創作 あの頃の自分 11)

2024年09月04日 22時51分48秒 | 創作欄

社内に居た木村勇作は何度も、外出先の山崎瑞奈から電話で呼び出された。

「これから、市谷のエディタースクールへ行くの。終わったら会いたいのいいわね」

「何時に行けばいいのですか」

「終わるのは8時30分なの。市谷のあの喫茶店で待っていてね」

「はい、わかりました」

勇作に心を寄せていたタイピストの岡村美登里が社内の一角に立ち聞き耳を立てていた。

だが、勇作は気の強い彼女には常に距離を置いてきた。

その理由はと言えば、彼女は勇作の母親に性格が何となく似ていて、美登里に好感を抱けなかったのだ。

「岡村さんは君より、2歳上だけど、千葉の女で情は深いよ。交際したら」先輩の水島翔太が思わぬことを言うので勇作は閉口した。

実は、美登里は瑞奈と遜色のない美形の容貌であった。

世の中は狭いもので、瑞奈と待ち合わせをした市谷の喫茶店は、勇作が2番目に勤務した企業の同僚の葉山三郎の奥さんが経営する店であったのだ。

葉山は、トップの営業成績で毎年社長賞の100万円を獲得していた。

彼の月収は、驚くことに当時の一般のサラリーマンの3倍ほどだった。

瑞奈は、エディタースクールの講師(脚本家)の一人と恋愛関係になったが、失恋した。

しかも、皮肉なことに相手には妻子がいたのだ。

「及びがたいと思うと、恋しさが一層、つののね」瑞奈は勇作の前で涙を流がした。

その相手の講師はエディタースクールを辞めて、新設された日本ジャーナリスト専門学校の講師となる。

実は一度の機会であったが、勇作は瑞奈から「わたしが、崇拝する先生なの」と青地 晨を直接、夜間コースのエディタースクールの教室で紹介されたことがある。

その日も、勇作は瑞奈をエディタースクールの玄関前で待っていたのだ。

 

参考

ジャーナリスト養成教室

日本エディタースクール

1964年(昭和39年) - 編集者の「職能の確立」を目的とし、東京都新宿区市谷田町に開校。

日本ジャーナリスト専門学校は、東京都豊島区高田二丁目にかつて存在した作家・ライター・編集者・カメラマン等を養成する専門学校。設置者は学校法人情報学園。

1974年開校。2010年3月をもって閉校。閉校まで、日本で唯一、ジャーナリストを養成する専科専門学校であり、通称「ジャナ専」と呼ばれていた。

初代校長(青地晨 -あおち しん、1909年4月24日 - 1984年9月15日)は、日本のジャーナリスト、社会評論家。

青地晨 - ジャーナリスト、元『世界評論』編集長

横浜事件で逮捕投獄された経験をもとに、戦後は権力への反逆者・反骨者と冤罪事件に関する著作や言論活動を行った。

文化学院卒業。1938年、中央公論社に入社。
1944年、横浜事件に連座し逮捕される。
戦後は『世界評論』編集長を務め、社会評論活動に入る。

1957年、大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加し、初代幹事となる。
1974年、日韓連帯連絡評議会代表。1974年に創設された日本ジャーナリスト専門学校の初代校長。

『冤罪の恐怖』と『魔の時間 六つの冤罪事件』で取り上げた合計11の事件は執筆時点ではいずれも冤罪を訴えて再審請求を起こしたり裁判中だったりしたが、再審請求中に被疑者が死亡した4件(竜門事件、帝銀事件、丸正事件、名張毒ぶどう酒事件)以外全て(免田事件、徳島事件、仁保事件、島田事件、松山事件、梅田事件、弘前大学教授夫人殺人事件)で被告の無罪が確定している。

