創作 人生の命題 10)

2024年09月13日 23時45分19秒 | 創作欄

スナック「リボン」で、2度目に出会った人(女)は、名前を島田明美と名乗った。

そして、武蔵野日赤病院の看護婦であることも明かした。

「私が尊敬する総婦長は、従軍看護婦だったのよ」

「そうですか」

「病院船に乗り、戦地に赴いたのね」

「病院船?」

「そうなの、神崎病院長とともに中国や東南アジアまで」

明美は、この日もワインを飲んでいた。

漆原将司は、一番好みの日本酒を飲んでいた。

「私は、太宰治のファンであり、志賀直哉のファンでもあるの。だから、我孫子の志賀直哉の住んだ家へも行ってみたの。そして、帰りには美味しいウナギを食べたわ」明美がほほ笑む。

「あの坂にある鰻屋かもしれない」将司は後日、それを確かめるために明美とともび我孫子へ向かった。

3回目のスナック「リボン」での出会いで、二人は心が親密になる。

そして、秋が深まる手賀沼では、恋人気分となり手をつなぎ散策するのだ。

 

参考

従軍看護婦は、軍隊に随伴して野戦病院などに勤務して医療活動を行う女性看護師である。

日本の従軍看護制度が始まったのは明治20年代と言われる。1890年(明治23年)4月に、日本赤十字社看護婦養成所に10名が一期生として入校した。養成期間は3年で、卒業後には20年間にわたり応招義務が課せられた。

日本赤十字社看護婦養成所を卒業した者は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時招集状が届けば、いかなる家庭の事情があろうとも、戦地に出動するのが原則であった。

事実、太平洋戦争大東亜戦争)時には、産まれたばかりの乳飲み子を置いて、招集に応じた看護婦も少なくない。

満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。

太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。応召中の日赤看護婦は15,368名であった。海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。

 

文豪・文化人たちに愛されたまち我孫子

 大正時代から昭和初期にかけて我孫子には、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチなど多くの著名な文化人が居を構えたり別荘を持ったことでも有名です。そんなふるさと我孫子の歴史にまつわるお薦めのスポットです。

 

我孫子市白樺文学館

※照明設備更新工事のため2024年10月31日(木)まで、休館中

 白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺(武者小路実篤と志賀直哉が発刊を話し合ったことだと志賀が日記に記している)』を中心にして起こった文芸思潮のひとつです。

また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のこと。白樺派の主な同人には、作家では有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、武者小路実篤は思想的な中心人物であったと考えられています。

志賀直哉邸跡

 

 志賀 直哉(しが なおや)[1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日]は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとりで、その後の多くの日本人作家に影響を与えました。代表作に『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。1915年(大正4年)柳宗悦の勧めで千葉県我孫子市の手賀沼の畔に移り住み、1923年(大正12年)まで我孫子で暮らし、同時期に同地に移住した武者小路実篤やバーナード・リーチと親交を結んだ。

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創作 人生の命題 9)

2024年09月13日 22時29分17秒 | 創作欄

漆原将司は、何処に居ても心を閉ざしていた。

大学時代から、いわる「群れる」ことを嫌ってきたので、常に単独行動であった。

証券会社に就職しても、同僚との付き合いを殆ど避けてきた。

三鷹の住人となり、居酒屋で独り酒を飲む彼も自分流を貫き、出会った誰とも言葉を交わすことがなかった。

特に彼の上目遣いの視線が、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していたのだ。

だが、ある日、スナック「リボン」のカウンター席に座る彼に、横に座る若い女性が話かけてきたのだ。

「先日、越後屋(居酒屋)であなたのこと見かけたの。この店にも来ているのね」ほほ笑む女は、「何者なのか」将司戸惑うとともに、警戒する。

視線を相手の腰の辺りに向けれる豊であり、しかもミニスカート姿だった。

「水商売の女だな」沈黙する彼は相手を蔑む。

「あなたは日本酒以外に、ウイスキーも飲むのね」その女性は将司のグラスに視線を向けながらワイングラスを口に運んだ。

「どこからから来たのですか?」将司は聞いてみた。

「武蔵境に住んでいるの。あなたは?」

「三鷹の地元」

「そうなの。若く見えるけど、学生ではないわね」

「はい、会社員です」

「そうなの。三鷹の生まれなの」

「いいえ、千葉県の我孫子です」

「そう、我孫子なのね」相手は何故か微笑むのだ。

 

