかとか、一生懸命人のために頭をひねって、時間を使う。でも、睡眠時間を削って1週間も10日も費やして、やっと現地に行っても、「ありがとう」と言ってもらえないこともあります。ほとんど反応がないこともある。

 だけどそこで、こっちはこれだけやったのに……なんて気持ちが出てきた瞬間、ボランティアじゃなくなってしまう。意味が全部消えてしまうんです。

――自分のやっていることが正しいのか、役立っているのか、つい、気になってしまいそうですが……。

 それは自己満足したいだけ。被災した人たちの気持ちを理解していない。みんな大変な状況ですからね、避難所にいる人たちは。その場で答えがもらえることなんかめったにありません。だからこそ、どうしたら喜んでもらえるか、自分の頭で必死に考え抜くんです。闘いなんです。

 2~3年たって同じ場所へ行った時に、「あのころの私たちはこんな気持ちだった。そこへあなたが来てくれて、本当に助かったんだよ」って言ってもらえることもありますよ。自分がやったことが間違ってはいなかったってことは、後から分かるものなんです。

杉良太郎さん

写真=深澤慎平

――ボランティアに関心はあるけれど、お金も時間もないという声も聞きます。

 自分のことで精一杯のときに、人に手を差し伸べなさいといっても、難しいですからね。今もまさにそう。

 お金がない人は時間を使えばいい。お金も時間もない人は、ボランティア活動に理解を示し、実際に行動している人にエールを送ればいい。それも立派な福祉活動だと思います。

「明日はわが身」。あらゆる社会の課題を“自分事”に

―――新型コロナの問題で、日本も世界も大きく様変わりしました。

 確かに、世界中が危機にさらされているという、これまでにない状況ですね。今はだれに救援物資を送ったらいいか分からない。みんながみんな、被災者みたいな立場ですから。でも、その中でも、今の日本で自分には何ができるかと考えています。

 コロナ問題が起きる前ですが、こんなことがありました。代々木公園を散歩していたら、救急車が止まった。いつもならそのまま通り過ぎるんだけど、なぜか立ち止まって見ていたら、ホームレスのおじさん同士の話が聞こえてきたんです。「仲間が具合悪いっていうから救急車を呼んだ。救急隊員が段ボールをはねのけたら、腹のなかにウジ虫がわいていたんだよ」って。

 私も驚きましたが、この話を海外でしても、信じてもらえません。「日本で、生きている人にウジ虫がわいているなんてありっこない」って。日本はまだ豊かなイメージですからね。たぶん日本でも「ウソ」って言われちゃうんじゃないかな。でも、本当はこういう話が転がっている。それが今の日本の現実ですよ。

―――コロナ禍で、失業や生活困窮の問題が深刻化していますね。

 今まで潜在的にあった課題が、表面に出てきたということです。

 さっき、私はたまたま困難を抱えている人に遭遇すると言ったけれど、本当はだれでも見えているはずなんです。でも、見える目がありながら、観る目をもっていない。聞こえる耳がありながら、聴く耳をもっていない。だから、「助けて」という声が見過ごされてきた。

 コロナだけじゃなく、環境がこれほど変化しているなか、自然災害も当たり前のように起こってくるでしょう。特にこの日本に住んでいる限り、人からの支援を何も受けないで一生を全うできるなんて保証はどこにもありません。一人ひとりが困難に向き合うと同時に、お互いの「助けて」に耳を傾けていかないといけないでしょう。

杉良太郎さん

写真=深澤慎平

――パルシステムも、「心豊かなくらしと共生の社会を創ります」を理念に掲げています。これからの時代を私たちはどう生きていけばいいか、ヒントをいただけますか。

 コロナの件で、私たちはみんな「自分事」として、命や健康、当たり前の日常を脅かされるという経験をしました。いい家に住みたいとか、ごちそうをたらふく食べたいとか、人は天井知らずに欲を持つものだけれど、本当に大切なことは、あの何でもない平穏な日々の中にあったんだと気づいた人が多いのではないでしょうか。