同校の講師は校風によるものか、小説家やジャーナリスト以外にも新左翼活動家や新右翼活動家などが多く共存していた。

出身者
石黒謙吾(著述家・編集者)
石田洋介(シンガーソングライター)
内井義隆 (サンケイスポーツ編集局編集委員)
勝又悠(映画監督)
北健一郎(スポーツジャーナリスト)
北村年子(ルポライター、ノンフィクション作家、ラジオパーソナリティ)
紺野 敦 (NHK国際放送局番組出演者・KBS WORLD Radio在京メディアレポーター・朝日新聞姉妹紙 朝日シティニュース記者・朝日新聞姉妹紙社友・休刊)
三平×2(中退)
志村一矢(ライトノベル作家)
鈴木健(週刊プロレス編集次長・週プロモバイル編集長)
高橋美香 (アニメーター、デザイナー)
谷口千秋 (ライター、編集者・故人)
谷口雅彦(写真家、アートプロデューサー、近現代写真研究家)
二宮清純(評論家・スポーツジャーナリスト)
野原広子 (フリーライター)
松本稔 (脚本家)
山本直子(アニメーター)

 

 


2024年競輪獲得賞金ランキング(男子)

2024年09月04日 22時49分03秒 | 未来予測研究会の掲示板

※2024年9月2日更新

順位 選手名 獲得賞金
1 古性優作 179,486,096円
2 平原康多 124,417,800円
3 郡司浩平 98,775,448円
4 北井佑季 98,053,000円
5 清水裕友 89,390,096円
6 岩本俊介 71,731,874円
7 新山響平 66,326,000円
8 脇本雄太 66,155,674円
9 吉田拓矢 61,487,274円
10 窓場千加頼 60,623,000円
11 眞杉匠 57,352,674円
12 佐藤慎太郎 54,204,000円
13 深谷知広 52,782,274円
14 和田真久留 51,261,200円
15 小林泰正 48,562,274円
16 松井宏佑 47,807,000円
17 浅井康太 44,743,174円
18 武藤龍生 43,811,600円
19 坂井洋 41,378,400円
20 守澤太志 40,007,800円
21 阿部将大 38,080,022円
22 南修二 37,657,000円
23 松浦悠士 36,734,774円
24 東口善朋 35,303,000円
25 山口拳矢 35,154,000円
26 犬伏湧也 35,027,274円
27 松谷秀幸 34,095,200円
28 嘉永泰斗 33,438,274円
29 山田英明 31,484,500円
30 菅田壱道 30,959,900円
31 岩津裕介 30,818,000円
32 町田太我 30,532,000円
33 和田健太郎 30,243,800円
34 新田祐大 30,065,548円
35 三谷将太 29,906,500円
36 山田庸平 29,820,274円
37 諸橋愛 29,043,600円
38 北津留翼 28,914,000円
39 山田久徳 28,832,800円
40 伊藤颯馬 28,606,600円
41 桑原大志 28,597,000円
42 佐々木悠葵 28,572,200円
43 小倉竜二 28,340,200円
44 井上昌己 28,263,600円
45 和田圭 27,904,000円
46 森田優弥 27,744,000円
47 阿部力也 27,595,200円
48 島川将貴 27,168,400円
49 神山拓弥 27,101,000円
50 根田空史 26,549,000円

 

 

 


ボータン死の行進

2024年09月04日 13時32分45秒 | 社会・文化・政治・経済

バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語Martsa ng Kamatayan sa Bataan英語Bataan Death March)は、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦においてバターン半島日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。

全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に大きく違いがあり、結局約83kmの距離を3日間、1日平均14kmを難民と手ぶらの捕虜と20キロの装備品を持った監視の日本兵が歩いた。

フィリピンでは、日本がアメリカ軍を破ってバターン半島を陥落させた4月9日を2009年から勇者の日 (タガログ語Araw ng Kagitingan) としてフィリピン・アメリカの戦士を称える休日として定めている。

バターン死の行進は、日本軍が太平洋戦争中にフィリピンでアメリカ軍やフィリピン軍の捕虜を長距離移動させた事件で、次のような理由が考えられます。
  • アメリカ・フィリピン軍の降伏が予想より早かったこと、投降兵の数が予測を上回る多さだったことなどから、日本軍の受け入れ態勢が不十分だったため。
     