 

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創作 人生の命題 8)

2024年09月13日 11時09分03秒 | 創作欄

漆原将司の母親里子は、あろうことか、娘たちのを説得して、自分が信奉する宗教への入信を導いたのである。

将司は、妹たちに「若いくせに今時、宗教でもないだろう。よく頭で考えろよ」と翻意を促したが彼女たちは全く聞く耳をもたなかった。

「医学部へ進学していた秋子の妹まで、何故なんだ」彼は頭が混乱するとともに、母親を激しく憎むこことなる。

そして、大学を卒業したことを期に、家を出た。

彼は母親が願っていた教師になることもなく、新宿の証券会社に勤務する。

何度も、彼が住む三鷹のアパートに母からの手紙が来ていたが、その手紙を一度も読むことはなかった。

太宰治の終焉の地である三鷹の住人となっことで、彼は太宰を偲んで独り酒を飲むこととなる。

母親は酒を飲めなかったが、彼は酒好き、そして、ギャンブル好きの父親の血を引く息子であったのだ。

 

 

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創作 人生の命題 7)

2024年09月13日 02時19分20秒 | 創作欄

漆原将司の母親里子は、中学校の教師であり、共産党の党員でもあった。

その母親が、共産党の党員を辞めたのである。

女学校の同窓会での崇拝していた恩師との出会いが契機となる。

「一度、私の自宅に来て、里子さんには是非話したいことがあるの」別れ際に島田啓子先生が個人的なことを言うのだ。

里子は女学校時代からリーダー的存在であり、同窓会の幹事の一人であった。

島田啓子先生は、日蓮宗の寺の娘であった。

里子が東京・板橋区志村・前野町の島田先生の自宅を訪ねたのは、11月18日のことであった。

「里子さんは、偶然にも、とても良い日に来られたのね」玄関で島田先生がほほ笑んだので、里子は「何のことか」と心で思った。

8畳の居間の正面の床の間には、大きな仏壇があった。

その仏壇に向かい島田先生は正座して3度の唱題をする。

その日は、 創価学会の記念日でもあったのである。

創価学会は1930年11月18日に初代会長牧口常三郎先生によって教育者の研究団体「創価教育学会」として設立された。

里子は思わぬことに、崇拝する島田先生から折伏されたのである。

「先生のお言葉でしたら、わかりました」里子が素直に入信を決意すると島田先生が里子の手を固く握りしめた。

「やはり、里子さんには使命があるのね」歓喜する。そして、3度の唱題を促した。

息子の将司は、その後の母親の変貌には唖然とするばかりであった。

そして、彼は母親との距離を取る契機ともなっていく。

参考:時代背景

日本共産党と創価学会との合意についての協定とは、日本共産党と創価学会との間で1974年に調印され1975年に発表された協定。略称は創共協定、または共創協定。

概要

1970年代、日本共産党と創価学会とは互いに支持層が重なることもあり、20年に渡り、選挙活動の中で激しいビラ合戦、非難合戦を行うなど対立が続いて来た。

1974年7月、第10回参議院議員通常選挙の直後、創価学会文芸部部長が、創価学会会長・池田大作と対談をしたこともある作家・松本清張の自宅を訪問。その際、松本がトップ会談を提案する。

同年10月28日に創価学会総務野崎勲と日本共産党常任幹部会委員上田耕一郎が予備会談を行う。

相互理解や敵視政策の撤廃などを骨子とする旨の協定が調印された。協定の期間は10年とされ、協議によって更新されるとした。

その後、日本共産党委員長宮本顕治と創価学会会長池田大作が2度トップ対談を行った。

協定は公明党と共産党の政党間で結ばれたのではなく、創価学会が公明党の頭越しに、選挙戦で直接対峙する共産党との間に結んだものである。

1975年7月27日に協定は公表された。

しかし、共産党との協定が今後の政党間の枠組みに影響を与えると考えた公明党が反発。

公安警察が警戒して動き出し、自民党の中からも巻き返しの動きが出た。

創価学会も態度を変え、協定は公表と同時にほぼ死文化した。

1980年、創価学会の顧問弁護士山崎正友を中心とした宮本顕治宅盗聴事件が発覚して両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。