 この気づきをチャンスととらえ、体や心の健康を自分でしっかり管理し、周りにいる家族や仲間とのかかわりを大切にし、困っている人がいたら気持ちを寄せ、手を差し伸べる――そんな風に一人ひとりが意識を変えていけば、社会も変わっていくはずです。

 福祉とかボランティアっていうと、自分とかけ離れたテーマ、えらいテーマだなって考える人もいるけれど、そうじゃない。自分がどう生きたいか、どんな暮らしを送りたいか、それを考えるのがもう福祉なんです。私たちが、あらゆる社会の課題をどれだけ他人事でなく自分の身に引き寄せて考えていけるか。そこに社会の行く末がかかっていると思います。

取材協力=株式会社杉友 取材・文=高山ゆみこ 写真=深澤慎平 構成=編集部


「惨敗してもおかしくない展開」帝王・山田裕仁氏が眞杉匠の“逆転劇”に驚がく

2024年09月18日 18時02分27秒 | 未来予測研究会の掲示板

共同通信社杯競輪・決勝

配信  netkeirin

予想の非常に難しいシリーズ!共同通信社杯競輪


偉大な人は優れた人や組織を見る目を持つ

2024年09月18日 17時49分46秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

■人や組織の見立てはマネジメントの基本

組織を動かし、働きやすい職場にしていくためには、まず組織やそこにいる人に対するアセスメント(診断、見立て)が重要です。今がどうなっているか誤認したところから職場改善をスタートしても、間違ったゴールへと向かって進むだけです。

特に人事分野は、事業戦略や商品開発、マーケティングなどの領域よりも解決策の選択肢は少ないので、極端に言えば最初の見立てさえしっかりできれば、後はドミノ倒しのように半ば自動的に決まっていきます。

しかしそのような少ない選択肢でも、見立て違いによってよく間違ってしまうのが人事の怖いところです。「人や組織を見る目がない人」がいかに多いかということの証拠ですが、そういう人にはどのような特徴があるのでしょうか。

■人の認知は罠だらけ。評価を歪める「心理的バイアス」

人が何かを認知する際、その捉え方を歪めてしまう現象を「心理的バイアス」といいます。人を見る目がない人は、心理的バイアスの影響を強く受けやすい傾向があります。

例えば「確証バイアス」は、一度抱いた仮説や信念を検証する際に、それを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のことを言います。古くはローマ帝国のシーザーからいろいろな人が言っていますが、要は「人は見たいものしか見ない」ということです。

自分と似たタイプの人を好む「類似性効果」もあります。いろいろな会社の人事考課を調べてみると、上司と同じタイプの部下は評価が高く、異なるタイプの部下の評価は低くなりがちです。組織の創造力を高めるために多様性の高い組織にしたいと努力している経営者や人事責任者からすれば、「似たような人ばかり評価する」ことはマイナスでしょう。

「ハロー(後光)効果」も人を見る目の精度を下げるバイアスです。ある対象を評価する際に、顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象のことです。抜群に優秀な側面を持っている人は、他の側面の評価も高まります。

卑近な言い方をすれば「※ただしイケメンに限る」、見た目の印象で仕事の成果も優れていると評価されることがあり、その逆もあるということです。心理的バイアスの種類には他にもたくさんありますが、とにかく人の認知は「罠だらけ」なのです。

■思い込みの激しい決断型が「拙速な見立て」をする

それなのに、多くの人が「短時間で人なんてわかる」というようなことを言います。しかしそれは「わかる」の意味が誤っているのです。人は人と出会った時に、5分もあれば強迫的に何らかの印象を持ってしまいますが、それはあくまで心理的で主観的な「仮説」であり、客観的な「真実」ではありません。

