ボータン死の行進

2024年09月04日 13時32分45秒 | 社会・文化・政治・経済

バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語Martsa ng Kamatayan sa Bataan英語Bataan Death March)は、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦においてバターン半島日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。

全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に大きく違いがあり、結局約83kmの距離を3日間、1日平均14kmを難民と手ぶらの捕虜と20キロの装備品を持った監視の日本兵が歩いた。

フィリピンでは、日本がアメリカ軍を破ってバターン半島を陥落させた4月9日を2009年から勇者の日 (タガログ語Araw ng Kagitingan) としてフィリピン・アメリカの戦士を称える休日として定めている。

バターン死の行進は、日本軍が太平洋戦争中にフィリピンでアメリカ軍やフィリピン軍の捕虜を長距離移動させた事件で、次のような理由が考えられます。
  • アメリカ・フィリピン軍の降伏が予想より早かったこと、投降兵の数が予測を上回る多さだったことなどから、日本軍の受け入れ態勢が不十分だったため。
     
    この事件では、日本軍が約7万人の捕虜を炎天下のなか、約100キロ先の収容所まで歩かせました。道中ではマラリアなどの病気や、日本軍の監視兵による虐待、殺害などにより、多くの死者が出ました。
死者数は7000人とも、1万人とも言われ、収容所での死者も合わせると約3万人ともされています。
 
この「死の行進」は日本軍の残虐性を伝える事件として知られています。
 
1942年4月12日、約400人の捕虜たちは、15人から30人ほどのグループごとに山道の崖沿いの場所に連れてこられた。
銃剣で何回も刺され、または、首を切られ、谷に落とされていったという。
 
 

日本軍は、自国の兵士に捕虜になることを認めていなかった。捕虜になるくらいなら死を選べ、という考え方だった。よって兵士たちは「降伏は恥」「捕虜は非国民」と考え、そしてそれは、目の前に現れたアメリカ兵、フィリピン兵の捕虜への侮蔑、虐待、そして虐殺につながる一因となってしまったのではないだろうか。

加えて、国際法遵守の意識の欠如や知識不足の影響も指摘されている。

太平洋戦争当時は、1929年にジュネーブで調印された「俘虜ノ待遇ニ關スル條約」(俘虜待遇条約)などで捕虜の保護が国際的に定められていた。だが日本は、この条約を批准していなかった。太平洋戦争開戦後、この条約を「準用」するとしたが、実際には国内法が優先されるなど、国際法が守られない状況が生まれたとされる。また、アメリカのような職業軍人でない日本兵にとって、捕虜をどう扱うかという国際法に基づいた教育も不足していたと言われている。

収容所、その後も続いた過酷な生活

私たちを乗せた車は、「死の行進」の終着点、サンフェルナンド駅に向かっていた。バタアン州の州都バランガから北東へ車で1時間半ほどいったところに、その駅はある。現在、駅としては利用されていないが、駅舎は残されている。

道路脇には「死の行進」を伝えるあの白い碑が1キロごとに建ち、行進の距離を示していた。

行進を文字通り生き抜き、駅にたどり着いた捕虜たち。最悪は脱したと思われたが、次に待っていたのは、すし詰め状態での列車移動だった。約18平方メートル、11畳ほどの貨車に100人もの捕虜が押し込められたと言われる。真っ暗で、換気は悪く、暑苦しい。中には列車の中で立ったまま死んでいった人もおり、下車後、生きている捕虜たちは遺体となった仲間を運び出し、線路脇に並べたという。

そして、駅からオドネル収容所まで再び歩き、ようやく「死の行進」は終わった。だが、収容所でも食糧や薬が与えられないなど、劣悪な環境は続き、多くの人が亡くなった。その後も、日本に送られ強制労働させられるなど、捕虜たちの過酷な日々は続いた。

日本軍の捕虜観から見る「加害」と「被害」

《殺したくない》《どうしてこんなことをしなければならないのか》ーー。

『バターン死の行進』(河出書房新社)には、パンティンガン川での捕虜虐殺を命じられた日本兵が、捕虜を銃剣で突き殺す様子が描かれている。なぜ、と葛藤を抱えながらも、上官の命令に従う以外の選択肢は彼らにはなかったことがうかがえる。さもなければ、彼ら自身が殺されたのだ。極限の状況の下、殺戮が行われていた。

行進を実行した一人ひとりの日本兵からすると、戦争によって、上官の命令への“絶対服従”によって、そうせざるを得ない状況があった。行進中は、日本兵の中にも飢餓や病気に苦しんだ人がいたという。

第二次世界大戦による日本軍人・軍属の犠牲者は約230万人にのぼる。民間人の犠牲者は約80万人。軍人・軍属の犠牲者のうちおおむね半数は餓死とされ、降伏できずに敵陣へ突撃し玉砕したケースもある。沖縄では強制集団死があった。捕虜になることが許されていれば、軍人も民間人もかなりの数の命が助かっていたと推測される。

日本の軍国主義の下で、人々は「死」以外の選択肢を奪われた。兵士も市民も、ひとりの人間としての「命」がないがしろにされていた。

一方で、捕虜は「死」以外の選択肢を選ぶことが許された人々だった。

もし太平洋戦争当時、日本軍が自国の兵士に捕虜になることを認めていたら。日本軍の「捕虜観」は「捕虜は恥」という極端なものとは違っていただろう。バタアン半島で、目の前に現れたアメリカやフィリピンの捕虜たちへの日本兵のまなざしは、虐待や虐殺につながる「見下し」や「侮蔑」とはまた別のものだったのではないだろうか。

「死の行進」の加害者は日本軍で、日本にその責任があることは間違いない。だが一方で、ひとつの国、ひとりの人の中には、戦時中の加害と被害の両方の側面がある。一面だけを見ていては、何かを見落としてしまう。

「加害と被害の両面から見ないと、戦争の真髄は見抜けないですよ」

バタアン半島へ向かう道中でHidekoさんが投げかけてくれたこの言葉を胸に留め、加害も被害も生まない未来について、考え続けたい。

(2023.11.27 / 田中えり)



 

 

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