    この事件では、日本軍が約7万人の捕虜を炎天下のなか、約100キロ先の収容所まで歩かせました。道中ではマラリアなどの病気や、日本軍の監視兵による虐待、殺害などにより、多くの死者が出ました。
死者数は7000人とも、1万人とも言われ、収容所での死者も合わせると約3万人ともされています。
 
この「死の行進」は日本軍の残虐性を伝える事件として知られています。
 
1942年4月12日、約400人の捕虜たちは、15人から30人ほどのグループごとに山道の崖沿いの場所に連れてこられた。
銃剣で何回も刺され、または、首を切られ、谷に落とされていったという。
 
 

日本軍は、自国の兵士に捕虜になることを認めていなかった。捕虜になるくらいなら死を選べ、という考え方だった。よって兵士たちは「降伏は恥」「捕虜は非国民」と考え、そしてそれは、目の前に現れたアメリカ兵、フィリピン兵の捕虜への侮蔑、虐待、そして虐殺につながる一因となってしまったのではないだろうか。

加えて、国際法遵守の意識の欠如や知識不足の影響も指摘されている。

太平洋戦争当時は、1929年にジュネーブで調印された「俘虜ノ待遇ニ關スル條約」(俘虜待遇条約)などで捕虜の保護が国際的に定められていた。だが日本は、この条約を批准していなかった。太平洋戦争開戦後、この条約を「準用」するとしたが、実際には国内法が優先されるなど、国際法が守られない状況が生まれたとされる。また、アメリカのような職業軍人でない日本兵にとって、捕虜をどう扱うかという国際法に基づいた教育も不足していたと言われている。

収容所、その後も続いた過酷な生活

私たちを乗せた車は、「死の行進」の終着点、サンフェルナンド駅に向かっていた。バタアン州の州都バランガから北東へ車で1時間半ほどいったところに、その駅はある。現在、駅としては利用されていないが、駅舎は残されている。

道路脇には「死の行進」を伝えるあの白い碑が1キロごとに建ち、行進の距離を示していた。

行進を文字通り生き抜き、駅にたどり着いた捕虜たち。最悪は脱したと思われたが、次に待っていたのは、すし詰め状態での列車移動だった。約18平方メートル、11畳ほどの貨車に100人もの捕虜が押し込められたと言われる。真っ暗で、換気は悪く、暑苦しい。中には列車の中で立ったまま死んでいった人もおり、下車後、生きている捕虜たちは遺体となった仲間を運び出し、線路脇に並べたという。

そして、駅からオドネル収容所まで再び歩き、ようやく「死の行進」は終わった。だが、収容所でも食糧や薬が与えられないなど、劣悪な環境は続き、多くの人が亡くなった。その後も、日本に送られ強制労働させられるなど、捕虜たちの過酷な日々は続いた。

日本軍の捕虜観から見る「加害」と「被害」

《殺したくない》《どうしてこんなことをしなければならないのか》ーー。

『バターン死の行進』(河出書房新社)には、パンティンガン川での捕虜虐殺を命じられた日本兵が、捕虜を銃剣で突き殺す様子が描かれている。なぜ、と葛藤を抱えながらも、上官の命令に従う以外の選択肢は彼らにはなかったことがうかがえる。さもなければ、彼ら自身が殺されたのだ。極限の状況の下、殺戮が行われていた。

行進を実行した一人ひとりの日本兵からすると、戦争によって、上官の命令への“絶対服従”によって、そうせざるを得ない状況があった。行進中は、日本兵の中にも飢餓や病気に苦しんだ人がいたという。

第二次世界大戦による日本軍人・軍属の犠牲者は約230万人にのぼる。民間人の犠牲者は約80万人。軍人・軍属の犠牲者のうちおおむね半数は餓死とされ、降伏できずに敵陣へ突撃し玉砕したケースもある。沖縄では強制集団死があった。捕虜になることが許されていれば、軍人も民間人もかなりの数の命が助かっていたと推測される。