この手の誤りをする人は「思い込みの激しい人」です。事業において大活躍している百戦錬磨の経営者や事業責任者などの偉い人たちの多くも「人は短時間でわかる」と言ったりします。彼らの中にはスーパーマンもいるので私ごときが意見するのは憚られるのですが、人間であれば世界中どこでも通用する心理学の理論は彼らにも通用すると思いますので、やはりどんな偉い人が言おうが、間違いは間違いです。

では、なぜそうなるか。彼らは日々十分ではない情報の中、素早い経営判断を求められているため、意思決定スタイルが少ない情報の中からスピーディーにビシッと一つに判断をする「決断型」であることが多いです。そうでなければ、その職責に応えられません。それを人に対しても適応してしまっているのではないでしょうか。

素早く判断を行うことが身につきすぎてしまって、じっくりと話せばしっかりと人を見抜くことができるような人でも、「今、この組織や職場はどういう状態にあるのか」「そこにいる人々はどんな状態にあるのか」ということには拙速な判断をしてしまうのです。

■「自分の偏見」に対して自覚的であれ

このように、きちんとした「人を見る目」を持つためには、自分の中に生じる心理的バイアスの罠にどれだけはまらないようにできるかが重要です。心理的バイアス自体は消すことが難しいですし、そもそもその人の価値観や好き嫌いは消すべきでない、消す必要のないことでもあります。

つまり問題は、どうしても生じる心理的バイアスを自覚できるかどうかということです。自分が人に対して持っている偏見や価値観、好き嫌いをわかっていれば、そういう心理的バイアスがどこで生じそうかがわかり、人を注意深く見ることができます。

自分に生じそうな心理的バイアスを知るには、自分がどんなパーソナリティであるのかを知ることです。常日頃から周囲からのネガティブなフィードバックをきちんと受け止め、適性検査などで自分のパーソナリティを可視化したり、様々な方法で自分を知る機会を作ることで、自分の偏見に自覚的になり、結果として人をフラットに見る目が養われていく基礎ができるのではないでしょうか。

キャリコネニュースで人と組織に関する連載をしています。こちらもぜひご覧ください。

 
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人事コンサルティング会社 株式会社人材研究所 代表取締役社長

愛知県豊田市生まれ、関西育ち。灘高等学校、京都大学教育学部教育心理学科。在学中は関西の大手進学塾にて数学講師。卒業後、リクルート、ライフネット生命などで採用や人事の責任者を務める。その後、人事コンサルティング会社人材研究所を設立。日系大手企業から外資系企業、メガベンチャー、老舗企業、中小・スタートアップ、官公庁等、多くの組織に向けて人事や採用についてのコンサルティングや研修、講演、執筆活動を行っている。著書に「人事と採用のセオリー」「人と組織のマネジメントバイアス」「できる人事とダメ人事の習慣」「コミュ障のための面接マニュアル」「悪人の作った会社はなぜ伸びるのか?」他。


公明党は、人間の尊厳を重視する「中道政治」を掲げ続ける

2024年09月18日 16時17分04秒 | 社会・文化・政治・経済

公明党は、人間の尊厳を重視する「中道政治」を掲げ続け結党60年の大きな節目を迎えた。

このことは、今日の日本のにおいて一層、重要な意義を持つよぅになっている。

日本の有権者の約8割が持つ政治意識は中道で、右でも左でもないという人が大多数に上る。

さらに欧米諸国と異なり、無党派層が多数派を占めるのも特徴だ。

こうした中道意識を持った有権者を代表する公明党の存在は、民主主義の安定に不可欠だ。

公明党は今後、幅広い有権者との対話を醸成する責任をますます負うことになる。

国民本位の政策実現を担う<要の党。として、政治不信を払拭する役割を期待したい。

同志社大学 吉田 徹 教授


原爆裁判の裁判官

2024年09月18日 15時53分57秒 | 社会・文化・政治・経済

原爆裁判―アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子

原爆裁判―アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子 


米農家は赤字

2024年09月18日 15時45分12秒 | 社会・文化・政治・経済
米農家は多くの場合赤字経営を余儀なくされており、次のような状況が報告されています
 
 
  • 2020年の稲作経営農家の1戸当たり平均農業所得は18万円でしたが、2021年、2022年には1万円にまで落ち込みました。交付金などの受け取りを除けば完全に赤字で、時給に換算すると10円です。
     
