スナック「リボン」で、2度目に出会った人(女)は、名前を島田明美と名乗った。
そして、武蔵野日赤病院の看護婦であることも明かした。
「私が尊敬する総婦長は、従軍看護婦だったのよ」
「そうですか」
「病院船に乗り、戦地に赴いたのね」
「病院船?」
「そうなの、神崎病院長とともに中国や東南アジアまで」
明美は、この日もワインを飲んでいた。
漆原将司は、一番好みの日本酒を飲んでいた。
「私は、太宰治のファンであり、志賀直哉のファンでもあるの。だから、我孫子の志賀直哉の住んだ家へも行ってみたの。そして、帰りには美味しいウナギを食べたわ」明美がほほ笑む。
「あの坂にある鰻屋かもしれない」将司は後日、それを確かめるために明美とともび我孫子へ向かった。
3回目のスナック「リボン」での出会いで、二人は心が親密になる。
そして、秋が深まる手賀沼では、恋人気分となり手をつなぎ散策するのだ。
参考
従軍看護婦は、軍隊に随伴して野戦病院などに勤務して医療活動を行う女性看護師である。
日本の従軍看護制度が始まったのは明治20年代と言われる。1890年(明治23年)4月に、日本赤十字社看護婦養成所に10名が一期生として入校した。養成期間は3年で、卒業後には20年間にわたり応招義務が課せられた。
日本赤十字社看護婦養成所を卒業した者は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時招集状が届けば、いかなる家庭の事情があろうとも、戦地に出動するのが原則であった。
事実、太平洋戦争(大東亜戦争)時には、産まれたばかりの乳飲み子を置いて、招集に応じた看護婦も少なくない。
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。
太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。応召中の日赤看護婦は15,368名であった。海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。
文豪・文化人たちに愛されたまち我孫子
大正時代から昭和初期にかけて我孫子には、志賀直哉、武者小路実篤、柳宗悦、バーナード・リーチなど多くの著名な文化人が居を構えたり別荘を持ったことでも有名です。そんなふるさと我孫子の歴史にまつわるお薦めのスポットです。
我孫子市白樺文学館
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白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌『白樺(武者小路実篤と志賀直哉が発刊を話し合ったことだと志賀が日記に記している)』を中心にして起こった文芸思潮のひとつです。
また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のこと。白樺派の主な同人には、作家では有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦、長與善郎の他、武者小路実篤は思想的な中心人物であったと考えられています。
志賀直哉邸跡
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志賀 直哉(しが なおや)[1883年(明治16年)2月20日 - 1971年(昭和46年)10月21日]は、明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとりで、その後の多くの日本人作家に影響を与えました。代表作に『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。1915年(大正4年)柳宗悦の勧めで千葉県我孫子市の手賀沼の畔に移り住み、1923年(大正12年)まで我孫子で暮らし、同時期に同地に移住した武者小路実篤やバーナード・リーチと親交を結んだ。