日本の軍国主義の下で、人々は「死」以外の選択肢を奪われた。兵士も市民も、ひとりの人間としての「命」がないがしろにされていた。

一方で、捕虜は「死」以外の選択肢を選ぶことが許された人々だった。

もし太平洋戦争当時、日本軍が自国の兵士に捕虜になることを認めていたら。日本軍の「捕虜観」は「捕虜は恥」という極端なものとは違っていただろう。バタアン半島で、目の前に現れたアメリカやフィリピンの捕虜たちへの日本兵のまなざしは、虐待や虐殺につながる「見下し」や「侮蔑」とはまた別のものだったのではないだろうか。

「死の行進」の加害者は日本軍で、日本にその責任があることは間違いない。だが一方で、ひとつの国、ひとりの人の中には、戦時中の加害と被害の両方の側面がある。一面だけを見ていては、何かを見落としてしまう。

「加害と被害の両面から見ないと、戦争の真髄は見抜けないですよ」

バタアン半島へ向かう道中でHidekoさんが投げかけてくれたこの言葉を胸に留め、加害も被害も生まない未来について、考え続けたい。

(2023.11.27 / 田中えり)



 

 


生きがいこそ<生きる源泉の力>

2024年09月04日 12時40分09秒 | その気になる言葉

▼人は、常に<生きがい>を持って前進することだ。

生きがいこそ<生きる源泉の力>となる。

▼被災者には、去来する悲哀もあるだろう。

寄り添い<続ける>ことが期待される。

 

▼教育は<学生中心>であることが望まれる。

教育は単なる知識の獲得にはとどまらない。

教育は「価値創造」の力を引き出し、信念や思いやりの勇気を育むためにある。

教育を通じて友情や連帯、他者を慈しむ心を育むのである。

そして未来を創造し、豊かな人間性を培うのである。

教育は希望や勇気といった内発的な力を醸成するとともに、人々が自らを発見するための哲学的指針を提供すべきだ。

どこまでも、自身の可能性を信じることだ。

困難は人間を磨き、変革の主体者として成長させてくれる糧となる。

そして、逆境を乗り越える希望の光は、自身の中にあることを自覚することだ。

幸福も希望も外から与えられるものではない。

自ら作り出した希望を大切に育て、周囲を照らす力に変えることだ。

「智慧」「勇気」「慈悲」を備えた使命の人に成長するのである。


国家と国家の間に、最も文化をかけ離れた行動がある

2024年09月04日 12時05分04秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼総力を国家間の闘争に集中する。

そのことは平和に逆行する以外のなにものでない。

人類の日常で科学が進めば進むほど、人間の横暴が強くなり、文化が進めば進めむほど、人間は驕慢を強めてきた。

科学の進歩も、文化の発展も、人類の横暴、驕慢、嫉妬、卑屈を、ますます強盛にしてきた結果になっていないだろうか。

では、人類の永遠の平和、地球の楽園を建設する原動力となるものはなにか。

それが、宗教の役割でなくてはならない。

科学を指導する宗教というものは、永遠に変わらぬ真実の哲学を持たなくてはならない。

▼「言論の力」

いくら、一人で正しい、優れているいっても、相対するものがなければ、その正しさは鮮明に浮かんでこない。

そして、宗教の分野だけで通用する理屈で事が足れる時代ではない。

人間としての生き方や社会的課題を巡っては、さまざまな人々に幅広く伝わることばで論じることに心を砕くのである。

▼国家と国家の間に、最も文化をかけ離れた行動がある。

世界は今も、紛争による分断の中にある。

国家間の対立や軍事競走を放置しておけば、悲劇はさらに深刻なものとなる。

▼本来は、人間の可能性を豊かに開花させるはずの科学や文化などの営みが、紛争下では相手陣営に打撃を与える手段となっている。

そして日々、幼い子こどもたちを含む命が奪われているのである。


社会に貢献する人材を育む

2024年09月04日 11時41分17秒 | その気になる言葉

▼「平和」といっても、「世界」といっても、結局は一個の人間に集約される。

ゆえに、「人間の問題」を解決することだ。

そうすれば、「世界の問題」を解決することになる。

▼教育が人を高める<善の光>であり、社会に<善の光>を放つことだ。

▼教育は一人一人の多様な可能性を開き、輝かせるものだ。

そして、社会に貢献する人材を育むのである。

▼不自由に見える現実の生活を離れて、どこか別の世界に自由と平等があるのではない。

「平和」「栄光」「勝利」を目指す人生哲学に真の自由と平等の理念がある。

▼一対一の対話―生命と生命の触発。

目の前の一人を励まそうとする心が大切である。

▼言葉は希望の人生を開く力を持つ。

 


米騒動の原因は?