     
  • 統計によると、米農家の95%は赤字です。
     
     
  • 2023年度に5ヘクタール以下で経営しているコメ農家が赤字になるという試算もあります。コメ農家の98%が5ヘクタール以下であるため、2023年に日本のコメ農家の約98%が廃業に追い込まれる可能性があると言われています。
     
     
米農家の収入源は、収穫した米を市場やJA(農業協同組合)などに出荷して得られる収入です。複合経営を行う農家(米以外の作物や畜産も行う)の場合、収入がもう少し高くなる傾向があります。
 
米は不作ではない。
誰かがどこかで、儲けているのでは?
 
では、米作を黒字経営にするには?
 
コメ農家の95%は赤字にもかかわらず、コメ生産を続けている。
所得ベースでみても、半数の農家が所得赤字である。
なぜ赤字にもかかわらず、多くのコメ農家はコメを作り続けてきたのだろうか。

コメ農家4類型ごとの耕作農地の状況

前回コラム「食料安全保障と農業のキホンのキ(3)」では、経営規模に応じて典型的なコメ農家の4タイプを類型し、それぞれの分析を通じて国内農家が直面している課題を概観した。
 
実は、あまり表には現れない、経済合理的な理由が存在している。ポイントは2つある。第1のポイントは、兼業農家であれば、農業の赤字をサラリーマン所得と損益通算(赤字の所得を他の黒字の所得から差し引くこと)することによって、ある程度はカバーできるということである。
タイプ1の農家で確定申告時の事業赤字が41万円であるとすると、仮に300万円程度の給与所得が別にある場合、おおよそ7~8万円程度は、所得税住民税などが減額される可能性が高い※3

ボランティア保護司

2024年09月18日 15時24分36秒 | 社会・文化・政治・経済
ボランティア保護司とは、犯罪や非行をした人の立ち直りを地域で支える民間のボランティアです。法務大臣から委嘱された非常勤の国家公務員とされていますが、給与は支給されません。
 
保護司の主な活動は、保護観察を受けている人への立ち直りを支援する「処遇活動」と、地域の方々に立ち直り支援への理解と協力を求める「地域活動」です。保護観察官と協力して保護観察に当たるほか、地域の安全・安心の構築や再犯防止を推進する重要な役割を担っています。
 
 
保護司になるには、次のような条件を満たす必要があります。
  • 年齢は原則として66歳以下(ただし、特別な事情がある場合には例外も認められる)
  • 人格や行動について社会的信望を有すること
  • 生活が安定していること
     
    保護司の任期は2年ですが、再任は妨げられません。法令上の定年はありませんが、原則として再任時の年齢を76歳未満として運用されています。希望すれば、特例的に、78歳の前日まで保護司活動に従事することも可能です。
 
  • Q 保護司ってどんなボランティアですか? - 法務省
    保護司は、 保護観察を受けている人の立ち直りを支援する 「処遇活動」 と、 地域の方々に. A. 立ち直り支援への理解と...
     
    法務省
     
  • 保護司、保護司組織(保護司会、保護司会連合会) - 法務省
    保護司は、犯罪や非行をした人の立ち直りを地域で支える民間のボランティアです。保護司法に基づき、法務大臣から委嘱された非常...
     
    法務省
     
     
  • 保護司になるには - 法務省
    保護司は、犯罪や非行をした人の立ち直りを地域で支える民間のボランティアです。 保護司法に基づき、法務大臣から委嘱された非...
     