参考

警視庁  警視庁公安部
集会参加者を視察する警視庁公安部員

警視庁公安部は、警視庁の内部組織の一つ。公安警察を所掌する[1]。

概要

警視庁公安部は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の人権指令により廃止された警視庁特別高等警察部の後継組織とされる。

日本の公安警察は警察庁警備局の指揮下で活動しているが、中でも警視庁は唯一公安部を置いており、所属警察官約1100名を擁し、最大規模の公安警察官を抱えている[3]。

一方、道府県警察本部の公安警察は、警備部に「公安課」として設置されている。所轄警察署では警備課に公安係・外事係を設置することがある[1]。

沿革
[編集]
1945年(昭和20年)9月8日:占領軍の対敵諜報部隊(CIC)が、警視庁特別高等警察部を臨検[4]。
1945年(昭和20年)10月4日:GHQの「人権指令」[5][6]に基づき、警視庁特別高等警察部が廃止される[7]。
1945年(昭和20年)12月19日:警視庁に警備課を設置[7]。
1946年(昭和21年)2月:警視庁警備課を公安課に改称[7]。
1948年(昭和23年)3月7日:旧警察法が施行される。警察制度は、国家地方警察と自治体警察(市町村警察)の二本立てとなる[7]。
1948年(昭和23年)3月7日:国家地方警察東京都本部に警備部が設置される。警視庁 (旧警察法)に警備交通部警備課が設置される[7]。
1948年(昭和23年)9月16日:警視庁の機構改革が行われ、警備交通部が分けられて警邏部と交通部が設置される。これにより、警備課は警邏部に置かれる[7]。
1948年(昭和23年)10月1日:国家地方警察東京都本部で、思想的・政治的背景のある集団犯罪や特殊犯罪の管轄が、警備部に一本化される[7]。
1952年(昭和27年)4月:警視庁において警備公安警察を主管していた警邏部に代わって、警備第一部と警備第二部が設置される。警備第一部は「警備実施」を主管して警視庁予備隊(機動隊)を掌握し、警備第二部は「警備情報」活動を実施することになり、公安第一課・公安第二課・公安第三課が置かれる[7]。
1952年(昭和27年)5月1日:血のメーデー事件が発生[7]。
1952年(昭和27年)11月:警視庁警備第二部に「警備情報」の整理保存に当たる警備公安資料班が設置される。ほか、警備第一部に警備指揮班を設置[7]。
1953年(昭和28年)6月:警視庁が情報活動の法的根拠に関する統一見解を研究[7]。
1953年(昭和28年)7月:警視庁は情報活動に従事する警察官に対して、「何らかの時に役に立つことがあるかも知れないから、労組やデモ隊の顔写真は1枚でも余計に撮って保存するように」との指導を行う。これにより、デモの合法・非合法を問わず、デモの参加者への顔写真の撮影とリストの作成が本格化[7]。
1954年(昭和29年)6月8日:新警察法(現行警察法)が公布される[7]。
1954年(昭和29年)7月1日:警察法の施行。これに伴い、警察庁(1官房4部17課)と都道府県警察が設置され、警察機構が一本化された[7]。
1954年(昭和29年)7月1日:国家地方警察東京都本部警備部と警視庁 (旧警察法) 警備第一部・警備第二部が再編成され、新たに警視庁警備第一部・警備第二部・警視庁予備隊が設置される。このうち、警備第二部が公安警察活動を主管[7]。
1957年(昭和32年)4月:警視庁警備第一部・警備第二部・警視庁予備隊が、警視庁警備部・警視庁公安部・警視庁機動隊に改称される。警備公安資料班は警視庁公安部公安第四課になる[7]。
2002年(平成14年)10月:警視庁公安部外事第一課の国際テロ担当を独立させ、警視庁公安部外事第三課を設置。
2017年(平成29年)4月3日:警視庁公安部公安総務課のサイバー攻撃特別捜査隊を独立させ、サイバー攻撃対策センターを設置[8]。
2021年(令和3年)4月:警視庁公安部外事第二課の北朝鮮担当を独立させ、警視庁公安部外事第三課を設置。旧外事第三課は外事第四課に名称変更[9]。

 

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