2024年09月04日 10時58分42秒 | 社会・文化・政治・経済
  • 生産調整
  • 2023年夏の猛暑
  • インバウンド需要増大

何時も、長男息子の小文間の友人の農家から買う米が、今月は何と1袋6000円から8000円に値上げとなっていた。

その米は、昨年の米の在庫がなくなり、農家同士で融通してもらった米であった。

米は30㌔と思っていたが、測ると実際は25㌔ほどの分量である。

今朝の早朝散歩では、「米を譲ってもらって、ありがとう」と西田さんがミヤちゃんにお礼を述べていた。

「一人住まい何で、買ったコメが何時も余っているんだ。そのうち、新米も出るでるだろう」とミヤちゃんが言うのだ。

母親に対して、へそを曲げた次男は家の食事は一切食べなくなる。

それでも、3万円の食事代は毎月、母親に黙って届けている。

だから、コメは毎月余っている。

余ったコメの大半は、柏に住む長男に無償で譲っているのである。

 


不登校の増加

2024年09月04日 10時29分41秒 | その気になる言葉

少子化の一方で不登校や自殺が増加の一途を辿っている。

不登校の小中学生は約29万9000人、自殺は高校生を含めると513人。

大人のまなざしが肯定的に変わったと感じられたら、子どもは自然と心に意欲が芽生え、自分のペースで歩き始めるはずだ。

 

不登校の現状
近年、我が国では、不登校、いじめ、子どもの自殺などの問題が深刻化している。

特に不登校については、文部科学
省の令和4年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査(以下、問題行動等調
査)」結果によると、小中学校で約 29 万9千人、全児童生徒の 3.2%(中学生では 6.0%)と過去最高であり、
過去5年間の傾向として、小学校・中学校ともに不登校の児童生徒数及びその割合は増加している(小学生では平
成 30 年度の 0.7%から令和 4 年度の 1.7%に増加、中学生では平成 30 年度の 3.7%から令和 4 年度の
6.0%に増加)(文部科学省,2023)。さらに不登校の主たる要因の約半数が「無気力、不安」となっており、その
割合は年々増加傾向にある(文部科学省,問題行動等調査)。しかし、例えば「無気力」という状態に至るまでの
経緯や要因は明らかではなく、実態が十分につかめていない。不登校に至る要因や実態が明確でないことは、不登校の
予防や支援に対する対策をも不明瞭にする。
また、令(1)不登校の現状
近年、我が国では、不登校、いじめ、子どもの自殺などの問題が深刻化している。

特に不登校については、文部科学省の令和4年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査(以下、問題行動等調査)」結果によると、小中学校で約 29 万9千人、全児童生徒の 3.2%(中学生では 6.0%)と過去最高であり、過去5年間の傾向として、小学校・中学校ともに不登校の児童生徒数及びその割合は増加している(小学生では平成 30 年度の 0.7%から令和 4 年度の 1.7%に増加、中学生では平成 30 年度の 3.7%から令和 4 年度の6.0%に増加)(文部科学省,2023)。

さらに不登校の主たる要因の約半数が「無気力、不安」となっており、その割合は年々増加傾向にある(文部科学省,問題行動等調査)。

しかし、例えば「無気力」という状態に至るまでの経緯や要因は明らかではなく、実態が十分につかめていない。不登校に至る要因や実態が明確でないことは、不登校の予防や支援に対する対策をも不明瞭にする。
また、令和4年度問題行動等調査(文部科学省,2023)では、欠席日数 90 日以上の学校内外の専門機関等の相談・指導等を受けていない児童生徒が約 5.9 万人(欠席日数 30 日以上、90 日未満であれば 5.5 万人)と報告されたが、相談・指導等を受けていない不登校の児童生徒がどのような状況にあるのかが明確ではない。和4年度問題行動等調査(文部科学省,2023)では、欠席日数 90 日以上の学校内外の専門機関等の相談・指導等を受けていない児童生徒が約 5.9 万人(欠席日数 30 日以上、90 日未満であれば 5.5 万人)と報告されたが、相談・指導等を受けていない不登校の児童生徒がどのような状況にあるのかが明確ではない。