    法務省
     
     
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Q 保護司ってどんなボランティアですか?

創作 人間の相性 6)

2024年09月18日 13時20分25秒 | 創作欄

足立幸雄は、水野晃に誘われ大宮の彼のアパートへ行くこととなる。

その日、本橋一郎は大阪へ取材に行っていたので、本橋の弟の明彦が同行する。

兄弟は別々の専門新聞に携わっていた。

一郎は医療関係であり、明彦は保険関係だった。

水野も保険関係であった。

ドアーを開けると奥の部屋で赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。

「遠慮せず、上がってよ」水野が二人を促す。

奥さんが居間で赤ちゃんを抱いて立っていた。

「本橋君、久しぶりね。結婚式以来だわね」奥さんが笑顔で迎え入れた。

「あら、あなたが足立さんのね。聞いているわ。私の父と足立さんお父さんは同じ会社だっのね、偶然なのね」親しみを込めて微笑む。

「もしかして、俺より早く足立君と出会っていたら、二人は結婚していたかもしれないな」水野らしい想像性の領域である。

彼はロマンチストであり、夢を好む男であった。

3人はビールを飲み、奥さんの道子さんの手料理を食べ交歓した。

また、赤ちゃんが泣き出す。

「何で、お前は泣くんだ」水野は赤子の腹をさする。

すると泣き止んで大きな目で二人の客を見上げていた。

座布団に横たわる女の子は、水野にそっくりの瞳であった。

 

 


不登校児が増加

2024年09月18日 12時13分01秒 | 社会・文化・政治・経済

不登校児は「過去最高の19万人超」の複雑な理由強まる同調圧力、いびつな環境で子は生きてる

石井 志昂 : 『不登校新聞』編集長


NHK大河ドラマ「光る君へ」

2024年09月18日 11時17分18秒 | 社会・文化・政治・経済

紫式部こと、まひろと藤原道長の恋と、平安時代の権力闘争を中心に描かれている。

物語は下級貴族の娘・まひろが三郎(のちの藤原道長)と出会い、打ち解けていくところからスタート。

しかし、三郎の兄・藤原道兼に母・ちやはを殺されてしまうが、身分の差からどうすることもできなかった。

まひろは悲しみを抱えながら成人し、代書屋として創作に生きがいを見いだす。

そして、道長と再会する。

心が惹かれ合い、和歌や漢詩で心を通わせる。

だが、家格の違いと道長の兄によって母を殺された因縁から、駆け落ちを断念した。

一方、道長の父・兼家は政権を掌握するために、円融天皇に毒を盛り、花山天皇を出家に追いやるなど謀略を繰り返す。

そして摂政となる。

ところが、兼家、兄の道隆が相次いで亡くなったことで、道隆の息子伊周との争いを制した道長が後継者となる。

さらに道長は、道隆の娘・定子に続いて長女・彰子も一条天皇に入内するという、一帝二后を成立させる。

この間、道長は左大臣・源雅長の娘・源倫子と結婚し、まひろに妾になることを持ちかけるが、それを拒み、藤原宣孝と結婚した。

しかし、石山寺で再会した二人は結ばれ、まひろは道長の子を産む。

夫の宣孝の死後、シングルマザーとして子育てに励みながら、物語を書き、さらに道長の思惑で彰子の女房として働き始めた。

まひろ(紫式部)が実体験を基に書いた物語は、貴族たちの間で評判になっいく。

今後のドラマの見どころは、まひろと道長の深く複雑な関係性の行方であろう。

夫婦以上に心でつながり、影響を与え合ってきた因縁をどう執着させるかである。

ドラマは「紫式部の一代記」。

紫式部は謎の多い女性であり、どこまでフィクションを交えて今後、描けるかである。

(ドラマ解説者の木村隆志・文)の引用


NHK大河ドラマはほとんど観ていない

2024年09月18日 11時03分44秒 | 社会・文化・政治・経済

チャンネル権が当方にはないも同然なのだ。

家人は食道楽であり、ほとんど料理番組を観ている。

昼飯旅、孤独のグルメや今日の料理、昼めし旅、パワフル家族食堂!、街中華、居酒屋を巡る番組など。

よくも飽きずに観ている。

それから大相撲と野球中継とプロ野球ニュース番組である。

あとは、歌謡番組。

 