 


カニバル・ブリザード 食人峠の映画

2024年09月04日 06時06分58秒 | その気になる言葉
9月1日午前1時15分からCSテレビのムービープラスで観たが、意外な展開である。
 
言わば、奇想天外で、親の別荘を同級生たにち蹂躙された、困惑するばかりの若者が実は、食人人間そのものであったとは!
 

原題または英題:Donner Pass


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カニバル・ブリザード 食人峠
 

あらすじ

1846 年、ジョージ・ドナー率いる開拓者一団が冬のシエラネバダ山脈で雪によって立ち往生し、生き残るために食人行為を余儀なくされた。

ドナー隊の伝説は今もなお続く呪いとされ、その飢えは言うに耐えないほどの邪悪な行為に駆り立てると言われている。

そして約 150 年後。スキーを楽しむべくシエラネバダにやってきた 7 人のティーンエイジャーたち。

突如、彼らのグループのメンバーの1人が死体となって発見される。しかも、その半分は食い荒らされていた...。果たしてこれはドナー隊の呪いなのか?悲劇はまだ終わっていないのか...。

閉ざされた雪山を舞台に繰り広げられる、衝撃のカニバル・ライド・ホラーがここに開幕する。


大雨が続く日々

2024年09月04日 04時28分45秒 | 日記・断片

散歩で出会うミャちゃんが、カスミの脇を流れる水路を覗いていた。

「水路の水、流れてない。俺の家はこの水路の上流にあるんだ。溢れたらどうなるんだ」と心配していた。

水路は利根川につながってのだが、水門を閉めているのだろうか。

「利根川は、どうなんだ?」ミャちゃんが言うので、後で観にいったが、利根川の水はそれほど増えていなかった。

数年前のことだが、カスミストアーが溢れた水路の水で被害を受けたことがある。


創作 あの頃の自分 10)

2024年09月04日 03時11分34秒 | その気になる言葉

木村勇作は、何時も誰かを好きになっていた。

山崎瑞奈もまた、何時も恋愛をしていた。

瑞奈にとって、勇作は言わば「友達以上、恋人未満」の関係であったのだ。

そして、勇作にとっては、瑞奈は「現代女性論」の題材のような存在であった。

大学時代に近代文学の中の女性に興味を持っていた勇作は、26歳まで現代の実社会における女性を全く知らなかったのである。

「勇作はどちらかと言うと中性的で、女に警戒されないタイプだな」友人の木島紀夫に言われたことが、再び思い出された。

思えば、幼かった子どもころの勇作は何時も女の子たちと遊んでいて、周りに男の友だちが、ほとんどいなかった。

母親が学校の先生をしていて、勇作が1歳年上の姉の幸恵を自宅から1500メートルほど離れた幼稚園まで送っていた。

勇作も幼稚園へ通いたかったのに、「勇作は幼稚園はいいの」と何故か母が言うのだ。

小学生になってからの勇作も3年生まで、姉の友だちたちと遊んでいたのだ。

勇作は「女の子好きの木村」と同級生に嫌味を言われたことが契機となり、4年生になった時から男友だちと遊ぶようになったのだ。

その後が、ずっと女子たちと口もきけなくなってゆく。

中学生になった勇作も誰かを好きになっていたが、ただそれだけであり、言葉を親しく交わすことはなかった。

瑞奈は自身の最近の失恋について勇作に語るのだ。

「なぜ、ゆうちゃんは、こんな恋の話を聞かされて、私から逃げないの?私なら逃げていくわ」瑞奈は突き放すよに言うのだ。

それは、日比谷公園の芝生の上に二人並んで座っている時であり、噴水が水しぶきとなって散る11月の風がとても冷たい日であった。