国内のブログの総数は約1,690万、記事総数は約13億5,000万件

2024年09月18日 10時07分03秒 | 社会・文化・政治・経済
1,690万

総務省情報通信政策研究所(IICP)の調査研究部は、15歳以上のブログ開設経験者を対象に調査を行い、2351件の回答を「ブログの実態に関する調査研究の結果」として公開した。
2008年1月時点で公開されている国内のブログの総数は約1,690万、記事総数は約13億5,000万件。 このうち、1か月に1回以上記事が更新されているアクティブなブログの数は約300万で、ブログ総数の2割弱に相当する。
 
○ 全年代では、「LINE」の利用率は一貫して増加し、90%を超過。年代別でも、10代から50代で90%を超過。
 
 「Twitter」 は全年代では横ばいだが、20代では78.8%と高い利用率。 「Facebook」の利用率は、全年代で減少。
「Instagram」の利用率は、全年代で一貫して増加しており、「LINE」に次ぐ利用率。
 
○ 動画共有系では「YouTube」の利用率が高く、10代から30代で90%を超過。「TikTok」は10代で60%を超過。
 
○ 「いち早く世の中のできごとや動きを知る」ため、10代から50代では「インターネット」、60代では「テレビ」を最も利用。
○ 「世の中のできごとや動きについて信頼できる情報を得る」ため、20代を除き各年代で「テレビ」を最も利用。「新聞」は、年代
が上がるとともに利用する割合が高くなる傾向であり、60代では「インターネット」を上回る水準。
○ 「趣味・娯楽に関する情報を得る」ため、各年代で「インターネット」を最も利用しており、10代から30代で90%前後。
 
○ 「情報源としての重要度」は、20代から40代は「インターネット」が最も高く、10代、50代及び60代は「テレビ」が最も高い。
○ 「メディアとしての信頼度」は40代から60代では「新聞」が最も高く、10代から30代は「テレビ」が最も高い。

○ 「娯楽としての重要度」は10代及から40代は「インターネット」が最も高く、50代及び60代は「テレビ」が最も高い。

 全年代では、「LINE」の利用率は一貫して増加し90%を超過。
年代別でも、10代から50代で90%を超過。
 全年代では、「Twitter」 の利用率は横ばいだが20代では78.8%と高い利用率。
「Facebook」の利用率は減
少。「Instagram」の利用率は一貫して増加しており、「LINE」に次ぐ高い利用率。
 動画共有系では「YouTube」の利用率が高く、10代から30代で90%を超過。「TikTok」は10代で60%を超過。
 
 「いち早く世の中のできごとや動きを知る」ため、10代から50代では「インターネット」、60代では「テレビ」を
最も利用。
 「世の中のできごとや動きについて信頼できる情報を得る」ため、20代を除き各年代で「テレビ」を最も利用。
「新聞」は60代では「インターネット」を上回る水準で利用。
 「趣味・娯楽に関する情報を得る」ため、各年代で「インターネット」を最も利用しており、10代から30代で
90%前後
 
 「情報源としての重要度」は、20代から40代では「インターネット」が最も高く、10代、50代及び60代では「テ
レビ」が最も高い。
 「娯楽としての重要度」は10代及から40代は「インターネット」が最も高く、50代及び60代は「テレビ」が最も
高い。
 「メディアとしての信頼度」は10代から30代では「テレビ」が最も高く、40代から60代では「新聞」が最も高い。
 
 
 

「ぷらら」プライベートホームページの終了

2024年09月18日 07時02分32秒 | その気になる言葉

お知らせ

「ぷらら」および「BUSINESSぷらら」の一部オプションサービス等の提供終了について

2024年6月27日

平素はNTTドコモのサービス・商品をご利用いただき、誠にありがとうございます。

この度、個人向けインターネット接続サービス(ISP)「ぷらら」および、法人向けインターネット接続サービス(ISP)「BUSINESSぷらら」で提供しております以下のサービスにつきまして、サービスの利用が近年減少しており今後継続的にサービスを提供していくことが困難となりましたため、提供を終了させていただきます。

長年ご愛顧いただきましたお客さまには心より厚く御礼申し上げます。ご不便とご迷惑をおかけいたしますが、ドコモは今後もより一層のサービス向上に取り組んでまいりますので、何卒ご理解を賜りますよう、よろしくお願いいたします。

  1. スケジュール

    申込み受付終了日 2024年8月1日(木曜)
    提供終了日1 2025年3月31日(月曜)

    1. 提供終了サービスをご契約のお客さまは、提供終了日以降自動解約となります。(提供終了日までにお客さまにて解約された場合を除きます。)
      月額利用料金は2025年3月利用分までの課金となります。
     
    9月17日(火)
    674
    1881PV |805UU |319万0808ブログ中
     
  2. 申込み受付終了および提供終了サービス
    項目 種別 サービス名
    個人向けインターネット接続サービス(ISP)「ぷらら」 ホスティング プライベートホームページ
    メーリングリスト グループメール
    法人向けインターネット接続サービス(ISP)
    「BUSINESSぷらら」
    ホスティング ビジネスホームページ
    アカデミックサーバ
    メーリングリスト グループメールセーフティ
    フィルタリング WEBゲートウェイ
    ネットバリアベーシック
    学校向けインターネット接続(フィルタリング機能付) Bフレッツ・アカデミックライセンス セーフティ
  3. 各サービスに関する注意事項

創作 人間の相性 5)

2024年09月18日 00時56分42秒 | 創作欄

あの頃の自分を含めて、友人、知人たちは青春時代を謳歌していた。

24歳で結婚していた水野晃、23歳で結婚していた本橋一郎は共に大学時代の同期生との恋愛結婚であり、彼らには既に子供も居た。

足立幸雄も大学生の同期生に恋をしていたが、惚れた彼女には既に彼氏がいたのである。

その彼女は大学内ではマドンナのような存在であった。

さらに、面食いの足立は、高校生時代には映画女優であった同期生にも惚れていた。

彼女は当時、若者に人気のアイドルに容貌が似ていたことが、皮肉にも裏目に出たとされていた。

そして、寡黙な人であり、彼が講堂で話しかけても、微笑むだけであった。

彼女について、「高貴な雰囲気で気品があり、近づきにくいな」と同期生の一人が言っていた。

「女は愛嬌」とは言ったものだ。

彼女の微笑みは、モナリザを想起させたのだ。

水野晃はハンサムで、女にもてていた。

東京駅の八重洲地下街の居酒屋「ホタル」で足立は酒を度々飲んでいた。

ある日、水野をその「ホタル」に誘う。

店の娘のが、水野に心を動かされる。

「あの人は、どんな人なの?」足立は春香に問われた。

「未だに、文学青年ですね」

「そうなの。どんな小説の好みなの?」

「ドイツ文学ですね」

「ドイツ文学なの。私、読んだことないわ」

足立は彼が結婚していることを春香には明かさなかった。

春香が水野を求め、二人は深い中となる。

そしてある日、「足立さんのこと、信頼していなのに、何故、彼が結婚していたことを私に隠していたの」

涙を流す春香は、八重洲地下街の喫茶店で足立を責めるのである。

彼は言葉を失うばかりであった。

足立はその後、二度と「ホタル」へ足を向けることがなかった。